お酒に失敗した話「好きです」
そう、蕩けそうなほどの微笑みで、鋼がぼくに告げた。
でも、
(それは、別な誰かに向けて言っているんだろう?)
◆
「村上先輩、好きな人がいるらしいよ」
本部のラウンジにて、雑談をするC級隊員からそんな声が聞こえてきて、たまたま近くに座っていたぼくは思わず聞き耳を立ててしまった。
話している子も鋼本人に聞いたのではなく、人伝いにそれを聞いたらしかった。
(ぼく、知らない……)
鈴鳴でそういう話自体をしないこともあるが、鋼とはそれなりに仲良くなっていると自負してたがゆえに、軽くショックだった。
いや、鋼に好きな人がいることは喜ばしいことだ。ただ、自分にそういうことを内緒にされてたのがショックというか、いや、なんでもかんでも話す訳でもないから内緒のひとつやふたつあってもおかしくないのだけれど、やはり、どこかで鋼はぼくに対しては内緒なんてしない子だと思ってたから。
「好きなひと……いるのか……」
ぼくには、そんな人はまだいない。そのことが、ぼくの中での少しの焦りに拍車をかける。
(……鋼、の好きな人って、どんな人なんだろ……)
きっと鋼が好きになる人だから、素敵なひとなのだろう。鋼が誰かと付き合っているような話も聞かないし、告白もまだということだろうか。
(なら、応援してあげなきゃ……)
なのに、ぼくの胸はチリリと、少し痛んだ。
◆
「鋼、改めて、20歳おめでとう」
「ありがとうございます、来馬先輩」
カチャンとワイングラスを鳴らし合うと、目の前の鋼がとても嬉しそうに微笑んだ。ぼくもそれが嬉しくて、笑いながらグラスを傾けた。
一週間前に、鋼は20歳の誕生日を迎えた。鈴鳴でも今ちゃんや太一と一緒にお祝いはしたが、ぼくとお酒を飲んでみたいと言う鋼の要望により、ぼくの住むマンションで飲むことにしたのだ。昼間の真夏日の余韻を残した熱気を払うように部屋ではクーラーを効かせているが、お互いに半袖のラフな格好で今夜を迎えた。
「でも、ぼくの選んだお酒でよかったの? 普通にビールとかでもよかったろう?」
「……来馬先輩が好きなお酒を、最初に飲んでみたくて」
とても大切そうにワイングラスを見る鋼に、嬉しさとむず痒さを覚え、自分のグラスに視線を逸らした。
「そか、一応飲みやすいのを選んではみたけど、美味しくなかったら言ってね。他のも用意しているから」
「いえ、大丈夫です。でも、アルコールって不思議ですね。お腹から熱くなるというか」
「一気に飲んじゃダメだよ。空きっ腹にも飲み過ぎはよくないから、ご飯も食べよ。鋼、いっぱい食べる方だから色々作っておいたし」
「えっ、これ、来馬先輩の手作りですか……!」
テーブルに並べていた料理に、鋼が驚きの目を向ける。そして、目に見えて嬉しそうという顔になっていく変化に少し笑ってしまう。そんな大したものじゃないよと言いながら、次があればまた作ってあげようと密かに思った。
ぼくはお酒が入ると赤くなりやすい方だが、鋼は表に出にくい質だったらしい。
「他のも飲んでみたいです」と言う鋼につられたのもいけなかった。見た目の変わらない鋼がお酒に強いと思ってしまい、「こっちはどんな味ですか?」「これはねー」と鋼が望むまま色々なお酒を勧めてしまった。何より喜ぶ鋼の様子が嬉しくて、きっとぼくもお酒のアルコールによって、判断が鈍っていたのだと思う。
鋼の頭がふらふらと揺れ、テーブルに伏したところでようやくぼくは「しまった」と気づきた。
「こ、鋼! 大丈夫!?」
「うー……」
返事とも唸り声ともつかない声に、ぼくは慌てて水を取りに行った。
「ほら、鋼、水飲める?」
鋼の隣に行き、水を注いだコップをすすめてやる。よろよろと顔を上げ、コップを取ろうとするがその手つきも危うい。その手を支えてやりながら、鋼がゆっくりと水を飲むのを見守った。
「ごめんよ、鋼。飲ませすぎたね。ぼくのベッドまで行こう。立てる?」
「うん……」
幼くも感じる返事をしつつ、椅子から立ち上がろうとするも、やはりその足取りはおぼつかない。ふらつく鋼の肩を持って支えながら、寝室へと歩いた。
身長は同じくらいなのに、鍛えている鋼はウエイトがある分、やはり重い。支える自分も一緒に倒れてしまいそうになるのをなんとか堪え、寝室のドアを開ける。
「鋼、ほらもう少しでベッドだから……」
電気を点ける余裕もなく、廊下の明かりを頼りに暗い寝室を歩き進む。
思えば、ぼくも鋼と一緒にそれなりに飲んでいたのだ。鋼より多少はお酒の耐性があったとはいえ、酔いは体の動きも鈍らせてくるわけで。
鋼自身がうまく歩けていない上に、鋼の体の重さがぼくに掛かる。さらにそこにぼくの足のもつれも加わった結果、
