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    oto_882

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    oto_882

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    夜間飛行
    ハロウィンのチケットとタイシンの話です。冒頭にクリークさんも少し出てきます。

    夜間飛行「ハッピーハロウィンです、タイシンちゃん!」

     暦は10月31日、夕刻を過ぎた頃合い。
     寮の自室で、私服に着替え、ベッドに横になってスマホを虚心にいじり回してた時、同室のルームメイトのクリークさんが、元気よくドアを開けて部屋に入ってきた。
    「……ハッピー、ハロウィン、クリークさん。――ご機嫌だね、いつもに増して」
    「うふふ、それはもう、待ちに待ったハロウィンの日ですから」
     彼女は、普段よりも何倍増しかの朗らかさを体一杯に表わすようにして、右手を頬に当てながら微笑んでいた。

     クリークさんは、今年のトレセン学園の、寮合同ハロウィンパーティー実行委員の、衣装担当を任されている。
     ただでさえ世話好きの彼女にとって、今年のハロウィンというものが特別な意味を持っているなんてことは誰が見たって明らかだった。
     この数週間にわたって、忙しなく動き回ってる彼女を幾度となく見てきた――そういえば学園内で、彼女が仮装をしているのを何度か見かけたことがあったけれども、その大胆さというか、なかなかの肌面積の多さに、少し驚かされたものだ。
     ただ、それが品の無さを伴うなんてことも全くなくって、彼女の持ち合わせている雰囲気にそのまま見事にフィットして、寧ろ何かしら優雅さが重ね合わされてるようすら見えたのは、本当に大したものだなと感嘆させられてしまった。それはコスチュームデザインの秀逸さなのか、彼女の持ち前のキャラクター性によるものなのか分からなかったが、まあきっと、その両方に起因してるのだろうと思った。

    「タイシンちゃんは、今までトレーニングだったんですよね。お疲れ様です」
    「クリークさんこそ、今日はもうずっと朝から大忙しでしょ。アタシなんかよりずっと大変だと思うよ……っていうか、今、ここに戻ってきて大丈夫なの?」
    「ええ、夜の部まで少し時間が空きましたし、ちょっと寮の方で済ませる用件もありましたから……ふふ、お気遣いありがとうございます」

     そうして、クリークさんはすとんと腰をベッドに下ろした。

     身体を起こすこともなく、気怠い気持ちを引き摺りながら頭をクリークさんの方に向けて、彼女の顔を見る。
     喜びの感情を発散させて、綺麗な文様の蝶が軽やかに舞って、草花の色鮮やかな花弁に厳かに止まっているようにすら見える彼女に対して。
     蜘蛛の巣に無様に引っかかり身動きの取れない羽虫みたいに、ベッドの上からほとんど微動だにしないこの自分。
     なんだか笑ってしまうほどの好対照がこの一室の両サイドのベッドで形成されているのを俯瞰して見ているようだった。


     合同寮のハロウィンパーティー。
     これは、学園内の生徒全員がイベントに朝から晩まで参加し続けてるというわけでもなく。個々の生徒によって出走予定のレースのスケジュール等々が異なる以上、例えば日中はいつものようにトレーニングのメニューをこなした上で、夜のパーティーにだけ参加するとか、めいめい過ごし方の異なる一日ではあった。

     自分もまあご多分に漏れず――通常の休日通りの走り込みを淡々と行った後。
     こうして、寮に戻って寝転がってたというわけだ。

     ――つまり、今の自分は、クリークさんの視点からは「トレーニングを終えた後、夜の仮装パーティーの時間まで、自室で小休憩してる」状態に見えてるんだろう、と思った。
     少なくとも彼女にとっては、そうであってほしい……いや、きっとそうに決まってるだろう、という確信に近いものがあった筈だ。
     彼女の目を見ればそれはすぐに分かった。
     いや。
     見なくても、分かっていた。彼女がそう思ってるってことくらいは。
     だからこそ。
     この先に起こるであろうことを考えるのは、辛かった。

     この時、自分の脳内をよぎっていたのは。この先に彼女との間で確実に訪れるであろう会話、それにどうやって対処して切り抜けるのが適切なのか――なんていう、ある意味でどこまでも自己保身的で打算的な思考だけだった。
     少なくとも、ハロウィンというイベント事にまつわる楽しさとか心躍らせる気持だとか、そういったものとは全く無縁の感情が去来していた。

     だから、心からハロウィンを楽しんでいるように見えるクリークさんを直視するのは、辛かった。
     喜びに溢れかえってる彼女の気持にドロを投げかけることになる数分後の自分の姿を想像すると、気が重くなるのは避けられなかった。(でも、それすらもとことん自己本位的な心象に過ぎなかった。)

     彼女は、クリークさんは、このナリタタイシンという気難しい神経質なルームメイトの気質というものをとても精緻に把握していて、これこれこんな時にはどう接すれば良いのか、といったことも、どこまでも知り抜いているように見えたし、それは実際にほとんどの場合において、概ね正鵠を射ているものだった。
     これまではずっとそうだった。
     そうやって、とても上手くやってきたのが、この部屋に同居してるこの二人だった。
     もちろん、上手く行くように手を引いて、先導してくれていたのは、自分なんかじゃなくいつもクリークさんの方だったのだけれども。

     でも、今夜は、違った。

     ーー例えば風邪を引いてるとか、レースのことを考えてナーバスになってるとか、まあそれ相応の言い訳の手札も一応用意はしていたけれど――でも、それらはやっぱり放棄することにした。
     彼女の優しさに誠実な態度で向き合うには、そこはハッキリとさせなければならないと思った。

     そして。
     頭の中で何度もシミュレーションしてきたのとほぼ寸分違わない台詞を、クリークさんは言った。

    「ねえ、タイシンちゃん――良ければ、一緒にパーティー会場まで、行きませんか? もうそろそろ、開始の時間が迫っていますし――」

     勝敗の結果をとっくにニュースで見てしまった後で、録画したレースのビデオ映像を視聴するような、そんな感覚が訪れた。
     彼女は、両手の指を重ね合わせて、ほんの僅かに首を傾けて、こちらを見つめている。
     とても穏やかな、柔らかな風が吹いているみたいな笑顔と共に。

     そして、自分も、そんなクリークさんの顔を真っ直ぐにじっと見返しながら。
     あらかじめ決められた、二度と覆らない事項を逆戻しで再生するみたいな調子で。
     こう返事をした。


    「ごめん、クリークさん。アタシはパーティーには行かない。そんな気にはなれないから」


    「――え……?」
    「別にハロウィンが嫌いだとか、そんなわけじゃないよ。ただ、本当に、自分の気持が乗ってくれなくてさ。それだけなんだよ。そもそも、貸衣装の申請すらしてないしね。気を悪くしたらごめん」
    「……」

     クリークさんは、正直ちょっと思ってもみなかった形で回答が返ってきて対応に窮する、といった素振りを瞬間的に見せた。
     自分の返事に、明確な拒絶の意志を感じ取ることができたのだろう、と思った。
     きっとそれは、彼女がこれまで培い信頼を置いてきた経験則を大いに裏切るものでもあったんじゃないかという、ちょっと自意識過剰なことも思ったけれど――まあ、これもそれほど間違った当て推量でもなかっただろう。悲しいことだけれど。

     彼女はこの日が近づくにつれて、それとなくハロウィンの話題を、それとなく自然な流れの中で何度か口にしたりして、此方の様子を(決して不快には思わせないような距離は保ちつつ)窺っているということは、ずっと感じていた。
     気むずかし屋で神経質で、――そして誰よりも臆病な自分にとって、ハロウィンというものが、どう見ても得手とするイベントじゃないってことくらい、彼女が分からないわけはなかっただろうから。

     実行委員の衣装担当である以上、自分が衣装の申請をしてないことにも当然気が付いていたとは思う。そこに一抹の不安を覚えはしていただろうけども。

     それでも、きっと、おそらく。
     きっと何だかんだ言いながらも、タイシンちゃんは当日にでもなればパーティーに参加してくれる筈だ。彼女は、そういう子だって知っているから。その時まで、自分は、彼女をただ待ってあげていれば良い――といった具合の、クリークさんの信頼感によって、両者の間に張られたロープは、均衡を保たれていたのだろうと思う。
     そのロープは、二人の共同作業というよりは、殆どがクリークさんの繊細な指先によってきめ細やかに編み込まれた、とてもしなやかで温かみの溢れたものだったけれども。
     ――その綱をたった今、あえなく解きにかかろうとしてるのが、この自分、ナリタタイシンの粗雑さにまみれきった手先というわけだった。

