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    oto_882

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    oto_882

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    チケットとタイシンが一緒にショッピングモールのフラワーショップに立ち寄ったり、タイシンがチケットによく似た黒猫と戯れてるのをチケットが目撃してしまったり…みたいな感じのチケタイ話です。

    黄昏に、君に咲く花「ね、タイシン。あのさ、はなことば――ってあるよね」
    「あるね。それが何」
    「あれってさ。お花さんが、自分で考えたわけじゃないんだよね?」

    「は、――っ、――……」
    「あれ? たいしんどしたの、ハシビロコウさんのまねっこ?」
    「――アタシは、アンタのバカさ加減を見誤ってた。まさか、まさかさ、アンタの脳みそがそこまで……」
    「え、えっ? ――いやいやっ、さすがにそんなことは分かってるよぉーっ!! そ、そーゆう意味じゃなくって……!」
    「……」
    「ホントか? みたいな目で見ないでえぇぇ~~! ――え、えっと、つまりさ、アタシが言いたいのは、どこかの誰かさんが、お花にそーいうイミの言葉を与えたから、それがハナコトバになって、っていうことなのかな、って……」
    「……うん、ま。ざっくりし過ぎだけど、とりあえずそういうことだね――ていうか、それ以外、あるわけないでしょ」
    「ん、そっか。そうだよね、うん、……」
    「何。なんか言いたいことあるならハッキリ言いなよ、バカチケットらしくもない」
    「――う、うん、でも。でも、それってやっぱり、お花が自分でつけた言葉じゃないわけでしょ。だから……えっとえっと……」
    「……」
    「だからさ、……なんていうか、例えば、このお花とか……花言葉が……」

    「……その、アンタが今抱きかかえてるみたいな花が、……その子がカワイソーだ、って――、アンタはそういう事が言いたいの」

    「……」

    「ちょっとちょっと、そんなぎゅって花束握りしめたら花が痛むっての。……つか、意外。この花の花言葉とか、アンタよく知ってたね」
    「わ、わ……ゴメンなさいお花さん……! ――う、うん。前にさ、タイシンが学園の花壇でお世話してたこのお花、気になっててさ。それで、いろいろ調べてて。で、今日、ここでこーやってグーゼン見つけてさ……! どーしてもアタシの部屋に持って帰ってあげたくなっちゃったんだ!」
    「はあ? アンタ、いつの間にそんなことーー、……ま、今はいいや。 ……確かに、チケットの言う通り、あんまりロクでもないような意味合いもあるのは確かだけどさ。でもそれだけじゃないんだよ、まるっきり真逆の意味合いもあったりさ、まあ割と複雑なんだよ。花言葉ってのは」
    「――そ、そうなんだ……アタシ、そういうコワい意味しか知らなかったのかも……すっごいや、さっすがタイシン! ――あ、でも、でもさ、なんでそんな――おんなじお花なのに、正反対の意味の花コトバがあったりするんだろ……? そもそも、花コトバって、どうやってできたんだろ……? お花がジブンで考えたんじゃなかったんだとしたら、さ。――ねえねえ、たいしん、どーいうことなの? 気になるよお〜……!」
    「え、ちょ……そんな飴おねだりする子供みたいな目で見てくんなって……。て、何コレ、アタシがアンタに花言葉の説明する流れなの? マジで? 今ここで?」
    「おねがいタイシン先生! 教えて〜……!」
    「はあ〜〜……。分かったよ、分かったからジャケットから手ぇ放せって」
    「あ、ゴメンね! えへへ」

    「……たく。――ええと、花言葉――ってのはさ。なんて言ったらいいのかな……アタシらがずーーっと昔っから花と関わってきた、その土地の風習やら伝統やら、そーいうのから生まれてきたものっていうかさ。――アタシ達が花を媒介にしてコミュニケーションする、象徴的な意味合いが与えられてるもんっていうか……なんていうのかな、そういう歴史の積み重ねの中で成立してきた、一つの文化なんだよ」
    「……ふんふん……」
    「だからさ。アタシらひとり一人が勝手に花に同情しても、どうにかなるような単純な話じゃない、ってこと。個人がどうこうできる領域じゃなくて、もう社会的に、文化的に長い長い時間をかけて形作られて、広く認知されてきちゃってるモノなんだよ、これは」

    「……うーん、そっか、そうなんだ……文化、かあ……なんかやっぱり、ムズカしいね……」
    「でもさ。ある意味ではさ、そーいうのって――アタシらだって同じじゃん。難しい話でもないよ」

    「え? アタシ達、が? ……ど、どういう、こと?」
    「や、だからさ。アタシらだって、こうやってコトバを当たり前に交わしてるけどさ。でも、それを字面通りに受け取ったり、受け取らなかったり、色々あるわけでしょ。それこそ花言葉が何パターンも違うもんがあるのと同じでさ」
    「……そ、そーだっけ……?」
    「そうでしょ。――たとえば、たとえばだけどさ……『好き』ってコトバひとつとっても、それは話した側と、受け取った側とでは、ぜんっぜん違う意味をもってる『好き』の可能性だってあるかもしんないわけじゃん。――そんな、どういうイミの『好き』かなんて、アタシらはすぐには分かるワケない、っていうかさーーま、そういう感じのことっていうか、……」

    「ーーう、うーーん……、アタシ、別にそんなこと、あんま考えたことないかもぉ……だってさ、それこそアタシがタイシンのこと、『だーいすき』って言う時は、そのまーんま! タイシンがだーいすき、ってイミだよ! ウラもオモテもないよ!」

    「――、……っ! アホバカ、んな事大声で、――っ……!」
    「あ、タイシンカオが真っ赤になっててかわい〜! ーーんっ……? え、ひょっとして、今のあほばかは、『チケットのこと好きだよ』ーーってイミだったり……!?」
    「んなワケあるか。そのまんま純度100%濃縮還元のアホバカだよ。混じりっけなしの」
    「わ〜〜ん! そこまでゆわなくても良いだろおお〜っ! ウラオモテなしのコトバのトゲがちくちく痛いよお〜〜!」

    「はあ……たく、脱線し過ぎだろ……ええっと、話戻すけどさ。もしも花言葉のことをロクに知らないどこかの誰かが、知人の病人の見舞いにアンタが抱きかかえてるその花を持っていきたい、だとか言い出したら――そうだな、アタシは、それは止めるように勧めるかもしれない。先方が、花言葉を悪いイミのほうに解釈する可能性だってあるわけだからね。そこでアタシひとりが、そんなのおかしいだろ縁起が悪いだのなんだのってこの花が自分で決めた花言葉じゃないだろ――とかそんな事喚き散らしても、ナンセンスなんだよ所詮は。そんな――そんな個人の感傷はさ、通用しないんだからさ。花言葉ってやつに対しては」

    「……そっか。タイシンが言うなら……そういうこと、なんだね」
    「ったくハヤヒデじゃあるまいし、こんな慣れない、小難しい話するつもりなかったんだけどな。ま、とにかく、そういう事だから――分かった、チケット」
    「……ん、でも……」
    「何、まだ納得できないの――」
    「うーん……」
    「あのさあチケット、別に花言葉っつっても、悪い方ばっかに考えなくても良いんだって。花によっちゃそういうネガティブな意味合いのないものもいくらだってある。ほら、どうしても相手に伝えたくても伝えにくい言葉とか気持ちとかさ、そういうのがあったりするでしょ。そんな時に花を通して、その花言葉に託す形で、思いを伝える――みたいなさ。そういうことだってできるわけでさ」

    「あ、うん! そーいうのは分かってるよっ。実はね、アタシも前に、花束をトレーナーさんに渡したことがあってさ」

    「――、は」
    「その時、エアグルーヴにも相談してね。じゃあこういう花が良いだろう、って教えてもらって。それで、アタシの届けたい気持ちに沿った花言葉のお花を上げたことがあってね、でね……」
    「……へー、ふーん。……そうなんだ。そんな事、あったんだ」

    「あ、あれっ? タイシン、なんか、機嫌悪くなっちゃった……? しっぽの動きがすごいことに……」
    「べっつに、なーんでもないから。気にすんな。——へえ、良いんじゃないの、チケットが自分のトレーナーと仲深めるのも――あのひともそういう学生との一線はきっちり弁えてるまっとうな大人だし。……なに、しっかり有効活用してんじゃんか、花言葉。結構なことだよ」
    「え、えっとおぉ、アタシはトレーナーさんのこと、トクベツな相手で、大事な大事なパートナーさんだって思ってるけど……で、でも、たぶんタイシンが今思ってるような、そーゆうんじゃ、ないよ……?」

    「けほっ……な、なに言ってんの……『タイシンが今思ってるような』って――何? アタシがアタマん中で考えてる事とか、どうしてアンタに分かんの? いつからテレパシー使いになったのかな、一介のウマ娘のウイニングチケットさんは」
    「も、もぉ~~、そんなぷりぷり怒んないでえぇ、たいしん~! て、てゆうか、どんどん話が逸れてってるよお~~!」
    「いや、そもそもアンタが――、……。ん、や……アタシが、――悪かった、アンタにも、アンタのトレーナーにも。ちょっとどうかしてた、うん――ゴメン」
    「あ、そ、そんな謝らなくてもダイジョーブダイジョーブ! ぜーんぜん気にしてないからっ! ……って、あれ? これ、何の話だったっけ……?」
    「え。だから、花言葉……でしょ。自分で『話が逸れてる』って言った先から、それか」
    「あっ、そうそう! えへへ~、ごめんゴメン! ーーええと、うん、だからさ。そーゆう風に、良いイミだけじゃない花言葉のお花の場合でもさーー、えっとぉ、例えば。どうしてもそのお花にぴーんときてさ。『あの子のとこにこのお花を持ってってあげたいなぁ〜〜っ!!』ーーって、なっちゃったとしたら、さ」
    「……」
    「そういう自分だけのキモチと、お花の花言葉とが、がちゃーんってぶつかり合っちゃう時とか、きっとあるよね。そーなっちゃった時とかに――」
    「だからさっきから言ってんじゃん。花言葉ってのはずっと昔から、そういうもんなんだから。アンタがいくらそう思ってても、相手が、うわぁこんな花言葉の花持ってこられて嫌だなぁ――って万一感じちゃったら、それはもうどうしようもない事なんだよ。分かんでしょそれくらい」

    「う、うん、それは勿論、そうかもしんないけど――でも、でもさ。例えばさ、もしアタシが何かケガして入院とかしてる時にさ、タイシンがこのお花を、病室に持ってきてくれたりとかしたら――アタシは、絶対ぜったい嬉しいよ」

    「は……」
    「だって。この子の花言葉がなんだろうと――タイシンは、きっとアタシのこと心配してくれて、このお花を持ってきてくれたんだって――、それは絶対に間違いないことだって、分かるから」
    「何言ってんの。……、なに、その『絶対に間違いないって分かる』――ってのは。花屋の家に生まれた癖にそんなことも知らないのかとか、アタシが嫌がらせでわざとそんな花持ってきたとか、そんな風に考えたりしないってわけ」
    「うん。そんなの、ぜーったいのぜったいに。ありえないよ。だって、だってアタシ、タイシンのこと。ーー信じてるから」
    「――」
    「タイシンの、アタシのことを思ってくれてる、その気持ちが。きっと、そのお花の言葉になって、ーーそーやって、アタシに届くはずだって。タイシンはそういう子なんだって、アタシは、分かってるから」
    「――」
    「……タイシン? あれ、どうしたの、タイ――」
    「何でもないっつの。――ほら、もうそろそろ会計済ませて行くよ。ったく、気がついたらもうこんな時間じゃん――買い物ついでにちょっと花屋寄っただけでこれだよ。あんたとくっちゃべってると、時間が綿飴みたいに溶けてくんだからさ」
    「あ、ま、待って〜、置いてかないでたいしん〜!」



    「――はあ、やっぱもう外こんな暗くなってる。さっさと帰るよ、チケ――」
    「あっ!! ねえ、見て見てタイシン、ネコさん! 黒猫さんだ、今そこんとこ、ぴゅーって通り過ぎてったよ! 可愛かった~! ね、タイシン、見たでしょ!?」
    「あーはいはい、分かった、見た、見たよ。だからそんな肩揺するなって、……あ」

    「ん? ど―したの、タイシン――?」
    「――そういえばさ。黒猫が横切ると――不幸が起こる。なんて、言ったりするよね、アンタ知ってた」

    「え、えっ……? そ、そーなの……えっ……」
    「ーーたく、何てカオしてんのバカ、そんな震えなくても大丈夫だって。はは、ただのくだらない迷信だよ。そんなこと――あるわけが、ないんだからさ」
    「そ、そーなんだ、もータイシンいじわるなんだから〜!……でも、良かったあ、そんな怖いイミなんかがなくって」
    「うん、分かったら、そんないつまでもひっついてんなっての。安心したでしょ、もう」
    「あ! えへへ、ごめんゴメン。うん、それもそうなんだけど。だって、クロネコさんがそんなふうに怖がられちゃうのって、やっぱり――」

    「……可哀想、って思う? ネガティブな意味の花言葉を持ってる花みたいに?」
    「――、ん……」

    「ね、アンタさ、さっき自分で言ってたじゃん。その花がどんな花言葉だろうが、アタシが……その花を持ってきてくれた人の気持ちが大事なんだ、みたいなこと」
    「え、う、うん……?」
    「それとおんなじことじゃん。チケットが心の中で信じてやれば良いんだよ、花言葉も黒ネコの迷信にしても。そんなんじゃない、アタシはこう思ってるんだ、って。……や、まあ、流石に場合によりけりだけどね、花言葉とかは。さっきも言ったけどさ」

    「――そっか、うん……そうだよね! タイシンの言う通りだよお……!! えへへ、ありがとタイシン、――だいすきだあ——!!」

    「ちょ、ば……バカチケット、デカ声でそんなこと……!! 」
    「だってだって、今のはアタシのほんとのホントのキモチを、ぎゅーってでっかくフラワーアレンジメントしたコトバだからね! だからさ、やっぱり声も大きくなっちゃうっていうか!」

    「分かった、分かったからそんなボリュームで自己主張しないで、普通に近所迷惑。……ま、アンタは良いよね。なんていうか、ハートと言葉が一本の線でダイレクトに結びついてそうっていうかさ――」
    「うんそーだよ、チケゾーはココロもセリフもまっすぐ一直線、目指せダービー!! って感じだから、……うん、――」

    「え、ちょっと、今度は何。急に黙って、何こっち見てんの。怖いっつの」
    「あ、や、ゴメンね! ――あの、もしもさ、タイシンが――何か、大切なことをどこかの誰かに伝えたいと思ったら――その時は、どうするのかなって……」

    「は? アタシ?」
    「う、うん! なんかさ、こう。気になっちゃって」

    「――何言ってんの。そんなのさ、……決まってるじゃん。分かんない?」
    「え、えっと、タイシン……?」


    「それは、――――」


    ――――。




     何か月か前。
     ショッピングモールのお花屋さんのとこで、あの子と交わした、こんなおしゃべりのワンシーン。
     この時のことを、最近、よく思い出す。
     タイシンはもうとっくに忘れちゃってるかもしんないけど。
     あの時。黒猫さんを見かけた後、大好きだよってタイシンに叫んだ自分。
     その自分が。もうなんだか埃を被り始めた、ずいぶん昔の写真におさまってるような。そんな気がする。
     あの時に買ったお花も。寮の部屋で、タイシンに色々教えてもらいながら、大事に育ててたけれど。 
     いつしか萎れて、枯れていった。
     後に残った花瓶がとても寂しそうに机の上に立っていた。 

     あの時——タイシンは、あの後——なんて言ったんだっけ。
     それとも、タイシンは結局、何も。言わなかったんだっけ。
     思い出せない。きっとすっごく大事なところなのに。どうしてだろう。


     忘れたのか。
     忘れようと、してる――のか。


     もしタイシンが――あの子が、あの子のほんっとうの気持ちを込めて、声に出すとき。


     その口から出てくるのは――どんな言葉なんだろう?

     あの子はそれを、どんな時、誰に向かって、しゃべりかけるんだろう?

     タイシンの大切な言葉は。
     どんな茎や葉っぱをしていて。
     どんな匂いで。
     どんな色の花びらなんだろう。
     タイシンの、彼女が心に咲かせてるお花の言葉は――それは。

     それは、どんなだろう?



    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


    「チケゾーせんぱーい! 今日はありがとうございましたー!」
    「もーーすっごいカッコ良かったですセンパイー!」
    「うんっ、アタシもすっごい楽しかったよおおー!! またいつでも呼んでねええーー!!」

     トレセン学園の後輩の子たちが、元気よく手を振ってくれたから、アタシも負けないくらいに思いっきり両手もしっぽも左右にぶんぶん動かしながら、返事をした。

     ――今日は、学園の授業も、トレーニングも、ぜーんぶお休みの日。
     トレセン学園の中等部の子たちに誘われて、ハンドボール大会に助っ人で応援に駆け付けて、(大会の決勝戦は、すっごく惜しいところまで行ったんだけど、準優勝だった。でもみんなすっごいガンバってた! すっごい感動の試合だったんだ!)――ちょうどその帰りで。一人で、街中の歩道を、ぷらぷら歩いてるところだった。

     スマホを見ると、時刻はちょうど、お昼の2時を回ったころ。
     ぽかぽか陽気が辺り一面に満ちわたってる、そんな時間帯。

     さて。
     これからどうしよう。
     このままいったん寮に帰ろうか。それともまだどっかに寄り道しよっかなあ。誰かいっしょに遊んでくれそうな子を探したりして――。
     うーんうーん。

     そんなことを考えながら、横断歩道の手前で信号待ちする。
     歩行者信号が赤から青へぱっと変わるのを見て、足を前に進めようとすると。
     目の前に広がってる横断歩道の白い線は、ちょうど塗装を塗りなおしたばかりみたいで、普段見慣れているものよりも、白がアスファルトの上で一段と、くっきりと際立っているように見えた。
     まるでピアノの鍵盤みたい。
     そんなことを思ってて――歩行者信号が青になった途端、自然と足が、ひょいひょいっと白線の上だけを小刻みに飛び移るみたいに動いていった。
     ぽん、ぽん、って、白線に着地するたんびに、かわいい音符記号が飛び出してくる。――そんなだったら、すっごい楽しいだろうな。
     ちょうどタイシンがいつもやってる音楽ゲームみたいに――あ、そういえばタイシンも、こんな風に横断歩道をぴょんぴょん飛びながら渡ってたなあ、可愛かったなああれ、とか、そんなこと思い出した。結局あれってやっぱり、トレーニングだったのかな? こーやって規則正しい間隔でピョンピョンすることで、走る時の地面の蹴り上げの正確なタイム感とか、そういうのを養うのに役立ったりとか?
     ……でも、それだけじゃなくて――これ、楽しい! うん、楽しいや。ホントに文字通り、心も弾んじゃうみたいな。
    いつかタイシンといっしょに。こーやって白線の上を――ピアノの連弾みたいにして並んで踏み鳴らしたりできたら。きっとすっごい面白いだろうなあ。きっとあの子はイヤがるかも知んないけど。

     でも、アタシがタイシンと一緒にやりたい事はーー勿論レースでばちばちーって火花飛ぶくらい競い合うこともなんだけどーーきっとそーいう事でもあるんじゃないかって。
     一緒に並んで、青空の下、横断歩道ピアノの演奏会。
     きっと、すっごいステキなメロディがそこから生まれて、――。


     そんなことをぽやぽや思いながら、もうじき横断歩道を渡り切ろうという少し手前ら辺で。向こう側からこっちに向けて白線を渡ってきた、小さいウマ娘の子が、じっとアタシの方を見ていた。このお姉ちゃん何やってんだろって目をしながら。

     それを見て、ちょっとしたことを思いつく。タイシンがいたら、また絶対怒られちゃいそうなこと。
     アタシは後ろや周りに人がいないのを確認して、まず数歩分バックステップするーーそれから、両手を白線につけて、ロンダート――からの、そのまま後方伸身宙返り1回半ひねり。今までのんびりしてた初夏の風景が、遊園地のカップアンドソーサーに乗ってる時みたいに勢いよく、くるくる回転する。
     
     ――そして、女の子の眼の前の白線に着地。すたっ。
     うん。今のはきっとハイスコア!
     鍵盤からボーナスポイントでキラキラ大量の音符が出てきちゃうくらいの。
     

     ――えっ、なになに今の、お姉ちゃんすごいスゴいー!!
     そう言って女の子は、笑顔いっぱいで拍手してくれて。
     アタシはダブルピースで応える。
     それからその子は、アタシとおんなじように、横断歩道の白線の上を跳びながら、向こう側に渡っていった。こっちにブンブン元気に手を振りながら。

     ――うん、今日はなんだかこれからも、まだまだステキな事がありそう!
     アタシはそんなこと考えながら、遊歩道をテクテク歩いていった。


     そうやって数分ほど。
     特にこれっていう目的地もなく、学園の方に向かって、周りの景色を楽しみながら、何となく歩いていたはず、ーーだったんだけど。

     気がついたら。
     とある公園の前にたどり着いてた。

     ん、あれ? どこだろここ。

     それは市街地からちょっと外れた通りにひっそりと位置していた、初めて来る公園で。
     なんで自分がわざわざこの場所に来たんだか、自分でもよく分かんないくらいだった。 

     ――や。分かんない、ってのは、ちょっと違うな。

     実は、ちょっとした予感めいたものはあったんだ。

     それは――学園で、いつも、あの子を。
     タイシンを探してる時。
     あの時のフィーリング。
     それがアタシをここに連れてきた――みたいな。

     タイシンには、何でいつもいつもアタシの居場所が分かんのアンタの脳味噌には探査ソナーでもついてんのとかいつも言われちゃうんだけど。
     でもアタシにも分かんないんだよなあ。
     アタシがタイシンを探し出すーーってよりも。磁石とかそうゆうのでお互いが引き合ってるような、そんな感覚を覚えることすらある。
     まるでタイシンがアタシのカラダを遠隔操作でぐいぐい引っ張って、アタシのほうもそれに反応して、そっちにふらふら〜ってついてく、って感じ。
     
     だから。この感覚は。
     つまり――つまり、この公園に――タイシンがいるって事なんだろうか?