「うあっ!」
情けなくも室内で転け、ふたり揃って前のめりに倒れた。
鋼を庇うように抱いて倒れたが、幸運にも倒れた先にはもうぼくのベッドがあり、ぼふんっと音を立ててベッドにダイブした。
「危なかった……。鋼、大丈夫?」
鋼が怪我しないようにと必死だったので、今はぼくを下にして鋼がぼくの上にいる体勢だ。図らずも鋼がぼくを押し倒しているような状況で、鋼の重たい体がぼくにのしかかる。お酒で熱くなった鋼の体温が薄い夏服越しから直に伝わって来て、妙な焦りを感じた。
「こ、鋼? ね、動ける? ぼくが抜けたら、このままこのベッドで寝ていいから……」
ぺちぺちと鋼の背中を叩いて起きてもらうよう促す。まだ意識はあったらしい鋼が、のそりとその身を起こしてくれた。重石となっていた鋼の体がなくなり、代わりに鋼の顔が真上からぼくを見下ろしてきた。
「鋼……?」
その目はゆらゆらとしていて、ぼくを見ているのかも怪しい。何も言わない鋼に、気分でも悪くなったかと口を開きかけ、
「……すきです」
「────え」
鋼からの、小さな呟きの意味が分からず、ぼくは硬直した。それに構わず、鋼がぼくの頬に手を添え、
「好き、好きです」
「っ……!?」
聞いたことのない、甘い声。そして、とろけるような微笑み。鋼の瞳に映った相手への愛おしさに溢れていることが、よく分かった。
でもそれは、
(鋼は、好きなひとがいるはずで……)
つまりは、
(ぼくを、その人と勘違いしている……?)
お酒のせいで、ここにいない誰かとぼくを見間違えているのだろう。
「鋼、違うよ、ぼくは」
「好き」
「こ」
ぼくの言葉は、声にならなかった。
いや、────塞がれた。
「っ、んっ!」
鋼の唇が、ぼくの唇に重なる。思うままの、ぶつけるようなキスにぼくの呼吸もおぼつかない。引き剥がそうにも鋼の方が力が強く、頭の後ろに手を回されてしまってはどうしようもなかった。
先ほどまで飲んでいたお酒の味が鋼の口から伝い、ぼくの舌先に落ちてくる。息を吸おうと口を開ければ、酒気の混じった鋼の息が入りこむ。まるで鋼の飲んだお酒がぼくに移っていくように思え、頭がぐらついていく。
「はっ……ん、ぁ、こ……うっ」
さすがに息が苦しくなってきて、鋼の胸を叩く。それでようやくと口を離してもらって、ぼくは酸素を求めて大きく息を吸った。
「はあ、はあ……鋼……」
こちらが何か言うより早く、鋼がまた覆いかぶさってきた。けれどそれはキスではなく、こちらを抱き締める動作だ。
「こ、鋼?」
「ん……」
ぎゅうと、鋼は抱き枕よろしくぼくを腕の中に閉じ込める。それから何も発することなく、しばらくして穏やかな寝息が聞こえてきて、ぼくはひとり脱力した。
(びっくり、した……)
キスそのものが初めてであったし、勘違いとはいえ、鋼にあんな風に求められることなんてなかったから。
唇にまだ感触が残っていて、さっきまでのことを思い出して恥ずかしさに熱が上がる。当の鋼はすやすやと寝息を立てて、穏やかな寝顔がすぐ横に見える。鋼の寝顔は彼のサイドエフェクトの性質上、よく見るものだが、今はいつも以上に緩んだ顔になっていた。
弧月やレイガストを振るう普段の鋼はとても格好いいが、こういう姿を見ると可愛いなと思ってしまう。
片手をどうにか伸ばして鋼の頭を撫でてやると、それが心地よかったのか益々彼の顔が緩みきっていく。その様子に微笑ましくも思うが、小さな痛みも伴った。
(鋼の、好きな人のことでも夢見ているんだろうか……)
好きという言葉も、あのキスも、ぼくではない誰かへのものだ。そう考えると、ぼくはその誰かが受け取るはずだったものを盗ってしまったことになる。
「ごめんよ、鋼……」
小さな詫びは、今は彼には届かない。それでも言葉にしないと気が済まなかった。
そう、この胸の痛みは鋼への申し訳なさであって、それ以外の意味などない。
(それ以外なんて、あるはずない……)
何かがよぎりそうになる思考を振り払うように、ぼくは大きく息を吐いて目を瞑った。
元々暗かった視界が真っ暗になり、鋼の少し高い体温が、ぼくの体に移っていくようにぼくを温めるのがより鮮明に分かる。
(明日、どんな顔すればいいかな……)
鋼の温かさと寝息につられ、だんだんと眠たくなっていく思考の中でそんなことをぼんやりと思いながら、ぼくもいつしか眠りについた。
◆
オレは寝起きがとてもいい方だ。
サイドエフェクトの関係もあるのか、目覚ましが鳴った直前に起きれるし、起きた瞬間から思考もクリアですぐ起き上がって動けるタイプだ。
だから目が覚めたオレの目の前に、眠る来馬先輩の顔があった瞬間に「やらかした」と瞬時に悟った。
(オレは、何をしてしまったんだ……!)