     自分自身、まあ、この日になるまでハッキリと意志を固めてたわけじゃない。
     10月31日が来てしまえば、ひょっとしたらその気になるかもな、なんて思っていたところがゼロって訳でもなかった。
     衣装を申請しなかった生徒のためにも、当日、ハロウィンの意匠を施した衣装の予備的なものは用意されてると聞いていたし。なんならその場で友人知人と衣装の一部を交換をしたりしても良い。
     別に仮装をしなくたって、ただそのパーティーの雰囲気を楽しむためだけに会場を彷徨いてたってかまやしない。
     いくらだってパーティーを、その人なりに楽しむ術はあるのだから。
     それは自分みたいな偏屈にとっても同じこと。
     だから、衣装申請をしていなくたって、その場の気分で飛び入り参加みたいなノリでだって良い。
     参加さえしてしまえば。きっと、きっと忘れられない大切な思い出になる。

    ――理屈としては、まあそうなんだろう。



     そんな風に、彼女に偽りの期待を抱かせ続けるに至らしめた自分の態度に、すべての責は帰せられるべきだ。
     その結果が、この部屋で今起こってることだったのだから。


     テレビもつけていない部屋の中で、二人の間で言葉が途切れて、ただ沈黙だけが残った。壁に据え付けられてる時計の秒針が刻む音が、まるでサーカスのジャグリングを華麗に披露していた道化師が突然ボールを落っことして、それが床を弾んでいくみたいな乾いた響きをただ鳴らしていた。

    「……でも、タイシンちゃんのお友達の子たちも、――みんな、タイシンちゃんを待っていると思います。きっと、この、パーティーのことを、……」
     クリークさんは、何とか己の内なる気持ちが言葉や表情に溢れ出ないようにと抑制してるような声で、沈黙の中から、こちらに話しかけた。
    「嫌だなと思ったら、すぐに帰っても良いんですから……ちょっと、会場の様子を覗いてみるとか、それだけでも……ダメですか? ――もちろん、タイシンちゃんの気持が1番大事ですけれど……」
     クリークさんは制服の袖を、子供が親の服の裾にしがみつくみたいにして、ぎゅっと握りしめながら、こちらを見つめている。

     それも、分かっていた。チケットとハヤヒデ。
     自分の盟友である二人も、このハロウィンの日を、どんな仮装をしようかなんてあれこれ会話を弾ませながら、待ち望んでいた。

     あの二人は分かってただろうかな、と思った。自分がこういう決断を下すことを。

     この学園で、ハロウィンという年に一度のお祭り騒ぎを、学友と共に過ごすことができるのは、生きてる内でももう数える程しかないだろう。
     そんな大切な、大切な機会を、自分は、自ら進んで放り投げようとしている。

     クリークさんは、決して相手を急かして気を遣わせるような、そんなトーンで物事を誘いかけてくるような人じゃない。殻に閉じこもってる相手が出てきてくれるのをただ待ち続けてくれて――タマゴの殻にヒビの入りかけて、雛が顔を弱々しくおっかなびっくりな調子で、自分の力でちょこんと顔を見せ始めるまで、どこまでも、それを愛おしそうに、待ち続けていてくれる。
     それは、他者を真に慮る心性を持ち合わせていなければ、出来ないようなことであって。自分は彼女のそんな暖かさに、どれだけ救われてきたか分かりはしない。

     きっと。クリークさんは本当に、自分なんかのことを心から信頼して、信じて、見守ってくれていたんだと思う。


     それでも。
     そんなクリークさんの言葉や態度をもってしても、自分の足が、身体が、パーティー会場に赴こうとする意志を獲得することは、ついぞなかった。活力はどこまでも失われたままだった。

     だから、こんな言葉を、クリークさんに向けて放った。

    「うん――でも、本当に良いんだよ。アタシは、パーティーには参加しない。もう、そうやって決めたんだよ。はっきりと。その気持は変わらないんだ」

     そう返事をすると。
     クリークさんの表情が、明確に、その色合いを変えていくのが分かった。

     それは傍目には極めて微細な変化だったかもしれないけれども、ルームメイトとしてそれなりの時間を彼女と共有してきた自分にとっては、その変容の在り方をキャッチするのはあまりにも容易なことだった。
     彼女はいつどんな時でも、どんな相手であっても、その対象を丸ごと優しく包み込んでしまえるような、そんな柔らかなヴェールをいつも身に纏っているような形のコミュニケ-ションを交わすことができる人だったけれども――本当にごく稀に、その滑らかなシルクのような覆いが、幽かな衣擦れの音を立てるみたいにして、取り払われる時があった。まさに、今この瞬間のように。
     その奥に垣間見えるものは、壊れやすい繊細なガラス玉のような、彼女の本来持ち合わせてる精神の核であるかのように思った。その球体が宿してる淡く儚い色彩をそのまま反映させたような瞳で、彼女は、こちらを、ただ黙って見つめていた。

     クリークさんにこんな顔をさせるような言葉を向けた自分の心の中に、悔恨の念が走ったけれども――まるで、それをも察知したかのように、ほんの数秒の後には、彼女は再びいつもの穏やかな笑みを取り戻して、こう言葉を返した。

    「……分かりました。――ごめんなさいね、無理に誘いかけてしまったみたいで」
    「ううん、こっちこそごめん。クリークさんが気に病むことなんて何もないよ。本当だよ」
    「……」

     そして、クリークさんは、少し重くなった羽根を再び動かし始めて浮かび上がるみたいにして、ベッドから立ち上がり、再びパーティー会場に赴く準備を始めた。
     自分は再びスマホの世界に一時戻って。
     そこから、クリークさんが出ていくちょっと前まで、2人の間には何一つ言葉のキャッチボールはなされなかった。

    「じゃあ、ゆっくり休んでいてくださいね。――随分寒くなってきましたし、いつもみたいにお布団を撥ね除けちゃいけませんよ。うふふ」
     まるでさっきまでの出来事がなかったかのように、彼女は本当にいつも通りの和やかな態度のままで、こちらに声をかけ、そして玄関口に向かった。
    「うん、分かってる、ありがとう――いってらっしゃい、クリークさん」
    「はい。いってきます」

     彼女の後ろ姿を、ベッドに横たわって見送る。
     ――最後に。彼女に、伝えておかなければならないことが残っていた。
     本来、こんなタイミングで発するべき言葉じゃなかったのだろうけれども。でも、今しか言うことのできないことでもあった。
     決して世辞や、大袈裟に飾り立てた言葉として言ってるんじゃないってことが伝わりますようにと思いながら、彼女に、声をかける。

    「ねえ、クリークさん」
    「?」
    彼女はにこやかな表情のままで、こちらに振り返る。

    「クリークさんの、ハロウィンの衣装。あのミイラのやつ。最初見た時はちょっと大胆で驚いちゃったりもしたけどさ……でも、凄く、凄く似合ってたよ。ほんとに、とっても、素敵だと思った。――ハロウィンパーティー、楽しんできて」

     一瞬。
     ほんの僅かの時間、部屋の中を、どこからも吹く筈のない風みたいなのが二人の間を通り過ぎて、微動だにしなかった草花を柔らかに揺らしたような、そんな感触が通り過ぎた後。
     クリークさんが、こちらを見つめて。

    「ありがとう、タイシンちゃん」

     とても、優しく、本当に穏やかな笑顔を浮かべて、クリークさんはそう返事をして。こちらに小さく手を振った後――ほとんど音を立てないままにドアを閉めて、彼女は部屋から立ち去っていった。

    たった一人になった部屋。
     いつも以上に、彼女の、クリークさんの普段使ってるベッドが、彼女の生活スペースが、広々と開け放たれて、がらんどうみたいになって寒々しい風を吹き込んでるみたいな気持ちになった。

     ハロウィン。
     年間の季節行事を盛んに執り行うトレセン学園で、このイベントでもパーティーが開催されると知った時。
     その時は、まだ分からなかった。ハロウィンの記憶なんて、己の内側で、腐葉土の中ですっかり朽ち果て眠り続けていて、そんなものを掘り起こさすことなんて考えもしなかったし。
     そいつを引っ張り上げてみたら。案外、内側で腐ってた筈のものが、新鮮な息吹を取り戻す可能性だってあるんじゃないかと、最初は思わないでもなかったんだ。
     