     タイシンは、静かなばしょが大好きな子。
     ざっと見渡した感じ、この公園はとっても静かで、おだやかで。タイシンが好きそうなトコだなーーって、直感的に思った。
     彼女がのんびりお昼寝しててもおかしくないくらいの、そんな場所だ。

     そうして――アタシはその公園に、足を踏み入れていった。

     こうえんはキレイにせいけつにつかいましょう。(+お花マーク)
     背もたれにこんな文字が書かれてる(それはところどころ剥げかけてて、歯抜けの暗号文字列みたいになっている)木製のベンチに座り込む。
     みしみしっ、って木が軋むような音が微かにした。
     あれっ? アタシそんな体重増えてないハズなんだけどな。
     カオの火照りをちょっと覚えながら、公園の様子を見渡した。

     広場の真ん中には、球状になってる高さ二メートルくらいの遊具(アレってなんて名前なんだろう? アタシも子供のころ大好きだった)があって、その手すりにちっちゃい子供がつかまって、ぐるぐる回ってる。
     その様子を(たぶん)その子のお母さんが、すぐ傍で見守ってる。遊具の回転が止まりかけると男の子がもっともっとって言う。女の人はもうこれで最後だからねって、とっても穏やかな優しい笑顔で、また遊具を回してあげる。
     そんな光景が何度も繰り返されていた。

     アタシから見て斜め左っかわの方には、また同じようなべンチが据えられてあって、そこにはお年寄りのご夫婦っぽい人たちが座っている。
     年配の女の人の腕の中にはプードルっぽい見た目の、ちっちゃいワンちゃんが抱きかかえられてる。
     ふたり(と一匹)は、なんだかまるで、この公園が出来てから――そのベンチがそこに据えられた最初の時から、ずうっとそこに住み続けてるみたいに。それくらい、もう風景と重なりあっちゃってるみたいに、穏やかにそこに存在していた。

     なんだか、とにかく、静かだった。
     遊具のきいきい言う回転音も、そういう静けさを形作ってる一つのパズルのピースみたいに、かちっと全部のものごとがはまってるみたいで。何一つ、ジャマなものなんてないような。そんな空間だった。

     ……さてと。
     タイシンは――あの子は、ここに、いるのかな?
     ざっと公園の中を見回した感じ、それらしい人影はみえないけれど。
     それでも、アタシは自分のソナーの感度のメモリを上げて、タイシンの存在を感じ取ろうとする。
     どっかの物陰とか、そういうところに、あの子の気配をキャッチできないかと思いながら。 

     で、その結果。
     ――タイシンは、このすぐ近くには、いないように思えた。

     ん。あれれ。
     うーん、アタシの勘違いだったのかな。
     まあ、それほど広い場所じゃないし。ここにやってきたアタシの姿をちらっと見かけて、すぐにぴゅーんってどこかに逃げちゃったのかもしれない。

     うーん、タイシンいないのはすっごい残念だけど。
     でも。ま、しかたないや。
     それはそれとして――。
     じっとここで、座っていると。
     なんだか、とにかく――すっごく、癒された。
     柔らかいお日さまの光がなみなみと注がれた浴槽の中に、ぷかぷか浸かっているみたいだった。
     さっきまでハンドボール大会で動かしてた筋肉の疲労も、たちまちほぐれて解かされていくみたいな。

     アタシもちょっとここで、うたた寝しちゃおうかなあ。
     そうやって目を閉じて。
     ウトウトし始めた、その時――。

     浅い眠りの海の、波打ち際のあたり。
     そこに小石が、ぽちゃんぽちゃん、と投げ込まれた。二つ分。

     ――ん?

     ふと目を開ける。
     なんだろ、今の感じ――。
     そう思ってると。

     鳴き声。
     人の声。

     どこかから、はっきりと聞こえた。

     あれ。さっきまでは感じられなかったけど、これって――。
     そして、もう一回、公園の周りをもっとよく観察してみると。
     公園には、広場の一角のもうちょっと奥まったあたりに、木が生い茂っている場所があって。
     そこは遠目からでも、広場みたいにちゃんと整備されてる感じには見えなかったけど――でも、声は。間違いなく、そっちの方角から聞こえてきたものだった。そんな風に思った。

     アタシはベンチから立ち上がって、そっちの方に向かう。
     ぬき足さし足シノビ足、ってやつ。
     
     木々の茂みに隠れるようにして、奥の方を覗き見する。
     そしたら。――そしたら、そこには。


     タイシン。
     タイシンが、いた。

     

     アタシから見てちょうど真横を向いているタイシン。いつもの大きめゆったりジャケットを身に包んでる彼女は、じっとその視線を、一つに注いでいるように見える。
     タイシンがじいっと見つめてる先にいるのは。

     ――猫。
     黒猫さんだ。
     その子は、子猫ちゃん――っていうくらいでもない、やっぱり「猫さん」て感じの年頃に見える体つきをしている。

     その様子を草陰から見た時、最初に連想したのは、あの神社でのことだった。タイシンが猫ちゃんにベッド作ってあげてた、あの時のこと。
     今振り返ると、アタシ悪い事しちゃったな、と思う。タイシンがすっごく良いコだな優しいなぁ~って気持ちが抑えられなくて、ついつい身体と口が先に動いちゃって、タイシンと猫ちゃんを驚かせちゃって。
     だからその時のハンセイで、すぐ飛び出していきたい気持ちを頑張って、抑え込んで。そーっと気づかれないように様子を見ることにした。(こーやってのぞき見する事だって良くはないんだけど、でもそれは抑えられなかった。)

     ん。でも――なんだろ。
     今見てる風景は、あの時とシチュエーションはちょっと似てるけど――でも、ぜんぜんちがう。
     何がちがうのかすぐには分かんなかった。
     でも、何かが。
     決定的にちがう。

     だから、その様子を見てて、やっぱりアタシはすぐにタイシンの方に駆け寄っていくことは、全くできなかった。できなくなった。
     それはこの前の時の反省とか、それだけじゃなくって。
     何か、何かがアタシを、この草むらのところでぎゅうぎゅうに縛り付けて。身動きとれないようにしていた。

     今、あの子のところに行ったら、絶対ダメだ――。

     そんな風に戸惑いながらも、でも同時にアタシは、タイシンと黒猫さんの様子を見るのに意識を強く集中させる。まるでレースの最終直線で、団子の集団から飛びだすタイミングを見計らってる時みたいに、神経をとことん研ぎ澄ませる。


     タイシン。
     そして、彼女が向かい合ってる、黒猫さん。
     まんまるで大きな瞳。緑色の虹彩を柔らかい日差しの中に煌めかせてる。
     首輪とかを着けてる感じはないーーから、たぶん、野良猫さん……なのかな? 
     でも見た感じ、それほど痩せてたり大きなケガをしてたり、元気がなかったり、って様子もない。それだけでも少しほっとする。

     そして――そして、その光景は。
     今は太陽の光がサンサンと降り注いでる真昼間だっていうのに――そこが、公園の隅っこの一角が、まるでほんのわずかなスポットライトが当てられてるだけの劇場の舞台のように思えた。

     ちょっと前に、アタシとハヤヒデタイシンの三人で、演劇のDVDを見たことがあった。ハヤヒデが、とてもカンメイを受けたからこの作品をぜひ一緒に見てみよう――とかなんとか、そんな感じで、視聴覚ルームを借りていっしょに見たんだった。

     あの時見た、あんな感じなんだ。

     タイシンの目――彼女が、猫さんを見つめてる時の。その目は。
     ――優しい。
     とても、穏やかで。どこまでも、澄んでいる。
     普段の表情とぜんぜん違ってる。
     雨が止んだ後でお日様が雲の隙間から、柔らかな光を投げかけて。木々の葉っぱを濡らす雨粒をきらきらと淡く輝かせてるような。――そんな、とても綺麗な、キレイな笑顔だった。

     そしてそれは――これはタイシンに言ったらものすごく怒られるだろうけど――それは、ちっちゃな子供の瞳みたいに見える。
     まだ何にも世の中の恐ろしいモノを知らずにいて。誰にも傷つけられたりもしていない。セカイが投げかける優しさをどこまでも信じてる。――そんな純真な幼さを。そんなきらめきを。どこまでも透き通った水のようなブルーの瞳の輝きに宿してる。

     そして、これも、他の人が聞いたらとってもヘンテコなことだと思うだろうけれど――アタシは、それを見てて、泣きそうになってしまった。

     あのタイシンが。あんな風に、穏やかに、笑えるってことが。


     ――ハードでキツくって、過酷なトレーニングに、いつもいつも全力で励んでるタイシン。
     ストイックで甘えがなくて、とってもとってもカッコイイ。
     よーしアタシも負けてられないぞって、いっつも奮い立たせられる。
     彼女と全身全霊で競い合うのは、いつだってアタシにとって新体験だ。魂から血液が零れ落ちそうなくらいな勢いで、後方集団から走り抜けてくる彼女、それを背中に感じる時。一つ一つの神経細胞が泡立つ感覚。あんなのはそう味わえるものじゃない。それくらい、彼女の走りは――綺麗で美しくて怖くて恐ろしくて。幸せで――。
     それが。そういうのが彼女と一緒に競い合うってことなんだ。

     ――でも、時折。なんでだか、ふっと。
     そんな彼女の様子を、走りを見ているのが。
     なんだか辛く感じる瞬間があった。
     上手く言えないんだけど、なんだかまるでタイシンが。――走りながら自分を責めている、みたいで――。

     もちろん、そんな事はタイシン本人には言えない。
     言ったら、きっとすごく、ものすごく怒られるだろう。
     しばらく、クチも聞いてもらえなくなるかもしれない。

     でもでも、だからこそ――辛かった。
     
     アンタ甘ちゃん過ぎるよ真剣に走る気あんの舐めてんの。
     こんな考え方をしてたら――きっときっと彼女にそう言われるだろう。
     でも、それでもアタシはタイシンに。
     もっと、笑ってほしかった。
     レースを、走るってコトを、――楽しく、思ってほしかった。
     芝の上を全力で駆け抜ける時に全身に迸っていく、あの――あの幸せな気持ち。それを感じて欲しかった。分かち合いたかった。
     ずっとそう思い続けてた。


     そして。そして――今見てるタイシンの横顔は。彼女の瞳は、口元は。
     そうやってアタシが、一人で身勝手にずっとそう願ってた、そんな優しさに満ち満ちてる。

     ――。
     いい、な。

     羨ましい。

     自分も。
     自分も――あんな、あんな優しい、あったかな瞳で――タイシンに、見て欲しい。
     あの目で見つめられたい。

     そうしたら。
     そうしたら、どれだけ――――。

     ……ん?

     あれ?

     え、アタシ、何考えてるんだろ?
     アタシはタイシンに楽しくレースを走ってくれたらなあって、ただそんな思いで。
     別にホントにそれだけを祈ってて。

     それ、だけ?
     今アタシなんて思ったんだっけ。
     うらやま、し、――。――?
     ええっとお、――。

     そんな事をぐるぐる渦巻き状態で考えてると。
     タイシンは猫さんを優しく抱き抱えて、その子のお顔のところに、自分のカオを近づけて。
     こう言った。

    「――いつ見ても、あんたのカオ。ほんっと、アイツにそっくりだね。ちょっとマヌケ面っぽいとこも――はは、ゴメンね、マヌケなんて言っちゃって」

     ん?
     あいつ?
     誰だろ。――誰のことなのかな。まぬけ?
     何のことかもよくわかんない、タイシンのその言葉は。どうしてだか――アタシの心をざぷん、と瞬間、波立たせた。

    「ここんとこなんか――ちょうどアイツの、右の頬の絆創膏みたい。ははっ」

     ――バンソウコウ?
     ――みぎのほお?

     その単語がタイシンの口から出てきた時。
     さっきの比じゃない位に、心のざわめきが湧き起こって。とんでもなく、ドキドキした。
     心臓がぴょんと垂直跳びしたみたいに思った。

     そして、猫さんのカオをもっかい、ちょっと遠くからでもじっと目を凝らして。見てみる。

     ――確かに。ふにゃふにゃの可愛い口元の、右っかわのとこ。
     白い斑点が。縦長に、綺麗な模様を描いてる。
     ――それはまさに、ちょうど。絆創膏くらいの大きさで。

    「アンタの呑気そうな顔も――優しそうな瞳の色も。エメラルドグリーン、あいつの耳んとこに、ほんとそっくり」

     猫さんの瞳は、アタシみたいな赤い色じゃなかったけど(赤目の猫さんというのは、ほとんどいないらしい。ハヤヒデが教えてくれた)、確かに。アタシの両耳の内側のような緑色をしてるのは――確かだった。

     綺麗。綺麗、って。

     タイシンが、アタシの耳の色を、そんな風に思って――。

     
     って。
     えっ。
     いや。
     いやいやいや。


     何。なに、――――アタシの耳・・・・・、って。
     あんまりにも当たり前に、あの黒猫さんとアタシとを、想像力のロープで繋ぎ合わせてた自分のアタマの方に、アタシ自身がビックリした。

     そうだよ、タイシンは、アタシのことだとはひとことも言ってないじゃんか。
     ホントにどうしちゃったんだろうアタシ。

     ――それから。そんなアタシの大混乱をよそにして。
     タイシンは、きゅっと優しく、黒猫さんを抱きしめる。
     とても、切なげに――愛おしそうに。

     それは、その様子は。小動物を抱っこするっていうよりも、映画やドラマなんかで見るような、恋人同士の抱擁を思わせる仕草にすら、見えて――――。

     それを見てると。
     もうとにかく。とてもとても、むずむすした。
     いつものむず痒さとは比べ物にならないくらいに。
     身体中ぜんぶを――内臓まで、心まで、ひっかきまわしたくなるほど。
     身体中の体温も上昇して。
     頭髪からしっぽにいたるまで、全身の毛がさわさわとダンスでも踊るみたいに反応してるのが分った。
     
     タイシンが猫さんの白いぶちのところに、すりすりと優しく頬ずりする。
     そしたら、自分の絆創膏の下まで急にものすごく痒くなってくる感じがした。まるでそこに何か別の生き物が潜んでるみたいに思った。

     そしてーー。
     タイシンは顔を、猫さんの鼻先ぎりぎりのところまで、近づける。

     それから、その唇が。なにか言葉を猫さんに向かって紡ぎ出すようにして、しばらくの間、動いて。
     それは本当に、空気の間の、ヒミツのトンネルをくぐり抜けてくみたいな。
     きっとそんなささやき声。

     タイシンが猫さんに何を言ってるのか。 
     ――どうやっても、どう頑張っても。聞き取れなかった。
     いちばん、いちばん、いっちばん聞いてみたいところなのに。
     あれ、でもそれって。つまり。
     絶対聞いちゃいけないところ――って、ことで。

     そして、そして――タイシンの唇が。
     黒猫さんのバンソウコウのところに。
     近づいて、いって――。


    「うわ、わっ、———」
     ――――。――。


     最初は。気が付かなかった。

     心の声(そういうのがあるんなら、だけど)と、ほんとの声と。
     区別がつかないくらいに。
     結果として――小さな、か細い声が。アタシの口から漏れ出てたことに気が付いたのは、数秒後のことで。

     思わず。口を両手でばっとふさぐ。(そんなことしても意味なんかなかったかもしんないんだけど。)
     ヤバい。やばいやばいっ。
     そっと、そーっと、タイシンの方をちら見すると。タイシンのおっきな耳が、ぴくんぴくんと数センチ単位で左右に忙しく動いてて。
     さっきまでのすっごい優しい顔は、カーテンの向こうに半分くらい隠れちゃって。
     獲物を探す猟犬みたいな鋭い目が代わりに出てきてるみたいに見えた。
     どうしよう、ひょっとして、アタシ気が付かれちゃったのかも、どうしよう?
     ぷるぷる震えてる尻尾の振動を覚えながらタイシンの方を見てると。

     ――やがて、そのタイシンの耳としっぽの動きも止まって。
     タイシンはため息をふうっと一つついて、黒猫さんをそっと優しく地面に下ろしてあげた。

     それから、タイシンは、その場所から、立ち去っていった――無言のままで。(もしタイシンがアタシの隠れてるほうに来たら、もう最大のピンチだったけど。神さまはタイシンの行く先のルーレットを、逆方向に指してくれた。)
     そして黒猫さんも、みゃーって声を出した後、そこで何事も起こらなかったみたいにして、とことこって茂みの向こうにのんびりと歩いていって、姿を消した。

     そうして、その場にはアタシ1人が取り残された。
     劇場から役者さん達全員がソデに引っ込んじゃった後に、緞帳が降りることのない空っぽのまんまのステージを、ただ客席から夢心地で眺めてる、そんな気分だった。
     