サーと、自分の頭から血が引くのがすごくよく分かる。
自分の手は来馬先輩を抱きしめているし、ベッドには体全体が乗り切らずに中途半端に足が出た状態で寝ていた。まだ先輩と自分の衣服が乱れていないのが、せめての救いだ。
必死に昨日の記憶を遡ろうとしたところで、来馬先輩の瞼が薄く開くのが見え、オレはそれを凝視した。
「ん……」
ゆっくりと、あの綺麗な栗色の瞳が眠たげに姿を表し、オレを映す。
オレの取る行動はひとつだった。
「────スミマセンでした!!!!!」
このために鍛えていたと言えるほどに、オレは即時に身を起こして床に手をつき、土下座した。カーペットがあったのでフローリング素材の床に頭を直接ぶつけることはなかったが、むしろ痛みがあった方がまだよかったと思ってしまう。
「こ、鋼! そんなことしなくていいよ! それより、いきなり起き上がって大丈夫? 身体はなんともない?」
頭を下げるオレの前に来馬先輩が座り、オレの背中を撫でて労ってくれる。
ああ、こんな時でさえ、このひとは優しい。優しすぎるほどに優しい。
うっかり泣いてしまいそうになるのをグッと堪え、オレは顔を上げる。オレを心配そうに見下ろしてくる来馬先輩が視界にすぐ入ってしまい、うん、やっぱりだめだ無理だ耐えられない泣く。
「すみません……」
「ああ鋼、そんな泣かなくていいんだよ。というか、ぼくの方が悪いんだ。ごめんね」
「いえ、オレが調子に乗って飲みすぎたせいです……」
「初めてのお酒なんだから、要領が分からなくて当然だよ。ぼくがそこを注意すべきだったんだ」
ごめんねとまた謝られてしまっては、オレからはもう何も言えない。涙を拭って「ありがとうございます」とだけ答えた。
「本当に身体はなんともない? 気分も悪くない?」
「……はい、大丈夫です」
よかったと言って立ち上がる来馬先輩の手に引かれて、オレも立ち上がった。少しだけ頭がズキリと痛んだが、今回の失態を思えばぬるすぎるくらいの罰だ。
「来馬先輩、本当に申し訳ないのですが……オレは、昨夜何をしてしまいましたか?」
「えっ」
「その、先輩と飲んでいたところまでは覚えているのですが、その後がさっぱり思い出せなくて……。考えたくないですが、暴れたりとか来馬先輩の迷惑を被ってないかと心配で」
「鋼……覚えてないの?」
どこか困惑気味の先輩の反応に、オレは再度絶望した。
(やっぱり何かしてたのかオレは……!!)