     でも。そんなのは甘すぎる期待だった。
     期待? 一体何を期待してたというんだろう。
     仮装、なんて、進んでやる気にならなかったどころか、パーティーに出ることすらここまで拒否反応が強いなんてのは、まあ、同じ期待を裏切るにしても裏切りすぎにも程があるって気持ちだったが。そこまで、己の希望的観測が過去の怨念の恨みを買ってただなんて、分かりやしなかった。




     自分が、本当に、嫌だったのは、恐れていたのは。
     ――仮装するということ、なにかに成りきるということ、その刹那に発露される自意識が――あまりにも無防備に周囲に曝け出されてしまうということだった。
     変身願望、こうであったら良いな、こうなりたいなという、どこまでも真摯で純粋な気持は、それが純粋過ぎるがゆえに、あまりにも脆くて、傷を付けられやすいものに思えてならなかったからだ。
     そんな「隙」を不特定多数に向かって見せることは、自分が何より厭うことだった。

     そうなってしまえば、仮装、という行為そのものに対する屈託が育まれるのも、自然なこととしか言いようがなかった。





     まだ、幼い頃。こうまでささくれだった自我を獲得するに至ってないくらいに昔の話――まさに、このハロウィンの季節のことだった。
     クラスの皆で仮装の催しをして振り付けを覚えてお歌を歌って保護者の皆さんに見て貰いましょう皆で楽しいハロウィンにしましょうね頑張りましょうね、みたいな――まあそんな年中行事の催しがあったわけだ。まさに今日、トレセン学園でやってるみたいに。

     いつだって思い出されるのは。行事に向けての本格的な事前練習の一環--みたいな、そんな授業の一コマだ。
     教員達が取りそろえたのであろう、子供向けのさまざまなコスチュームが、教室の所狭しと並んでいた光景。

     それはどこかの量販店で購入したハロウィン用の安価な着せ替えグッズで、そこに教員達がほんのわずかなアレンジを施したくらいのものだったのだろうと思う。今にして思えば安っぽい素材、安っぽいディテールに彩られたものでしかなかったそれらは――自分の目には、ちょっとした宝の山に見えた。
     その中でも、もっとも自分の心を惹き付けたのは、魔女の衣装だった。


     幼い頃の自分は、魔女、という存在に魅了されていた。

     魔女といっても、そこで連想されるのは、例えばあのスイープトウショウが憧れてるであろう魔法を使えることだとか、あるいはなんだかおどろおどろしい森の奥の小屋で蠱惑的な煙を巨大な釜から吐きださせている老婆だとか、そんなゴシック的なイメージとはちょっと違っていて。
     自分が好きだったのは、箒に乗った魔女が、満月を携えた闇夜の虚空を、ただ一人で飛んでいく、その視覚的な情景だった。
    そ れは、テレビか雑誌か店先のポップに書かれたイラストか、原点は分からないけれども(きっとそれらが混ぜ合わさった複合体を経由する形で特定のイメージに昇華されたのだろうと思う)、幼い自分の脳裏に、強烈なビジュアルとして焼き付けられている、一つの絶対的な表象だった。
     夜の闇に丸丸と浮かび上がる満月を背景に浮かび上がる、箒にまたがった魔女の孤独なシルエット。
     夜空を滑空する彼女が、一体何を、どんなことを考えているんだろうか。
     彼女はどんな存在なんだろうか。
     それは、幼い自分にとって、己の想像力の未開拓のフィールドを、これでもかとかき立てるのに、あまりにもふさわしいビジョンの一つだった。
     仲間からはぐれ、寂しさと悲しさだけを友達にしながら懸命に飛び続けてるようでもあり。
     たった一人でもどこまでも飛んでいける勇壮さ、高潔さを胸に携えているようでもあり。
     子供の時分には言語化できないような、さまざまな感覚が頭の中を、全身を駆け巡っていくのを覚えて。
     そして、そんな子供めいたイマジネーションが結実して、一つの自身の願望に導き出されていくのは、まあ当然のことと言えた。
     それは、ごくごくシンプルなもので。

    「あんなふうになりたい」ってことだった。

     それが、どんなに安っぽい素材で出来上がった衣装だろうと、構うことはなかった。そんなこと気にも留めやしなかった。

     その魔女の衣装を身に纏うことができるようになった自分は、それはもう喜んだ。今の、屈託さの集合体みたいなナリタタイシンの姿からは信じられない位に、全身で、嬉しさ、幸福感を表現していた、と思う。幸せという気持ちをそのまま吐息にして思いっきり吸っては吐くみたいにして。
     ステッキを右手で高く掲げたまま、くるっと回ってみると、ふわりとフリルが縁取られたスカートが舞って。魔法の風でそれが波立ってるように思えて、まるでいつもの自分と全然違うような軽やかさを覚えた。その軽さだけは、本当に今でも身体の記憶として残り続けてるくらいだ。
     それが、何かに成り代わる、ということを肌身に感じ取った、最初で最後の思い出だった。そうなんだろうと思う。
     どこにでも安価で売られてるみたいなイミテーションのコスチュームは、その瞬間、間違いなく、紛れもなく、本物の、真実の魔女の服装だった。


     そして。
     心からご満悦の体で、喜びを表現してた、そんな時だった。


     どんな声だったかなんて詳細なことまでは覚えてない。
     ともかく、それらは――

     見て、あの子。笑える。
     ひょっとして、似合ってるとか思ってるのかな。
     いっつも暗いカオしてるくせに、調子に乗っちゃってるよ。
     痛いよね。恥ずかしくないのかな。

     ――――まあ、こんな具合の言葉だった。

     そのどれもであったように思うし、どれでもなかったようにも思う。
     具体的な内容までは思い出せない。
     ただ。幼いながらにもはっきりと分かったのは。
     それが、悪意(と言語化できるようなもの)だった、ってことだった。
     ディテールなんてどうでもいいことだ。
     悪意、と分かるだけで、それだけで十分だった。

     その後、教室内のちょっとおかしな雰囲気に気が付いた教師が、そんなこと言っちゃいけません同じクラスメイトでしょ、みたいな感じのことを言って、その場の空気を窘めてくれてたのはおぼろげながらに覚えてるけれども。
     ただ。その時の自分は――悪意を悪意として受け止めるんじゃなく。
    「こんなことを言われてしまった自分が悪かったんだ」という気持ちの方が、遙かに勝っていた。
     恥ずかしい、と思った。
     自分は何かを間違えてしまったんだと。
     やるべきでない行いをした。だからお前はあんなことを言われているんだと。
     そこには、自分を責める、もうひとりの自分というものが、存在していた。
     連中の言葉が、そのまんま、もうひとりの自分に憑依するみたいにして。
     自分の中で、もう一度、自分をどこまでも責め続けていた。

     それは言ってみれば、「自分」というものを発見してしまった瞬間だったわけだ。
     周囲の、加害的な欲求の視線を通して初めて見出された、自我というおぞましい観念だ。

     ――――魔女の衣装を着た時の喜び、嬉しさ、幸せいっぱいな気持ち。
     そんなものは、見せてはいけなかった。
     ひけらかしてはいけないものだった。
     あんなものは、隙あれば他者のハラワタを食い荒らそうとそこいら中で怪物が蠢いてる荒れ地の中で、無防備に腹を見せて仰向けに寝転がるようなものだったんだ。
     そんな程度のことを、今までまったく知らずに生きてきた自分、という存在――それを、上から見下ろすような、もう一つの視点。
     そいつが生まれ落ちてしまったのを感じていた。

     そうなったら、もう。
     そんな風に、無邪気に、無心に――何かになりきりたい、同じような姿を模倣したい――なんて気持ちを 露わにすることは、もう、出来なくなった。


     二度と。 
     絶対に。
     そんなことをしてやるものか、と思った。
     そいつを心に刻み込んだ。
     こんな惨めな気持ち、もう二度と、死ぬまで味わいたくなんてない。
     周りの奴らにも。
     もうひとりの自分にも。
     どんな奴にも、絶対に、バカになんてされたくない。

     だから。
     もう、あんな夜の空を飛ぶ魔女だなんてものは――永遠に、海の底にでも、突き落として沈めてしまえば良い。あの箒ごと。
     二度と、永遠に、空なんて飛ぼうと思わないくらいに、深い深いところまで。
     そもそも。そんなもん、いるわけないんだからさ。
     それで良かったんだ。
     良かったんだよ。




