アライバル.1日常とは永遠に続くと錯覚するほどの当たり前の繰り返し。
そして、それはいつだって当たり前のように俺の前から姿を消してしまうんだ。
週末の夕飯時。いつもと同じように3人でキッチンに並び、いつもと同じように一勇のエプロンの紐を結び、いつもと同じように子供用包丁を握る小さな手を注意深く見守っていた。
今日の夕飯は一勇リクエストの野菜サラダだ。最近子供用包丁を買ってから、野菜を切るのにハマったらしい。メインは織姫リクエストのチキンステーキ。
「千切りむずーい!」
「あんまり無理して細くしないでね、あぶないから!」
ピンポーン
唐突に来客を告げるチャイムの音。この音が鳴ると一勇は、どこかのコンビニと同じ音だといつもはしゃいで玄関に走っていく。今日もまた、中途半端に千切りにされたキャベツの塊には目もくれずにパタパタ走り出す。揺れるエプロンの裾がリビングのドアに消えていく。
「父さん行くまでドア開けんなよ!!!」
声を張り上げ、生肉の汁が付いた手を食器用洗剤で洗う。水気を拭うのもそこそこに、サイドボードから印鑑を持って玄関に向かう。
廊下に出た途端に、涼しい空気と濡れた落ち葉の匂いが吹き抜けた。
「開けんなって言ったろ」と軽く叱ろうと開きかけた口がそのままの形に固まって、体全体が硬直したのを自覚した。
「おとーさーーーん、知らない子きたぁ」
開け放たれた玄関。片足だけ靴を履いてドアに寄りかかる一勇の後ろ姿。そして、ドアの隙間に立つ小さな人影。感覚でわかる。ただの人間では、ない。
その人物の手が一勇に向けて伸ばされる。理解が追いつかないままに、それでも反射的に飛び出す。
「なんだお前」
一勇を抱き寄せて、相手の手を捻りあげる。
「いちご、いたい。はなして。」
幼い声が俺の名を呼んだことに、警戒心を強める。なんで俺の名前を知ってんだ。その一言は、手のひらに込めた力に代弁される。
腕を掴んだまま相手を観察する。一勇とほぼ同じくらいの身長、腰まで伸びた緩く癖がついた黒髪、切長な赤い瞳、膝が隠れるくらいの丈のシャツだけを着た子供の姿だ。
そして霊圧。今までに感じたことがない独特な感覚。質量があるのに核心がないような、"薄まった"ような感じがする。弱いわけでは決して無い。それは断言できる。その辺の人間や整の霊なんかとは比べ物にならない。
だが、人間ではないと言えるだけの確信が持てない。死神や虚の雰囲気は全く感じられなかった。しかし人間とも言えない。人間の成分は僅かにあるがとても遠くに感じる。
こいつは、なんだ?
「一護くん、痛がってるよ」
肩に乗る暖かい感触。ハッと振り向くと、いつのまにか玄関に来ていた織姫が俺を見つめていた。落ち着いた柔らかい声。ほんの少しいつもより張り詰めた、慎重に説得するような表情。
言葉に促されて相手を見る。捻られた腕に引っ張られて肩を強張らせ、浅く、速い呼吸に「いたい、いちご」と微かな呟きが混じっている。顔は伏せられてしまい表情は伺えないが、玄関タイルの上に光る小さな水の粒が答えだ。
腕に抱えた一勇が、困惑したような怯えたような目線をぶつけてくる。何も知らないこの子には、俺が子供の霊を虐めているように見えているだろう。
「…あぁ、そう だな…」
ほんの少し、ほんの少しだけ躊躇しながら、俺はゆっくりと相手の腕を解放した。
「う、う ゥッ」
「痛かったね、痛かったね…もう大丈夫…」
「いたいのいたいのとんでけだよ」
血が通う感覚すら痛いのか、枯れ枝のような腕をブルブルと震わせて呻く。俺の手形が赤紫の瘢痕になってくっきりと浮かんでいる。どれだけの時間、どれだけの力で俺はこの細い腕を掴んでいたのだろうか。
嗚咽と共に跳ねる肩を抱擁しながら織姫が努めて優しい声音でなだめる。一勇も俺の腕の中からもみじのような手のひらで青痣をさする。
「おうちに入ろうか」
織姫が子供を抱き上げて立ち上がるが、「おっとっと」とふらつく。体重が軽くても子供側が抱き上げられる構えをしていないと、重心が安定しないので力が要る。慌てて一勇をおろして交代する。
小さな体はされるままに持ち上がり、足がぶらぶら揺れる。その足の裏を指差して一勇がはっとしたように呟く。
「まっくろくろすけだ」
