消える煙と残す約束。 満天の星空に白い煙を吹きかけた。
有害以外の何物でもないそれは、無風の宙を舞ってゆるく消えていく。
分厚いガラス扉の向こうでは、華やかで賑やかなパーティが今もなお続いていた。
バルコニーの柵に肘をつき、何度目かの煙を吐き出した時、背後で扉の開く音がした。
「甲斐田くん、喫煙所は一階ですよ」
注意にしては柔らかく、甘い声がかけられる。
「今日くらいお硬いこと言わないでよ、犬飼」
煙草をくわえたまま、声の方へと振り返った。
パーティ仕様の重厚なスーツに身を包んだ彼は、いつもの看守服とは違う色気を纏っている。少し跳ねた髪や幼さの残る顔が、引き締まった身体とのアンバランスさをより妖しく見せた。
「犬飼も一本どお?」
煙草を持ち上げて見せると、僅かに戸惑いの色を浮かべた瞳が丸くなり、しかしすぐに首を振る。
「まだ、今は仕事中ですので」
そう断りを入れてすぐ、喉元が物欲しげに上下したのが可愛くて、噛み付きたくなる衝動を抑えながら笑った。
「で? 吸う気はないのにどうしたの。もしかして俺と二人きりになりたかった、とか?」
我慢を隠していつもの軽口を投げかけると、犬飼は心配そうに眉を下げて一歩、距離を詰めた。
「一人で出て行ってしまったので、具合が悪くなったのかと思って……その、大丈夫です? 人が多いところで、疲れていませんか」
今度はこちらが目を丸くする。
「いや……大丈夫。充分愉しんでるよ。そんなことで抜けてきたの? ……相変わらずお優しいね、犬飼は」
口元が緩みそうになるのを堪えながら、煙草を吸う振りをして誤魔化す。嬉しい、なんて今は少し恥ずかしい。
「当然ですよ」
「看守だもんね」
「大切な獄Luckのメンバーなんですから」
燃えた灰が、綺麗な床に落ちた。
「あっ、もう駄目ですってばここで吸っては。灰皿はありますか」
「……持ってますー」
僅かな煤でも、焦って拭いている足元の犬飼を見つめ、心中ため息をつく。嬉しいのと、それでは足りないと欲張りな感情とが混ざりあって肺の中で黒くなる。
「ほんと、こういうのキャラじゃないんだけど」
「? 何か言いました?」
「別に」
立ち上がり、汚れたナプキンを躊躇いもなくスーツのポケットにしまう犬飼。そういうところも、どうしようもなく好きだ。
「楽しめているなら安心しました。差し出がましい真似をしてすみません。私は戻ります。甲斐田くんも、今はその一本だけにしてくださいね。ではまた中で……」
半身を翻した彼の腕を、気がつけば掴んでいた。
「甲斐田くん?」
「もう、行っちゃうの」
少し張り付いた口内から出たのは格好つかない掠れた声だった。
犬飼の瞳が、こちらと会場とを行き来して、中の方へ向けた瞼が大きく開く。視線を追うと、褐色で爽やかな笑顔を振りまいている男が、いた。向こうは気づいていないようだが。
これはきっと、挨拶に行くだろう。
「はぁ……いぬ、」
ため息混じりに名前を呼ぼうとしたが、彼の表情を見て、飲み込んだ。
だって犬飼の脚は動かない。睫毛の下に落ちた影は暗く、温度を失ったように見えた。
犬飼はヘラヘラしていても、本当に鈍い訳ではない。きっと、先ほどの若い子たちの言い訳にも感じ取ったところがあるのだろう。
短くなった煙草を一口吸いこむ。
「犬飼、俺を見て」
反射的に振り向いた彼の柔い場所へ、自分の同じ部分を重ねた。
「」
今度こそ、本気で驚いた瞳には俺が映っている。煙を彼のナカへと吹き込みきると、わざと音を立てて離れた。
「なっ、ななな、なにを……っ、どこだと思ってるんですかぁ!」
顔を真っ赤に染めた犬飼が、慌てつつも小声でこちらの胸を押して、バルコニーの隅へと隠れるように移動させた。
「どういうつもりです」
潤んだ瞳は星空よりも綺麗だと思った。煙に霞むことない彼に微笑みかける。
「煙草、ほんとは吸いたかったんでしょ。おすそわけ」
「見られたらどうするんですか!」
「見せつけてやればいいんじゃない? 俺は構わないよ。そういうの、燃えない?」
「燃えませんよ……もう、全然反省していませんね」
ぶつぶつと口の中で文句を言う犬飼の頭を撫でた。
「俺は、嬉しかったよ」
「え?」
「俺のとこに来てくれて、心配してくれたこと。話しかけてくれたこと。名前、呼んでくれたこと」
「あ、はい……ええと」
灰皿を柵に置き、火を消した。
自由になった両手で犬飼の手を握る。思いの外冷たい指先を包むように。
「だから、俺も。犬飼が望むならいつだって慰めてあげるよ」
キモチを込めれば、手のナカで彼の指が僅かに跳ね、体温が一度上がった。ここは暗いが、耳まで赤くなっているであろうことくらいはわかる。
口を開いては閉じてを繰り返していた犬飼がようやく、大きくため息をついた。
「はぁ……まったく、甲斐田くんは。遠慮しておきます」
その声に陰りはなく、とても柔らかかった。だからこちらも笑って返す。
「やっぱりつれないなぁ、犬飼は」
「今はまだ、仕事中ですからね」
「は、? ぇ」
繋いだ指先に、確かな握力が加わる。熱いのは、指か、飲んだアルコールのせいか。
「犬飼、ちょっと、ねぇ。抜け出そうよ」
昂る感度に任せて身体を引き寄せる。けれども流石の相手。それよりも強い力で腕を引かれ、光の当たるところへと戻された。
一瞬、眩しさに目を細めたが、そこにあった彼の笑顔は見逃さなかった。
「そうですね」
犬飼がガラスの扉を開ける。
「私たちの願いが叶った時に」
さまざまな音に乗って届いた言葉が髪を揺らした。
「……負けられないねぇ、それは」
お互い、不敵に微笑みを交わし光の中へと戻る。
明日からはまた、暗い監獄の底だとしても、多分、この眩しさは忘れない。
前を歩く彼から香る煙の匂いが、ひたすらに愛おしかった。