近侍は私を慕ってくれている。
夏の初めに降る雨の名を冠した美しい刀。他にない靄がかかったような刃は、様々な人物の間を渡り歩く過程で多くの者を魅了してきた。早い話が私もそのひとりなのだ。もっとも、私がこの刀に惚れて右腕に据えるまでになってしまったのは、本体の美しさだけが理由ではないのだが。
「頭?お困りですか」
「ああ!いや、少し考え事をね」
水晶を思わせる、深い色合いだが透き通った紫の瞳。見つめあえばまるで射抜くような鋭い視線になんでも読み取られてしまいそうだ。私の考え事の詳細まで、彼はきっとお見通しだろう。
「私のことですか」
犬を自称する五月雨であったが、しゃなりしゃなりと距離を詰めてくるさまは猫を彷彿とさせる。さて定位置、私の一歩後ろに片膝をついて控えた近侍は、やはり主人の頭の中を見透かしていたようだ。
「そうだよ、君のことだ。綺麗だなと思ってね」
「ええ、よく言われます」
肯定するでも否定するでもなく、五月雨は驚くほど淡々と事実を口にした。なんの感慨もなくなるほどには同じようなことを繰り返し言われてきたのだろう。スーパーモデルでも相手取っているような気分だ。しかし続けて、小さめの口からはほんのひと匙恥じらいの混ざった喜びが紡がれるのだった。
「……ですが、頭にそう思って頂けて嬉しいです」
その声は聞き間違いでなければ弾んでいた。相変わらず表情筋をどこかに置いてきたような真顔だが、尻尾がぱたぱたと揺れている幻覚が見える。
「そうかい……有名な武将ならまだしも、どこにでもいるような男に褒められたってなんとも思わないだろう?」
「そんなことはありません」五月雨は間を置かずきっぱりと否を突きつけた。
「そもそも私にとって頭は『どこにでもいるような男』などではありません、命を懸けて尽くす主人です」
「今日は随分とよく喋るじゃないか」
彼には俳句という第二の言語がある。日本語には変わりないのだが、風流の解らない私にとってはまるで外国語だ。五月雨は独り言のように十七音を呟いてみたかと思えば口数が多い時もある。見た目が与える泰然自若な印象に反して案外気分屋なのかもしれない。
「好きな人とはたくさんお喋りしたいのです。いけませんか」
こちらを覗き込む顔があまりに整っていてたじろいでしまう。神様は一体どんな気持ちでこの子を創ったのだろうか、そんなことを考えたところで五月雨自身が神様なのを思い出した。困ったちゃんの神様に好かれてしまったものだ。
「いけなくはないがね、君……大人を揶揄うのはよしなさい」
「年齢の話でしたら、私は貴方よりも何百歳か年上ですが」
暖簾に腕押しというか、糠に釘というか。何を言っても聞き分けのない、聞き分ける気のない近侍に私はついに閉口してしまった。すると一歩分退いていた五月雨が勝ち誇ったように笑って、こちらへ擦り寄ってくる。横に並ぶ。したたかな刀だ。狡猾とも、悪賢いともいう。
「ふふふ。頭は雅も風流も解しませんからね……こうして自由にお話をするのも、嫌いではありませんよ」
言葉を織り上げているときの五月雨は愉しそうだ。私は彼の詠む句に首を傾げてばかりだけれど、それでも彼が短冊に書いた流麗な文字を読み上げる声を聴くのが好きだった。「意味は分からないけど素敵だね」そんな曖昧な称賛にも、この俳人は顔を綻ばせた。短い詩に込められた情景を説明してくれたことはついぞないのだが、それでよかった。彼曰く、俳句の意味や解釈など解らなくても、それが善いものであるとわかってくれさえすれば嬉しいのだそうだ。喉をくつくつと鳴らして笑う。少し掠れて引っ掛かるような、特徴的な声が鼓膜を穏やかに揺らした。