つられて俺も覗き込む。生白い足の裏に炭の粉のような黒い物が付いている。指で触れると見たまま粉っぽくさらさらと落ちていく。そのまま視線を落として子供が立っていた場所を見ると、黒い足跡が一対並んでいた。
「うお…なんだこれ、何踏んだんだ?」
「ありゃ、ごはんの前にお風呂だね。一護くんその子よろしくね!私とかずくんはごはん作っちゃうから!」
呆然としている俺を置いて、織姫と一勇はパタパタとキッチンに戻って行ってしまった。
とりあえず子供を風呂場に置いて、足跡のススを掃除する。抱きかかえて移動したがそれでも廊下に少量のススが落ちた。玄関に並ぶ足跡の異質さが目立つ。その玄関前に立ってチャイムを押したであろうその足跡より後ろに、歩いてきた足跡が無かったからだ。
風呂場に戻ると、子供は降ろした位置にただ立っていた。
シャワーを空のバスタブに向けてお湯を出す。
「…服、脱ぐぞ」
声をかけてシャツのボタンを外す。もう涙は止まっているが、少し鼻をすすっている。注意深く様子を窺いながら服を脱がせるが、今さっき無体を働いた俺を前にしても恐怖している様子はなく、頬についた塩の筋も拭わない。
脱がせたシャツを丸めて脱衣所に放り投げる。草臥れたそれを風呂上がりに着せる気は無いし、洗濯してもきっとダメだろう。
一糸纏わぬ体は悲壮なほどに痩せこけていた。二の腕は人差し指と親指の輪の中に収まってしまう。内股は直立しているのに子供自身の握り拳が入るくらいに隙間が空いている。一勇のふっくらと柔らかい二の腕や内股を見慣れているだけに衝撃的だった。自分の頬が引き攣るのを感じる。
温まったお湯をかけてから、風呂椅子に座らせてよく泡立てたボディソープで全身を撫でる。ススまみれの足の裏は特に念入りに手で洗うと、ビクンッと脚が遠のく。どこか痛んだのかと思い顔を上げた。
笑っていた。眉を八の字に寄せ、片方の口角を吊り上げて。
「…我慢しろよ、ススまみれなんだから」
「、ふふ……ひ、ひッ い!」
体の泡を流したら、長い髪の毛に手をつける。柔らかい毛質で所々絡んではいるが、汚れはあまりない。シャンプーを流した後、なんとなく織姫のトリートメントを付けてやる。チューブからほんの1センチ程度しか出さなかったから毛量に対して圧倒的に足りてないが、毛先の指通りは良くなった。
髪を束ねてから、抱き上げてバスタブに入れる。体と髪を洗っている間に湯張りをしていたので、子供の腰くらいには溜まっている。シャワーで肩から湯をかけてやる。
束ねた髪の毛先が揺蕩うくらいの水位になると、白かった頬にもようやく血色が灯った。
「…腕、悪かった」
「…いや、急にきたからおどろいただろう。子どもにもさわろうとしたしな」
「お前ユーハバッハだな」
「あぁ、たぶん」
「多分?」
「たぶん」
結局、それ以上ユーハバッハは何も言わなかった。俺も質問しなかった。「たぶん」というおうむ返しがこいつの口から語ることのできる全てなのだろうと思ったから。
バスタブから水揚げして、ほかほかと熱のこもった体をタオルでぐるぐるに包んだ。水気を拭って一勇の夏物のパジャマを着せてリビングに行くと、2人がテレビを見ながら先に夕食を食べていた。
たっぷり水分を含んだ長髪は体を拭いた後のタオルでは拭いきれず、新しく別のタオルを引っ張り出してくることになった。3人がかりでタオルとドライヤーで乾かしてもなかなか乾かない。
一勇は興味深そうに毛先に櫛を通して「長いね!」と話しかけている。ユーハバッハは自分に話しかけていると思わなかったのか目を伏せて自分の膝を見ていたが、顔を覗き込んで目線を合わせようとする一勇に気付き「ずっと切らなかったから」と応えた。
温風と織姫が軽く髪を掻く揺れが心地よかったのか、ユーハバッハの頭が舟を漕ぎ始めた。根元の方が大体乾いたのを確認して、静かにソファーに
横たえた。織姫は完全に眠り込んだユーハバッハの頭を撫でてから、「私とかずくんもお風呂入るから、ごはん食べちゃってね」と一勇の手を引いて風呂場に向かった。
普段家族で食卓を囲むことを大切にしている彼女が先に食事を済ませていたのは、俺と自分で子守りを分担して効率よく2人を寝る準備万端にするためだったと気が付いた。
