【カドモリ】人魚の歌は求愛 人魚は歌う。人間の耳には歌ではなく鳴き声や弦楽器の音色にも聞こえるが、古くは船乗りを魅了し攫ったという逸話もあるほどそれは美しいとされる。
「そういえば、お前は歌わないんだな」
「必要がないからネ」
職人の手で丹念に縫われたドレス生地のような尾鰭をひらひらさせながら、カドックの部屋で暮らす人魚は肩をすくめた。部屋の三分の一を占める特大水槽の中でくるりと身を返せば貝細工かと見紛う青い鱗が蛍光灯に反射し不思議な光を放つ。
ジェームズと名前を付けられた男性型の人魚は水槽から半身を出してカドックを見つめた。水槽はカドックの身長と同程度の高さなのでちょうど目が合う。
彼はしばらく何事か考えてからふふん、と胸をそらした。
美しいのは鱗だけではない。真っ白な肌と銀糸の髪、対照的に瞳は深海のように黒くそのコントラストは奇跡のような造形だった。
「特別に少しだけ歌ってやろう」
そしてジェームズはすう、と息を吸い──その蠱惑的な唇からこの世の物とは思えない酷い音を放った。
「っ、うぉっ!?」
下手くそなヴァイオリン、あるいは黒板を爪で引っ掻いた時の不快音。とにかくカドックの語彙では表現できない程の音が耳から脳をつんざく。たまらず耳を塞いだが無駄に良く通る音は指の耳栓など簡単に貫通した。もはや拷問だった。
「やめろ、頼む、やめてくれ!!」
カドックの懇願でようやく自分の歌が拙いのだと自覚したジェームズは、愕然とした顔で水槽の奥──寝床に隠れてしまった。
「……というわけで、喉とか悪いんじゃないかと」
「なるほど」
家に招かれた長身の男、ホームズは国内でも数少ない人魚の研究者だった。多少変人だが、多忙な身で医者の代わりのようなことまでしてくれる彼には頭が上がらない。
しかし、ジェームズはホームズのことが嫌いだった。来るたびにじろじろ観察されたり痛い事(注射)をされるので仕方ないのかもしれない。
「私はどこも悪くない!」
バチャバチャと尾鰭を水面に叩きつけて抗議するせいで水槽の水がじゃばじゃばと床に溢れる。ああ、後でモップがけだな、と遠い目になるカドックに気付いて慌ててやめた。
「今日は痛い事はしないから、大人しく口を開けなさい」
大型水槽を上から覗き込む為に併設された階段を登って、ホームズがジェームズを呼ぶ。だが彼はぷい、と歯医者を拒否する子供のように水槽の逆側へ行ってしまった。見た目は大人になったのに、こういうところは昔と変わらない。仕方なくカドックも説得に加わる。
「堪えてくれ。後で好きな物やるから」
「……プリン」
「分かったよ」
渋々納得したジェームズはこちらに泳ぎ寄り、ようやくホームズに向かってかぱりと口を開けた。
ホームズはしばらく、内科医のようにヘラで舌を押し除けて喉の中を見たり喉の辺りを指で軽く押して触診したりしていたがすぐにカドックに向き直った。
「喉に異常は見られない」
一安心したカドックに向けて彼は続けた。
「彼の歌が拙いのは──単なる練習不足だ」
小鳥だって最初は上手く歌えない。何日も練習して初めて美しい囀りを奏でられるのだ。人魚も同じだとホームズは言った。
「練習不足の原因は明白だ」
「っ、言うな!」
ジェームズが水槽のガラスを叩く。普段は大人しい彼がそんなに慌てるのは珍しい。
「本来歌を習得する幼少期に、彼は人間の言葉を必死で覚えていたはずだ」
「僕、が……言葉なんて教えたから」
嵐の日の翌日、海辺で拾った小さな命。ぴぃ、と弱々しく鳴くそれを放っておけなくて、結局家に連れ帰った。
今とは比べ物にならないほど小さな水槽に入れ、小さく切った魚を与えれば美味しそうに食いついた。
「ふふ、可愛いな」
「か、わ、いー?」
「お前、喋れるのか」
今から考えると単に聞こえた音を真似したのだろうが、半人型の相手だから、教えれば喋れるようになるのかと思った。
意思疎通ができれば一緒に暮らす上で助かるかもしれない。そう考えてカドックは本格的に言葉を教え始めた。
後々ホームズから人魚と人間では言語体系は勿論、喉の構造から異なるので、人魚がここまで流暢に喋れるようになるのは相当の努力が必要だと指摘されれば「私は天才だからネ!」と胸を張っていた。その裏で人魚の性質を歪めてしまっていたのだとカドックは今更ながら悟った。
「うー……これだからお前は嫌いなんだ……」
ジェームズはぶくぶくと沈んで寝床に隠れてしまった。多分、カドックが気に病むと理解して隠しておきたかったのだろう。尊大に見えてそういう気の使い方をする男だった。
「とはいえ、人魚が歌うのは同族とのコミュニケーションの為だ。歌えなくとも今の生活に支障はあるまい」
そう言い残してホームズは帰っていった。彼なりのフォローだったのだろう。
「プリン買ってきたぞ」
彼の好きな銘柄のプリンを買ってきて声をかければもぞもぞと寝床から上がってきた。
プリンを皿から出して、奮発して缶詰のフルーツと生クリームも付ける。水槽の上部にテーブルを出して、皿を置いた。
「ほら、頑張ったな」
あーん、と口を開けるのでひと匙すくって食べさせる。
器用なジェームズはスプーンどころかナイフもフォークも完璧に扱える。しかし偶にこうして食べさせろとねだる時があった。幼い頃、こうして食べさせていた名残りだろうか。
「うまいか」
「ああ」
食べ終わったジェームズの頭を、頬をゆっくり撫でた。目を細めて自ら手に擦り寄ってくる仕草は小さな頃を思い出す。
歌で同族とのコミュニケーションが取れないジェームズは、海にはもう帰れないのだろう。自分の行いの責任は取らなくてはならない。だが同時に、そんな彼が愛おしくて堪らないのだ。
相手は人魚だ、恋なんてしても不毛なのは分かりきっている。カドックにできることは、大切に甘やかすことだけ。
「私は、君と話せるようになって良かったと思っている」
「……ありがとう」
カドックの気持ちを見透かしたように、ジェームズは伸び上がって首元に抱きついてきた。
それから数週間後、歌を聴いてほしいとジェームズが言った。どうやらカドックの留守中に練習していたらしい。
「おお……!」
まだ少したどたどしいが、最初とは見違えるほど美しく歌えるようになっている。
歌、というよりも弦楽器で奏でる音楽のようだった。美しくもどこか切なくなる不思議な旋律に包まれているとまるで綺麗な海の底で揺蕩うような心地になる。
「綺麗だな」と伝えると彼は嬉しげにはにかんだ。
「この歌、何か意味はあるのか?」
「……ナイショ」
悪戯っぽく微笑んで、人魚は尾鰭を揺らして水に潜った。
きらきら、ゆらゆら。夢のように美しい人魚はちっぽけな水槽の中でカドックのエゴを受け入れるように舞う。
──カドック カドック だいすき
──これが叶わぬ恋でも 泡になってしまっても
──私は君を 愛してる