     そうしてからは。
     自分にとって、ハロウィンというものは、どこまでも縁というものがぷっつり途切れた関係となった。

    一人、部屋の中で。
     クリークさんが話してくれた、ハロウィンの準備企画段階で起こったという、さまざまな出来事。その話の中で登場した面々――ライスシャワー、ゼンノロブロイ、ミホノブルボン、といった連中のことを考えていた。
     彼女たちは、どちらかと言えば内側に感情を込めて、それを表現することを不得手とするようなタイプと思われがちなのだろうけど。
     それでも、自分とは比べ物にならない程の、強い心、揺るぎない精神性というものを持っている。
     それだけは、もう疑いようのない事に思えた。
     それは、変身願望、こうなりたいという強い思い――というものを託した仮装をする以前から、既に、彼女達の心に宿っていた強さによるものだったのだろう。
     比べて。自分はどうなんだろう、まったく。
     そうやって仮装をすることすら、選択肢の中から弾き出されている。
     どれだけ強気の態度を気取って見せても、根底にあるのは、つまるところ、恐怖だ。
     彼女達だって、そこに至るまでの逡巡、戸惑い、恐れはあったのだろうけども。それでも--それらに向き合い、対峙することで、前に進んだのだ。それは傍目にどれだけ小さな歩みでも、賞賛されてしかるべきだ。歩む、進む、ということそのものが、どれだけ困難なことか、それくらいは、自分でも分かっているつもりだった。
     前どころか、無限後退を続けているような自分にも。せめて、それくらいは。分かっている。


     クリークさんが、部屋を出ていってから、どれくらいの時間が経っただろうか。
     スマホゲームにも集中できないし、音楽を聴いたりする気にもなれなかった自分は、ただ無為に時間を食い潰していた。
     クリークさんが買ってきてくれた、ハロウィンのカボチャを模したアクリルホルダー。シェルフのフックに引っかけられてるそれを手を突っついてみて、それがゆらゆらと揺れ動いてるのを見つめていた。それは、ハロウィンの日時も忘れて、向かうべき場所も目的も何もかも忘れて、今自分が何をやってるのか、そもそも自分は誰なのか、己の存在意義すら喪失したジャックオランタンが、きいきいと音を軋ませながらブランコにでも乗ってるみたいに見えた。

     テレビを点けようなんて全く思いもせず、ゲームや音楽に集中する気にもなれず。
     ただベッドに横になって、ひたすらに時間が通り過ぎていくのを待っているだけだった。
     まあ、今の自分には似合いの、ハロウィンの過ごし方だっただろう。
     今日という日さえ終わってしまえば、また、日常が始まる。
     そうすれば、こんな自分のことも、少しは忘れてしまえる。
     それまでのことだ、その程度の話なんだ、いつもとそんなに大して変わらない、変わりはしない――――。

     そうやって、だんだんと意識も微睡みかけていった。


     ――そんな、時だった。


     突然、スマホが振動して、着信画面に切り替わった。

     身体をびくりと大きく反応させながら飛び起きた後、画面を見てみると――。

     そこに表示されてたのは、ウイニングチケット、という文字だった。



     それを見た瞬間、自分の頭の中で、物凄い量の思考の情報が乱れ飛び始めた。

     なぜ、どうして、パーティー会場にいるはずのチケットが、自分に電話なんてかけてきたのだろう。
     まさか、まさかとは思うけれども、これから会場に来ないか、なんてことを伝えるためだろうか?
     もしそうだとしても、パーティーが始まって結構な時間は経過してるというのに、どうして今更? 
     クリークさんを通して話は伝わってるだろうし、そういうことなら仕方無いと納得してくれたんだろう、と勝手に思っていたけれども――やはり気が変わって、タイシンにも来て欲しくなったから電話をかけてきたとか、そういうことなんだろうか?

     それとも、ひょっとしてクリークさんが、やはり彼女を誘ってみて欲しい、とでもチケットやハヤヒデに相談とかしたりしたのだろうか、なんて事すら片隅で連想した。
     ――そんなことはきっと有り得ないだろう、と分かっていながらも、だ。
     彼女はそんなことは言わないだろう。
     でも、全く予想外の状況で、有り得ない筈の思考すらも浮かんでは消えていくような、そんな繰り返し作業が脳内で忙しなく行われていた。

     ――チケットが、自発的にそんなことをしてくるようにも、やはり思えなかった。
     クリークさんから自分の様子を伝え聞いてるであろう彼女が、やっぱりパーティーに来た方が楽しいよタイシンおいでよ一緒に仮装しようよ、なんて言ってくるようには、考えられなかった。
     チケットは。彼女はそういう子なんだっていう確信が、自分にはあった。

     だから、なおさらこの電話の真意が全く予測できなかったし、正直、出るのがとても怖かった。
     自分の予想が裏切られるのを想像するのは、とても恐ろしいことだった。
     もちろん、ハロウィンパーティーと全く関係のない内容の電話だっていう可能性も十分にあり得るのだろうが、ハロウィンと完全に無縁の言葉がスピーカーから飛び出してくるようにはどう頑張っても思えなかった。

     ……じゃあ、このまま電話を無視してしまえば良いんじゃないか。部屋でずっと眠っていたから気が付かなかったみたいな言い訳だっていくらでも立つだろう。それで構わないさ。なんてことも思いはしたけれど。

     ――でも、それも出来なかった。
     今、この電話に、自分は絶対に出なければならない。そうしなければ必ず大きな後悔を後に残す――という予兆のようなものが、混沌とした意識を支配していた。それに逆らうことはできなかった。

     そして、スマホの振動以上に震えそうになってる手の揺れ動きを感じながら、電話に出た。声まで震えていませんようにと願いながら。

    「――もしもし」

     そして。
     間髪入れずに、いつもの調子のチケットの声が、スピーカーから耳に放り込まれるようにして返ってきた。

    「あ、タイシン!? 休んでるとこ急に電話しちゃってほんとごめんね、あの、悪いんだけど今すぐ、寮の入り口のところまで来てくれないかな!? ちょっと用があってさ!」

     そうやって、彼女は堰を切ったみたいに一気に捲し立てた。間に入り込む余地を明確に与えない、といった勢いで。
     チケットの声の背後からは、物音は何一つ聞こえなかった。彼女は一体今、どこに居るのだろうと思った。直接パーティー会場から電話をかけてきてるんじゃないってことだけは確かみたいだった。
     寮の入り口? 彼女は、今そこに居るってことなのだろうか? どうして? それとも別の誰かを代理で向かわせたとか、そういうことなんだろうか?
    「……はあ!? いきなり出し抜けに何言ってんの、っていうかアンタ今どこで何して――」
    「お願い、とにかく急いで来て欲しいんだ! ほんとごめんね、部屋着のまんまでも大丈夫だから!」

     そうして、テレビモニターの画面が、電源コードが力任せに引っ張られてぶつんと断ち消えたみたいにして、通話が一方的に打ち切られた。



     正直、呆然とさせられたというか、それまで雑然と散らかってた思考が、一気に直線的な形に引き戻されるように、無理矢理スイッチを切り替えさせられたような気持ちだった。
     ひょっとしたらそれこそが、チケットの狙いだったのかもしれないけれど。
     相手が電話越しにいることを分かって留守番電話のメッセージをたたき込むみたいな勢いですらあった。

     そして、なぜそんなことを彼女がやってきたのかは、依然としてまるで分からないままだった。
     例えばなにか忘れ物をした、とか、何かしらこんな所までわざわざ来た理由はある筈だが、なんせ、何一つディテールが伝わらない通話だったし、要領を得ないなんてものじゃなかった。まったく理に適ってないコミュニケーションだった。


     それでも、だ。
     ――急いで来て欲しい。
     その言葉にこめられた、いわゆる真実味というやつだけは――なぜか、疑いようのないものに思った。一体全体、何に急いでるのかとか、全く真意不明の言葉の切れっ端に過ぎないにもかかわらず。
     その響きには、信頼して良いものなのだと、そこに賭けてみて大丈夫なのだという――心を安心させるような、何かを解き放つような、そんなものがあった。

