シカクの最期 空気が澄んだ朝。
ニックに小言を言われたシカクは仕方なく街の方へと散歩に出ていた。
めぼしいものが何もない散歩が退屈なのか、しきりにあくびを繰り返しノロノロとした動きで街の道路を歩いていく。
通勤時間に当たっているためか周りの人たちは動きの遅いシカクを追い越しせっせと歩き回っている。
(今ここで誰かを刺せばこのツマラなさも消えるか?)
ズボンのポケットに入れてある折りたたみナイフを触るが、刺した後の避難経路やニックからの怒りの言葉を受けることを考えポケットから手を抜いた。
皆が皆シカクを追い抜き避けていく中、一人の男は立ちふさがるように道路へと立ち尽くしていた。
その男はシカクを見ながらカタカタと震えている。
「家族の、恨み!」
突然男が叫び出す。周りの人たちがその声に驚き立ち尽くす中、男はシカクの方へと走り出した。
声を出されたことでようやくその男のことを認識したのかシカクは目線をそちらに向ける。
その瞬間男はすでに目の前に走ってきており、シカクの腹へと強い痛みが走った。
「あ?」
目線を男の手元へとうつすと家庭用の包丁が深々と腹へと突き刺さっていた。
認識が追いついたのかゴプリと音を立ててシカクの口や腹から血が流れ出す。
「はは、やって、やったぞ!」
男は狂ったように笑いながらシカクの腹から包丁を無理やり引き抜く。
周りからは通行人たちの悲鳴が聞こえ、ある者は逃げ、ある者は撮影をはじめと大パニックだった。
「随分と、楽しそうだな?」
いまだに笑い続ける男へとお返しと言わんばかりに折りたたみナイフを腹へと差し込む。
笑い声は悲鳴へと変わり包丁をめちゃくちゃに振り回し始めた。
そのデタラメな攻撃を難なく交わしながらも二の腕、太もも、鳩尾へと次々と折りたたみナイフで差し込んでいく。
アスファルトへはシカクと男、二人の血が次々と染み込み大きなシミを作り出していた。
――――――
ハロテックは歩いている向かい側の歩道がにぎやかなことに気がついた。
何の騒ぎだと車道を超え人波をわけ、中心へと向かう。
そこには首やら脚の付近に血だまりを作り倒れこむ男と、よく見知った男が膝を地面につけてしゃがみ込んでいた。
「シカク君?」
ハロテックの声に気づいたのかシカクが顔を上げる。
シカクの腹からは手では抑えきれない血がポタポタと地面に落ち続けている。
「え、ちょっ、何、その血!?」
状況がうまく読み込めていなかったハロテックの頭にも今の惨状が鮮明に入り込んでくる。
周りの人と同様に狼狽えるハロテックにシカクはヨタつきながらも近づいた。
「家に帰らせろ」
「いや、その前に病院……」
「早くしろ」
腹を抑えながらも高圧的な態度を見せるシカクに戸惑いながらも肩を差し出す。
シカクはその肩に両手を回しハロテックの背へと体重を預けた。
いわゆるおんぶの格好になったシカクを背負いながら、シカクの体温がいつもより低いことに気づく。
「急げ」
シカクは短く言い捨て目を閉じる。
戸惑いながらもひとまず言われたとおりにハロテックは周りの人をかき分けニックの家へと走っていった。
――――――
背中のシカクの息がだんだんと弱くなっていくのを感じながらハロテックは急いでニックの家の扉を開ける。
「何ですか、騒々しい」
「ごめん! 緊急事態だから!」
ニックがソファで雑誌を読んでいるのを確認してからシカクをベッドの方へと横たわらせた。
「……何があったんですか?」
「いや、俺にもさっぱり……。とりあえず俺は先生呼ぶ」
「呼ばんでいい」
先程まで目を閉じていたシカクがゆるりと目を開けハロテックへと声をかける。
「けどその傷」
「キサマのできることはもう終わった。分かったらさっさと出て行け」
ハロテックは一度迷ったが意図がわかったのか一つ頷き外へと出ていく。
ニックはそれを見送った後力なく呼吸するシカクの方へと近づいた。
――――――
ニックはベッドの横に椅子を置きそこへと腰掛けた。
シカクの手に手を重ねると普段よりも冷たい体温が伝わってくる。
先程の言葉と力なく呼吸する姿を見てニックは一つ確信を得ていた。
シカクの命はもう少しで消えてしまうだろうと。
「貴方と生活をともにした日々は本当に幸せでしたよ」
「心にも、思ってない、ことを」
「本心ですよ」
シカクの手を取り両手で包み込む。
そのままゆっくりと撫でるとシカクがその手に力を入れニックの手を軽く握りしめる。
「……キスしてもいいですか?」
シカクの手を握り返してからニックが重い口を開く。
返事の言葉は返ってこなかったが緩く頭が動くのが見えた。
ニックはシカクの手を握ったまま体を起こしてシカクの唇へと軽く触れた。
一度のキスで顔を離そうとすると軽く手を引かれたので続きの催促だと受け取り再度顔を近づける。
触れるだけのキスを数回落としてから、緩く開けられた口の中へとベロを入れ込む。
逃げる気もないベロを絡み取り、上顎をなぞりシカクの口内を楽しんでいると舌で押し返されるのを感じた。
体を離すとシカクが片目だけ開けてニックの顔を見ていた。
「死に、かけ、に、何をす、る」
「貴方が求めたのでしょう」
あくまでも冷静にいつも通りに返すニックにシカクは小さく喉を鳴らして笑う。
シカクの手を自分の頬に当てながらニックはシカクの顔を見つめ続けた。
「さよならは言いませんよ。会いに返ってきてくれるまで待っていますから」
「せいぜい、部屋でも、みが、いてろ」
最期まで変わらないシカクに今度はニックが小さく笑う。
その姿を見て満足したのかシカクは手を動かし、数回ニックの頬を撫でる。
「……最期の、見た顔、が、キサマだ、なんて。……まぁ、良い、眺め、か」
それが最期の言葉となりシカクの手が力なく滑り落ちていった。
ニックはその言葉に何も返すこともなく、シカクの手を再度頬に当てたのだった。