本の話 イギリスの首都ロンドンの中心地に建てられたタウンハウスは、『ガーネットジェム』の創設者であるグランマが所有している。
その場所では、救貧院にいた子供や、孤児、労働者階級の人間を集め、ロンドンに出没する吸血鬼を狩る為に日々教育がなされている。
そんな彼等にとっては気の休まらない日々を送る、或る秋の朝。
グランマの計らいで、ガーネットジェムに所属している全員に一週間の余暇が与えられた。
指揮隊として人形の指導を担っているセオドアもその一人。
館の二階の一室を私室にしている彼は、普段の起床時間から三時間も遅れて目を覚ました。
ベッドから起きて閉めきっていたカーテンを開く。
霧は晴れないが、ロンドンの街を見下ろし、働きに出掛ける美しい女性の姿を見届ける───それがセオドアの一日の始まりを示した。
シャツとベスト、お気に入りの赤のクラヴァット、上下を併せた黒のズボンとサックコートを着て、身だしなみを整える。
一階に下りて、パンとラディッシュ、牡蠣の酢漬けを食事係に用意してもらい遅い朝食を済ませると、また私室に戻った。
ベッドのサイドテーブルには、一冊の本が置かれている。
それほど分厚い本では無いが、赤モロッコ革に金箔押しが施されている丁寧な装丁の本だ。
本の著者の名前は、『アール・ハックワース』と記されている。
セオドアは内心でまたかと呟いた。
アール・ハックワースは、セオドアの同僚だ。
正しくは、エリス、アメリ、グレース達と同様にガーネットジェムに所属している指揮隊の一員だ。
アールは救貧院で育った子供だったが、グランマがガーネットジェムに迎え入れて人形になり、20歳を超えて指揮隊に出世した形になる。
セオドアやエリスも彼とは同期で、気心の知れた仲間だ。
そんな彼だが、日々の吸血鬼狩りで疲弊した心を癒す唯一の趣味は、大衆向けの小説を執筆すること。
アールがガーネットジェムに入り、字の読み書きが出来るようになった頃、セオドアは彼から数枚の原稿を渡され、それを快く読んでいた。
面白かったという素直な感想を告げればアールは喜び、仕事の合間に原稿を執筆する量も増えていった。
何時しかセオドアの知らぬ間に出版社で本を作ったアールは、ロンドンの下町で本を売るようになっていた。
セオドアもまさかと思ったが、売れ行きは好調だ。
中でも、若いご婦人が一人でこっそり読むために買うことが多いらしく、よく売れていると聞いていた。
セオドアは、アールからプレゼントされた赤い装丁の本を恐る恐る手に取る。
指先でゆっくりと白い頁を捲り、書かれている文章に目を通した。
「…えーと…『ガーネットジェムに新しく入ってきた子供は、幼く、けれどどこか異質で人目をひいた』」
*
『───指揮隊の責任者であるエリス・バーデットは何時しか彼を目で追うようになっていた。
幼い仕草、触れれば折れてしまいそうに細い指先、彼が──エリスが、ウォルター・ビセルに堕ちるまでにそう時間は掛からなかった。
人形の教育としてウォルターを呼び出したエリスは、ウォルターを自分のベッドに押し倒した。
「……エリスさん…っ、何をするんですか…やめて下さい…っ」
「…ウォルター、教育の一環だ、怯えることはない。ゆっくり力を抜くんだ」
「……やめて下さい…俺には…」
ウォルターのクラヴァットを外し、衣服を脱がそうとしたエリスだったが、足音が聞こえ直ぐに部屋の扉が開かれる。
「……ウォルター、無事か…っ」
よく通る声にウォルターが振り向けば、美しい金色の髪に蒼い瞳、白い頬、総てが陶器人形のような青年───フラン・ビショップが部屋に踏み込んでいた。
そのまま、フランはベッドに乗り上がり、ウォルターを抱き起こした。
「…エリス、俺の恋人に何をするんだ!」
「……何もしていない。合意の上だ」
「……っ、よくも…」
エリスの静かな言葉に、フランは激昂して、ウォルターの制止の声も聞かず、銃を取り出した。
すると、風は無いが窓硝子が揺れ、勢いよく窓が開かれる。
驚く三人に、漆黒の外套を纏った男が窓から現れ、音もなく室内に降り立った。
柔らかな水色の髪が淡く透け、白い頬に掛かる。
紫電の涼しげな目元を細め、背の高い男は、静かにウォルターに歩み寄った。
そのまま腕を取り、驚くウォルターを強引に抱きしめる。
「───彼は、俺の婚約者だ。」
男はそう言い放ち、ウォルターに口づけた。
エリスは、静謐な空気を纏う男を視界に映し、声を震わせながら呟いた。
「……ヒースコート……お前…」
エリスは彼を見て絶句するしかなかった。
彼は十年来の親友で、憎むべき吸血鬼だったのだ───』
*
セオドアは無言で部屋の扉を開けると、広い廊下を走った。
長い廊下を走るなど品が無いと、アメリに散々怒られたこともあるが、そんなものは今はどうでもいい。
アールから事前に、近しい人をモデルに執筆したんだよ──と聞かされていた。
だが、こんな発禁書になりかねない本をそのまま本名を使って売っているとは聞いてない。
以前、ウォルターの『教育』を行ったことを嬉々としてエリスに聴取していたアールだったが、こんな本を創る為だとは誰も思わないだろう。