     とにかく、急いで、来て欲しい。
     彼女が言いたかったのは、本当にただそれだけだったように思えた。

    「――っ……」
     彼女の戦略は――それが戦略と呼べるモノだったとしたらだけど――かなり、成功を収めたのだろうと思った。
     あれこれ考える間もなく。
     とにかく、寮の玄関までまずは行ってみなければ話は始まらない。
     そんな風に思った。思わずにいられなかった。
     そうして、さっきまでベッドの重力に引き摺られるようにして何も出来ないでいた自分は何処へ行ったやら、といった具合で、立ち上がって――上着を羽織って、ドアを開け部屋を出て、玄関口に向かって行った。


     寮の廊下から入り口に向かうまでの間、誰一人としてすれ違う相手はいなかった。
     それどころか、部屋の中に誰かがいるって気配すらも感じられない様に思った。
     全員が全員、パーティに出払っているということも流石にないんじゃないか、とも思ってたけれど。
     今この瞬間、この寮に残ってる学生は、もしかして本当に自分一人だけだったのだろうか、なんてことを改めて考えたりしながら。

     そうやって、入り口に辿り着いた。


     そして。
     そこには、さっきの電話で自分が予想していた通り――。
     ウイニングチケットが、彼女が、一人で立っていた。

     彼女はこちらに気が付くと、身体ぜんぶを使って喜びを表現するかのように大きく笑って、こちらに手を振った。

     彼女は、制服姿だった。
     建物の屋根の一部が、彼女の立ち姿の左半分に影を落としている。チケットの髪がその中に混ぜ合わさってるようにすら見えるくらいの暗さだった。そして右半身は、月光の微かな光に照らされている。

     光と影の明暗が作り出す淡いコントラストの中で、彼女は、たった一人で、立ちすくんでいた。
     見える範囲では、その周囲には、彼女以外、誰一人としていなくて、物陰が動く様子も見当たらなかった。

     それを見た瞬間――。
     本当に一人で寮までわざわざ来てたのかとか、なんで着替えてるんだとか、本来当たり前のように湧いて出てくる筈の疑問符の数々――それらは、まったく優先されなかった。
     それらとは、全くと言って良いほど、別次元の感情が存在していた。


     ハロウィンという特別の日の真っ只中で、いつもと全く変わらない制服を身に纏って、いつも毎日変わらず過ごしてる寮の入り口で、ただ突っ立ってるだけ。
     本当に、ただそれだけの、いつものウイニングチケットという少女の姿。
     日もすっかり暮れた薄闇の中、夜空に浮かび上がり始めた柔らかな月の光を半身に浴びながら、そこに立っている彼女。

     本当に不思議としか言いようが無いことだったけれど。
     その情景そのものが、今の自分にとって、すでに、あまりにも、非現実的だった。

     ハロウィンというものが、いわゆるハレとケといったような二元的な世界観の、普段は覆い隠された片側を覗かせる形で成り立つものだとしたら。
     今の彼女の姿は。
     間違いなく、その片側に属する存在、そのものだった。

     こんな思考が、己の中でどんな過程を経て生成されたのか、まったく訳が分からなかった。
     だって、あまりにも日常的過ぎる光景そのものなのに。
     どうして、こんなに、彼女があまりにも違う存在みたいに見えるんだろうか。
     自分自身の感性がねじ切れてしまったのかと思った。

     どのくらいの時間、彼女の方をただ何も言葉を発さず観ていたのか、自分でも分からなかったから――とにかく平静を必死で努めるような格好で、本来問うべきことを、矢継ぎ早に、彼女に話しかけた。

    「え? 何、アンタ、なんでここにいるの――なんで制服に着替えてんの? 仮装パーティーは? っていうか、急ぎの用事って何なの?」

    「あ、えっとね、――ごめん! 実は、用っていうかね――ただ、タイシンに、会いたいなって思ったってだけなんだ! 本当にごめんね!」

     そう言いながらも、彼女は、まるで悪びれもしないような晴れやかなカオそのもので、こちらに笑いかけてきた。
     いや、正確には、有無を言わさず呼びつけるような格好になったこと自体はそれなりに気にしてるような素振りはあったけれど――ただ、それでも、自分にただ会いたかったという気持ちの発露そのものに迷いなんてひとかけらもない、という確信性に満ち満ちている、そんな声と表情をしていた。

    「は……はああー!? それで、そんなことで、呼び出したの――っていうか仮装パーティーどうしたの!? 何で制服着てんの!? アンタ、確か、――」
     頭の中の考えがてんでバラバラに散らばって一つにまとまらないまま、さっきと同じ繰り返しでしかない質問を、やや乱暴気味にチケットに投げかける。
    「あ、うん、パーティーはね――抜け出してきちゃった!」
    「……抜け、出し、って」
    「うわー、夜になってくるとやっぱり外は冷えるねえ! タイシン大丈夫、寒くない? あ、そのジャケット、あったかそうだねえ!」
    「……」
     こっちが心から動揺してるのがバカバカしくなってくるぐらいに、まるで普段の日常会話の延長みたいな調子で向こうは元気に喋りかけてくる。
     そして、本当に寒そうにしながら両方の掌を擦り合わせていたチケットは、唐突に(としか思えないような具合で)こんなことを口にした。

    「そうだっ、タイシン、走ろう!」
    「――――え……?」
    「ねっ、こうやってここで立ち話してるのもなんだし――一緒に走ってたら身体ももっとあったまってくるだろうしさ!」
    「えっ、は、走るって、――」

     そして、間髪入れずといった勢いで、こちらの手を掴んだ。
     彼女の、ついさっきまで擦り合わせてたばかりの掌の温度は、とても、暖かった。

     そして。そのまま。

     彼女は、走り出した。

     まさか、本当にこんな時に、こんな所で、走り出すだなんて思わなかったから。そんな心と身体の用意も準備も全くできてないままで、瞬時、体勢を崩しそうになるかと思ったけれども、――不思議とチケットが地面を蹴り出す勢いと足並みと、そのリズムとに、調和を合わせるように、――まるでピアノの連弾の即興演奏を始めるみたいにして――とても、自然に、自分の両足は動いていた。

     そして。
     すれ違う相手もほとんど見かけないような、夜の闇に染まり始めた道筋を――チケットと自分は、揃って、走り始めていた。


    ついさっきまでベッドで惰眠をむさぼり始めてた自分が、ほんの数分後、こうして部屋着にジャケットを羽織っただけの状態で、彼女と走っている。
     なんだか現実と非現実のシーソーの均衡がぐらぐらになってるみたいで、身体もその揺れ動きに歩調を合わせるみたいな格好で、ただ、足を動かし続けていた。
     軽いジョギング程度のスピードなのは勿論だったけど――。それは、明らかに日常生活の規則性からは大幅にコースアウトした感覚だった。
     夢遊病、ってのは、ひょっとしてこういうものなんだろうか。
     未だに、部屋で寝転んでた自分と、こうして走ってる自分とが、そのまま鏡合わせに重なってるようで、地に足が着いている、って気分がまるでしなかった。
     そんな中で、別次元みたいに呑気な声で隣の奴が話しかけてくる。
    「あははっ、制服着てローファーで地面を走るってのもなんか面白いよねえ! だいぶ身体も温まってきたなー!」
    「――……」
     自分はそれにほとんどまともな相槌も打たないくらいだったけど、チケットは、走ってる最中、あれやこれやと取り留めの無いことを延々と喋り続けていた。
     ……それでも、彼女は、ハロウィンやパーティーのことは、一言も口にしなかった。
     それは、傍から見れば、タイシンを気遣って配慮してるのだろう、とか、そうやって感じさせるものだったかもしれない。
     勿論彼女の心の中なんて読めやしないから、そう考えながら走ってる可能性だって大いにあり得るのだろうが――。

     それでも、なぜか、そんな気を遣われてるような申し訳なさみたいなのは、浮かんでこなかった。

     時折、チケットという存在が、一体どんな価値観や行動基準や美意識の元で、その身体を動かしめているのかが、分からなくなってしまう時はあったのだけれども。
     でも、それは、分からないことへの不安や恐怖、怯えをもたらすものでは全くなかった。

     そうしたいから、そうしてる。
     ただそれだけ。

     彼女の言葉は、そのまま彼女の感情とシームレスに一直線で繋がってるように聞こえてならなかった。
     それは、こんなかなり特殊過ぎる状況下でも、変わらないように思えた。