     草むらから身を起こして、元にいた公園の木製ベンチのところにいったん戻る。
     遊具で遊んでた親子も、向かいのベンチに座ってた年配のご夫婦も。
     いつの間にか、姿をすっかり消してしまっていて。
     そこに残されてるのはアタシだけだった。

    「……さ、さーてっ、アタシもそろそろ帰んなきゃ〜! 今日の寮の晩ごはんはなんだろな〜っと! すっかりおなかすいちゃったぞおーっ!」

     ――そうやってアタシは、ムリヤリに声を出して、笑顔を作ったーー何とか非日常のほら穴から日常へ、身体と魂を引っ張り出して戻してくるために。

     そんなこんなでみたいに(お酒飲んだこととか勿論無いんだけど、たぶんこんなカンジなんだろな〜って思いながら)ふらふらその公園を後にして。
     よろよろと寮に帰って行った。


     ――羨ましい、な。


     ――あの時。タイシンと黒猫さんを見てた時に、ハヤブサさんみたいにしてひゅーんって急滑降で横切っていったキモチ。

     それはとても、とっても鋭い鉤爪を持っていて。
     アタシのカラダのどっかに、はっきりとした痕をざっくり残していった。
     いついつまでも。



     その夜は、ぜんぜん寝付けなかった。
     部屋のベッドでごろごろ寝返りを打っても、昼間見た風景が、耳にしたあの子の声が。
     ずっとずうっとリピート再生され続けている。

     ――チケゾーさんどったのなんかあったん? さっきからイモムシみたいにもそもそ転がってばっかなんだけど。

     同室のジョーダンがこっちの様子を見て、心配そうに声をかけてくれた。
     どうしようか。このことを彼女に相談してみようか。
     ジョーダンは優しいコだから、きっとアタシの悩みも聞いてくれて――。
     ――いや。それは、なんだか――できない。
     そもそも、相談、って言っても。
     アタシ自身が、いったい何に悩んでるのか分かんないのが悩み、って感じなんだ。
     だから今は。こうやってマクラに顔をうずめたりゴロンゴロンしたりするしか。それしかできないんだ……うう~。
     ごろりんとジョーダンのベッドの方を向いて、なんとか笑顔を作って、彼女に言う。

    「えへへ~そうだよ、今アタシ芋虫さんでね~、こーやってはっぱを食べる練習を……。――えと、えとね、ゴメンジョーダン。なんかアタシ、ちょっと今日は、疲れちゃってるみたいで……」
    「え……ちょ、ホントにダイジョーブなん……?」
    「う、うん! ハンドボール大会、張り切り過ぎちゃったみたいでさ~……! 起きたらきっと、治ってるから、だいじょぶだいじょぶ! ――じゃ、一足先に、おやすみ~!」

     お、おやすみ~……、と、心配そーに行ってくれるジョーダンの声を聴きながら。
     アタシはお布団にくるまって、目を閉じる。

     もうとにかく。
     夢の世界の妖精さんが、ぐちゃ~ってなってるアタシのアタマを、無理やりにでも、眠りの沼地に引きずり込んでくれることを祈りながら。
     とにかく――目をぎゅってつぶった。ひたすらに、つぶり続けてた。あの公園のタイシンと猫さんを、瞼の裏で、網膜に焼き付けたまんまで。


    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

     次の日。
     とにかく、早起きした。いつもより数時間早く。
     って言っても、結局ほとんど眠れてなかったんだけども――。

     なんとなく、朝の通学路とかで、タイシンと、あの子と鉢合わせちゃったりするのが、なんだか怖くって。どういう顔であの子に向き合えば良いのかぜんぜんわかんなかったから。
     だから、予定に入れてもいない早朝トレーニングっていうことで。まだジョーダンがすやすや眠りこんでる横で、制服じゃなくジャージ姿に着替えて、寮を出て。
     まだお日さまが水平線の向こうで寝ぼすけさんになってる薄暗い中を。学園の周辺、普段のランニングコースを、小走りに駆け周った。

     そう、そうだよ。
     とりあえずこーやって走っちゃえばさ。
     こんなもやもや~てなってる頭ん中も、綺麗に消しゴム擦るみたいにしてどっか消えてなくなっちゃうかもしんないし。
     勉強の時だってそうだった。とにかく走りまくっちゃえば、アタマん中がさっぱりクリーニング。雨降りの後のカラッと晴れた日にみたいに、脳みそが澄み渡っちゃうんだ。
     そしたらまたタイシンにも、いつもの感じでカオ合わせられるだろうし。
     うんうん、いいぞ。その調子だよ、チケゾー。
     いつもみたいに全力全力!



     消えなかった。
     どれだけ早朝ランニングしても。ぜーんぜん、アタシの消しゴムは、ぐりぐりクレヨンで塗りたくられたみたいなアタシの中の落書きめいたものを、消してくんなかった。
     ペース配分もメチャクチャで、朝っぱらから学園に登校もしてない段階で、こんなに身体にムダに疲れを溜め込んじゃったのなんて、初めてだった。
     疲労感は心地よく沈み込んでいくことはなくって、重りみたいにカラダのふしぶしに縛り付けられてるみたいだった。

     そんなもんだから、学園に着いてからの、トラックでの早朝トレーニングの時も。ちょっと力入れすぎだよチケゾー~ってトレーナーさんに注意されちゃうくらいに、ただでさえ寝不足なところに加えて、意識が散漫になったままの、身の入ってない走りをするだけで、終わってしまった。


     そして。
     その日の学園で――アタシは、とってもおかしな事をした。
     いわゆるキョドウフシン状態。
     学園内を歩いてる生徒のみんなのことを、じろじろ眺め回したりとか、しちゃったんだ。

     ――黒鹿毛。
     ――右頬に絆創膏。
     ――緑色の耳。

     そんな子が自分の他にいたりするのか。とにかく探し回った。
     まるでハヤヒデがいつも読んでる推理小説の探偵さんみたいな気分。
     学園はけっこう広いし、中等部まで合わせたら結構な生徒数になるから、休み時間の間だけでそんな一日で探し回るなんてムリに決まってるんだけど。
     でも、それでも、とにかくすれ違うウマ娘の子達のカオをいちいち確認したりせずにはいられなかった。
     知り合いの子たちにもそんな様子を何度も見られちゃって。チケゾーどうしたのなんか困ってるなら手伝おうか? って、優しい声もかけてくれたりしたんだけど。大丈夫大丈夫なんでもないから心配しないで~!! ってウソの返事をして、そのたんびにまた心に重しがのっかった。

     ノーミソの中にあるのは、ただひたすら。
     昨日公園で見た、あの。
     タイシンと黒猫さんの、あの光景だけだった。
     消しゴムでも消えてくれなかった、鮮明に記憶に焼き付けられてる、二人の光景。

     ……え? ん、待って?
     校舎を走り回ってると、ふっとアタシのアタマの上で、はてなマークがビョンと飛び出して、グルグル回転しだした。
     もし、そういう特徴のある子が、アタシの他にいたとして。(そもそもトレセン学園の生徒かどうかすらも分かんないけど)
     それでさ。どうするの?
     その子に教えてあげるの?

     ――実はキミに似てる猫さんがいてね! タイシンがとっても可愛がってるんだよ!

     ――って?
     うーーん。シリメツレツ、ってやつだよね。
     何のこと言ってるんだか、さっぱり向こうは分んないだろうし。

     や。
     でも。
     もしもそのイミが――相手に分かったとしたら。
     その誰かさんに、タイシンのキモチが伝わった、としたら。
     ――そしたら?
     そうしたら、どうするの……?
     アタシは、どうすればいいのかな?

     はてなマークは空気の抜けたタイヤのようになって、アタシのアタマの中に再びしゅぽんと吸い込まれていった。
     じゃあ、じゃあ今、アタシは――。

     どうすればいいんだろ。
     どう、すれば――。

     んっ。
     あれ。
     そもそも。
     アタシは、なんでこんなに。
     なんでタイシンと猫さんの会話が気になってるんだろ。
     なんで。
     なんで、アタシは、タイシン、に――。
     ――――。

     そんなとまどいがグルグル渦を巻き始めた時、アタシの中に一番強烈に浮かんできたのは。
     あの時の、タイシンが黒猫さんに囁いていた――アタシが、聞き取れなかった、なにかを語りかけていた、あのワンシーンだった。
     神さまから出題された、誰もまだ答えを知らないクイズ。アタシにだけ手渡された真っ白けの解答用紙。
     それを解き明かすカギが――きっと、あの光景のどこかに眠っている。

     知りたい。

     あの時、タイシンが。
     黒猫さんに、なんてしゃべってたのか。
     知りたい。

     知りたい――知りたい・・・・
     そこに、きっと。アタシが求めている答えが。ひっそりと隠れてる。

     アタシの中の渦巻き模様の名無しの感情に「知りたい」ってナマエが与えられて。
     それはそれは、ぐにゃぐにゃしたヘビさんみたいな生き物に成長して。
     そして、アタマの中をずるずる這いずり回り始めた。


     そしてしばらくの間、しゅうしゅうと忙しなく音を立ててるそのヘビさんをずっと飼い慣らし続けながら――何日かを過ごすことになった。


    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

     ――――そしてそれから数日後。
     また、ある日のこと。


     学園での一日も無事終わり――心の中はぜんぜん無事じゃないけど――ちょうどトレーニングが同じタイミングで終わったハヤヒデとタイシンと、3人で揃って、ちょっと町にでも遊びに寄ってから帰ろうってことになった。
     ハヤヒデがそばにいてくれると、タイシンがすぐ近くにいても、ヘイジョーシンをぎりぎり保ちながらなんとか彼女に接することができた。
     やっぱりこの3人の空気感、って、特別なんだ。
     ふたりがへにゃへにゃになっちゃっても、もう一人がしっかりチーム全体を底支えして、体制を立て直す。ホント抜群のチームワーク!ってやつだ。


    「そういえばさ、ハヤヒデ。アンタが前に進めてくれたオイルだけど」
    「ああ、どうだったね、あれ。疲労回復に加えて、匂いもリラックス効果があって、良かったろ」
    「ん。悪くない感じ――だった」
    「それは良かった。あのメーカーのものは全種購入してみたんだ、気になるものがあったら言ってくれ、またいつでも貸すよ」
    「アロマオイルって良いよね~、アタシも最近カタログに載ってたのコンプして、バッチリ副交感神経優位になっちゃうやつ見つけちゃったんだ!! 今度みんなで交換しあおーよ!! あ、あと、父さんから教えてもらった新作ですっごい良いのがあって……!」
    「……アンタらふたり、そういうとこはほんとマニア気質だよね……。ま、色々試させてもらえてるのは、感謝してるけど……」

     そんな風にして、お日さまがさんさんと光を照らしてるアスファルトに、みっつ分の尻尾の影を揺らしながら。いつもみたく、おしゃべりしながら歩いてて。


     ――そしたら。


     3人が歩いてる道の、その、だいぶ前の方から——。
     真っ黒な、お団子みたいな物体が。こっちに向かって、ひょこひょこって近づいてくるのが、見えた。

    「……ん……?」
     タイシンもそれに気が付いたみたいで、目を凝らしてお団子をじいっと見つめ始める。
     ――それはもちろん、お団子じゃなくて。
     お互いの距離が狭まるにつれて、それが、——あの、黒猫さんだっていうことは。
     それは、すぐに分かるようになった。
     ――そして、そのコは。
     昨日、公園で見かけた、あの、黒猫さんだ。
     タイシンが、抱っこして、頬ずりしてた――まさに、あの子。

    「おや、猫だな。こんなところで珍しい」
     ハヤヒデも黒猫さんを見て、そう言った。
     猫さんがシャヘーブツのない、こんな視界の開けた見晴らしのいい道路脇をトコトコのんびりとお散歩してる光景は、確かにちょっと、あんまり見たことがない気がした。
     人や自転車がすぐ横を通り過ぎても、驚いて隠れちゃったりすることなしに気ままに歩いてて。
     なんだかアニメ映画のワンシーンとかを見てるみたいな気持ちになった。

     それから、アタシ達と黒猫さんの距離がどんどん縮まっていって。
     ついに、アタシ達のすぐ足元まで、猫さんは接近してきた。

     そして、遠くにいた黒猫さんの姿が、どんどん大きくなってくるにつれて。
     すぐそばにいるタイシンの動きが、なんだか解像度の低い動画みたいに、すっごくギクシャクしてきてるのが、横目で分かった。そしてそれは――たぶん、アタシも、同じだった。

    「わ、と……とっ」
     ついに黒猫さんは、アタシのちょうど足元の所まで来て。
     そこで、ぴたっと歩くのを止めた。
     アタシ達も、歩く速度を遅めながら――停止。

     こうして。アタシ達3人と黒猫さん、エンカウント。

     猫さんはアタシのローファーのところに、なんだかニオイでも嗅いでるみたいにカオを寄せてきた。
     あの猫さん――あの時の、タイシンとお話してた、黒猫さん。
     その子が、こんなすぐ近くに、足元にいる。
     そう思うと。アタシまで、なんだかムネがドキドキしてきて。
     隣のタイシンと一緒に、ゼンマイが伸びきってる振り子時計みたいにコチコチの状態になっていた。

    「ほう。さきほど歩いていた様子でもそうだったが……かなり人に慣れているネコなのだな。ふふ、お前のことが随分とお気に召しているらしいぞ、チケット」
     そんながたぴし状態のアタシ達二人の様子とは正反対に、猫さんに興味津々な感じのハヤヒデは、ニコニコしながらアタシ達の様子を見ている。
     それからハヤヒデは、すっと屈みこんで、猫さんの顔を間近でじいっと観察し始めた。
     そして。
     こう言った。
     決定的な一言を。


    「……ふむ……、こうして見るとなにやら、この猫――まるで、チケットのようだな」


     その台詞が。ハヤヒデの口から出てきた時。
     まるでロックバンドが、ドラマーのカウントに合わせていっせいに演奏を開始するみたいにして――アタシとタイシンは、コンマ秒のズレもないほどのタイミングで、同時に激しくむせかえった。げほげほげほって。それはもう思いっきり、激しく。

     ハヤヒデはその様子を目の当たりにして、慌てて立ち上がって、おろおろとアタシ達ふたりを交互に見渡してる。
    「な、なんだ? お前達、揃いも揃って急に、一体どうしたっていうんだ、大丈夫か? 私は何かおかしな事でも言ったか?」
    「げほ、けほけほっ……え、えっ? 何、なんのこと? ハヤヒデ、なんか言ったっけ?」
    「いや、その猫が、チケットに似ているな……と、そんなことを言っただけなのだが」

     そしたらタイシンは、とんとんって胸を軽く叩いて荒れた呼吸を落ち着かせる仕草をして(ぜんぜん落ち着いてなかったけど)、それから、こう言った。

    「えっ、どこが? いやいやぜーんぜん違うよ、違い過ぎるでしょ。チケットのバカ面と似ても似つかないよ。ほらこーんな可愛いカオしてんのにさ、この子」

     ううっ。なんだか今、さりげなーくとってもヒドいことを言われた気がしたっ。

     それでもハヤヒデは、自分の意見を曲げずにタイシンにがんばって抵抗する。
    「うーむ、そうだろうか、しかし――いや、見たまえよ、やはりその猫のカオは――」

     そしたらタイシンは、思いっきり激しく蒸気を吐き出しながらフルスピードで突進してくる機関車みたいな勢いで、ハヤヒデの言葉を遮るようにこう言った。

    「いやいやいや。アタシは思ってないから。この子のカオの白いぶち模様がチケットの絆創膏みたいだとか、瞳がチケットの耳の色に似てるだとか、元気いっぱいで懐っこくて優しい顔つきしてるところがチケットそっくりだとか――そんなこと一ミリも、一ミクロンもアタシは思ったりなんかしてないからね、絶対の絶対に。今までにただの一度もそんなことはないからね、マジでね」

     そのタイシンの言葉は、ハヤヒデが言いかけた台詞に対する返事としては、明らかになんだかおかしかった。
     それはアタシでもハッキリ分るくらいにヘンテコだったんだけども。
     でも、とにかくとんでもない勢いでタイシンがまくしたてるものだから。ハヤヒデも、そのおかしさに気が付いていても、圧倒されっぱなしでそれを指摘できないみたいだった。

    「オーケー、分った、分ったから落ち着け。クールダウンするんだタイシン。今にも血管が切れそうな顔をしているぞ、深呼吸だ。副交感神経をフル稼働させるんだ」
     ぜえぜえと、まるで3200mの長距離を無理矢理全力でぶっ飛ばしたみたいに息を切らしてるタイシンを、ハヤヒデがどうどうとなだめる。

     そして。
     タイシンが、――こっちを、見た。
     その目はまるで、出刃包丁がぎらぎらと光りを放ってるみたいに鋭かった。
    「なんでアンタまでそんな反応してんの」と言わんばかりの突き刺すような視線。
    そのあまりのすさまじい剣幕に、しっぽも耳もぶるぶる震え上がってしまう。怖い。今のタイシン、ものすっごく怖い。

    「まあ、タイシンはともかく――本当はともかくどころじゃないが――、なぜ、チケットまでそんなに動揺している? 先程から耳と尻尾の慌ただしさが尋常じゃないぞ」
    「え、そ、そっかなぁ~~? あ、アタシはいつもとぜ~~んぜん変わんないよお、あははは…!」
    「下手な演技は君らしくないな……目がプロスイマーのように泳ぎまくってるぞ。――まったく、この猫と君らふたりの今の心境とが、どう繋がっているのか、論理的にさっぱり理解できないよ。どんな因果関係がそこにあるって言うんだ? やれやれ……」
     こんなにお天気なのにハヤヒデの眼鏡がもくもくと曇る。
     うん、ワケ分かんないってのは、それはそうだよね。なんだかハヤヒデに申し訳なくなっちゃう。
     ていうか。アタシだって、何が何だか分かんないってのは同じだった。
     そしてそれは、タイシンも、きっとそう。
     とにかく――このカワイイ黒猫さんを中心の目にする恰好で、アタシとタイシンは、台風みたいにスゴイ勢いの暴風にさらされながら、ワケも分からずグルグル回転してるみたいな。
     そんな状態だった。

     そして――アタシ達3人がそうやってドタバタしてるをよそに。
     黒猫さんはのんびりマイペースで、今度はタイシンの足下にすりすりとカオを擦り寄せている。とても心地よさそうに。
     それをハヤヒデがじっと見つめて、そして改まった様子で言う。
    「うーむ、しかしだね、やはりチケットを思わせる何かがある気がするのだがな、その黒猫。カオだけじゃなく、そういう仕草などが――」
    「――ハヤヒデ」
     タイシンが怒りのオーラをぎゅっと詰め込んだみたいな一言でハヤヒデの言葉の先を封印する。
    「うん、悪い。すまなかった。もうこの話題は口にしないでおくよ――天地神明に誓って。何が何だかさっぱり分らんままだが……うむむ……」

     ちょっとしょげてるハヤヒデが気の毒で、乾燥わかめみたくしおれちゃってるその髪の毛を撫でてあげたい気持ちになってたら――そうしたら黒猫さんは、今度はアタシの方に飛び跳ねるようにやってきた。
    「わ、わ……」
     なんだか抱っこしてもらいたげにアタシの両足に前足をのっけてきてる黒猫さんを、思わず抱き上げてあげる。
     ちょうどアタシのバンソウコウをつけてるところに、猫さんは自分の白いぶち模様を、ちょうど重ね合わせるようにしてすりすりと顔を寄せてくる。
    「く、くすぐったい~~! も、もう、ダメだってば~!」
     そうやってじゃれ合ってる様子を。
     タイシンが。じいっと見ている。見つめている。