───それに、ヒースコートって一体誰だよ!と内心で突っ込みを入れる。
走りながら角を減速せずに曲がると、前から歩いて来ていた少年とぶつかりそうになった。
「…わっと、悪い…!」
「…いえ…っ」
驚いて下を見ると、セオドアが先程まで読んでいた本のモデルにされた少年が立っていた。
セオドアが落としたアールの本を拾い、笑顔で渡してくる。
「本、どうぞ」
「…あ、…ありがとう、ウォルター……」
控えめに微笑んだ少年──ウォルターは何も知らない瞳でセオドアを見つめてくる。
「…綺麗な本ですね。最近出版されたんですか?」
「…え!?あー、うん、そう!最近!アールが勝手に置いてったんだよなぁ!時間無いから読めないつってるのに…」
「……そうなんですか…。あの、もしよかったら、読み終わったら俺も借りても良いですか?」
「ほべっ!?」
「……ほべ?」
想定外過ぎて喉から変な音が出た。
ウォルターがセオドアを見て僅かに驚いている。
まさかウォルターがアールの本に興味を示すなど、正しく想定外だ。
「……いや、こんな本、絶っっっ対面白くないからやめといた方がいいぜ」
「…でも、俺、本読むの好きなんです。フランに字を教えてもらってから楽しくて」
「……う゛っ」
───そんな純粋な瞳で俺を見ないでほしい…。
普段は聞き分けのいいウォルターが、珍しく食い下がってくる姿に、セオドアは罪悪感が痛いほど自分に刺さるのを感じる。
そんな瞳で見ても、本の中身はアールの妄想が詰まった到底ウォルターには見せられない本だ。
───しかもお前、本の中で何故か三人の男に取り合われてるんだぞ。良いのか?
「……見せ…たいんだが、これはまだお前には早いというか………後で違う本を貸すからそれでも良いか?」
「…あ、はい。ありがとうございます」
セオドアがそう告げると、ウォルターは素直に頷いた。
セオドアは安堵の息を吐き、手を振ってウォルターと別れた。
すかさずセオドアはまた全速力で廊下を走り、奥のアールの私室の扉を勢いよく叩いた。
「…アールっ!!!」
「……はい、誰……ああ、セオドア。どうしたの」
「…お前、これはどういうことかなぁ?!!」
扉を遠慮なく開け、本を掲げる。
室内にいたアールは椅子に座ったまま、息を荒らげるセオドアを振り返った。
「もう読んでくれたんだ。面白かったでしょ?エリスにもその本、プレゼントしたんだよ」
「は?」
「エリスもさっき読んでくれたみたいなんだけど、何故かすごく笑いながら面白かったって言ってくれたよ。続編は無いのか?って言ってた」
「こんなのに続編があってたまるか!!」
エリスが本を読みながら笑っている姿が容易に想像がつく。
無駄に寛容──という名のただ面白がっているだけのエリスに向け、あの野郎……と内心で悪態をついた。
「…アール。実際の人間を使って本を書くなよ。しかも名前も変えずに書くのは流石にどうかと思うぞ」
「…そうなの?エリスには好評だったのになぁ」
「あいつの基準をあてにするな。あいつ、絶対に面白がってるだけだからな!?」
アールにそう言うと、目に見えて落ち込むのがわかった。
「……そっか。皆に迷惑かけちゃったのかな……ごめんね」
「……いや、謝るのはウォルターに………というか、お前の本は面白いよ。お前が小説を書くようになってから俺はずっと読んできたんだ。だから、こういうことはせず、もっと違う題材で書いてみようぜ。皆をモデルにしなくても、お前なら良い本が書けるよ」
「……っ…セオドア…」
「な?」
「……っ、うん」
アールの肩を叩くと、嬉しそうにアールが笑った。
それに安堵したセオドアだったが、遠くから聴こえる足音に違和感を覚える。
その足音は廊下を渡り、アールの私室に向かって来ているような気がする。
「……おい、アール。部屋に誰か呼んだのか?」
「…え?」
「…なんか、凄い足音がこっちに……」
「ああ。フランが俺の本が読みたいって言ったから渡したんだ」
「馬鹿野郎────!!!!」
絶叫したセオドアの声は、一階の玄関ホールで客人を呼んでいたグランマの元まで響き渡った。
■■
カーテンを引いた窓の下では、馬車が通りアスファルトと木のブロックが敷かれた道を人々が行き交う姿が映る。
ヒースコートは、テーブルに用意されていたティーカップを手に取り、中に注がれた紅茶を飲んだ。
「ヒースコート様、先程ブリクストンで買われた本は如何でしたか?」
傍らに控えていた壮年の家令が問いかける。
ヒースコートは、霧の晴れない街を見下ろしてから瞳を伏せた。
「──面白かった。怪奇小説も良いが、ああいった恋愛小説もなかなか良い」
「左様でございますか」
「──『アール・ハックワース』といったか」
薄い唇に指先を当て、静かに微笑む。
「良い小説家だ。まだ荒削りな部分もあるが、繊細で柔らかく、そして色気のある文章を書く。───次回作は、俺とウォルターが主人公になるようにと彼に伝えて来てくれるか?」
「───畏まりました」
家令が部屋を出ていくのを見つめて、ヒースコートは窓を開けた。
秋の冷えた風が頬に触れる。
窓枠に寄りかかり、ヒースコートは忙しなく歩いていく人々の姿を静かに眺めた。