自分の記憶にないところで自分が何かしてしまっているという状況が初めてすぎて、もはや恐怖しかない。
「すみません来馬先輩、このしでかしたことは一生かけて償わせてもらいます。先輩が天寿を全うしたその後に切腹します」
「鋼! 鋼! また土下座やめて! 自然すぎてちょっと鋼がテレビの武士みたいに見えたよ!?」
再び座っていたオレの手を引いて立ち上がらせると、先輩は少し苦笑してオレの肩を叩く。
「大丈夫だよ。酔い潰れちゃった鋼をベッドまで連れて行こうとして一緒に倒れちゃって。鋼も、その……、ぼくを抱きしめたまま寝ちゃったから、ぼくもそのまま寝ちゃったんだ」
うん、とどこか言い聞かせるような頷きをして、
「なにも……なにもなかったよ。なにもだ」
少し困ったような笑みを浮かべ、先輩がそう告げる。
それは嘘だと察しはつくけれど、先輩の言葉を否定することは、この人の優しさを否定するのと同じだ。本当は何かしていたとしても、こうなったらこの人は頑として口を割らないだろう。
「……分かりました。ありがとうございます」
この人の優しさと罪悪感を喉の奥に飲み込んで、オレは頭を下げる。
顔を洗っておいでと洗面所へと案内され、そのまま来馬先輩は朝食の準備をするからとキッチンんへと向かった。その背中を見送りながら、自分の不甲斐なさに小さくため息を吐く。
(この人の前では、いつも格好がつかないな……)
頼りになるところを見せたいのに。
(これでは、いつまで経っても告白なんてできやしない……)
想いを秘してから今日まで、いまだに告白する勇気が持てない。意気地が無いと言ってしまえば簡単だが、何より、
(告白することで、今の関係を壊したくもない……)
オレに好意を持たれているなどあの人が知ってしまったら、きっと今のようなままではいられない。優しいあの人は同じように接してくれるとは思うけれど、あの人の好意に甘えて過ごすなど耐えられない。
だから、もう少し、もっと自分に自信を持てるようになって、もっとあのひとにふさわしい人になったら、
「────」
洗面所の水を出し、手のひらに溜める。冷たい水を顔に浴びせ、オレは気を引き締め直した。
こんな失態は、もう二度と繰り返しはしないという決意も一緒に。
◆
決意したのに。
「ねえ、鋼。……キスってしたことある?」
酔っ払った来馬先輩が、頬を赤く染め、潤んだ瞳でオレにしなだれかかってくる。
どうしてこうなった?
自分の気持ちと状況を整理するために、ここに至るまでの経緯を思い起こす。
月日もあれから移ろい、もう夏も終わりに差し掛かる頃。
あの失態の日から、自身のお酒の許容はなんとなく掴めてはいた。他の友人たちとも飲み、さらには自室でも飲み試し、正確な限界も把握した。
(これで記憶がなくなるほど飲んでしまうことはない……!)
これでもう大丈夫! とオレは改めて来馬先輩に「飲みに行きませんか」と誘ったのだ。
「いいね、あれから一緒に飲める機会がなかったもんね」
来馬先輩は笑ってそう言っていたが、実際はオレ自身がお酒の限界を確認するまでは飲みに行くまいと遠慮していたせいもある。けれどもうそんな遠慮は必要ない。
「諏訪さんに美味しいお店を教えてもらったので、そこに行きませんか」
「へえ、そうなんだ。いいよ」
このために飲み屋なら諏訪さんが詳しいだろうと教えを請うたのは、正解だった。実際に行ってみたお店は料理も美味しくて、来馬先輩も楽しんでいた様子だった。
オレ自身もほろ酔いほどで酒もセーブでき、来馬先輩とようやくと楽しんだ記憶を作れたことに、オレは確かな満足を感じていた。
「外、ちょっと暑いですね」
「お酒も入ってるからね」
程よく腹も満たして外に出れば、まだ残暑が残る空気がオレたちを迎える。夜にはクーラーが必須な温度では無くなってはきたが、まだ半袖でいいと思えるくらいだ。先輩の言う通り、お酒も入った身体はより外気を暑く感じさせた。
「もう21時か。鋼とおしゃべりしてたらあっという間だったね」
「そうですね……」
携帯の時計を見ながら言う先輩の言葉に、オレは残念の気持ちが満ちる。時間帯的には“もう”だが、オレとしては“まだ”と思いたかった。ようやくと先輩とちゃんと飲めて満足は得られたが、思っていた以上にオレは強欲だったらしい。
(もっと、一緒にいたい……)
けれど、自分の我儘で来馬先輩をこれ以上付き合わせるわけにもいかない。
己の分は弁えている。うん。我慢。
「先輩、駅まで送ります」
「あ、うん。……鋼、もしよければなんだけど」
「?」
「飲み直さないか? ────ぼくの家で」
どくり、と心臓が鳴る。