     今のタイシンが何を考えてるのか。
     その視線にどんな気持ちが込められてるのか。
     想像するのは、なんだかとっても怖くって。臆病になってしまって。

     だから――だから。アタシはそこで、ぜんっぜん自分でも思ってもいない様なことを、口走ってしまった。黒猫さんに――タイシンに向かって。

    「あ、あはは、元気いっぱいで人馴れしてて、可愛いコだね~~! う、うん、確かに、タイシンのゆうとおり、アタシにはぜ~んぜん似てないかもしんないけど!」

     ――そしたら。
     黒猫さんは突然、にゃあっ、と鋭い大きな声を出した。

    「うわっ!」

     まったく予想もしてなかったことに驚いて、思わず声が出ちゃったアタシの腕の中から、猫さんはするっと抜け出して。地面にさっと、音もなく降り立った。

     そして――そのまま、アタシ達三人を置き去りにするようにして。
     たたたっと道路脇の方へ、走り去っていってしまった。


    「……行っちゃった」
    「……行ってしまった、な」
    「……」
     ハヤヒデも、――そしてタイシンも、ちょっとボーゼンとした感じになって、猫さんが姿を消してしまった方向を見つめている。
    「ど、どうしたんだろ、急に……なんかアタシ、あの子を怒らせるようなこと、言っちゃったのかなあ」

    「……」
     無言。
     タイシンは、そこで何かリアクションをすること自体が、弱点をさらけ出すことにつながるかのように、いつも以上にがっちりガードをトゲトゲに固めたハリネズミさんになっている。
     ハヤヒデも、口の中で何か言いたいことをキャンディみたいにモゴモゴ沢山詰め込んでいて――でもそれを外に出さないように、必死でかみ砕いて飲み込んでるみたいだった。

     ついさっきまで賑やかに猫さんと触れ合ってた楽しい時間がウソかマボロシだったみたいで。アタシ達の間を、ぴゅうっと冷たい風が一陣、吹きすさんでいった。

    「え、えっとえっと~~、あはは~……」
     アタシはカラカラの、水分のない乾いた笑い声を上げながら言った。
    「ま、まあさ、猫さんだもんね! 気まぐれなんだよ、まあ、またどこかで会えるかも知んないし〜!」

     アタシは、ぎいぎい音を立てる錆びた自転車のチェーンみたいなこの空気に、無理やりにでも潤滑油をぶっかけるみたいにしてあれこれしゃべったけど。
     でもその自転車は最後までよれよれのままで。
     タイヤの回転が勢い良く元気に復活することは、その日のうちは、なかった。

     結局その日、3人は商店街に着いた後も、なんとなしに、それぞれ行きたいところがあるから――みたいな雰囲気になって。
    自由解散、て感じで、散り散りになってしまった。


     日もすっかり暮れた、夕方過ぎ。
     なんだか気もそぞろなまま、あちこちで1人きりのまま時間をつぶした後。
     寮の自室にとぼとぼ戻ってきた。
    「ただいまぁ〜……」
    ドアを開けると。先に帰ってたジョーダンが、ベッドに寝っ転がりながら、何やらスマホで動画らしきものをニコニコしながら見ていた。
    「あっチケゾーさんおつ~。——ねえねえ見てみこの子たち、可愛さパなくね」
     そう言ってジョーダンがこっちにスマホ画面を向けてくれたのを見ると。
     それは、猫さんと飼い主さんらしき人が、じゃれ合ってる様子を撮影したっぽい動画だった。

     飼い主さんが合図すると、三毛猫さんはそれに合わせてジャンプして、飼い主さんとハイタッチ。
     それから別の合図をすると、トコトコ歩いていって、三毛猫さんよりずっと高い位置の、テーブルの上に乗ってるおやつをぴょこんとジャンプしてキャッチ。
     三毛猫さんが戻ってくると、飼い主さんは猫さんのアタマをいっぱい撫で撫でしてあげて。三毛猫さんはその間もじっとお利口に両足揃えて待っている。

     それはほんとにアウンの呼吸っていうか、まるで、本当にお互いが会話し合ってるみたいに見えて。
     犬に比べると猫はこういうしつけが難しいって聞いたことがあったけど。
     それでもその動画の中の猫さんは、本当に人のコトバをすっかり理解して、行動しているようでーー。

     そして。その動画を脇から見てる時。
     アタシの脳みその中で、急に何かがぷくぷく膨れ上がって――ぱちん、とチューインガムみたいに音を立てて弾けた感じがした。

     ネコってすっげー賢いんだね~あたしらよりもアタマ良いんじゃねーの~ってにっこり笑顔で言ってるジョーダンの横顔を見ながら、アタシは慌ててこう言った。

    「ねえねえ、ジョーダン。あのさ、こういう猫さんたちとアタシ達ってさあ、いっしょにおしゃべりするとか――そーいうことってさ、できるのかなあ?」

    「はぁ?」
     こっちを向いたジョーダンの顔は、まるで数学の授業で突然先生から当てられた時みたいになっている。
    「や、いきなりそんな事聞かれても分からんし。……なになに、ネコともダチになりたいの? 交友範囲パねーからな~チケゾーさん、とうとう動物とも……」
    「ん、えとね……なんていうのかな。ちょっと気になるコがいてね。どうしても、お話してみたいことがあるっていうか、それでね」
    「……へー、そうなんだ。……ふーん……」
     アタシの返事のトーンに、ふざけて言ってるような雰囲気を感じ取らなかったのか。
     彼女は、いったん動画をストップさせて、スマホを脇に置いたまま、俯いて何やら考え込む仕草を始めた。


     そう。そうだ。
     なんで今まで思いつかなかったんだろ。
     もし、もしもあの黒猫さんに、また会うことができたら――。

     聞いてみれば良いんだ。
     あの時、タイシンが。
     キミに、何をささやいてたの――って。

     それを、それを知る事ができれば、アタシは。
     少なくとも、このもやもや解決のスタートラインには立てる。
     今は、ゲート入りすらひたすら大苦戦中って感じなんだ。
     それさえできれば――。


     うーんうーん……とジョーダンは瞼を伏せて、アゴに手を当てながらしばらく唸っている。
     それから、突然目をぱちっと開けて、こう言った。

    「ま、何とか話せるんじゃね。根性で」
    「こんじょー!?」
    「そうそう。何事も気の持ちようってやつっしょ。――つかさ、そーいうので悩むのってさ、なんかチケゾーさんらしくねーじゃん。まずはさ、全力でネコに話しかけてみれば?」

     こんじょう、ぜんりょく、かあ。
     なんだかジョーダンに言われると、確かにそんな気がしてくる。
     アタシは胸の奥にエネルギーが湧き起こってくるのを感じて、右手をばっと垂直に突き上げて、思いっきり叫んだ。
    「……うん、分かったよっ、ありがとジョーダン!! よーーしっ、気合入れて猫さんとお話するぞおおーー!! うおおおーーーっ!!」
    「お、いいじゃんチケゾーさん、その調子その調子。なんか知らんけどガンバれ~、応援してっから! ……ま、根性だけじゃなんともなんねーかもしれんけど~」

     なんだよそれ~コンジョーってゆったのジョーダンじゃん~。――あっははごめんごめん~。
     ――そんな風にして、ふたりして、けたけた笑い合いながら――。
     その日の夜は、とっぷりと、ふけていった。


    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

    似ていると思っていた。
    前からずっと。

    柔らかな毛並みに包まれたこの子たちは、いつも気まぐれでやんちゃで、でも、信じられない位に――純粋。
    その暖かなカラダに触れていると、透明な水になったような気持ちになる。
    己の魂に巣くい続ける病巣が消えて無くなってしまうみたいに。

    ありのままの自分・・・・・・・・――という意識すらも蒸留されたセカイ。
    それはとても心地がいい。
    ずっとこのままここでいたいと思う。
    腕の中で眠りについているこの子は、きっとそんな場所で生きているんじゃないかって思う。

    なぜ、この子たちは、こんな風に生きられるんだろう。

    なぜ――なぜ彼女は・・・、ああやって生きられるんだろう。

    彼女は。
    この子たちにとても良く似ている。
    自分が愛してやまないこの動物に。

    皮膚も肉も剥がした魂の奥の奥まで風に吹き晒しにして。
    それでもずっと笑い続けてる。
    笑いかけてくれる彼女。
    ――そっくりだ。

    この子たちの毛並みに触れる。
    指先から自分の体内に、どこまでも続いている草原が広がっていくのが分かる。
    何にも自分を捕らえるもののない沃野に自分がひとり。立ち尽くしているような。

    この子たちといるときだけは。
    ……彼女といるときだけは。
    そんな安らぎが。与えられている。



    ――――そして。
    ある日、とある公園で出会った、その子は。
    似ているなんてものじゃなく、まるで――。

    その子の瞳は。
    それは彼女の、美しい緑の耳を思い起こさせた。

    太陽の光をいっぱいに受けた若木の梢。
    雨降りの後の夜更け、朝露を身に纏った青草。

    時間も空間も超えて、どこまでも広がっているような、あのターフ。

    それは自分がどこまでも恋焦がれて、でもどこまでも追いかけても、離れていってしまうものだった。

    その輝きが、同じ光を宿した瞳が、今。目の前にある。

    その子に何度も何度も話しかける。
    その子を彼女に見立ててーーいや、彼女そのものに話しかけるみたいにして――。
    何度も何度も。彼女に届けられない言葉を、音声を、心の叫びを。


    声は、その子の緑色の瞳の中に、ただ飛び込んでいく。エメラルド色にきらめく水しぶきをあげて。
    緑の海の波間に浮かぶ声は、やがて泡になって、形も無くして、消えていってしまう。
    後に残るものはない。なんにも。


    彼女の言葉を思い出す。
    彼女に捧げる花が、どんな花言葉を持った花だろうともーーそこには、自分の本当の気持ちが込められているはず。
    そんなこと。

    本当にーー本当にそうだろうか。
    なぜ彼女はそんなことを、自分に対して言ってくれたんだろうか。
    自分には、そんな――自分だけの花言葉を持つ花を、彼女に届けられるような――。

    そんなことが出来るのだろうか。
    この子にしゃべりかけているだけの自分に――。




    猫に話しかけるしかできないこんな自分に。できるだろうか。


    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


     ――さて。それから、何日かが過ぎ去って。
     トレーニングの日々の合間、午後に時間の余裕が出来たある休日。
     友達からの色んな誘いを、ほんとゴメンねまた一緒に遊ぼうね――って断ってしまって。
     そうしてまで、あの場所に――あの公園に行ってみた。

     今日は、公園の中には、誰も人はいなかった。
     誰も回す人のいない、広場中央の円形の遊具が、まるでギリシャの古代建築みたいにして、そこにどっしりと大地に根を張り続けるように佇んでた。

     そんな公園の風景を、隅から隅まで眺めていると。

     あ。
     ――いた。

     あの猫さんが。ベンチの上で、のんびりひなたぼっこしてた。

     こんな広い街中で、あの猫さんにピンポイントでもう一度遭遇するなんて、やっぱり難しいんだろうなあって思ってたところも。正直あったんだけど。
     そんなアタシの不安を吹っ飛ばすみたいに――当たり前の日常の風景みたいに、あの黒猫さんは、そこにいた。いてくれた。

     そっと、木製のベンチが音を立てて軋まない位に、猫さんが逃げちゃわないように、そっと。
     猫さんの隣に座った。
     猫さんはぴくりとも動かなかった。ただ、背中のところが規則正しい呼吸のリズムで上下してるだけだった。まるで波の立ってない穏やかな海面のゆらめきみたいに。

     黒猫さんを起こさないように静か~に、アタシは身を屈ませて、猫さんの顔を間近で見てみる。

     ん。ていうか、この子ってそもそも野良ネコさんなのかな?

     首輪を付けてるわけじゃないけど、ひょっとしてどこかの飼い猫さんなんだろうか。
     こうやってお昼時はこの辺をお散歩してるだけだったりとか。
     そんなこと考えそうになってると。
     ふと、その子の左っかわの耳が――ちょこっとだけ。逆三角形状に。
     欠けているのに、気が付いた。
     この前ハヤヒデとタイシンと一緒に見た時は、ちょっと動揺してたせいか気がつけなかったけど。

     最初それを間近で見た時は、この子の耳が誰かに齧られちゃったのかと思って。瞬間、胸の奥を針で強く刺されたような思いがした。
     でも、その後すぐ。前にタイシンと、神社で猫さんのことでワチャワチャやり取りしてた時のことを思い出した。
     ――猫さんの中には、えっと、なんて言ったっけ……そうだ、地域猫――っていう、地元の人たちがみんなでお世話してる子たちがいて。
     フニン手術してることがすぐ分かるように、こんな風に耳にちょっとした切れ込みを入れてるんだって。
     これ猫さん達痛くないのかな、大丈夫なのかなあ? って、何度もタイシンに聞いたんだった。
     確か耳の左右で、性別が分かるようになってて……ええと、この子の場合は……そうそう、女の子の猫さん、ってこと。

     野良猫さんって、かなり瘦せてしまっている子もよく見かけたりして、そういう猫さんを見るとどうしても辛くなってしまって。(でも現状じゃ、全部のネコを助けられるわけなんてないから問題なんでしょ――と、すごく真剣なまなざしでタイシンが言っていた。)
     でもその子は、体周りも結構ぽっこりしてて、毛並みも普段から丁寧にブラッシングされてるみたいにふわっふわのさらっさらで。

     そっか。地域猫さんなら、ちょうどお散歩コースも特定のエリアに限定されてるだろうし、ちょうどこの公園もその中に入ってるってことなのかな。だからまた、ここでキミと出会えたんだ。
     そう言えば前に、ハヤヒデとタイシンと3人でこの子と出会ったのも、ここからそんなに離れてない場所だったし。
     どこか、この付近で。この子を大切にお世話してくれる人たちが、ちゃんといてくれてるんだ。
     そう思うと――胸の奥が、とても安らいだ。
     勿論それは、アタシのただのオクソクってやつに過ぎないんだけど。でも、この子のふわふわ毛並みの一本いっぽんに、沢山の人たちの暖かさと優しさが宿っているような。そんな気がしてならなかった。

    「ネコさん、ちょっとゴメンねっ」
     黒猫さんの両脇を抱えて、そっと持ち上げてみる。
     猫さんは全然暴れたりせず、おとなしく抱っこされたままになって、こっちを不思議そうな目でじっと見てる。
     ひょっとしてこの子の方でも、アタシのことをふたごのきょうだいみたいに思ってたりして。

     さて。
     さっそく、猫さんとお話チャレンジ。
     やってみようかなっ。
     昨日の夜ジョーダンが言ってくれたみたいに。アタシらしく全力で。
     ――この子に、あの日の……タイシンとの出来事を、教えてもらうために。

     ……って言っても。いつもみたいにでっかい声で話しかけたらびっくりしちゃうだろうから。そーっと、適量音声で。
     えーと。猫さんがいつもしゃべってるみたいにみゃーみゃー話しかけてみればいいのかな……。

     ――って。
     そうやって思って、ネコさんコトバを口に出しかけたまでは、良かったけど。

     あれっ。そもそも。
     アタシがにゃんにゃん言っても、猫さんはなーんにもワケわかんないのかな? ひょっとして。
     アタシが全然分かんない外国の言葉を、デタラメにしゃべってもどうしようもないのとおんなじで。
     「黒猫さん、あの日たいしんがキミになんてしゃべってたのか、教えてくださーいっ!」って、アタシ、それを英語でもぜーんぜん言えないのに。
     猫さん語で言えるワケないんだよね……むう~~。

     うーんうーん……。
     どうしよう。いきなりカベにぶち当たっちゃった感じ。
     やっぱりコンジョウ、ゼンリョクだけじゃどうにもなんないのかなあ。
     実はこの公園に来る前の日に、ちょっとゲン担ぎっていうか気合入れに、ジムで普段より多めに汗流してきたんだけど。そこで鍛え上げてきた筋肉が、期待されてた活躍の場を無くしちゃって、ふわ~ってアクビし始めてるような感じがした。
     どーすればいいのかなあ……。
     ……。

     ――ん、あ! そういえば。
     あの時のタイシンの様子を思い出したら……、そうそう、たいしん、フツーにウマ娘のことばでしゃべってたっけ。
     猫さんサイドでアタシ達の言葉とかは分かってくれたりするのかも?
     なんかすっごい賢い猫さんだったりして、この子。この前ジョーダンが見てた動画の猫さんみたいに。
     とりあえず、普段と同じ言葉で話しかけてみよっと。
     まずは出来ることから少しずつ――って、いつもハヤヒデもベンキョー教えてくれる時言ってくれてるもんね。
     えっと、まずはーー。

    「こんにちは、黒猫さん!」
     まずは元気よくあいさつ(びっくりさせない程度のコエで)。
     黒猫さんの耳がぴんって立った。
     それから、にゃっ、って、短い鳴き声を出した。
     これにはキョゼツとかそーいうニュアンスはぜんぜん感じなかったから、まずはファーストコンタクトは成功。うん、きっとそのはず。
     アタシは続けてネコさんに語り掛ける。

    「――ね、この前はさ、ゴメンね。キミとアタシがぜんぜん似てない、なんて言っちゃって。あれ、ウソだよ。ほんとはすっごーいそっくりさんだって思ってるんだよ。ひょっとしてアタシの前世ではキミときょうだいだったのかなぁ? って感じちゃってるくらいなんだから」

     そう言うと、黒猫さんは可愛いベロを出して、抱きかかえてるアタシの腕のところをぺろぺろし始めた。
     なんだかこれは、にゃあにゃあ語よりも、猫さんの気持ちがアタシでも直に伝わってくる気がした。いわゆるボディーランゲージってやつ?
     あ、やっぱり、この子ってアタシのゆってること分かってくれてるんじゃ?
     ――そうやって思いそうになるくらいに。
     その舌の感触は、とっても。あったかかった。

    「――ねえ、猫さん。キミの方でも、アタシと似てるって思ってくれてるのかなあ。ねえ、どう?」
     みゃあ。
     猫さんが元気よく一声鳴いた。
    「今のは、はいのみゃあ? いいえのみゃあ? ねえ、どっち?」
     再び、みゃあみゃあっとを声をだす黒猫さん。

     ……うーん。だめだ。ぜんぜんわかんない。
     やっぱりいざ言葉となると、途端にボウリングのガターにずどんってはまり込んじゃうみたいな気分。
     英語のリスニングがいつも赤点のアタシには、猫さん言葉はどこまでも難しい。
     喋りかけるのもダメなら、聞き取るのもできない……ってなると。
     これは今の自分じゃ、ちょっとお手上げだ。
     はい、いいえ、のやり取りも難易度SSクラスなのに。「タイシンとお話してた内容」の答えとか、アタシの方で理解できるなんて到底思えない。
     気合が全力でガラガラ音を立てて空回りしてる今のアタシ。ケージの中で一生懸命わっかを回してるハムスターさんみたいになった思い。

     ふうっと思わずタメ息ついちゃうと、黒猫さんはきょとんとした目でこっちを見つめている。あれ、どうしたの? って言ってるみたいに首をかしげながら。

     そんな猫さんの、ふわふわ柔らかいアタマを撫でながら、アタシはウマ娘の言葉で言う。
    「――キミは、いいなあ。羨ましくなっちゃう。あんなふうにタイシンに、優しく抱っこまでしてもらえて。タイシン、猫さんにはほんとに素直なんだもんなあ」
     猫さんが分かってくれてるかどうかも怪しいから――もうほとんど独り言みたいにして、アタシは黒猫さんのぽやっとした可愛いカオに向かって語り掛けた。

    「アタシも。アタシもああやって、タイシンに――見つめてもらいたい、な。いつもみたいにフツーにおしゃべりしてるだけでも、もっちろん! すっごーい楽しいんだけどね。でも。なんだか今はね、もっと違う気持ちも膨らんできてるんだ」
      猫さんは、そんな風に一人で勝手にしゃべり続けてるアタシの方に、すりすりと体を摺り寄せてきてくれる。
     
     ――なんだろう。
     こうやって、カラダを引っ付け合ってるときは。本当に気持ちが通じ合ってるみたいな。
     それが錯覚とか思いこみに過ぎないものだとしても――確かにそこに温度は、血液の流れる鼓動は、伝わってくるのに。

     それなのに。

     コトバ、って――。
     なんて、難しいんだろう。
     そんな錯覚すら抱くことができないなんて。

     それは、アタシが理解できない猫さん言葉とか、外国の言葉とか、それだけじゃなくって。
     普段の――アタシとタイシンがいつも会話を交わしてる時の、ああいう、言葉――。
     それでさえも。

     アタシは、いつもいつも、タイシンに、全力で叫ぶ。
     好きだよタイシン!
     タイシン好き〜! 大好きっ!
     タイシン大好きだあーっ!

