結婚契約書「結婚契約書をつくりましょう」
「結婚契約書?」
電話口から聞こえた恋人の言葉を、赤井はオウムみたいにそのまま聞き返した。
「はい。日本ではあまり馴染みがないけど、あなたのお国では一般的でしょう?最初にちゃんと決めておいたほうがいいと思うんです」
「ホォ。例えばその内容は?」
「例えば、家事の分担割合、生活費の負担割合、共有財産関係、離婚事由、浮気があった場合のこと、どちらかが亡くなったときのこと……」
「なるほど。考えたくもない事項もあるが、確かに最初に取り決めをしておいた方がいいかもしれないな」
「はい。妃先生に見ていただいて法的効力のあるものにしましょう。出来上がったものは信頼出来る第三者、例えば工藤夫妻に預かっていただいて、数年に一度内容を確認して更新するんです。どうですか?」
「わかった、いいよ」
「それじゃ、来週帰国する際に作って持ってきてください。僕も作っておくから。お互いのを擦り合わせて最終的な契約書にしましょう」
そうして降谷は、電話を切ると同時にパソコンの電源を入れて早速契約書の文言を作り始める。
どちらかが浮気をした場合――。ここでいう浮気の定義とは――。但し例外として以下の場合は――。
細かいところまで考え始めると文章はどんどん膨れ上がっていき、A4の用紙4枚を過ぎたところで一旦パソコンを閉じた。
「来週、かぁ」
コーヒーをいれ、壁にかかったカレンダーを見遣る。
来週赤井が日本に帰ってくる。これまでのような一時的な帰国ではない。アメリカの家を引き払って今までの仕事を辞めて、もうこちらに永住するための帰国だ。そして僕達は結婚する。30代も後半に差し掛かって、自分の人生にこんなことがあるだなんて想像もしていなかった。赤井とは付き合ってすぐに遠距離になってそれから数ヶ月から半年に一度会えるか会えないかでやってきたから、これからずっと一緒にいることに喜びもあるけどそれと同じくらい不安もある。マリッジブルーというやつなのかもしれない。
うまくやっていけるだろうか。大丈夫だろうか、僕達は。
でもそんなことを赤井に言ったらきっとあの男は、煙草を咥えたまま首を傾げて「大丈夫だろ、俺たちは」なんて当然のように言うんだろう。その根拠のない自信は一体どこからくるんだ。けれど不思議なことに僕は、なんの根拠も説得力もないその言葉に肩の力が抜けて納得してしまう。結局僕達はこれからもずっと離れられずにそうやって生きていく、そんな気がする。だからこそ赤井からのプロポーズにイエスと応えたのだ。(もういい加減にしつこかったという理由も多分にあるが。)
これからずっと一緒にいることに不安はあるけどそれと同じくらい喜びもある。
「早く、帰ってこいよ」
カレンダーに向かってひとり呟いて、再びパソコンに向かった。
しかし赤井の帰国があと数日に迫った日、早朝海の向こうから飛び込んできたニュースを真剣な顔で見つめる降谷のスマホが震えた。それは赤井の直属の上司からで、赤井が意識不明の重体だという知らせだった。
着の身着のまま、すぐ飛行機に飛び乗った降谷は赤井の入院先の病院へ向かう。こんな時1万キロの距離は、永遠よりも遠い。
どうか生きていて。命だけあればいいから、どうかどうか。なぁヒロ、そっちにライが行ったら蹴ってでも追い返してくれ、頼む。
移動中、爪の痕がつくほどぎゅうと両手を握って信じてもいない神に祈った。病院に到着すると入口にジェイムズが居て挨拶もそこそこに赤井のいる病室まで案内される。
「すまなかったね。もう赤井くんに現場に出てもらう予定はなかったんだが、急遽増員が必要になって」
「大規模なテロがあったようですね。ニュースで知っています。僕なら大丈夫です、あなたから連絡が来た時点で覚悟してましたから。寧ろこんな時にわざわざ連絡して下さってありがとうございます」
管に繋がれ静かに眠る最愛を呆然と見つめながら、降谷は努めて礼儀正しく冷静に振る舞った。心臓はバクバクとうるさく、気を抜けば立っている足が小さく震え出しそうだけれど、彼の上司の前で泣いたり喚いたり取り乱したりするわけにはいかない。
「あぁそうだ、赤井くんのデスクはもう引き継ぎも終わってだいたい片付いているんだが、引き出しにこれだけ入っていた。君に渡した方がいいかと思ってね」
そう言ってジェイムズは降谷に一枚の封筒を手渡した。そこには確かに赤井の筆跡、綺麗な筆記体で「prenuptial agreement」つまり結婚契約書と書かれていた。