     そうやって走っているうちに――自分達はいつのまにか、トレセン学園の門にまで、辿り着いてしまっていた。


     校門前には、夜勤の守衛が立っていて、此方を見かけると、軽く頭を下げた。それに合わせて、チケットと自分も会釈を返して、そのまんま何事もなく、門の中に入っていく。
     きっとパーティーに遅れて慌ててやってきた学生二人組くらいに見えてるのかもしれないな、と思った。
     もしそうなら、それは、まあ、違っているのだけども――じゃあ一体ぜんたい、自分達はどこに向かおうとしているっていうのか。そんなことすら全く分からないままに、ただ身体を動かしているだけだった。
     少なくとも、自分は。
     ひょっとしたらそれはチケットも同じなのかも知れないな、と、漠然とではあるけれど、感じていた。
    「あ、トレセンまで来ちゃったね……よーし、じゃあ折角だし、練習場んとこまで行っちゃおうか!」
    「――……」
     まあ、こんなことを言い出すだろうとはなんとなく思っていた。
     このまま寮までとんぼ返りするような気配は、チケットの走りからは全く感じ取れなかったから。
     無言という形で賛同の消極的意志を表明して。そのまま、練習場のトラックに足を向けて走って行った。


     普段なら、こんな時間のトラックでの夜間練習は特別な許可申請でもしなきゃ出来ない筈だし、監視の目がそこいらに行き届いてる筈だったが――。
     やはり、今日という日は、特別なんだろう。ほとんど人気はしておらず、普段と全く差異もないくらいのまま、二人して練習場に足を踏み入れていった。

     そして、普段走り慣れてる芝のコースを、横に並んで、夜風に吹かれながら、走り始めた。

     もちろん、寮からここに来るまで走ってきたのと同じような、ほとんど流す程度の走行だったけれども。

     今のチケットに、規則違反をやらかしてるという意識がどれだけ働いてるのか、横目で見た感じではさっぱり分からなかった。そういう規則に準じることに関しては敏感な所もあるはずだと思っていたが、そんな後ろめたさを抱えながら走ってるようにはどうにも思えない。
     きっと、彼女の深層に潜っていけば、その手の感情もピックアップすることは出来たのだろうが、今のチケットは、ひたすらその海面上に浮かび上がってる己の意志、信念みたいな何かに従うような、物凄く、シンプルな、鋭利に尖った細身の槍みたいな行動原理をまっすぐに突き進めるみたいにして、身体を動かしてるように見えた。
     いったいそこにどんな意味が宿ってるのかは未だに分からないーーでも、そのベクトルの力強さだけは、もう疑いようもないものだった。

     そんな彼女を見てて。
     一つの、考えーーというか、ほんのちょっと前の出来事、それが脳裏を反芻するようになってきていた。
     はぐらかしていたことへの悔恨の念。そんなものを、今ここで、清算すべきというような--まあ都合が良いと言えば都合が良いだけだけれども--そういった気持ちだった。
     それは本来はハヤヒデもいる場所で行われるべきものであったし。いつか、彼女にも話さなければならない、と思いながらーーチケットに向かって、ある言葉を発した。
     もう、何年も口から出るはずもなかった、封印が施された筈の、セピアに色褪せた、古ぼけた単語だった。

    「――魔女」
    「……? え、何、何て言ったの、タイシン……?」
    「ほら、大分前、ハヤヒデとアンタと、3人で話してたことがあったでしょ。ハロウィンの仮装するんなら、何にしたいかって。もし、着るようなことがあるんなら――アタシはあれが良いかもなって、そう、思ってたんだ。内心では」
    「あ、ああ! まじょ、魔女かあ」
    「そう。ハロウィンの仮装の定番中の定番、箒に乗って空飛ぶような、ああいうやつ。――昔、憧れてたんだよ。割と、本気で」
    「――……」
    「ま、今年は、着ることはなかったけどね」

     そこで、糸電話の糸をこちらからぷっつりハサミで切るみたいにして、会話を終わらせた。
     言いたい事だけを言って。それで、また、貝の蓋を閉じたように、何も言葉を発しないまま、走り続けた。
     チケットも、自分の言葉に、何も返事を寄越すことはなかった。
     今年は、か。自分で言っておきながら、何だか無駄な、未練がましさを感じさせるような響きに聞こえてなければ良いけどな、と、後になって少し思った。
     だって、これから未来永劫、そんなものを着るような機会は訪れないだろうと分かっていたから。
     ただまあ。こうやって夜のトラックを一緒に走ってくれてる彼女に対する、最低限の礼儀――礼儀っていうのもおかしな言葉だが、まあそいつを返すことは出来たようには思って、ほんの数ミリグラムは足取りが軽くなったように感じた。酷く自己満足的なものに過ぎないとしても。

     そんなことを考えながら、漫然と走っていた時。

     ふいに、視野の右側に、さあっと舞台の幕が取り払われたみたいにして、景色が広がった。
     ――自分の右隣を寮からずっとここまで併走し続けてきたチケットが、突然、足を止め、視界から消えたのだと分かった。
     それに気が付いた数ミリ秒後には、自分も少し前方につんのめるみたいにして急停止をかけた。そして、後ろにいる彼女の方に慌てて振り返った。

    「? ど、どうしたの、なんで急に立ち止まってんの……?」
    「え? あ、いや、魔女…ホウキに乗っかってる魔女か、って……」
    「……?」

     いつものように、特定の文脈なんてまるで存在してないかのような突拍子無さ過ぎる言葉を発して、何かを考えてるみたいにして俯いてるチケットを呆れ顔で――というよりも、正直、不安な気持ちで見つめた。
     何か、自分は、マズいことを言ってしまったのだろうか、と思った。
     ずっとハロウィンのことを頑ななまでに口にしてこなかったチケットの前で、こんな魔女がどうこうだなんて言うべきじゃなかったんだろうか。
     だって、彼女だって、ハロウィンパーティーを楽しんでたに決まっているんだから。
     それと直結するようなことを、自分から言い出してしまった。
     どんな思いでそれを抜け出して、自分の所に来たのかなんて、それはどれだけ想像しても、当人にしか分からないことなのに。
     何かしらコミュニケーションに「失敗」してしまったのかも知れないという感情が、胃の奥から徐々に喉元辺りにまでせり上がってきてた。
     ――あのさ、チケット、何か気に障るようなこと言っちゃったなら、アタシ、その――。
     そんな気持ちがもうじき言語に変換されて口から飛び出そうになってた、その直前。

     チケットが、此方に背を向けた状態で腰をかがめて。
     そして、前傾姿勢になった。

     ――えっ? 何やってるんだこいつ?
     あまりにも予想の範囲外過ぎる行動で、ほんの数秒前までの不穏な感情は、一瞬で火星にでも吹っ飛ばされた気分になっていた。
     そして、その態勢のまま顔だけ此方に向けて、チケットは更にこう言った。
    「ほら、タイシン! アタシの首んとこ、またがってよ!」
    「――――」

     これは、今日という日に次々と繰り出されるウイニングチケット手製の暗号――おそらくハヤヒデですら解読困難な代物――の中でも、とびきり難解なやつだった。
     何を考えているんだか、本当に、分からない。こんなもの、自分の思考回路で解けるわけがない。
     そんな自分を脇目にして、彼女は元気よく声をかけてくる。
    「肩車だよ、肩車! あんま乗り心地良くないかもだけど、がんばって走ってみせるから!」

     肩車?
     何で?
     どうしてハロウィンの夜に校舎のトラックで肩車なんてしなきゃいけないんだアタシ達は? 
     「頑張って走る」って何なんだよ?
     訳が分からないにも程があるだろ?