先輩のマンションには、あれ以来行けていない。自分の中でも反省の多い所というのもあってか、普通に遊びに行くのも躊躇っていたのだ。
その来馬先輩からまた部屋に呼んでもらえることに、オレは泣きたいのを堪えるくらいに喜んだ。だが、
「でも、今からお邪魔するのは流石に時間が……」
「それなら、泊まっていけばいいよ。明日は非番だし」
ね? と首を傾けられては、オレの返事は「はい」以外の選択肢などあるはずもなかった。
コンビニで追加の酒を買おうとしたが、家にあるから大丈夫と言われ、自身の着替えの下着と歯ブラシ、そして簡単なつまみになるものだけ買って来馬先輩のマンションへと向かった。
来馬先輩のマンションの間取りは2DKでリビングはないものの、ダイニングの空間が広く取られている。なので、食事をするテーブルとは別に、テレビに向かって座れるソファーと小さなローテーブルを置いていた。
せっかくだから何か映画でも観ながら飲もうとソファに並んで座り、来馬先輩が持ってきたお酒で改めて乾杯をした。
そこまではよかったのだ。
荒船からオススメされていた映画があると提案して、それを一緒に見ていた。アクションの多い洋画ではあったが、ラブシーンも盛り込まれている系のやつで。まあやはり海外のそういう場面はキスシーンも濃厚だ。主人公とヒロインのそういうシーンに入り、なんとなく気まずい。
と、
「ねえ、鋼」
来馬先輩の静かな声が、オレの耳に入る。先輩へと顔を向けるが、先輩の視線は画面を見たままだ。まるで独り言のように、先輩が問い掛けてきた。
「鋼には、……好きな人、いる?」
「っ────!?」
手にしていたグラスを落とさなかったことに、オレは自分を褒めたい。
(オレの好きな人……)
います。なんならすぐ隣にいます。
でも、
(……言えない……)
言えるわけがない。
自分の意気地無さを自覚しつつ、喉の奥でものがつっかえるような苦しさを覚えながら、オレは苦し紛れの言葉を吐く。
「いない、です」
来馬先輩に嘘をつくのはとても辛いが、いますと答えた際に、誰が好きなのかと追求などされてしまってうっかりあなたが好きですなどと言ってしまいかねない。
このひとを、困らせるようなことはしたくなかった。
オレの答えが意外だったのか、来馬先輩は少し驚いた表情をこちらに向けた。でもすぐにその視線をテレビへと戻し、
「そ、か……。鋼くらいなら、好きな人とかいると思ってた」
「っ──。えと、来馬先輩は、いますか?」
「ぼくは…………いるよ」
「えっ!」
「意外かな?」
「いえっ、びっくりした、というか……」
来馬先輩とこういう話をしたことは今までなかった。けれど、これまで先輩も恋人がいた話は聞かない。全ての人に優しく接する先輩こそ、特定の人を好きになる想像ができなかった。
(来馬先輩に、好きな人が、いる……?)
一体誰なのか、と聞きたい衝動をなんとか抑える。酒のせいもあって、心臓がバクバクと音を高鳴らせ、うるさく頭に響く。
さらにそれを増長させるように、来馬先輩がオレにもたれかかってきた。
「!? せ、せんぱ」
「鋼は、好きなひとがいないのか……」
来馬先輩の視線とオレの視線がぶつかる。酔いから先輩の頬も紅潮し、その潤んだ瞳がオレを見つめ、
「ねえ、鋼。……キスってしたことある?」
どうしてこんな話に。
映画の方はストーリーが進み、またもヒロインとの熱いキスシーンが映っていた。それを来馬先輩と自分とでうっかり想像してしまい、アルコールのせいだけではない熱が顔に集中した。
「した、こと……ない、です……」
実際、これまで告白されたことは何度かある。けれど、サイドエフェクトのこともあり、他人との深入りを避けてきた。だから、恋人どころか誰かを好きになったのも、来馬先輩が初めてだ。
オレの答えに、先輩の目が薄く細くなる。そして、先輩の手がオレのと重なり、
「じゃあ、キス、してみようか?」
「────へ」
オレは今度こそ本当に思考が停止した。酔いも回ってきた頭ではまともな思考などもとより無駄だが、わずかにあったマトモが全てぶっ飛んだ。
ぐるぐると回る働かない頭でようやく声に出せたのは、「なん、で」の一言だけだ。
オレの短い問いに来馬先輩はうーん、と軽い様子で悩み、
「そうだなあ……練習とか?」
「れんしゅう……」
「これから鋼が好きなひとができたときに、上手くキスができないと嫌われちゃうかもしれないよ。だから、予行練習しておけば、鋼ならすぐ上手くなるだろう?」
優しく笑んでいるのに、どこか艶めいた色が見えるのは、オレの錯覚だろうか。
練習? 来馬先輩で?