夕飯を食べて食器を洗ってしまった後で、俺はスマホでユーハバッハの寝顔を撮影してLINEで浦原さんの伝令神機に送信した。3分経たずに既読がついたが、その後いくら待っても返信は来なかった。
風呂場のドアが開いた音がする。反響した2人の声がぐわんぐわんとリビングまで満ちる。一勇が前髪の先から冷たい飛沫を滴らせてパジャマの襟濡らしながら走ってリビングに入って来た。その後を織姫が「かずくん床ビチャビチャ!」と怒って追いかけてくる。一勇は口を「い」の形に引き絞ってから急いで振り返り、首にかけていたバスタオルで自分の足元を拭きながら廊下をUターンしていった。
風呂場から床を拭いて来た織姫と廊下の途中で合流した一勇が戻ってきた。
「ただいまぁ!」
「ただいま。かずくん、あの子寝てるからちょっと静かにしようね」
「ねぇ、その子どこで寝るの?僕の部屋で一緒でもいいよ!」
「一緒に寝る」という一勇に促されて、リビングに布団を敷いて4人で寝ることにした。正直俺もそうしようと思っていた。今夜は家族から離れたく無かった。織姫も同じ気持ちだったのか大して驚きもせず了承してくれた。
21:30、休日の夜にしては早い時間だが、俺たちはテレビも見ずに4人で布団に入った。子供2人を挟んで俺と織姫。一勇ははしゃいで疲れたのかすぐに寝息を立て始めた。ぴったりと寄り添う子供たちを見ながら織姫が微笑む。
「…ありがとな…俺ひとりじゃ何もできなかった」
「…うん」
「怖かったろ」
「…かずくんに何かあったのかと思って…。それも怖かったけど、この子を…この子の手を掴む一護くんが……こわ、かった、」
気丈に振る舞い、てきぱきと出来事に対処していた彼女の声が震えていた。俺を見つめる瞳がゆらゆらと潤み、目の端にいっぱいに雫を溜めている。こぼれ落ちそうなそれに手を伸ばして、パジャマの袖に吸わせた。彼女がほんの少し笑う。
「一護くんは、この子のこと知ってるんだね」
「…あぁ」
「私もね、ちょっと知ってる気がする」
そう言いつつも、彼女の手は迷いなく2人の子供に布団をかぶせている。
「明日朝イチで浦原さんに電話する」
「そうだね、早起きしなきゃ。色々揃えるものもありそうだし」
色々ってなんだよと思ったが、その言葉は口の中で小さな笑い声になるだけで消えていった。うちで面倒見る気満々なのが丸わかりだったからだ。
くふくふ、と静かに空気を振るわせる笑い声が2人分、リビングに差し込む薄明るい月明かりに溶けた。
眠りに落ちた意識が摩天楼の群れの間を疾る。真っ直ぐに向き合った窓ガラスの内側で、膝を抱えてうずくまる影。この事態に一度も顔を出してこなかった彼の声亡き声に、俺は招ばれている。
「斬月」
「…きた、のか」
暗い室内で斬月がゆっくりと顔を上げる。蒼い瞳が月明かりに光った。若い姿の彼にあの子は本当によく似ている。
「私…私は、アレを殺そうと思った。でもできなかった。幼い子供を殺す姿がお前の目にどう映るか想像すると、できなかった。お前のためじゃない。私は私のためにそうしなかったのだ。」
こんなふうに、彼が彼自身の弱さを吐露するのはいつぶりだろうか。柔らかい心が軋む音が聞こえる。2つの望みの間で自分を擦り減らす彼の困惑を感じる。彼の欲望の天秤の片方にいつも俺が乗っていることが、ただ胸の底に明かりを灯した。
「ありがとな」
「…」
「俺を選んでくれてありがとう」
刺すように俺を見上げていた表情が泣きそうにくしゃりと歪む。
「一護、アレをどうする気だ。私はお前とお前の家族の平穏な暮らしが傷つくのは、絶対に嫌だ。絶対に許さない」
「わかってる。一番大事なものは」
「…ならいい、もう帰れ。」
「明日また来る」
「来なくていい」
「来るから」
彼は手足を伸ばしてその場に横になった。斬月たちはこの世界で思い思いに寛いでいる。何度言っても黒い彼は床にそのまま寝転がるのが落ち着くようだ。こうなるともう本格的に俺と対話する気は無いらしい。
返事もしなくなった彼を後目に、入った窓から外に出る。その視界の端に眩く白いものがはためいた。
「次あの人、泣かせたらコロス」
「わかってる」
その言葉を最後に、俺はむこうから追い出された。意識が急速に白み、今度こそ俺は眠りについた。
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