     本来なら、何バカバカしいことやってるんだかまったく――と一蹴して終わるような話なのに。
     クリークさんの誘いを断ってまでしてハロウィンパーティーをすっぽかして鬱々とふさぎ込んでた状態から、突然寮の玄関口から学園までチケットと走り込んで、そのままトラックを周回して――という、あまりに異様なシチュエーションが絶え間なく続いていたものだから。
     彼女の理解不能過ぎる申し出を、そのまま、受け入れるしかないような気持ちになっていた。もうここはとっくに日常の世界じゃないのだからって具合で。
     そして、もう催眠術にでもかけられてるような気分のままに、ふらふらと彼女のところまで行き、その首元にまたがった。……本当に、またがってしまった。
    「こ、これで…いいの? いったい、何考えて……」
    「よっし、じゃあちゃんと掴まっててね! あ、耳のとこはぎゅっとされると痛いから、できれば優しくしてくれると嬉しいかも……!」

     そう言って。
     彼女は、両腕で、自分の足首辺りを力強くがしっと掴んだ。
     かなりの力で、しっかりと握りしめられてる感触はあったものの。
     その指の先端に至るまで、チケットの存在というものが余さず感じ取れるかのようで。――そして、とても滑らかなシーツにでもくるまれてるような感覚すらそこに覚えた。

     そして。そんな態勢のままで、チケットは勢いよく立ち上がった。

    「う……わっ」
     想像してた以上に元気よくチケットが膝を伸ばして立ったものだから、振り落とされるんじゃないかと思うくらい身体が揺らいだけれども、流石に落ちたりすることはなかった。

     肩車されるなんて、そもそも人生で片手で数えるくらいしかないような事だし――大体、こんな年になればなおのことだから、最初は態勢を維持するのにかなり意識を集中した。
     そもそも、耳を強く掴むなって言うけど、これ、どこを掴んでれば良いんだっけ?
    「あっ、ごめんね! もっとゆっくり立ち上がれば良かったかも……でも、これからもっと激しい揺れになるかもだから、ちゃんと掴まっててね、タイシン!」
    「え、えっ、これからって、どういう――」
    「よーし、行くよーーーー!!」


     そして、この態勢のままで――チケットは、再び、走り出したのだ。


     それは、ここまで走ってきたような、軽く流す、なんてものでは全くなかった。
     もちろん自分を背負ってる状態だし、彼女の靴は競技用シューズとはまるで違うローファーのまんまだしで、通常のトレーニングの全力の走り込みのような速力とまではもちろんいかなかったものの――。
     チケットが、かなりの本気で地面を強く蹴り上げながら走り出した、ということはすぐ分かった。
     ――「分かる」とか以前の問題だ。
     彼女にまたがる格好になってることによって、チケットが地面を蹴る衝撃や上半身の動きの躍動感、風を切る感触がそのままダイレクトに全身に伝わってくる。
     いや、伝わるなんてものですらなく。まるでこの自分の身体が、チケットの肉体の延長線上に位置してるような感覚にすらなって――チケットが全身を稼働させることで獲得してるそのスピードを、まるで自分自身のモノとして体感してるみたいだった。
     自分の意志とかけ離れた形で、ここまでの勢いで自分の身体が直に加速していく感覚を得るだなんて、まるで未知の領域といって良かった。電車や自動車に乗ってる時の感覚ともまるで違う。あまりにも、それは、肉体性と有機的に直結し過ぎていた。
     最初のうちは、もう何がなにやら、なんにも分からないままで。最初に感情として知覚したのは、恐怖、だった。
     理屈を越えたものに対する、純粋な恐れだった。
     だから、思わず、チケットの耳を――1番掴みやすい場所にあるそれを、割と強い力で握りしめてしまった。
     凄まじく硬質なこのスピード感とはまるで別世界に所属してるみたいな、ふにゃふにゃとした柔らかさが突然両の掌に伝わり。
    「あ、いたっ、いたたたーー!! た、タイシン、お願いっ、もうちょっとやさしく……!!」
    「え、あっ、ごめん……!」
     チケットが本当に痛そうな声を大きく上げたので、手の力を緩める。それに伴って、こちらの意識がバウンスして、恐怖の感情が少し形を変えたように思った。

     ――あれ? 考えてみたら、何一つ説明無しに肩車とかされて突然走り出すなんてめちゃくちゃなことをやらされてるのに、なんでアタシがごめんとか謝ってんだっけ? 

     そうふと我に返るような気分になって。
     依然としてチケットの走る速度は落ちてないものの、その上に乗っかってる自分も、少し、周囲の状況というものをぐるっと見渡すことができるようになってきた。

     当然のこと、トラックには人っ子一人おらず、遠くの彼方にまで続いてる校舎までの間を見ても、人影は見当たらない。普段ならこの時間でももう少し生徒がうろついてても良さそうなものだが、やはり今日は特殊な一日ということなんだろう。やはり校内の見回りの人員なんかも普段より確実に少なくなってるような感じがした。
     だから、目に映る範囲には、自分と、真下で駆け回ってるチケットの二人しかいない、ってことになる。
     それ以外は、ひたすらの真っ暗闇だった。
     トラックを僅かに照らし出してる夜間照明と、遠方で光を放ってる校舎の窓越しに見える灯りが、目立って視界に入ってくるくらいだった。
     普段走り慣れてる目線とは明らかに異なった位置で、周りの風景が高速で後方に流れていく。
     それは勿論肩車されてるからであって、前へ突き進んでるのはチケットががむしゃらに走りまくってるからな訳だが。そのことを、なぜかふと、意識の外へ追いやられるような気持ちになった。
     一体、今、誰が、誰と、走っているのか。
     そんな認識すらもなんだかプリズム状に散らばっていくみたいで。 
     
     そして。
     この態勢での、これだけの速度にも、身体のリズムというものが慣れてきてしまったのか。
     さっき掴んだチケットの耳みたいになんだかふわふわと柔らかな気持ちが、この振動の中にもかかわらず、頭の中に少しずつ広がってくるようで。
     それは、まるで己の肉体が、チケットの身体ごと一緒に宙を舞ってるような、そういう浮遊感を与えて――――。


     浮遊、感?


     え、それって――。

     そこで。
     急速に。
     意識の海を一直線に、表面から深層まで垂直にダイブして。
     遙か昔にうち捨てられ海底に沈んでたサビだらけのイメージのひとかけらを、そいつを、フックにひっかけてサルベージしようとしてるような。
     そんな感覚に襲われた。
     それは、凄まじいスピードで――まさに今のチケットの速度くらいの勢いで水底から引っ張り上げられ海面まで上昇して。

     そして。
     それが、海の上に打ち上げられて。

     この暗闇の中、ほんの僅かにほの見える明かり、そしてその中を肩車で突き進んでいく二人、という情景の中で、水しぶきが上がる中、そのイメージってやつがトラックの照明や校舎の明かりに乱反射してーー。

     そこで、はっきりと、分かった。

     チケットが、一体何をやろうとしてるのかってことが。
     自分たちが、何をやっているのかってことが。

     そうだ――ここは、違う。いつもと同じ地面の高さじゃない。

     日常から非日常への移行。変身。
     ――仮装。
     そういう、ことだった、わけだ。

     そりゃあ、チケットは自分より10数センチ上背があるとはいえ――学園の高等部の生徒の中ではそれほどの高身長というわけでもなくて。
     肩車されたからって、とてつもなく極端に視界が上昇する、って程とは言えないかもしれないが。

     そういうことじゃなかった。
     
     普段走り慣れてる視点が変わる、ってこと。そのもの。
     
     ここは、地面を遙か彼方に置き去りにした、ずっとずっと雲の上の向こうの、夜の空の只中だったんだ、ってこと。
     彼方に見える校舎の電灯は、夜闇を照らす星々の光で。
     その中を、チケットと自分は。

     飛んでいる、ってことが――ようやく、分かった。


     己を俯瞰しようとする意識の中では、おいおい頭がどうかしてしまったんじゃないかお前はって囁きかけてくる声も聞こえてはくるけれど。
     今となっては、そんなのは小さな虫の羽音くらいのものでしかなかった。

     今の自分は、チケットというホウキに乗っかっている。
     魔女、そのものだった、ってことだ。
     自己認識が、意識の上澄みの隙間に滑り込むようにして。
     その装いってやつを新たにしていくのが、分かったってわけだ。

     そして、彼女の頭を、柔らかな髪の毛を指に滑り込ませるようにしながら、しっかりと支えるようにして掴むと。
     チケットも、それに呼応するようにして、更に力強く足を前に動かして。
     
     それで--夜空を飛行する感覚が、全身の毛細血管の末端に至るまで行き渡って、細胞片を悉く入れ替えていくみたいになって。

     ふと、視点を下に移してみる。
     トラックに植え付けられた芝が、かなりの速度で動いていて。地面から自分の居るところまでは数メートルしか隔てられいないに決まっているのだけど――まるで、上空何千メートルもの高度から、眼下の光景を見下ろしているみたいな気持ちにすらなった。
     チケットの身体から発散された汗が、星々の明かりを透過しながら、見えなくなるくらいまでにずっと遠く離れた地表に向けて落ちていくように思えた。