そんことできるはずないと思う。けれども、
(でも、そんなこと言うってことは……)
聞きたくないが、聞きたいことがある。
「……先輩は、キス、したことあるんですか?」
なにを聞いているのだろうと自覚はあるが、酔いの勢いとは恐ろしい。気付けば思っていた問いを口にしていた。
だが、聞いたのは間違いだったと、すぐに後悔した。
アルコールの影響以上に顔を赤くした来馬先輩がオレから目を逸らし、
「……いっかい、だけ」
指を口に当てて、小さく呟く。
瞬間、オレの胸に黒く激しく蠢くものが頭を熱くさせる。
(来馬先輩と、キスをしたことがある人がいる……)
先輩だってひとりの男性だ。そういう経験があってもおかしくはない。ないはずなのに、オレはどうしようもなくその相手に嫉妬した。
オレの胸中など知らない先輩はもうオレに目を合わせずにそのまま離れようと身を起こし、
「ごめん、冗だ」
「先輩」
離れようとした先輩の手を、今度はオレが掴み直す。
「な、なに?」
「……練習、させてください」
「え、わっ!」
先輩の手と一緒に、もう片手で先輩の細い腰も引き寄せる。それだけで、先輩はあっさりとオレの胸にもたれかかるような体勢になった。
先輩は比較的痩せ型であり、筋力も普通程度だ。オレに寄りかかっても十分に支えられる重さだ。けれど、このひとに触れているところ、先輩から触れられているところ、全てが熱を持ったように熱い。
ああ、こんなにも熱く感じるのなら、唇はどのくらいの熱を感じるのだろうか。
戸惑いにこちらを見上げてくる先輩が可愛くて、自然とオレは顔を近づけていく。
「ま、待ってよ鋼。練習なんて、ぼくは……」
「練習、させてくれないんですか? 先輩が言ったことなのに」
「それ、は」
「教えてほしいです……先輩から」
もう、互いの息がかかるほどに近い、距離。
「キスを」
近すぎて焦点の合わない目を、先輩の目に向ける。ウロウロと戸惑に彷徨う瞳は、それでも愛おしく感じた。
その瞳が、オレの目へと向くと同時に、ぽつりと来馬先輩の呟きが甘い吐息と共に吐かれる。
「ちょっとだけ、なら……」
そう言って先輩が目を閉じる数秒を待って、オレはゆっくりと先輩のそれへと自分のを重ねた。
(あ……柔らかい)
先輩は唇が薄い方ではあるが、それでも想像の何十倍も優しい感触にオレは体に電気を浴びたように震えた。
時間にして数十秒。けれどオレにとっては時間の概念が飛ぶほどのものだった。
「……ど、うでしたか」
心臓が、体から飛び出すのではないかというくらいの早鐘を打つ。来馬先輩はというと、やはり顔色は真っ赤になって「ええと」と言葉を探していた。
「や、優しかった、と思う」
「優しい……」
ズクリと、胸の奥が痛む。優しい、とは、つまり優しくないと感じたことがあった故の比較ということであり、
(前にしたやつは、優しくなかったってことか……)
なんて酷いやつだと憤慨すると同時に、また収まっていた黒い感情がじくじくと迫り上がってきた。
「先輩、もう一度……」
「ぁ……んっ」
二度目は、さっきよりも強めの重なりを意識した。
(……前のやつのしたことなど、上書きで消えてしまえ)
角度を変え、先輩の唇を吸いながら食む。うっすらと先輩の唇に残っていたお酒の味が、オレの口にじわりと滲んでくる。
(甘い……)
同じものを飲んでいたはずなのに、来馬先輩を介しただけで全く違うものに思えた。
唇を吸うだけでは飽きたらず、舌先を先輩の唇に少しだけ這わせれば、その味が濃くなった気がして。
もっと、味わいたくて。
「先輩、くち」
「え……?」
「あけて……」
促せば、よくわかっていない様子ながらも小さく口を開けてくれ、オレはそこにすかさず舌を伸ばした。
「んんっ!」
予想外のことに体を震わせる先輩の背中を押さえ、伸ばした舌をさらに先輩の舌へと絡める。
「──っ」
ああ、これが来馬先輩の味なのか……。
ああ、なんと甘美な。
「ふ、あ」
先輩の漏れ出る声と、柔らかくも生温かい舌の感触が、先輩の内側にいることを実感させられる。先輩の舌に自分のを重ね、その中身をより堪能した。
「ん、むあ」
戸惑いからか、先輩の舌がオレの舌先から逃げるように動くので、オレはそれを追いかけては巻きついた。その舌を撫でるように舐めると、先輩の体がそのたびにびくりと跳ねる。
(かわいい……)
口の中でさえ先輩はかわいい。その事実が、ますますオレの欲を増長させた。
流していた映画はとっくに終わっており、部屋にはオレたちのくちゅくちゅと唾の混ざっていく音と息遣いだけが、響く。
どのくらいの時間が経ったかなど、もう分からない。ようやくと唇を離した時は、お互いに外で走ってきたのかと思うくらいに息を荒くしていた。どちらの唾なのかも分からない、口の端についているのを拭う。
くらくらとする頭は、お酒のせいか、それとも。
「どう、ですか」