     それが、ホントのアタシの、アタシだけの言葉だと――たったひとつのイミの「大好き」だって思ってる――思ってた、から。

     でも、ホントにそうなんだろか?

     ひとつのお花に、ぜんぜん違うイミの花コトバが、ヴェールをいくつも重ねがけするように着飾られているのとおんなじで。

     いつの間にか。
     アタシがタイシンに叫んでる「好き」も。
     そのカタチが、色彩が、変わって、いって。 

     いったいどんな服を――どんなドレスを着た言葉なのか。
     どんな装いをさせたいのか。
     アタシは、――。
     

     ふっと、空を見上げる。
     今日の朝は快晴だったお天気が、今では少しずつもくもくした雲が、いつの間にか表れ始めていて。
     少し肌寒さも感じさえるような、そんな冷え込んだ空気に周りも変わりつつあった。
     今頃。タイシンは、こんな曇り空の下で、どこで何をしてるんだろう。
     今日のアタシのタイシンソナーは、ぜんぜん働いてくれない。レーダー反応はどこまでも鈍い。
     彼女はどこかずーっと遠くの方にいるのかもしれない。
     こんな風にアタシが、この黒猫さんといっしょに、うだうだした時間を過ごしてることなんて。当然知らないままで。

     そうやって。
     猫さんをヒザにのっけたまま、公園のベンチから、遠くの方をぼやーっと見渡していたら――。


     ずっと向こう、はるかかなたの、歩道の方から――見覚えのあるシルエットが、こっちの方に近づいてくるのが、見えた。
     距離がこんなに離れてても分かる、すっと背筋の通った、モデルさんみたいにしゅっとした身のこなし。
     
     そのシルエットが大きさを増していって、その人のカオも見分けられるようになって。
     アタシの予想が確信に変わったところで、思わず大声が出てしまった。

    「あっ、エアグルーヴー!! おーいおーい!!」

     ――あっ。猫さんがこんな近くにいるのに。またアタシ叫んじゃって――っていうか、エアグルーヴも、突然透明の壁にぶつかったみたいにして立ち止まった。

     ダブルの「しまった」がアタシの胸の中でぐるぐる回り始めたけど、でも、今更遅かった。
     猫さんは、一瞬びくっと姿勢を変えて立ち上がったけど、すぐにまたしゃがみこんでアタシの腕の中にすぽっと収まってくれた。
     ふえ~、よかったよかった。ゴメンね驚かせちゃって。

     そして、エアグルーヴも、周りをきょときょと見渡した後。
     こっちの方に、スピードを少し速めて早歩きで向かってきた。
     
     そして。公園のベンチのところまで、彼女は来てくれた。
     おい、いったい何事なんだ――って言いながら。
     
     普段の制服姿と違って、黒のスキニーパンツスタイルにテーラードジャケットをぴしっと着こなしたの彼女のたたずまいは、いつもとはまた違った、ユーガな雰囲気を周り一面に漂わせてる。
     同じクラスメイトなのにすっごい子だなあって改めて思いながら、ちょっと眉の字が強めのカーブを描いてる彼女に向かって言う。
    「あ、エアグルーヴ、ゴメンね大声で呼び止めちゃって……! えへへっ」

     そうすると、エアグルーヴは頭をかりかり搔きながら、アタシと猫さんのいるベンチの隣にすとんと座って、こう言った。
    「まったく……街中で大声でこっちの名前を呼ぶのも程々にしてくれ。大型犬みたいだな、本当に」
    「えへへ、ごめんごめん。あ、ていうか今はアタシ、ワンちゃんっていうよりも、猫さんかもしれないけど」
    「? 何言って……」
    「ほらほら、この子」
     そうして、エアグルーヴの目の前に、黒猫さんを抱っこして、見せてあげる。
    「この猫がどうかして……ん、ああ……」
     エアグルーヴはその子のお顔を色んな角度からカンサツして、それから今度はアタシのカオもじっと見返した。
     それから右手を顎に当てて、ふむふむと頷いている。
     やっぱり、すぐ察してくれるんだ。
     やっぱりーー。
     そう思うと、またムネのドキドキが強くなる。

     黒猫さんもにゃん、にゃんにゃんって元気よく鳴いた。ふたりともそっくりでしょってアピールしてるのかな。

    「成程な、まあ確かにお前を連想させる所がなくもない、が……」
     それから、野良の猫なのか――と言いかけたところで、エアグルーヴもこの子の左耳に気が付いたみたいだった。
    「そうか、地域猫か。――この様子を見るに、随分と手厚く世話をされているようだな」
    「うん、アタシも詳しくは分かんないんだけど、きっとそうだと思う。――ね、可愛いコでしょ!」
    「ふむ、まあ、……うわっ」
     すると猫さんがアタシの腕からぴょいっと飛び降りて、エアグルーヴの足の周りをぐるぐる元気に回り始めた。
     彼女の右足首のところに前足を置いて、顔を摺り寄せてる黒猫さん。
    「おいおい……まったく、随分と懐こいんだな。こういう所も確かに……だな」
     彼女は、しゃがみこんで猫さんの首回りを優しくなでている。そうして、猫さんとアタシの表情をかわりばんこに眺めながら、柔らかい笑みを浮かべた。

     エアグルーヴ、普段はすっごい厳しくて、ちょっとコワい子だって思われちゃうところもあるけど。
     やっぱり根っこはすごい素直で優しくて、可愛い子なんだよなあ、とか、そんなことをそのキレイな笑顔を見ていて思う。
     まあでも、こんな事本人の目の前で言ったら、たぶん怒られちゃうかもしれないけど。
     そういうとこ、タイシンにちょこっと似てる子なのかも。

     ――あ――そうだ、そうそう! タイシン、タイシンだ!
     肝心なことがアタマから飛んじゃってた。

     そうだ、こんなタイミングでこの子と、エアグルーヴと出会えたのって。やっぱり、何か特別な奇跡みたいなものっていうか。
     何か――何かのつながり、、ってものを感じる。
     確かエアグルーヴは、猫さんと――。
     そう思ったアタシは、いてもたってもいられず――って勢いで、慌てて彼女に話しかける。

    「ねえ、ねえねえエアグルーヴ!今日、ちょっとだけこれから時間良いかなぁ?」
    「ん? 何か私に用でもあるのか、まあ特に急ぎの予定もないが……」

     そうエアグルーヴが返事してくれたのを聞いて、アタシはまた思わず大きめの声で彼女にこう質問してしまった。

    「あのさ、猫さん語、しゃべれるって本当なの!?」

     さっきまで黒猫さんを抱っこしてニコニコ顔だったエアグルーヴの表情が、アタシの言葉でぴくぴくっと、ワイヤーに引っ掛けられたみたいに引きつった。
    「は? 何をいきなり言っているんだ」
     声に急に凄みが出始めてるエアグルーヴにちょっとびくつきながら、慌てて返事する。
    「あ、いや、別にヘンな意味じゃなくって!! えっと、その子が、黒猫さんが何喋ってるのか、アタシも知りたいな~って思ったりしてて……」
    「……」
    「それでさ、エアグルーヴが、前に猫さん語を教えてもらったことがあるって、そーいう話を聞いたのを思い出して、それで……!」

    「まったく、どこからそんな話を仕入れてくるんだ。まあお前の交友関係の広さを考えたら、至極当然のことなのか……」
    そう言うとエアグルーヴは、いったん猫さんをヒザの上にそっとおろして、腕組みしながら言った。

    「まあ、それは事実だ。セイウンスカイから直々に指南を受けてな。私もあれから、こっそりとあれこれ調べたりもした。猫と我々との、言語を介しての意思疎通――その可能性について」

     ……なんだか言ってることがハヤヒデ並みに難しいけど。要するに、エアグルーヴも猫さんともっとおしゃべりしたい、仲良しさんになりたい、って思ってたってことかな。
     そう思うと、なんだか微笑ましくなっちゃう。

    「おい、何をにやついているんだ。何かおかしな所でもあったか、私の言っていることに?」
    「えっ!? いやいや、カンケ―ないよっ、ただの思い出し笑いだから!! ……え、えっと、それでさ、猫さん言葉のこと、ちょっと教えてもらえたらな~って……」
    「――ふむ、まあ……構わないが」
    そういうとエアグルーヴは、こっちをじっと見つめてきた。「教えるからにはきっちりみっちりと指導していくぞ」みたいな、学園の先生みたいな雰囲気を出しながら――彼女は、喋りだした。

    「結論から言うと、普段の私たちウマ娘同士が交わしているようなコミュニケーションのレベルで猫と会話するのは、――まあこれは相当に困難だろうと思われる。セイウンスカイとか、ああいう常識を超えたレベルの連中はまた別なのかもしれんが……私のような者では、おそらくそこまで行くのは到底無理だ」
    「……」
    「猫が我々の言語に反応しているのは、もっとシンプルな、音節の重ね合わせや、その言葉のトーン、響きといったレベルにおいてだ。それに対し、我々は今目の前に存在している事物についてのみならず、もっと抽象的な対象を指し表す言語を記号的に用いることによって、より複雑な、社会的コミュニケ―ションを行っているわけだ。言葉と言葉の間に横たわる意味合いの連続性を読み取る能力を基にした会話を私たちは可能にしているのであり――そのような差異を前提に入れたうえで、我々と動物との言語コミュニケーションの可能性を考えねばならない。しかるに、猫との会話においては――」

     ――――。
     うーーん。がんばって、がんばって付いていこうとしたんだけど……。
     なんだかエアグルーヴの言葉の一つ一つが、だんだんと、ふわふわの羊さんのようにアタシのアタマの中をぴょんぴょん跳ねていくみたいになって。
     いっぴき、にひき、さん――。

    「おい、人の話をちゃんと聞け、おいっ!」
    「うわあぁっ!? 羊さんが急にこっちに突撃してきたあぁーーっ!!? ……――って、ん、……あれ……?」

     ふっと気が付くと目の前には、手で顔を覆ってるエアグルーヴの姿があった。
    「……まあ、私の話し方も悪かった。はあ……もうちょっと違う切り口で行こう」
    「……ゴメンナサイ……」
     アタシの耳がへにゃんてなるのとほぼ同タイミングで、エアグルーヴがふうっと長い息を吐く。

     ――それからエアグルーヴは、少し雲が灰色に陰りだしてる空をちらっと見上げた後に、こう言った。
    「――そうだな……例えば、この猫に『今日はこれから雨が降りそうだから屋根のある場所に隠れていろ』と伝えても、おそらくこの子は、私の言ってる内容を理解できないだろう。それは言語情報の伝達性の問題というよりも、そもそもそういった言語的な思考システムの在り方が、私たちと猫とでは根本的に異なっているからだ」

    「え、でも……猫さんって、雨模様になってきたら、ちゃんと自分から雨宿りに行ったりするよね。それくらいお利口さんなんだから、やっぱりアタシ達の言ってる事も分かってくれてるんじゃないのかなあ?」
    そう返事すると、いや、それはやはり少し違うなーーとエアグルーヴは黒猫さんを撫でながら呟いた。

    「雨降りの日に猫が自分から軒下に隠れるのは、雨の触感や匂いや音といった形で得られる生理的反応と、それに伴う猫の行動とがダイレクトに神経回路を媒介して結びつく形で、生存のために必要な情報として学習されているからだ。その結果として、私たちが言語的に表現するところの『雨を避けられる場所に移動する』という形で出力された行動をとっているに過ぎないのだからな。『雨』と『隠れろ』のそれぞれを、ひとまとまりの志向性を伴った意味として繋ぎ合わせられるような——そういった言語と言語の因果関係そのものを私たちと同じように把握しているわけでは、おそらく無いんだ」

     う――ん、えーとえーとぉ……。
     エアグルーヴのゆってることをアタシなりにガンバってまとめてみると。
     つまり、アタシがいっちばん知りたい「あの時タイシンはキミになんて言ってたの?」ていう質問は、きっとこの子には伝わんないかもしれない――ってことなのかなあ。やっぱり。
     雨が降るから隠れてね――も、通じ合わせるのがムズカしいなら。それってもっと難易度が高くなっちゃうのかも。
     コトバ、って。やっぱり、難しいんだなあ――。
     アタシたちと猫さんの会話もだし、……そもそもそれを言っちゃったら、アタシ達ウマ娘同士だって、それはーー。
     そんなことぽやぽや考えてたら。

    「というか、だ」
    「へ?」

     さっきまで真剣な面持ちでしゃべってたエアグルーヴが、今度はこっちを問い詰めるような声のトーンに変わって、話しかけてきた。
     ちょっとビクッてしながら彼女の方を見る。

    「そろそろ本題に入れ。いったいぜんたい、お前は猫と何を話したいんだ?」
    「え、えーー」
    「先ほども言ったが、猫と話すにあたって、私にも出来る限度がある。お前の要求次第によって、その可否を判断したうえで返答せねばならない。まずそこが分からなければ――漠然としたままでは話が前に進まないだろう?」
     エアグルーヴはアタシの心の奥まで見通すような目で、こっちをじっと見ている。

    「えっと、えっとえっとね。アタシが知りたいのは――」

     しどろもどろになる。
     ど、どうしよ。いったい何て説明すればいいんだろ?
     そうだ、エアグルーヴにこういう相談する――ってことは。それはつまり、アタシとタイシンと、この猫さんとの間の深いふかーーいこんがらがった事情を、ぜんぶそっくりそのまま、彼女に説明しないといけなくなるってことでもあるんだ。

     そんなことすらもよく分かってないまま、アタシは彼女に、猫さんコトバを教えてもらおうとしてたんだ。ただその場の勢いってやつだけで。
     わーー、アタシのばかばかバカー!!
     タイシンがいっつもアタシのことを言う時の、その2文字がアタマの中で回り始める。水族館の回遊水槽のクロマグロみたいにぐーるぐるっと大量に、ものすごいいきおいで。

    「おい、どうした……? 何固まっているんだ」
    「ふえっ!? な、なーんでもないよっ!! あははは〜っ、……え、えっとなんだっけ、そうそう! アタシがエアグルーヴに聞きたいことなんだけど〜、……」
     はちゃめちゃになってる頭のまんまで、もうその場しのぎの答えを彼女に向かって、デタラメに並べ立てる。
    「その、あのね。あ、アタシの知り合いが、その黒猫さんとお友達でね。で、その子が――その黒猫さんと、何か喋ってるところを、グーゼン見かけちゃったんだよね~。そ、それで……」
    「……」
    「それでねぇ、いったい何をおしゃべりしてたのかなーって気になっちゃってぇ。そ、それで、……えっとえっとぉ……」
    「…………」

     しっちゃかめっちゃかなアタシの言葉を聞いてるエアグルーヴは、目を切れ味の鋭い名刀みたいに光らせてこっちを眺めまわしている。真っ赤でキレーなアイシャドウも、曇りがかって薄れかけてる陽光を何倍にも吸い込むようにして、ぎらぎらと燃え上がってるみたいに見える。
     こんなはぐらかした事言っても、彼女もワケがわかんないよね――っていうか、アタシが下手なウソ付いてるってもうバレバレみたい。

     うう、そうだよね。アタシもお散歩中のエアグルーヴを無理に引き留めて、こんなお願いをしてるんだもん。
     ちゃんと、正直に、本当のことを話さなきゃ。
     そうじゃなきゃ、フェアじゃない。

     だから、もうアタシは、ハラを括って――ぜんぶまるっと、話の流れをエアグルーヴにぶちまけることにする。

    「て、テキトーなこと言っちゃってゴメンっ!! ホントのこと言うとね、タイシンが――タイシンが、あの子が、その黒猫さんと――何か、アタシについて大事な何かを喋ってたのを、アタシこの前、たまたま盗み聞きしちゃったんだ」

    「? タイシン、が?」

     エアグルーヴは、突然出てきたあの子の名前に、ちょっとビックリしてるみたいだった。
     あ、でも、驚いてても仕方ないのかも。だって今まで、ぜんぜんタイシンとカンケ―ない話してたようにしか思えなかっただろうし、エアグルーヴにしてみたら。

    「? すまん、まだ話が見えてこないんだが……タイシンが猫と何かしら会話をしていたことが、どうお前に関わってくるんだ……? なんだ、その『大事なこと』というのは?」
    「――ええとね、ええと……それはっ……」

     エアグルーヴはしっかりしたコだから、分かんないことは全部キッチリ整理整頓しようとする。
     モヤモヤしたまんまにしない。だからあんなカッコイイ副会長でジョテイで、みんなから尊敬されてる子なんだ。
     ――うん、それって大事なことだ。
     だから――だから、アタシも。

    「タイシン、タイシンもね、その猫さんを、アタシとそっくりだって言ってくれて……それで、それでっ、その子に、とっても優しいコトバを、こ……恋人さんにかけるようなコトバを話しかけてたんだ。ーーまるで、アタシに向かって喋りかけてる、みたいに」

    「……む、――」
    「でも、その肝心のところが、うまく聞き取れなくって。だから、だから――アタシ、その猫さんから、それを聞き出したいだなんて、そんな事思っちゃって」
    「――――」
     そこで、ようやく。エアグルーヴに少し反応が現れ始めた。目をぱちくりとさせていて――アタシが何を言ってるのか、そのジジョーを、少しずつ察し始めてくれてるみたいだった。

    「それを盗み聞きしちゃってから、ず——っとアタシのアタマの中に何だかよくわかんないのが、グルグルとぐろを巻いてるんだ、ヘビさんみたいに。そこに居ついちゃったまんまなんだ」
    「チケット、おい、それは――」

     エアグルーヴが何か言いかけるけど。
     当のアタシは。エアグルーヴに説明するために喋ってた、自分自身のコトバを、頭の中でまた繰り返し、ジモンジトウし始めててた。

     ――なんだかよく、わかんないモノ?