「頭は、お喋りは嫌いですか」
「いいや、好きだよ」
「ではお喋りな近侍のことは」ずいと顔を近づけられ、形の整った薄桃色の唇を嫌でも意識させられる。目と鼻の先にふたつの紫水晶。これは彼の望む答えを提供するまでにらめっこが続くに違いない。相手がこの男では、私に勝ち目はないだろう。
「わかった、わかった……好きだよ」
観念して発した肯定にも、五月雨は眉ひとつ動かさない。どうやら言い方が気に食わなかったようだ。そんな言葉じゃ私の胸には響きませんと拗ねているようにも見える。演練などで何度か見かけたことはあるが、他の本丸の五月雨江もこんなに難儀な性格なのだろうか。そうだとしたら我々審神者はとんだ災難だし、違うのならそれはそれで納得がいかない。
「まったく、こんなおじさんを好いても仕方ないだろうに」
ため息をついても、隣の我儘な近侍はいたって真剣な表情だ。そんな顔をされても困る。一介の審神者ごときに、たまたま眠っていた彼を呼び覚まして力を与えてやっただけの取るに足らない人間に、そんな恋慕の視線を向けられても困るのだ。私自身は腕っぷしが強いわけでも賢いわけでも見目が麗しいわけでもない、ただ一寸年季の入った普通の人間なのだから。
それでも五月雨は引き下がらない。退き時の分かる聡い刀だと思っていたのは私の勘違いだっただろうか。
「何故そう思うのです?私は頭の御側に居られて幸せですが」
心底不思議そうに尋ねられると、こちらが何か間違ったことを言ってしまったような気になる。ともあれ私に仕えているときの五月雨が幸せなのはきっと真実だ。こんなところでくだらない嘘をつく刀ではない。ただ、私のような半ば枯れかけて草臥れたような男の側に控えることに至福を見出してほしくない、それだけだった。私の他に素晴らしい人はたくさんいるのだ。男が良いのならそれこそ、この本丸に何十人と。まして彼には相棒がいるではないか。一見気弱だが芯は強く、五月雨と同じで聡い刀だ。あれの方が私などよりずっと優れた男だ。それを差し置いて、一体なぜよりにもよって私なのか。分からないから、彼の気持ちを受け入れることがどうしても怖くなる。
「私は君の大好きな『あの方』とは違うよ」
「……そんなこと……分かっています」
五月雨の声の調子が崖から転がるように落ち込んだ。寂しそうに、遣る瀬無さに打ちひしがれるように伏せられた目。その縁を飾る睫毛が揺れている。射るような鋭い視線が鈍る。私ははっと口を押さえた。彼の心の一番柔らかい場所に、不用意に触れてしまったのだ。
「……悪かった、君を困らせたいわけじゃないんだ。おいで」
「…………」
何も言わずに預けられた重さに胸が痛んだ。肩がかすかに震えている。美しいものは、ことごとく脆い──この刀も例外ではないのだ。
今にも大気に溶けて霧のように消えてしまいそうな背中を、感触を確かめるように懸命に撫でる。くぅ、と切なげに鳴った喉まで愛せそうな気がした。それが彼の求める愛情の定義に適っているかは、分からないけれど。
「もっと……撫でてください。犬は撫でられるのが好きです」
「我儘な犬だ、高くつくからね」
「構いません。偵察でも暗殺でも……五月雨は貴方のためにこの命を捧げます。これは貴方に頂いたものですから」
真っ直ぐな声から伝わる、むず痒くなるほどの忠誠。どうやら私は彼に思ったよりも多くのものを与えることができていたらしい。この美しい刀が心動かす詩をうたうのも、移りゆく季節に胸を打たれるのも、みんな私のおかげなのだ。そう考えれば、少しくらい自惚れに身を任せてしまっても良いのではないか。陶器のような肌触りの頬に指を滑らせながら、そんな思い上がりが頭を灼いていた。