ふうふうと息を整える先輩に、問う。
冷めぬ熱に首まで赤くした先輩は、もうこれ以上はダメと言うように両手で口を塞ぎながら、小さな声でポツリとつぶやいた。
「もっと優しくない……」
評価が下がったことに、ショックから目の前が真っ暗になった。
◆
鋼と家で飲むのは2回目だけれど、朝を迎えて2回目の土下座を見ることになるとは思わなかった。
またあの時と同じように、ぼくは鋼の目の前に座る。
「鋼……」
「すみません、来馬先輩……オレ、どう償えばいいのか……」
「うん、とりあえず顔を上げてくれる? お話はそれからだ」
顔を上げた鋼はまたも涙目になっていて、まるで悪いことをして叱られた犬みたいだった。
昨晩、「アレ」をした後すぐに「もう今夜は眠ろう」と促して、お酒のせいもあってか鋼は用意したマットレスですぐに眠ってしまった。だからまた覚えていないかもしれないと思ったが、今回はバッチリ記憶に残っているらしかった。
「酔った勢いとはいえ、オレは先輩になんてことを……」
しょぼんとなる鋼の視線に合わせるために、彼の顔を覗き見る。気持ちを落ち着かせるよう、鋼の頭を撫で、
「ぼくも、その、酔っ払っていたし、そんなに覚えてないから」
言いながら昨夜のことを思い出してしまい、少しだけ体温が上がってしまう。彼の唇を見ないように努めながら、ぼくは言葉を続ける。
「ぼくはそんなに気にしてないし、大丈夫だ。その、"練習"だったわけだし……。お前も、そんなに気にせず……」
うん、
「忘れてしまってかまわないから」
おまえには、好きな人がいるんだろう? 本当は。
なら、ぼくとのキスなんて、
(忘れてしまった方がいい……)
「鋼の好きな人ができたときに、ぼくとので鋼が遠慮してしまってはいけないしね。だから、」
気にしなくていいと続けようとした言葉は、不意に鋼から両肩を掴まれたことで止まった。
「こ、鋼?」
「……先輩は、好きな人がいるんですよね?」
「あ……」
しまった、と内心で焦る。本当はそんなひとは、まだいない。
あの時そう言ってしまったのは、
(鋼が、ぼくに嘘をついたから……)
その意趣返しというほどでもないが、本当のことを言ってくれない鋼への当てつけだったのかもしれない。
(子供っぽいことしたな……)
「えと、鋼、あれは」
「先輩は、告白する予定はあるんですか?」
重ねて問われ、言葉に詰まる。予定も何も、そんな相手すらいないのに。
「予定は、ない……」
嘘は言ってはないが、前提が嘘なのでやはり心が痛む。
早く、酔いの戯れ言だったと言わなければ。けれど、「それなら!」と鋼の方はなにかを焦るように言葉を重ねて続けてきた。
「先輩のその予定が立つまで、オレの……オレが好きな人ができるまで、"練習"に付き合ってもらえませんか!?」
「へ」
鋼からの提案に、ぼくは目を白黒させるばかりだった。
練習? なんの?
(それって……)
鋼の口元をうっかり見てしまい、そして昨夜のことがありありと思い出してしまい、さらにそして練習の意味を理解してしまい、ぼくは大いに真っ赤になった。
「れれれ練習って! そんな、なんでっ……!?」
「せ、先輩もオレも、そんな経験がある方でもないですし、その、昨日来馬先輩が言っていたように、もし相手ができた時に下手をして、きっ、嫌われたくないですから……!」
こんなに必死な鋼は、初めて見たかもしれない。
ひょっとしたら、鋼の好きな人に対しても、今回のような同じようなことをしてしまわないか不安になったのかもしれない。
(同じような……)
他の誰かとあんなキスをする鋼を想像して、胸の奥がチリリと痛んだ。
なぜ? と自分に問うが、その答えはすぐに分からない。それよりまずは目の前で懇願する鋼への答えが先だ。
嫌われたくない、というのは当たり前の感情だ。それこそ、鋼はサイドエフェクトのこともあって、子供の頃は友達だった子たちから敬遠された経験もある。誰かが離れてしまうことへの怯えは人一倍強いのだ。何より鋼は、あまり我儘も言わない。
(鋼は優しい子だもんね……)
何かお願いされる時でもとても申し訳なさそうに言うのだ。その鋼からの、珍しくも押しの強い懇願である。
なら、先輩として、友人として、ぼくにしてあげられることはしてあげたい。
「……うん、分かった」
「えっ!」
「なんでおまえが驚いているの?」
「い、いえ、まさかそんなにすぐ了承してくれると思わなくて……」
びっくりした鋼の顔が少し可笑しくて、思わず笑ってしまう。ぼくの肩を掴んでいる鋼の右手に、自分の左手を重ね、
「おまえからの、数少ないお願いごとだ。ぼくができることなら協力してあげたいから」
いつだって、力になってあげたいと思っている。
「好きな人ができたら、教えてくれよ」
言って、鋼の表情が少し硬くなったのに気づかないふりをした。