     いや。
     違う。
     分からなくなんかない。
     この蛇さんの正体が何かなんてこと。 
     そんなの最初っから分かってたんだ。
     ぜんぶぜんぶ。

     それをアタシは。それに向き合うのが怖くて怖くてたまんなくて。だから色んな回り道をして、アタシと似たカオの子を探したりだの、黒猫さんに質問してみようだの、そんな事ばっかりやってたんだ。

     レースの最終コーナー回って、インコースがばっちり空いてるっていうのに。ひょっとしてなにかそこに――蛇さんみたいな、何か潜んでるんじゃないかって不安でいっぱいいっぱいになっちゃって――そこを攻めきれずにわざわざ外回りに膨らんじゃって、大幅タイムロス。それが今のアタシだ。こんなのじゃ、ラスト直線ジマンの末脚炸裂大勝利! なんてワケ、いくはずがないんだ。

     すっかりバ群に包まれちゃってるアタシは、それでも、そこから――ゴールに向かう、1着に繋がってる、微かなラインを、細い細い縫い目を通すみたいにして抜け出すために――ここで一歩。踏み込まなきゃいけないんだ。

     だから、アタシは。
     それを――はっきり、言うことにした。
     コトバにして、カラダの内側から引っ張り出すことにした。
     今目の前にいるのは、タイシンじゃないんだけども。
     それでも。

     それを今、この場で。
     言わなきゃいけないんだと思った。


    「だって、だってアタシも、タイシンのことが、あの子のことが好きだから、大好きだからっ!!」


     ――ずううっとアタシの中でのそのそ動いてた蛇さん。
     その蛇さんが、ハッキリとした、言葉に姿かたちを変えて。
     ぽーんってアタシのアタマの中から勢いよく飛び出した。

     
    「――――……。……。」
     アタシの言葉を聞いたエアグルーヴは。
     固まっている。

     あ。
     アタシ、アタシ――。
     エアグルーヴの様子を見て、アタシもちょっと流石に、この時間、この場所の空気にもいっかい、再び、意識が舞い戻ってきた感じになって――。

     なんだかどうも、自分がいつも以上のおっきい声で。ものすごいことを叫んでしまったことに。
     その圧倒的なジジツに。ようやく気がつく。

    「あ、あの、エア……グルーヴ〜……」
     それから数秒後――エアグルーヴはちょっと頬に赤みを取り戻して、周りをきょろきょろと忙しなく見渡して、それから早口で言った。
    「おい、おいおい。いきなりこんな公共の場で、そういう事を大声で喋るんじゃない。落ち着け、いったん」
     そう言ってアタシの肩を揺するエアグルーヴ。
     自分でも分かってなかったけど。アタシは随分と、はあはあと息を切らした状態だったみたい。
    「あ、う、うん……」
     そうやって、ふわふわした頭のまま、彼女に返事して。
     ちょっと深呼吸して、キモチを落ち着かせようとしたら、……したら――。


     そうしたら、今度は。
     突然。涙が出てきた。


    「あ、あれ……」
     自分でもなんでこんなタイミングで泣き始めるのか、ワケが分かんなかった。
     でも、でもその涙は――なんだか、イヤな気分で出てきたものじゃ、ぜんぜんなかった。
     ずーっとつっかえ棒が引っかかってた水門が開けられて、勢いよく水が気持ちよくあふれ出したみたいな。

    「なんなんだ、おい、今度はどうしたんだ? 本当に大丈夫か、お前……!?」
    「うええ~~ん……!! ご、ゴメン、なんかゴメンねぇえ……!!」
    「落ち着けというに、まったく、こら……!」
     そんなアタシ達ふたりの光景を、黒猫さんだけが、ぽやっとした表情で。ふわわ〜ってあくびしながら――グリーンの瞳で、じいっと見つめていた。


     そんなこんなで。
     アタシ達は、ひとまず。
     公園内の、ベンチに座り込む。猫さんと一緒に。ふたり+一匹。

     アタシがまだぐすぐす泣きべそかいてると、エアグルーヴはキレイな刺繍の入った高級そうなハンカチを差し出してくれる。
    「……ちょっとは気持ちが静まったか? ほら、これで涙を拭え。いつまでも泣いているんじゃない」
    「うう~……ゴメンねエアグルーヴ~~……」
    「気にすることでもない――って、おいおい、そんな勢いよく鼻までかむ奴がいるか……」
    「わ、わ~~!! もうホンットなんかいもゴメンねええぇ、思わずチーンてしちゃってええ……!! ちゃあんと洗って返すからああぁ……!!」
    「もういい、構わん。それはそのままお前にやる。予備のものも持っているしな――まったく……突然呼び止められて、猫の言葉を教えて欲しいだのなんだのと喋っていたと思ったら、あんな事まで聞かされるとはな。予想もしていなかったぞ」

     そう言って、エアグルーヴは苦笑いを浮かべながら猫さんの毛並みを撫でている。
     ――あんな事・・・・まで。
     彼女はきっと気を遣って言葉を濁してくれているけれど。
     でも、エアグルーヴにも分かってるんだ。


     そうして、アタシのくにゃ~っており曲がった背中を、エアグルーヴは優しくさすってくれる。
     ハンカチ汚しちゃったのに、こんな優しくしてくれるなんて。ホントーになんて、なんて良い子なんだろ……。
     そんなアタシの様子を見て、口元を柔らかくほころばせながら、エアグルーヴがアタシを励ましてくれるような、しっかりとした口調で、言った。
    「どうだ、落ち着いたか――チケット」

     ――うん、もうだいじょぶ!
     そう返事しようとするのと同じタイミングで。
     エアグルーヴのヒザの上で丸まってた黒猫さんが、急ににゅっと立ち上がって、エアグルーヴのほっぺたのすぐ間近にまで、カオを近づけてきた。
    「……ん? わっ、おい、何をするんだ……あはは、おいっ」
    「あ、あれ……なんか猫さん、急にエアグルーヴにすっごい甘えてるね、もともと懐っこいコだけど」
    「う、うむ……これは――は、ははっ、もう止めろというのに……」

     エアグルーヴもちょっと戸惑いつつも、ネコさんにじゃれつかれて、なんだかいつもよりずっと子供っぽくて可愛い、無邪気な笑顔を見せている。ちょっとキチョーなワンシーンだ、これは。ルドルフ会長やブライアンとかが見たらびっくりしちゃいそう。

     そして。アタシは、黒猫さんが急にこんなに、今まで以上に元気よくなった理由を、アタマに思い浮かべる。 
    「ねねっ、エアグルーヴ。た、例えばだけどさ、猫さんにずうっとひとつの名前を呼び続けると、その子はその名前に反応するようになる――くらいのことは、あったりするのかなあ?」
    「ん、ああ……そう、だな。それは間違いない。先ほどの話でも言ったが、ネコでも、我々が発する連続した音声をひとまとまりの意味として認識することは、おそらく可能でーーお、おい、そんな顔を舐めるな、化粧水が――あははっ」
     すっかりエアグルーヴに夢中になってる黒猫さん。
     アタシはその子に向かって。
     ち、け、っと、って。
     音を一つ一つ区切るようにして、話しかけてみる。
     
     ――そうしたら。黒猫さんは、今度はアタシの方にぴょんと飛びついて生きた。両方の前足をこっちの首回りに預けてきて。思いっきり、おカオをこっちの頬に擦り寄せてきてくれた。
    「わ、わわ〜! ひ、ひげがちくちくするよお〜、あはは、もうダメだって〜……あははは……!」

     そう。そうなんだ。
     そもそもこの子ーー名前はなんて言うんだろ、って。
     今までぼんやりとした感じてなかったこと。
     今までずーっとアタシ、黒猫さん黒猫さんって当たり前みたいに呼んでたけど。
     地域猫さんで色んな人にお世話されてるなら、きっと何か名前があるんだよね、きっと。

     でも。
     この反応を見てるとーーこの子。
     明らかに。アタシの名前で呼ばれ慣れてる。(や、アタシとぜーんぜんカンケーない「ちけっと」って名前の子だったりする可能性もあるかもしんないんだけど。)
     ほんとの名前(ほんとの名前?)とは違うていうかーー色んな名前で呼ばれてる、って事もあるのかな?

     

     ただ。
     この黒猫さんが、アタシの名前に反応している様子を見ていると――。
     なんだか。
     ――違和感。
     そうとしか表現できない気持ちが湧き起こってきた。
     名前、名前――。

     ふっと、思い出す。
     何の会話の拍子だったっけ。
     タイシンは、どれだけ猫さんと仲良くなっても、その子に自分から名前を付けることはないんだ、って。そんなことを言っていた。

     それはどうしてなの、って、タイシンに聞いたんだっけ、聞かなかったんだっけ。
     どっちにしても、その理由を、今のアタシは知らない。(もしくは思い出せない。)

     だからだからこそ。
     この子が、チケット――アタシの名前を呼ばれて反応してることに。なんだか不思議なキモチを抱く。

     ただそれは、魚の小骨みたいなちくっとした感触で、引っこ抜かれたら後はどこかへ消えてなくなってしまうようなものだった。
     アタシとネコさんの様子を、右手を顎のところにやってじいっと興味深そうに見てるエアグルーヴの視線がピンセットみたいになって、アタシのそんな不思議の針がすぽんと抜けていった。

     そしてエアグルーヴがこう言った。
    「ふうむ、これは……、先ほどのお前の見聞きした、タイシンの様子と合わせると、確かに――、……」
    「た、たしかに……?」

     そうやって、アタシがエアグルーヴのコトバの続きを待ってる、会話と会話のスキマーー。その僅かな、狭い狭いゴールポストみたいな空間に。
     
    突然、あらぬ方向から。ボールがキレイにぽーんと蹴り込まれてきた。


    「成程な。委細承知した。そういう事だったのだな」


     ん? イサイショーイチ? 何それ、誰かの名前?

     最初は、エアグルーヴが突然、ちょっと声変わりでもしたのかと思ったくらいだった。
     それくらいその声は、アタシ達ふたりの会話に入り込んでくる間合いがあまりに自然過ぎたものだから。その場にアタシとエアグルーヴ以外の誰かがいただなんて、初めはぜんぜん分かんなかったくらいだった。
     え。っていうか今の声って、よく考えたら――いや、よく考えなくても……?

     そう思いながら振り返ると、そこにいたのはーー。

    「ぅひゃあああぁっ!!! び、び、びっくりしたーー!! ハヤヒデ!??」

     そこにいたのはーー柔らかい雲みたいな、キレイな髪を、湿り気を帯び始めてる風になびかせながら立っていたのは。
     言うまでもなくアタシの大親友、ハヤヒデだった。

     えっ。なんでここにいるの?
     そのコトバが上手くクチから出てこなくって、ただ目ん玉を見開いて彼女の方を見ていることしか、しばらくは出来なかった。

    「そ、そこまで驚かなくても、良いのではないだろうか……。突然話しかけたことはすまなかったが、君たちがあんまりにも熱心に話し込んでいたので、なかなか割り込むタイミングを計れなくてな……」
    「タイミング、ってーーおい。普通に出てくればいいだろう……私も心底肝が冷えたぞ」
    「ははは、すまない。だが良いサプライズにはなっただろ、サンタは人を驚かせるプレゼントをしてこそ、だからな」
    「今はクリスマスシーズンから完全に外れてるのだがな……北半球はおろか南半球ですら。まったく」
     エアグルーヴもだいぶ驚いちゃってるみたいで、手を胸のところに当ててハヤヒデのほうを見ている。
     そんなアタシ達の様子と裏腹にーー黒猫さんは、ぴょんとハヤヒデのふわふわ髪のところに飛び移る。なんだかサンタの新しい、でっかいオーナメントみたいに見える。

    「お、おいおい。そんなところにぶらさがらないでくれ、流石に髪が痛い。――よいしょ」
     ハヤヒデは猫さんを髪から持ち上げて、腕の中に抱きかかえる。
    「初めまして――ではないな。これで二度目になるわけだな、君とこうして会うのは。……まったく、あの時、道の途中で君と遭遇した時の、タイシンが機嫌の悪い洗濯機のように荒れ回っていたのを思い出すな。――私にもようやく事の経緯が見えてきたわけよ、今の君らの会話を聞いてな」

     ハヤヒデが喋ってる間も、猫さんはハヤヒデのふわふわの髪のところにカオを近づけて、まるで甘くて美味しそうな綿飴かなにかだと思ってるみたいに、すんすんとニオイを嗅いだりぺろぺろしたりしてる。
     アタシはその様子を見てほっこり和んでいたけどーーでもすぐに、ある事に気がついて。慌ててハヤヒデに問いかける。そうだ。ハヤヒデ、さっきからこんな近くにいて、アタシたちの話を聞いてた、って。
     それって、つまり――。

    「あ、あのさ、ハヤヒデ……ちなみに、アタシ達の会話、どの辺から聞いてたの……?」
     するとハヤヒデが猫さんを撫でながらにこやかに言う。

    「ん? ああ、それはね……『エアグルーヴ、猫さん語喋れるって本当なの!?』ぐらいからだね」

    「ほっとんど最初っからじゃんかああぁーー!! ううっ、じゃあ、さっきアタシがおっきい声でゆってた事も、トーゼン……」
    「勿論、聞こえ過ぎるほど聞こえていたとも。——というか、君は自分の声量のデシベルをもっと把握しておくべきだよ。少なく見積もってもこの半径100m圏内にはあらかた伝わったのではないかな、先ほどのチケットの青春の叫びは」

    「ひゃ、ひゃくめーとるううーー!! うわああーーん!! 恥ずかしいよおお~~っ!!」
    「というか、そんな前から盗み聞きしていたのか……なぜもっと早く姿を現さなかったんだ」
    アタシのカオが完熟トマト色になってる横で、エアグルーヴがハヤヒデに聞いた。
    「いや、盗み聞きとかそんな他意があったわけじゃないのだがね。君らの話していた内容が、私の通暁している分野でもないものだから、ついつい真剣に聞き入ってしまってたんだ。——というか、途中からはとても割って入ることのできる空気じゃなかったろ、君ら」
    「――まあ、あの時は、確かにな……。はあ……」

     そんなハヤヒデとエアグルーヴの会話を横で聞きながら。
     もうアタシは、さっき自分が大声で言ったことに関して、ずと耳から頭にかけてぐわんぐわんしっぱなしだった。
     今更、なんてもんじゃないけれど。

     そうだ。アタシ、なんて、なんてことをあんなボリュームゾーン限界で言っちゃったんだろう。
     なんかあのときのアタシは――もうランナーズハイみたいな状態で。恥ずかしさとか、そんな心のカベがぜんぶぽーんって取っ払われちゃってて。

     百メートル――ひゃく、めーとる? それって、ここからかぞえて、どっからどのへんくらいまでなんだろう?
     トレセン学園でいったら、敷地のどこからどこらへんまで?

     もしかしたら、もしかしたらーータイシンも。この町のどっかにいて。あのアタシの声を、聞いちゃってたとしたら。もしもそうだったら――。

     うわ、わーー!! わあ〜〜……!!

     そ、そんなの、想像するだけで、わわわわ〜……。
     そんな風に、シュウチシンがカラダ全体を一気に満たして体温を急上昇させていって。
     そしたら、その数秒後。今度は、ものすっごい脱力感がアタシに襲いかかってきて。全身の力をくにゃくにゃに溶かしていった。
     ダメだ。もうなんか、へにゃへにゃだ。力が入んない……。

     そんな水槽の中のタコさんみたいになってるアタシに、ハヤヒデが、こう言ってきた。

    「ーーおい、チケット。どうしたんだ、何1人で急に身悶えし出したと思ったら、急にへたりこんで」
    「……ふえ? なに、はやひで〜……?」
    「……まったく、ふにゃけた顔をしてる場合じゃないぞ。よく聞いてくれ。——私はこれまで、チケットとタイシン、ふたりを間近で見てきて――もちろん、我々が友人関係であるということを鑑みても、いや、寧ろ友人であるからこそ――君らの間にある特別な磁場には、立ち入らないよう心掛けてきた。意識的にな」

     さっきまで穏やかな顔つきだったハヤヒデ。
     今は、真剣だ。
     真剣そのものだーーまるでレースに向かう直前のような。気迫のこもった顔つきと声色に変わってる。いつの間にか。
     ど、どうしちゃったんだろう、急に?

    「へ……は、ハヤヒデ……?」
    「いくら我々3人が強く堅牢に結び付いた間柄であろうとも、それはやはり第三者の私が踏み込んではならない領域だと、そう心得ていたからだ。……だから、だからこそ――ずっと歯がゆかった、とてもな。なぜならどう見ても君らはお互いにかたおも……けほん、いや、まあそれは置いておいて――時には夜に歯ぎしりで同室のオペラオー君をいささか驚かせてしまったほどには、歯がゆい思いをしていた」
    「そ、そーだったんだ……はぎしり、だいじょぶ……?」
    「うむ、私の歯はいたって健康でな、特に支障もなかった。オペラオー君も、ハヤヒデさんは歯ぎしりまでヴィオラの壮麗なスピッカートのようだねえ――とか彼女なりに気を遣ってくれて……って、そんな話はともかく」

     そこでハヤヒデは、ごほんと一つセキをした後で。こう続けた。

    「だが、私は事ここに至って――あえて踏み込もうと思う」

    「ふ、ふみこむって、はやひ……」
    「チケット、君は先ほど、なんて言った?」
    アタシのコトバに覆いかぶさるようにして、ハヤヒデがアタシに問いかけてくる。
    「へ? ……うーんと、はやひではぎしりダイジョーブ? って」
    「違う違う。そのもうちょっと前だ。君の大きな声が広範囲に聞かれてた事を知って、――どうだと言った?」
    「え、えっとぉ……は、はずかしいよ~……のとこ?」
    するとハヤヒデは、右手の人差し指をぴしっとアタシの目の前につきつけた。まるでむずかしい数学の数式を解いた時の学者さんみたいに。
    「そこだ。それこそが今回の件の、一番のコアなんだ」
    「……こ、こあ……」

     そしてハヤヒデは、両手でアタシの両肩をぐっとつかむ。
    「わわっ、は、はやひでっ……」
    「何故今更『恥ずかしい』などと思う? おかしな話じゃないか。毎日郵便受けに入ってくる朝刊みたいに君は彼女に、タイシンに『好き』をいつもいつも元気いっぱいに届けてるじゃないか、律儀に、欠かすことなく、衆目に触れる形で。君がハードワーキングでピースフルなポストマンだなんてことは、100メートルどころじゃない範囲で知れ渡ってる周知の事実だろ」
    「ちょ、ちょうかん……? ぽすとまん……?」
    「そうだ。毎日の習慣、普段と全く変わらない日常だ、テーブルに座ってバナナミルクでも飲みながら寝ぼけ眼で新聞読むなんてことはな。君はそんな何てこともないような、しかし尊い日々の一幕を彼女にせっせと配達してきたわけだろ。――それが突然、恥ずかしいなどと思うのは――君が今タイシンの郵便ポストに投げ込みたいと思ってるものが、新聞なんかじゃないからだ。違うか?」
    「……」

     ハヤヒデはなんだか遠回しな言い方で、でもすっごく一生懸命に、言葉を伝えてきてくれる。
     きっとそれが、彼女なりの、アタシへの――アタシとタイシンへの、心づくしなんだろう。