     真下のチケットが、大声で真上に叫ぶ。
    「ねえ、タイシン!! 楽しいねーーすっごく楽しいねえ、ほんっと最高だよーー!!」
     それに自分も大声で真下に叫び返す。
    「うん――うん、そうだね!! 楽しい――バカみたいに楽しいよ!! ああもう、このバカ!!」
    「あっ、バカって言われちゃった、あははー!! なんかさ、いつも走ってるのとなんか全然違うよねこれ!! いつものも勿論すっごい楽しいけど、――今は、なんかふわっふわしてるっていうか!!」

     とても、とても不思議だった。
     そうだ、これが、これこそ、自分がずっと子供の頃から思い描いてきたイメージの。――あの、孤独に空を飛び続けてる魔女、そのものだって、確信があったのに。
     それなのに。
     ――凄く、凄く面白くて、愉快で、爽快で、胸が躍るようで。
     ――もう笑わずにいられないくらいに、楽しかった。
     本当に、楽しかったんだ。
     楽しい?
     楽しい、だなんて。ははっ。
     そいつは、自分があの時に魔女のイメージが象徴してると思ってたものとあまりに食い違ってる。
     それなのに。
     今の自分は、あの時の魔女のビジョンそのものだなんていう、絶対的な確信があった。
     昔の自分の認識が間違ってたのか。
     過去に遡って因果の順序が逆転してしまったのか。
     分からない。なんにも分からないけど、ただ、楽しい。それだけなんだ。

    「ねえタイシン、こーいうの、二人旅、って感じで楽しいねー!! そっか、タイシンの好きって言ってた魔女さん達って、こんな風にして飛んでたのかな!?」

     またチケットが、とても、不思議なことを言った。
     二人?
     何のことを、誰のことを言ってるのだろう?

    「え? ふたり、って、どういう」
    「え、だってさ、ほら、こーいう魔女のホウキって、たいてい言葉を話したりするでしょ? あれ、しないお話もあったっけ? ――えっと、とにかくさ、きっと魔女の子とこうやってわいわいおしゃべりしあったりしながら、飛んだりしてるんじゃないかなーって!」

     魔女の箒が、意志を持って、魔女に話しかける。
     ――息を弾ませながらチケットがこんなことを言い出すまで、今まで一度たりとも、考えたことすらもなかった。あの子供の頃から。
     あの自分の中で一つの像を結び続けてる魔女は、どこまでも孤独で、どこまでも一人のままで、暗闇の中を飛び続けてるんだと思っていた。
     でも、そうじゃなかったのだろうか。
     彼女は、魔女は。
     孤独なんかではなくて――。


    「タイシン、タイシーーン! 今度、凄いの行くからね!! しっかり、掴まっててねーー!!」
     そんなことを考えてると。チケットが大声を出して、更にスピードを速めるのが分かって。
     自分も、もうこいつに、ホウキの奴の意志に全てを任せ、託すみたいにして。
     彼女に、しっかりと、しがみついた。

     それから、チケットは、芝コースのコーナーを加速しながら曲がっていって。
     そして、その勢いで、思い切り、真上に飛んだ。
     そうだ、飛んだんだ、チケットは。
     自分を肩の上に乗っけながら、だよ。
     垂直に身体を浮き上がらせながら、その上、フィギュアスケートみたいに、身体を回転させる、なんてことまでやってのけた。
     ――そのときの感覚。
     空を飛びながら、更にその上空、どこまでも高いところへ。
     周囲の景色――星空がパノラマみたいに360度ぐるっと広がって。
     それが、世界ぜんぶを覆い尽くすみたいに思った。 
     どこまでも果ての無いまでに星々を輝かせながら。

     浮遊に次ぐ浮遊。
     もう平衡感覚なんてものは溶けて泡にでもなってしまっていた。
     
     それは、そのまま。
     過去の自分、自分を見下ろしてたもう一人の自分さえもーー遙か星空の彼方へ飛ばしてくれるような。
     そんな気持ちだった。



     そして、着地。
     このときの衝撃は、ちょっと普通じゃなかった。
     この場合の、普通、ってのが、一体なにを基準にしてるのかって問題でもあるが。
     体幹に優れたチケットも、こんな無茶に次ぐ無茶をやらかして、何事もなく無事――ってわけにはいかなかったようだ。 
    「うわっ、と、とと……っ!!」
     地面に足を激しく落として、その反動で、今までの比じゃないくらいに上半身が著しくバランスを崩したのが分かった。舌を噛まないでいられたのが幸運だったくらいかもしれない。
     ヤバい、と思った。
     こんな態勢のままで、この速度ですっ転ばれるのは、流石に危険なんてもんじゃない。
     流石にチケットもスピードを落とし始めた、落とし始めざるを得なかったが、未だにふらふらと危なっかしい格好のままで、急停止ってわけにはいかなかった。
     瞬間的に「現実」まで自己認識のシフトレバーが引き下げられて、取るべき行動を、脳が信号を送るまでもなく身体が勝手に自立的に取ったみたいにして。
    「――っ……!!」
     もうほとんど反射的に、チケットの身体から飛び降りた。
    「わ、わーーっ……!!」
     肩越しの重力が一気に消し飛んだチケットは、更に重心の均衡を崩したみたいで、大きく身体をよろめかせる。
    「た、タイシン、ーーっ!!」
    「……!」
     そうして。
     お互いがお互いをかばい合うようにして。
     ダンスでも踊るみたいにして。
     二人はもつれ合いながら、地面に軟着陸した。
     まあ、すっころんだ、と言い変えても良いけども。

     その拍子に。
     チケットの履いてたローファーも、勢いよくすっぽ抜けて、宙を舞った。
     それはスローモーションみたいに、ゆっくりと自分の視界を通り過ぎていって。
     そして、頭上で光を照らしてる月に重なって、ひとつの影の形を作り出した。
     そのままどこまでも飛んでいくような、美しい放物線を描くみたいにして。 
     彼女のローファーは、月をさっと横切っていった。
     

     それが、とさっと地面に落ちる音が聞こえた後でも。
     思わぬアクシデントで地上に降り立ってしまった凸凹コンビの魔女とホウキの代わりに、まだあの靴が夜の空を飛び続けてるような気持ちがしていて。
     地面に仰向けに寝転んだまま、ずっと月を見上げていた。
     そして、同じように真横で寝転んでるチケットも、真上をずっと見つめていた。

     それから。
     チケットはむくりと上半身を起こして――こちらを見て。

    「あ、あっ――た、タイシン、だいじょうぶ!? どっか、怪我とかしてない、痛いところとかないーー!?」
     そんな素っ頓狂な大声を出した。
     あんなメチャクチャなことをやっておいて。今更、何言ってるんだと心底思ったが、でも、チケットが本気の本気で心配しているのは、もう、すぐにでも分かる。
     そうやって合理的に行動と言語が繋がらないようでいて、繋がってるのがこの子なんだって、そんなの分かっているから。
     だから。
     ――大丈夫に決まってるだろバカ、あんたこそ大丈夫、と返事をした。口角を上げながら。
     ――えへへ良かった、うん、アタシも大丈夫! そうやって、彼女も笑顔で返した。





     ――遠くの方で、人の声が聞こえてくる。
     どうやらこのトラックで、好き放題に大声出して駆け回ってたのが、流石にどこかの誰かに感付かれたらしい。
     まあ、いくらハロウィンだろうと、規則違反は規則違反。
     隣に転がってる奴と一緒に、しっかり絞られる覚悟くらいはできてた。
     もうそんなことくらいは代償として軽いものだ。


     ――目を凝らしてみると。
     こっちに向かってくる生徒達の中に、夜闇の中でも真っ白く浮かび上がってるような、ミイラを模した衣装を着ている人影がいるのが分かる。

     ――彼女には、もうハロウィンのことで言うべきことは言い尽くしたと思ってたけれど。
     もう少し、伝え足りないことが出来てしまっていた。

     彼女に向かって、手を振る。
     端から見たら、勝手に夜間にトラックを走ってたような奴が、一体何をバカみたいに手を振ってやがるんだ、といった所なのだろうけど。そうせずにはいられなかったから。
     彼女の表情は、こちらからはほとんど見えるような、見えないような、といった具合で闇の中に溶けかけている。

     それでも。

     そこからは、なにか、柔らかなものが放たれている気がしていた。
     それは、管制塔の暖かな灯りのように、自分達を、照らしてくれてるようで。
     ――そんなことを思いながら、手を振り続けた。

     そうしていると。
     ふと、隣の子と、目と目が合って。

     そして――互いに笑い合った。

     ハロウィンの月が照らす光の下で。
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