(おまえの好きなひとって、どんな人なのかな……)
鋼が好きな人に告白することになったなら、その子の名前を聞くくらいは許されるだろうか。
その瞬間を想像して、また、ちくりとしたものが走る。
「────」
それを無視して、ぼくは鋼に「よろしくね」と笑った。
◆
来馬先輩には、好きなひとがいる。
酔いの覚めた朝になってその事実が、オレを焦らせた。
先輩は告白の予定などまだないとは言っていたが、来馬先輩に告白されて断る人などいるだろうか。いやいない。
「忘れてしまってかまわないから」
先輩はそう言ってくれた。けれど、先輩には好きなひとがいて、もしその人とお付き合いするようになったら、オレとのキスは「なかったこと」にされる。
(……嫌だ)
来馬先輩の迷惑になるようなことなど、したくない。先輩の言うように「なかったこと」にしてしまうのが一番賢明なのだ。
(……でも、嫌だ)
ああ、だめなのだ。
オレはどうしようもなく、欲深く我儘だったらしい。
告白する勇気もなくて、でもあのひとが誰かのものになるのも許せなくて。
「“練習”に付き合ってもらえませんか!?」
愚かなお願いだったと、自覚している。
それでも来馬先輩は、オレの願いを聞いてくれた。
「よろしくね」と優しく、笑ってくれた。
優しいこのひとを騙している苦しさに紛れながら、仄かに宿る独占の欲が小さく悦んだ。
“練習”には一つの条件をつけられた。
「お酒を飲んでから、しよう」
色々と理由はありつつも、一番の理由は素面では流石に……というところだった。
「先輩、今度の金曜日に……飲みませんか」
“練習“のためにはまずお酒を飲む必要があり、つまりはお酒を提案するということは必然的に“練習”したいというメッセージにもなるわけで。
「う、うん、大丈夫……」
少しの照れを滲ませながら頷く先輩に、まだ酔ってもいないのに体が熱くなった。
「鋼は、どんなお酒が好みになった?」
金曜の夜。
来馬先輩の家にとりあえずとビールに酎ハイを何本か持参して行き、先輩が用意してくれた食事(とてもとても嬉しいが、今度はオレも何か作ろうと思った)を食べながら、何を飲むかで話しているところで先の質問を投げられた。
「そうですね。まだそんなに種類は飲んではいませんが、甘いよりは辛い方が好みかもしれません」
「おお、渋いね」
そんなことはないですよと笑いながら、手のビールを傾ける。まだこの苦味には不思議さが伴うが、先輩と一緒に飲む時は味が変わる気がした。
「先輩が最初に飲ませてくれたやつも、とても美味しかったです」
「本当? よかった。ぼくもそんなにお酒に詳しくはないから、できるだけ癖がないやつをと思って選んだんだ」
アルコールで少し赤くなった顔でゆるゆると微笑まれ、胸の奥が嬉しさにまた熱くなる。
「先輩は、どんなお酒が好きなんですか?」
「ぼく? ぼくはワインとか好きだね。でも甘党だからロゼとかをよく飲むなあ」
「ああ、確かに、この間のお店でも果実酒を頼まれてましたね」
「そうだったね。あのお店は本当に美味しかった。その後鋼と家で飲んだときのやつも……」
来馬先輩の声が不意に止まり、訝しんで見れば先輩が視線を落として赤くなっていた。その意味と、さっき先輩が続けようとした話の続きが、これから行う“練習”に繋がることに気づき、オレも同じく視線を落として赤くなる。
(……本当に、今更ながらなんてお願いをしてしまったんだ……)
忘れていたわけではないけれど、改めてこの後のことを示唆されると意識しないわけにはいかなかった。
(いや、そもそも先輩に無理強いをしたいわけでもない……)
自分の我儘で言い出したことだ。自分から言わなければ。
「先輩、あの……このあとですけど」
「う、うんっ」
「今日は、別にしなくてもいいかなと……」
「え」
「その、急いですることでもないですし、先輩に無理をして欲しくないですから」
「っ────」
「だから、このまま」
「鋼っ、ごめんね!」
突然の先輩からの謝罪に、オレは驚きに口を噤んだ。同時に、やはりイヤだったとマイナス思考におよびそうになるが、
「ぼくのことを気遣ってくれて、ありがとう。でも、ぼくはおまえの役に立ちたいと思ってるから……だから、大丈夫だよ」
そう優しく微笑まれて、うっかり泣きそうになる。嬉しさと罪悪感に。
すみませんと謝りそうになるが、でもここで謝っては先輩の気持ちをそれこそ無碍にする言葉だ。一息置いて、オレは来馬先輩に頭を下げ、
「──ありがとうございます」
「うん。……これを食べたら、向こうのソファに移動しようか」
はい、と返事をして、食事を続ける。一口食べていくごとに、皿のものが減っていく。まるでカウントダウンのようだと、胸中でつぶやいた。
◇
皿くらいは洗いたいと言う鋼の申し出に甘えて、彼がお皿を洗っている間にソファのあるローテーブルに、おつまみやお酒を移動させる。