     なんて。なんて良い子なんだろ、ハヤヒデって。
     こんなにじたばたしてるみっともないアタシに。  
     こんなにまっすぐに向き合ってくれるなんて。
     勉強の時でも、勿論レースの時でも――いつもハヤヒデはふにゃふにゃにへこたれてるアタシの背中を強く強く押してくれる。強すぎて背中に赤いヒリヒリが残っちゃうくらいに――でも、そのヒリヒリが。アタシの全身を駆け巡って、真っ赤なアツい炎になって燃え上がるんだ。今のアタシはサイコーの燃料を注入された、どこまでもぶっ飛んでいけるエンジン搭載型チケゾーなんだ! って感じになるんだ、いつも。

    「おい、チケット。――おい、よく聞くんだ」
    「う、うん、ハヤヒデ――」
    「いいか、ここから先は、お前がしっかりタイシンに向き合うんだ。もし本当にお前が――あのタイシンと、関係を前に進めたいのなら。もはや、猫がどうこう言ってる場合ではないんだ」
    「――」
    「こいつはある意味では、レースとおんなじことだ。これは君とタイシンの、真向からの真剣勝負なんだ。ただレースと違うのは――そこに、勝ち負けとは違うゴールが待っていることだな」
    「勝ち負けと、違う……」
    「まあ、私もこの手のことに聡いとはとても言えないので何なんだが……ただ、最終的には。君らふたりが、揃って同じ線で並び立って、互いの目と目を合わせ合うこと。それがひとつの目標地点、ゴールラインってものだろう。そしてそれは終わりじゃなく、ずっとずっと後に、飛行機雲のように伸びていく道筋のスタートラインでもあるのだろうが……ひとまず君らが目指す地平は、そこにあるのだろうと思う」
    「……」

     そう。君ならやれるさ。私は信じている――。
     そう言って、アタシの目の前で、ハヤヒデはびしっとサムズアップする。親指からバチコーンってパワフルな音と衝撃波が飛び出してきそうなほど力強く。風も吹いてないのに、ぶわっとアタシの前髪がなびいた気がした。
    「う、うん……! アタシ、ガンバるよっ!! アタシとタイシンの、真っ向からの真剣勝負――全身全霊で駆け抜けるからっ……!!」

     そうやって意気込んで叫んでたら。またまた、瞼と鼻の周りに水分の感触が染みわたってきた。それはもう大量に。
     あ、やばいっ、また涙とハナが~……! って、とっさにエアグルーヴからもらっちゃったハンカチを取り出そうと思ったところで――いきなり、ハヤヒデが、アタシの身体を抱きしめてきた。ぎゅうううーって、思い切り力強く――そして優しく。

    「へ、は、はやひでっ……」
     おっきなカラダのハヤヒデがギュウギュウにハグしてくれると、もうなんだか、安心感がハンパじゃなくすごかった。
     まるでお空のでっかいモクモク入道雲に、そのまますぽんってダイビングして、ふわふわ包まれてるみたいな気分で。
    「私からのささやかな贈り物だ。今はこうさせてくれ」
    「うう、は……ハヤヒデえ~~……!!」
    「いいさ、泣け泣け。いくらでも私の服に涙と鼻水を染みこませるが良い。君たちの青春の美しき結晶を、そのきらめきを――ともに分かち合おうじゃないか」
    「うえええ~~ん!! ありがどおおお~~!!っ き、キミは……、キミはやっぱりっ、サイッコーの大親友だあああ、ばやびでええーー!!!」


    「なんなんだお前たちは……私はいったい何を見ているんだろうな……」
    そんなアタシ達ふたりの超々カンドーの場面を横で見てたエアグルーヴがぽつりとつぶやくと、黒猫さんもそれに合わせるみたいに、ふにゃあ~~ってあくびするみたいな声を出した。

     超感動大作映画の中から抜け出してきたみたいな気分で、いったんハヤヒデのあったかいふところからアタマを離したアタシは、ぐしぐしハナをすすりながらエアグルーヴに向かって言う。
    「ぐす……、えへへ、ホントにありがとね……エアグルーヴも……!」
    「別に私は、特段何もしていないのだがな……まあ事情は十分察した。――ふ、なにやら思い出すよ。以前、こんなような事でお前の相談に乗ってやったこともあったな」
    「あっ、そうそう! ときめきをお届け、チケゾー宅急便、の時! あの時もエアグルーヴにお世話になっちゃったんだった!」

     あ、そうだ。そういえば。
     あの時——トレーナーさんに配達したい気持ちがある、って相談した時のことを思い出す。あの時の花束、ほんとのほんとにきれーだったなあ。トレーナーさんもすっごく喜んでくれて、ほんとにアタシも嬉しくって――。
     
     でも。
     でも、今の気持ちは――。
     これは、アタシだけの花。
     タイシンの郵便受けに届けたいもの。
     アタシ一人の、タイシンだけに向けられた言葉が添えられた、そんなお花なんだ。

     ちらっと、ベンチに書かれたぼろぼろプレートを見る。
     公園はきれいに使いましょうーープラス、お花マーク。
     プレートはもうずいぶん全体が色褪せちゃってて、そのお花マークも、ところどころ形が欠けて、元々どんな色だったのかわかんないくらいに変色しちゃってる。
     ――それでも、そのお花は。ずっとずーーっと、この公園の、このベンチのとこで、ガンバってひとりきりで、咲き続けてて。
     この公園でのんびりおだやかに過ごす人たちのことを、ここから見守り続けてきたんだ。
     ちっちゃなお花だけど――でも、誰にも負けないくらい、強い子なんだ。
     アタシのムネの中にも、こんなお花を咲かせられるだろうか。

     アタシの涙と鼻水をしっかり吸い込んじゃったハヤヒデの服と、エアグルーヴから貰っちゃったハンカチを交互に見る。うんうん、そう だ。アタシにはこーやって、アタシの背中を支えてくれるコたちがいるんだ。
     がんばれ、がんばれアタシ――!


     ――そしたら。
     いつの間にか、周りで、ポツポツと音がし始めていて。
     素肌のあちこちがしとしとと濡れる感触を覚えた。
    「ん……とうとう降ってきたか」
    「まあ、予報通りではあったね」
     そう言うとエアグルーヴとハヤヒデのふたりは、ささっと手際良く、カバンに詰めていたらしい折り畳み傘をささっと取り出して、ばさっと開けた。
     アタシも慌ててカサを取り出して、猫さんを抱きかかえて濡れないように開ける。
     ――そして、この雨降りは、いったんこの公園でのお話が、幕を下ろすことになる合図でもあった。

    「あ、ご、ゴメンね、エアグルーヴ、ハヤヒデ……! なんか二人とも、引き留めちゃって……アタシのことで、いろいろメーワクもかけちゃって。2人とも、これからまだ用事があるんだよね?」
    「何が迷惑だ、今更だろう……そんなしおらしさ、お前らしくもない。突然、猫の言葉を教えてくれだの珍奇なことを頼まれたと思えば、クラスメイトの込み入った話を延々聞かされたり……私にとっては街に所用に出向いた帰りの所に過ぎない、平凡な休日の午後の筈だったのだがな……」
    「チケットたちと同じクラスで良かったろ、エアグルーヴ君。これだからたまらないんだ、レースで競い合うだけに止留まらない、理屈じゃ図れない現象の目白押しなのさ、彼女らと共に過ごすのはな」
    「――まあ、な。まったくなかなか得難い、楽しい経験を積ませてもらっているよ。ふっ、本当に普段の教室でもだが、お前たちといると退屈という言葉が辞書から抹消されるんじゃないかと思えてくるな……」
     そう言ってふたりは笑い合った。

     そうして、風邪をひいたりするんじゃないぞ――とアタシはふたりに揃って言われながら。
     エアグルーヴとハヤヒデが。公園を去って、別々の方角に向かって立ち去っていくのを、見つめていた。


    「ふたりとも、行っちゃったねえ。黒猫さん、キミはどうする? まだしばらくここに、アタシといっしょにいる? 小雨だけど、しばらくやみそうにないし――」
     そう言ったら、黒猫さんはみゃーって言って。
     アタシの腕からするりと抜け出して、ちょっと小走り気味に、公園の外の方で駆け出して行った。
     猫さんもここで一時解散、ってことみたい。

     猫さんの背中に、細かい雨の粒が落ちてくるのを遠目で見て――アタシはこう言った。
    「黒猫さーーーん!! 濡れちゃってカゼひいたりしないように、ちゃんと雨宿りしてねぇーーっ!!」

     さっき、エアグルーヴが言ってたみたいに――黒猫さんにはアタシのそんな言葉は伝わらないのかもしれないのは、分かってたんだけど。
     それでも思わず声が出てしまって――。

     でも、そしたら。
     猫さんが急に立ち止まって。
     アタシの方を、ほんのちょっとの間、こっちの方を見てくれた。
     それから、こくっと頷いたような――。
     数秒間。
     そんな光景を見た、気がした。

     それからすぐに猫さんは元の方に向き直って。
     とことことこっと走り去っていった。

     公園のベンチで、雨を受け止めてる傘のぽつぽつ音を聞きながら、今見たもののことを、頭の中で考える。
     ひょっとしたら今のは、アタシが黒猫さんに言葉を届けたいっていう気持ちが、あーいうふうに見せただけの、ただのマボロシーー夢みたいなモノだったのかな。
     それとも、もし――もしホントに現実だったとしても、別にアタシの言ったことを理解してくれてたワケじゃ全然なくて。ただ反射的に振り返って、深い意味もなく首をちょっと上げ下げしたっていう、それだけのことかもしれない。

     でも――でも。それでも。
     アタシが猫さんに、キモチを届けたいっていう――そーいう思い、みたいなのが。
     それが、あの子に伝わったらなあって。


     そう思わずには――いられなかったんだ。


    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

     涼しげな風がさやさやと吹いていて、木々の梢を優しく揺すっている。おかあさんが腕に抱いた子供をあやしているみたいに。
     そして。
     その木の根元には。
     彼女がいる。


     自分は彼女を。
     見上げている。
     いつもと逆。

     柔らかいお日さまを背後に受けて、彼女の姿が、くっきり浮かび上がる。
     太陽の光は彼女の周りをローブのように覆っている。


     頭上に青い青い空は、ちょうど彼女の瞳からそのまま漏れ出して、一面に広がっているみたいな色で。

     彼女が屈む。
     目線が合う。

     今まで見たことがないような眼差し。
     その瞳に浮かぶ青い水の中で浮かんでいる自分。

     彼女が手を伸ばす。
     頭に触れて、髪を撫でてくれる。
     とても柔らかいその手のひら。
     その指先に流れてる温かな血液が、まるで自分の中に――深い深い谷底の清流みたいに、サラサラと。染み通っていくみたいで。

     ずっとずっと。こうしていられたらと思う。

     ずっとこうしていたいんだって――それを。

     伝えたい。
     彼女に教えたい。
     ココロを分かち合いたい。

     だから。

     彼女に向かって声を出す。
     ――――出そうと、する。

     出てくる言葉。

     にゃあ。

     口から出てきたのは。文字にすると、きっとそんな言葉で――。
     いや。
     それはコトバじゃなくって。
     モジじゃなくって。

     音。

     それは、ただの、だ。

     くすくす。
     彼女が笑う。

     それから、彼女も――その唇が動いて。
     何か。
     何かを語り掛けてくれる。

     それはきっととってもだいじなこと。

     でも――でも、でも。
     聞こえない。
     いや。聞き取れない。

     彼女が何を言ってるのか分からない。

     それもやっぱり。
     としてしか、聞き取れない。

     彼女の言葉の――音のひとつひとつ。
     それは、とっても、すっごくキレイで、甘やかで。
     草原に優しく降り注いでくる雨粒みたいで。
     それなのに。

     どうしてだろう?

     彼女と自分を隔てるもの。
     言葉と言葉を隔ててるもの。
     それはふわふわの柔らかい毛布で。
     そこにくるまれてるととてもとても幸せで。
     このままそうやって君と一緒にいたいって思う。

     でも――でも、その毛布の向こう側でしか。
     そこでしか。自分は、ホントの姿で、君に会う事ができない。

     だから、だから。もう一度君の顔を見上げて。
     それから――――。



     ――――そこで、目が、覚める。
     とても、とても幸せで。でも、寂しい、とても寂しい夢から抜け出す。
     現実の自分の手足を、頭を、口を、そこから発せられる声を確認する。


     彼女と。

     タイシンと。

     言葉を交わさなきゃいけない、って。

     そう思う。



    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


    「えへへ、また会えてうれしいな~。キミ、ほんとにこの場所が大好きなんだねえ。アタシもしっかりここの常連さんになっちゃった。とってもステキな、良いところだもんね、ここ」

     またまた何日かが過ぎ去って。
     そうしてアタシは。
     またあの公園にやってきて。
     そして、黒猫さんも。
     また前とおんなじように、ここにいた。


     お日さまがちょっと沈みかけてる夕刻。
     夜の闇色が少しずつ周りの空気を染め始めて、そこにカラスさんの鳴き声が彩りを添えて。
     いつものぼろぼろベンチに座ってるアタシの膝の上には。
     あの黒猫さんが手足を丸めて、ふわふわ生地の柔らかいブランケットみたいになってくるまってる。

     さっきから目を開けたと思ったら、またすぐ眠り込んじゃったり。
     夢と現実のお部屋をいったりきたりしてるみたい。
     そんな猫さんのアタマを撫でてあげながら、この子を驚かせたりしないように声を抑えながら、話しかける。

    「……ね、黒猫さん。この前はさ、ゴメンね。アタシ、かんちがいしてた――間違ってたよ、すっごく」
     黒猫さんがふにゃ~ってかすれたコエを出す。ちょっとずつ夢の世界から戻ってきてるのかも。
    「タイシンがさ、あの時。キミになんて話かけてたのか――それを、キミから教えて欲しい、なんてさ。ダメだよね、そんなの。そーいう、人の大事な大事なヒミツは、勝手にセンサクしたりしちゃ絶対いけないんだって。母さんや父さんたちからも、教えてもらったことがあったのにさ」

     瞼が重そうな、ぱちって開きそうな、その中間にいる猫さんを撫でながら、アタシはしゃべり続ける。

    「でもアタシ、どうしてもど——してもそれが知りたくなっちゃって。アタマん中がポップコーンみたいにポンポンはじけてさ。いてもたってもいられなくなって――ってやつで。――って、あはは、こんなの言い訳だよね。悪いコだなあ、アタシは」

     みゃ、みゃああ。
     猫さんのわずかに開いた口元から、魔法のランプから出てくるケムリみたいな感じの声が漏れだしてくる。
    「そうだぞ、ちゃーんと反省しなさいっ、って言ってるのかな? ――はいっ、ウイニングチケット、しっかり反省します! ……あははっ」
    そう言うと、猫さんは、くああってあくびする仕草を見せて、アタマをふるふるって左右に振った。
     それから、ぱっちりお目目になって、こっちをじっと見つめてきた。
     本格的にお目覚めみたい。

     キレーな瞳だなあ、って思う。
     ……タイシンが、アイツ・・・の耳にそっくり、って言ってくれた。あの緑の瞳。

    「あ、そーいえば……たいしん、って、分かるかなあ? ちょっと前にね、この公園の、この場所で、キミと一緒にいた子のなまえだよ。髪が透き通った水みたいに綺麗で柔らかくって、瞳が、雨上がりの良く晴れた日にぱあって澄み渡ったお空の色してるみたいな、ーーあの子のこと」
     猫さんが、ぴくっと反応する。
    「な、り、た――た、い、し、ん。とっても素敵な、キレーななまえでしょ。――アタシもね、なんべんもなんべんもその子のなまえを呼んでると、なんだかクチの中がすっごくあまーい香りでいっぱいに包まれるみたいな、そんな感じになるんだ。だから、タイシン、タイシンたいしーん! ってね、何回も言って。それでもまだまだ言い足りなくて、もっともっと、みたいになっちゃって。それで、あの子にいっぱい怒られちゃったりもするんだけどね。あはは」

     アタシが喋ってる途中に、猫さんが元気よくみゃあみゃあ鳴いた。たいしん、て言葉に応えるみたいにして。まるでその言葉が、猫さんの大好きな猫じゃらしになったように。
    「うん、そっかそっか。キミもやっぱりタイシンのことが好きなんだよね。とっても優しくって、良いコだもんね。――えへへ、アタシも好きなんだ、あの子のこと。……うん、アタシ、タイシンのことが。だーいすき」

     そうやって、アタシは猫さんに語り続ける。ちょうど、あの日、あの時――タイシンがやってたみたいに。

    「好き。大好き、大好き。タイシンのことが、――好き。……不思議だよね。今まで何回も何回もあの子に、好き、って言葉で伝えてきたんだ。ぜんぶ本気中の本気、全身全霊を込めてね」

    そうやって話してる間も、周りでは少し肌寒さが増して。公園の隅の電燈にぱっとライトが灯った。

    「でも、でもね。おんなじコトバ――同じ『好き』なのにね。そこに染められてる、色。その、色、が――少しずつ変わっていって。季節のグラデーションみたいにさ、ほんのちょこっとずつだけど色合いが違ってく、そういう半透明の色紙が、いっぱいいっぱい積み重なって。たくさんの色が織り混ぜ合って。今じゃ、もうどんな色をしてるのか。どんな色のお花をタイシンに届けたいのか。分かんなくなりかけちゃってた」

    猫さんがこんなアタシの独り言のイミを分かってくれるワケなんかないって、そう分かってても。
    それでも、こーやって、胸の中のゼリーみたいにブヨブヨしたモノを、コトバっていう固形物の乗り物に乗せてあげて。そうして口の外に出してあげるとーーそれは、何かしら、意味を持つように思えた。

    「ちょうど今こうやって、がんばってキミにお話ししてても――キミには、たぶんアタシのゆってること――伝えられないのとおんなじみたいに、さ。ずうっとしどろもどろのチケゾー。コース走っても真っ直ぐ走れなくて内ラチにぶつかりそうになったりで、もうてんやわんや」

     そんなことをずうっとしゃべり続けてると、黒猫さんはしっぽをくるくる風車みたいに回しながら、顔をアタシの掌に摺り寄せてきてくれる。
     猫さんの毛並みの柔らかさが皮膚に伝わる。――それは、アタシのコトバよりもずっとヴィヴィッドで色鮮やかな感触で。アタシのココロも猫さんの優しい色に染め上げられていく。

    「あはは、くすぐったい~! ――うん、ありがと。なんか、勇気づけられちゃった感じ!」

     ――アタシの声は言葉は、猫さんのふさふさ毛並みや柔らかい肉球やあったかい体の温度ほどはカラフル模様じゃないかも知んないけどーーでも。それでも。

    アタシは、自分の言葉を、ガンバって色付けしなきゃいけないんだ。
     綺麗なキレイな花びらを付けてるお花みたいに。

    「今なら――なんだか今なら、ね。タイシンに、伝えられる気がするんだ。アタシの口から出る、アタシだけの言葉で。ちゃんとさ、タイシンに、この気持ちを――――」

     そこまで言ったところで。
     それは、突然。やってきた。


     げほげほん。


     ――――。
     ――ん?

     なんだろ。
     なんか今、聞こえた。アタシと猫さんじゃない、何かの別の、何かの音。

     辺りをぐるっと見渡す。
     誰もいない。
     ……。

     もう一度、神経を研ぎ澄ます。
     周辺の空気の感触を、肌一面に吸い込ませるようにして。

    「――――……」


     ――分った。
     ぜんぶ分かっちゃった。
     音の発生源も。それが何の――誰のものなのかも。

     ……う――ん。
     どうしよう。これ。
     そのまま、気が付かないフリをした方がーー良いんだろうか?