カサ、と音を立てて封筒を開け中に入っている白い便箋を取り出し、二つに畳まれたそれを広げる。
辺りの酸素濃度が急に薄くなったみたいに息苦しく、便箋を持つ指先だけが熱い。
降谷は黙ったままいつまでもそこに並んでいる文字をじっと見つめていた。それを見ていたジェイムズが優しく肩を叩くと、その軽い衝撃で目に溜まっていた涙が重力に従いポロポロと落ちて便箋と文字を濡らし、インクが滲んだ。
「それじゃ、私は戻らないといけないから。何かあったらいつでも知らせてくれ」
「……はい、ありがとうございました」
ようやく絞り出した言葉は震えていた。
◆◆◆
「なぁ、れいくん」
降谷がカーテンを開けると、病室に朝日が射し込み細かく舞った埃がキラキラと光った。降谷は「うん?」と応えて赤井の方へ振り返る。色素の薄い髪が朝日に透けて揺れる。なに?と首を傾げるその様は比喩でも何でもなく天使そのもので、赤井は眩しそうに目を細めた。
「煙草が吸いたいな」
「馬鹿なんじゃないのか」
赤井の言葉に天使の表情は一瞬で険しいものに変わり、けれどそんな表情も愛おしくて赤井は笑った。
「冗談だ」
「ったり前だ、馬鹿!あなた一昨日まで生死の淵をさまよってたんですからね!」
降谷がアメリカに来てから三日目の夜中に、赤井は目を覚ました。ベッドの脇で握っていた赤井の手が確かな意志を持って動いて、降谷の浅い眠りを醒ます。慌てて顔を上げて見ると赤井が目を開け少しの間視線を宙にさまよわせた後、降谷のことを捉えて見つめた。降谷はその時、暗闇の中で見つけた宝石のような虹彩に暫し時間を忘れて見蕩れた。だってこの地球上でこれよりも美しい色を他に知らない。
「れいくん」
酷く掠れたことばはぽつんと一粒落ちた雨滴のような響きで、乾いてひび割れた降谷の心を潤していく。
「あ、かい……あかい」
やがて心がいっぱいにまで満たされると今度は涙になって零れ落ちた。
言いたいことはたくさんあったけど、それ以上は言葉にならなくてただ子どもみたいに泣いた。赤井は手に巻かれた包帯にじんわりと染み込んでいく涙の温かさを感じながら、その手を確かめるように慰めるように、できるだけ優しく握り返した。
それが一昨日の夜のことだ。それから二日様々な検査や処置をしたが、外傷や骨折はあるものの脳や臓器に大きな問題はなく今のところは後遺障害も見受けられないとのことだった。その上今日になって煙草が吸いたいとは、この男の生命力には驚きを通り越して感心さえする。
「そういえば、現場に出る前にきみの言っていた結婚契約書を書いて机にしまっておいたんだが」
降谷が感心していると不意に話を振られ少し動揺しながらも「……あぁ、あれ?」となるべく平静を装って応える。
「ジェイムズさんから受け取りました。ていうかあなたねぇ、あんなの契約書でもなんでもないじゃないですか。ああいうことじゃないんですよ、契約書って。僕の電話での説明聞いてました?妃先生と工藤夫妻も見るものなんですよ。僕は真剣に書いて十枚以上になったのに、お前ときたらあんな便箋に一言って……どうせ考えるのが面倒になったんだろ。ほんっとに仕方のない人。ああ、もういいです、契約書は僕が作るからあなたは読んで異論がなければサインだけしてください」
「はは、了解。どうも文章は苦手でな。色々考えたんだが、俺がきみに約束したいのは結局のところあれだけだろうと思ったから」
まだ笑ったりたくさん話すと至るところの傷が痛むのだろう、赤井が一瞬だけ顔を歪めたのを見逃さず降谷は小さく息を吐く。
「ほら、もう少し寝たら。また熱が上がってきますよ」
「随分優しいな」
「知らなかった?」
降谷は悪戯っぽく笑い、ベッドのリクライニングを倒し布団を肩口まで掛けてやる。
「いや、知ってたよ。きみは誰よりも優しい」
いつもよりも悠長な口ぶりで赤井はそう言って、口角を上げたまま目を瞑った。
薬が効いているのか、間もなく赤井が静かな寝息を立て始めた。その胸が規則正しく上下するのを確認して、降谷は自分の手帳に挟んである封筒を静かに取り出した。"prenuptial agreement" 結婚契約書。中の便箋を開くと涙で濡れた所々、インクが滲んでぼやけていて読み辛い。だがこれは誰に見せるわけでもなく、降谷ひとりが死ぬまで大事に持っておくものだから問題はない。降谷は便箋の中の文字を大切に指でなぞってから再び封筒にしまい、眠る赤井のくちびるにそっとキスを落とした。
prenuptial agreement
『決してひとりにしない。生涯、きみだけを愛し続けると誓う
赤井秀一』