     ――すると。
     黒猫さんがとつぜん、アタシの腕からぴょいっと軽やかに飛び降りて。
     そして。公園の奥の方に向かって、とことこ歩いて行った――そこはまさに、アタシのソナーが感知した場所だった。
     猫さんは奥の茂みの、草陰の中にがさごそと入り込んでいって、そしたら――。

    「わっ、ちょ、ちょっと! 今はこっち来たらダメだって……! く、くすぐったい……、、あはは……!」

     ――こんな。可愛い声が向こうから聞こえてきた。
     それは、ちょうどあの日――アタシが初めてこの公園にやってきた時。
     彼女と黒猫さんが一緒にいるのを見つけた、まさに――その場所からのものだった。


     そして。
     アタシはその公園の隅の――茂みの奥。
     あの日あの時。すべての始まりの場所に足を進める。

     そうして。
     黒猫さんとじゃれ合ってる、彼女を見つける。

    「――タイシン」
    「――チケット」

     そうやって。アタシたちは、顔を合わせた。

     じっとタイシンの顔を見つめる。
     トレーニングでもちょくちょくカオ合わせるし――そもそもおんなじクラスメイトなんだから、当然毎日のように会ってるんだけど。
     でも、こうやってまっしょうめんから彼女と向き合うと。
     衣替えで久しぶりに着る洗い立てのシャツを袖に通した時のような、そんなぱりっとした思いがする。
     ああ、そうだーータイシンって、こんな顔の子だったんだ。
     アタシが大好きな、親友でライバルで、それで、――――な、タイシン。

     アタシと黒猫さんが一緒にいるところを――。
     タイシンが、ずっと向こうの方から。
     ちらちらと、様子を窺っていたみたい。

     つまりーー今度は。
     逆だったんだ。

    「――――」
     タイシンは、猫さんを抱っこしたまま、地面に太い根っこを生やした樹木みたいにその場で固まってる。
     ひょっとして、アタシに見つかっちゃったらそのまま逃げちゃうんじゃないか、って。ちょっと不安だったけどーー。
     でも。タイシンはそこにいてくれた。

     そして。
     アタシはタイシンに、こう言った。

    「――こ、こんにちは、タイシン! あ、もう時間的に、こんばんは、になるのかな? この時間帯のあいさつって、こんがらがっちゃうよね!」
    「――たく、何それ。……アイサツとか、こんな状況でするか、フツー」

    「えへへ、だって最近、アタシとタイシン、しっかりお話できてなかったでしょ。だから――そこはさ。ちゃんとしたいなって」
    「仕切り直しーーってやつ?ゲーム盤整えるみたいに、リスタート?」
    「うん! もいっかいゲートイン、今度こそ体勢完了! みたいな!」
    「ーーはは。今度はスタート出遅れやらかさないように、ってか」
    「そうそう!各ウマ娘、キレーに揃ったスタートを切りました、みたいに!」

     そうやって笑い合ってると。ちょっと、いつものふたりの雰囲気に戻れた気がして。

    「ね、タイシン。せっかくだからさ、こっち来て、ちょっとお話しない? 勿論、猫さんも一緒にさ」
    「……」
     そう言うと、タイシンは黙ったまま、おとなしくこっちに来てくれた。
     そうして、アタシとタイシンは、隣り合ってそのベンチに座った。タイシンに抱っこされた黒猫さんもいっしょに。
     それはなんだか、この公園に最初に来た時に見た、あのお年寄りのふたりとワンちゃんみたいな。そんな取り合わせだった。
     またお口チャック状態に戻っちゃってるタイシンに、アタシは話しかける。
    「ね、ここ、のんびりしてて気持ち良いとこだね。昼間はお日様もぽかぽかしててあったかいし。猫さんやタイシンが好きなのもなんだか分るなあ」
     そう言うと、タイシンが頭をぽりぽり掻きながら、こう言った。
    「――うっさいな。ばか。……っていうかさ、アンタ、アタシに聞かないの」
    「へ? 聞く、ってーー何を?」
    「何をって。アタシが、こんなところで一体何してたのか――ってこと」
    「え、えと、それは――アタシたちのこと……じーっと見てたの、かな……? たいしん」

    「う、〜〜っ、……」

    「え、えへへ~。今度はタイシンのオンミツの偵察活動、失敗しちゃったね。この猫さんのお手柄かな。――あ、でもそれは、アタシもおんなじ、ってゆうか、――」
    「同じ、って。何それ」

    「うん、――もう、この際だからさ。……ぜーんぶ、ハクジョーしちゃうとね、――えっとね……」

     そうしてアタシは。
     あの日、タイシンと猫さんがお話してたのを覗き見しちゃってた事を、正直に――ぜんぶぜんぶ話した。
     もうここまで来ちゃったら。
     隠しておく事の方が――よっぽど、不自然で、おかしな事だったから。

     アタシが全部言葉を喋り終えたら。
     その時のタイシンの様子は、普段そうそうは見られないようなものだった。
     タイシンの中で色んな気持ちが、洗濯機の中でぐわんぐわん回りつづけて混ぜこせの洗い物状態になってるみたいに見えた。
     耳と尻尾の動きはひたすら忙しくて、カオは色んな感情が行ったり来たりで定まらない百面相で。
     それを見てると、アタシ自身も、じぶんが今告白した内容がとんでもない事だった、てゆうのを今更に――改めて思い知らされるようで。正直、手がふるふる震えてくるのをちょっと抑えられなかった。
     タイシンはまだクチの中をモゴモゴさせっぱなしで、いったいどの言葉をアタシに投げつければ良いのかずっと配球を迷い続けてるピッチャーみたいだった。
     ピッチクロックでとっくにボール扱いになってるほどの時間が経った後で――タイシンがようやく、コトバを発した。

    「……ま、うん……、そんな事だろうとは――こっちだってぜんぶ分かってた、けどね。もう十分にその事実を受け入れた上で、ここ数日をなんとかやり過ごしてきたんだけどさ。や、でも、でもやっぱ、いざアンタの口からそれを聞くと、……――」

     タイシンは右手を目のところにあてて、ぶんぶん頭を振る。
     それから長い長い息をついた。

    「あ、あのさ、たいしん……ぜんぶ、分かってた、って。……それ、いつぐらいから――」
    「いっちばん、最初っからだよ。アタシがこの公園でこのコとしゃべってた、まさにその日のうちから」
    「――」
     しっぽがぴんと逆立った。タケノコみたいにまっすぐ垂直に。
    「確信に変わったのは、もちろん。あのハヤヒデとアンタと一緒に、道のド真ん中でこの猫に会った、あの時だけどね」
     
     ――。
     それでも……たいしん、やっぱり、分かってたんだ。
     やっぱりタイシンの側にも、アタシを感じとれる探知機が備わってるのかな……なんてことを思ってる余裕もなくて。

     うう。
     なんだろ。……アタシ、ある程度はカクゴを決めてたつもりだったのに。
     こーやってタイシンと、ざっくばらんにムネのうちをさらけだして喋ってると。
     なんだかアタマがふわふわしてきちゃってるのが分かる。
     落ち着け、落ち着かないと。
     
     ……そしてタイシンは、そんなアタシに向かって、さらに追い打ちをたたみかけるみたいに、こう言った。

    「あのさあ。念のためにもいっかい確認しときたいんだけどさ。アンタ、本当の本当にーーアタシがこの子に向かって喋ってた内容、ぜんぶ、聞き取れたの?」

    「え――」
    「ぜんぶ、丸っごと分かったのか、って聞いてんだよ。アタシ、あの時相当に小声でしゃべってた所もあったからさ。——いくらチケットの超ハイレゾ地獄耳でも、あれだけの距離から声をキャッチできるなんて、流石に信じがたいところがあるから」
    「え、ええっと、……」
    「どうなの。チケット」

     今となっては、タイシンに完全にぐいぐい押される側になっちゃってるアタシは、慌てふためきながら、なんとか彼女に返事する。
    「そ、それって、タイシンが黒猫さんのお顔のすぐ傍まで口元を近づけて、何か、すっごく大切そうなことを……そおっと囁いてたところ――のこと?」
    「……っ……!! そこまでディテール付きで教えろって誰が言った、ったく……!」
    「わわ、ご、ゴメンっ!! ――う、うんっ、あそこの事なら――な、なにも聞こえなかったよ!! ホント、なーーんにもわかんなかったから! 頑張って聞き取ろうとしたんだけど……って、あ、あ~!! き、『聞き取ろう』って、別にヘンな意味じゃなくて、あわわわ……!」
    「……」

     なんだかもう、アタシも言わなくても良い事までポンポン口からピンポン球みたいに飛び出ちゃって。
     タイシンはそれを強烈にスマッシュで打ち返す――ってことは、でもどうしてだか、なくって。
     ただじっと、こっちを見つめているだけだった。
     そして――その真横にまっすぐ閉じられたままだった口が、ちょこっと開いて。そこから、可愛い笑い声が漏れ始めた。
    「あ、あの、たいしん……?」
    「――あはは、は……ホント、アンタはバカだね。極めつけの、ミシュラン三ツ星レベルのばかたれだよ。――でも」
    「で、でも……?」
    「……今回に限っては。バカなのはアンタだけじゃない」
    「……?」
    「考えてみたらさ。アタシもバカだったよ。アンタと同じくらい――いや、それよりもっとバカだった。そう、認めるよ、アタシはその猫のことを、チケットそっくりだと思ってた。たぶんハヤヒデやアンタが思ってる以上に、心の底からそう思ってたんだ」
    「え、タイシーー」
    「アンタに瓜二つなこの猫相手に、アタシはあれやこれや、普段だと到底言えないような言葉を山ほど投げかけてた。それは――その大半は、チケット。アンタが聞いた通りの内容だよ。もうここまで来たら、ダサい言い訳も釈明もしない。それは事実だから。ありののままの出来事だから」

     さっきから手に感じてたふるえが、全身にまで――胸の奥の心臓にまで届く。

     じゃあ、じゃあ、やっぱり――。
     あの時タイシンが言ってたことは――。

     きっとそうじゃないか、そうに違いない、そうであってほしいなあ――。いままでずーっと、そんなふうにココロが胸の奥の水底でずーっと右往左往して。
     それが、一気に海底まで光がぱあって差して。
     急浮上開始したみたいな。
     内蔵から手のひらまで、ぐっと温度が上がってく。


     でも。
     でも――そこで。
     タイシンは、――そんなアタシの浮き足立ってるハートをふんづかまえて。好き放題ぶんぶん振り回すみたいなことを、言った。

    「でもさ、やっぱアタシは間違ってたんだよ。決定的なとこでね。だって、――」

    「え……? ま、まちがってたって、え――」


    「その子が、アンタと同じなワケがないんだから」


    「え」
     え、え――?

     今度は、アタシが、まったく言葉というものを失ってしまったような。そんな状態だった。

     同じなワケ、ない。って。

     なんで、なんで――急に、そんなこと言うの?

     このタイシンの言葉を聞いたら、なんだか―――一気にカラダ中からエネルギーが、しゅう~って抜けていくみたいになった。
     いきなりまち針をぷすって刺された風船がしょぼしょぼに縮んでいくみたいな。そんな気持ち。
     だって、その子をアタシだと思ってくれて、それで、それで――あんな優しい言葉をたくさん、猫さんに、かけてくれてたんじゃ――。

     ううう、そっか。
     やっぱりぜんぶバカなアタシの早とちりーーだったのかなあ。
     今の今までずーーっと、アタシとタイシンの間に繋がってたリングーーこの黒猫さんがくっつけてくれた輪っかが、急にぷつんって切れちゃったみたいで。
     アタシはへにゃへにゃ~って、ベンチの背もたれにぐったりもたれかかった。みしみしいっ、て木造ベンチの軋みが、またやけに大きく響いた。


    「え、ちょ――ちょっとちょっと。どうしたの、何いきなりしおしおになってんの。なんかアタシ、あんたを落ち込ませるようなこと言った?」
     水分のないサボテンさんみたいになってるアタシに、タイシンがわずかな恵みの雨みたいな声をかけてくれる。
    というか、なんだかタイシンの言葉は、思いのほか慌てている様子っていうか――アタシの反応に、素直にびっくりしてるみたいだった。
    「だ、だってえぇ……。たいしん、この子がアタシに似てて、それで、あーいうことを……黒猫さんにって言ってくれて……」

    「は~~、……。違う。違うっつうの。ぜんっぜんそういう意味じゃないっての。たく、アンタも結構めんどくさいメンタルしてるね……人のことなんて全く言えないけどさ……」

     タイシンはアタマをぽりぽり掻きながら、少し息を深く吸い込む。そうして、アタシの方を向いて言う。

    「アタシの言い方も悪かったから、ちゃんと言い直すよ。うん、確かに思ってたよ、実際のところ。その子のこと――アンタとそっくりどころか、それ以上に思ってた。っていうか――じっと見てたら、アンタそのものに見えてくる時すらあった――――見た目が、ってだけじゃなくてね」
    「あ、アタシ、そのもの……?」
     
     ずっとタイシンの言葉を聞き続けてる今のアタシは、手のひらサイズのミニニングチケットになって、タイシンの掌の中でぐわんぐわん揺すぶられてるみたいな気持ちだった。そのもの。そのものって、え……。
     だ、ダメだ、しっかりしなきゃ、そのためにこうやってタイシンと向き合ってるんだから……!

    「おい、ちゃんとこっち見ろ、しっかり話聞け、このばかたれ。アホチケット。今のアタシがどんだけ死にそうなくらい勇気ふり絞ってこんなことしゃべってるか、分かってる? マジで?」
    「う、うんっ……!! 分かってる、わかってるよっ」
    「でも。それはアタシの思い違いだった――や、正確には、そう思い込もうと――してた。それだけのことだった」
    「……」
    「確かにさ、この子はチケットに似てるよ。でも、チケットそのものなワケなんてない。それとこれとはぜんっぜん違う話だからさ。この猫はこの猫以外の、何物でもあるワケがないんだから」
     タイシンはそう言いながら、黒猫さんのあごのところを優しくなでてあげている。

    「それなのに、この子に対して、まるでアンタに向かって話しかけるみたいなのはさ」
    タイシンは、猫さんに触れていない左手のほうで、シャツの裾をぎゅっと握り締める。皺がついちゃいそうなほど、でもそんなこと何ひとつ気にも留めないって感じの、それくらいのしぐさで。

    「それは――それは、この猫にとっても。それから、……チケット。アンタにとっても、――、――――」

     そこでタイシンのコトバはいったんストップしたけれど。
     でも、コトバで表せないような彼女のキモチが。
     タイシンの口から、漏れ出てくるのをーー文字通り、肌に染み渡るようにして、感じることができた。
     
     そして、数秒置いた後。またタイシンが話し出す。
    「チケットはチケット、この猫はこの猫。今までのアタシはそこんところを誤魔化して、わざとあやふやにして――この猫を、都合の良いように扱ってた」
    「タイ、シン……」
    「そういう筋の通ってないこととか大っキライなハズなのにね、アタシ。ま、どうかしてたよ。それは認める。ていうか――ビビってた。アタシはめちゃくちゃに怖気づいてた。ただ、それだけで――」

     その、臆病さを――――この猫に向かって、勝手に吐き出してただけ。アンタの代わりみたいにして。

     ずーっと長い事しゃべりづくしだったタイシンは、そこでいったん言葉を切って、また黙ったままでアタシの方をじっと見つめてきた。

     そして。
     ここまできて、やっと、ようやく――。アタシは、数日前に心の中で発生した、違和感・・・ーートゲトゲの正体を見つけられた気がした。
     そうなんだ。
     この子の名前は。
     チケット・・・・じゃないんだってこと。

     タイシンが言ったみたいに。この子は、アタシ自身じゃないんだって。
     ちょこんと可愛く座って、前足でアタマをひっかいてる、この黒猫さんは、この黒猫さん自身でしかないんだって。
     アタシはアタシ自身でしかないんだって。
     ……そっか。
     アタシ、そんなこと、分かってたはずだったんだ。
     なのに、こんなにへにゃへにゃになってるとこタイシンに見せちゃって。
     ……うん、しっかりしなきゃ……!

     タイシンは、ゴメンね――と、ぽつり。猫さんに向かってつぶやいた。
     タイシンに抱きかかえられてる猫さんは、タイシンの腕にすりすりと顔をすり寄せてる。
     そんなのぜんぜん気にしてないよ――って、タイシンに言ってるみたいに見えた。

     そして、アタシも。

     いままで、タイシンが、――あんなに自分のことしゃべるのをイヤがるあのタイシンがーーあそこまで、ムネの内側をうわーって弾けさすみたいに、アタシに話してくれたんだから。
     アタシのこと。それだけ、信頼してくれてるんだ。

     だから、アタシも踏み出さなきゃいけない。
     彼女の信頼に応えなきゃ。

     それでも、タイシンに負けず劣らず、っていうか、きっとタイシンより心の底からビクついちゃってるアタシは。こんなことを言うのがせいいっぱいだった。

    「……タイシン。その……、怖がってたこと、って……なに……?」

     その答えの先をなんとなしに気づきながら――タイシンに、質問する。
    「アタシーーアタシ、それを知りたい。それって、きっと……アタシもおんなじように考えてる、感じてることじゃないかって思うから。だから、タイシン、――」

     タイシンは。アタシの言葉にすぐには答えなかった。
     ――や。答える、以上の言葉を。彼女は、どっさりと、アタシの胸の中に放り込んできた。

     タイシンが言う。
    「ね、チケット。何度も聞くけどさ――さっきアンタ、アタシがこの公園で、この子に向かってささやいてたことは、聞こえてなかったって言ったよね」
    「え、う、うん! ホントだよっウソじゃないよ、ぜーんぜん一言も分からな……」


    「それ、今からまるっとぜんぶ、アンタに言ってやるよ。一言一句、そっくりそのまま」
    「え」

     そう言うと、タイシンは、ベンチからすくっと立ち上がる。
     アタシも思わず、彼女とあわせるようにして、腰を上げた。

     
     不思議――だった。
     アタシとタイシンは、身長差がある。
     だから目線の高さも違う。当然。


     別にタイシンがカカト上げて背伸びしてるってわけでもないのに。
     それでも、こっちの目をまっすぐに射貫いてくる、彼女の瞳の光はーー。
     まったく、同じ高さからのものだった。


     ベンチには黒猫さんだけが残されて、アタシ達2人をグリーンの瞳で、ただただ、じいっと見ている。それはなんだか、空で薄く輝くお月さまの光を淡く宿したスポットライトみたいで。猫さんのお目目ははアタシとタイシンの2人を、草原やターフの真っ只中にいるように、鮮やかなグリーンに染め上げてるようで。



     いつもいつもキミと一緒に走り抜けてる、あのターフの上。
     ゴール板を通り抜けたあと、自分の中のありとあらゆるものが全部まるっと吐き出された後で――まるで周りの音も匂いも、風景も。すべて消え去った真空状態。
     足元にどこまでもどこまでも続いてる緑のだだっ広い絨毯以外は。

     そんな場所で、おんなじように全てを出して出し切って、息切らしてるキミ。
     そこには、勝者と敗者しかいない。
     ――遠くかなたの電光掲示板で光る、あの数字が――お空のお星さまよりもずっと強い強いあの光が描く形によって、決定的にふたつの世界を分かつ境界線が、引かれている。それはどうしようもないくらいにアタシ達を二つの世界に切り分ける。
     それが、アタシたちがターフの上で走るっていう、まさにそのことなんだ。アタシたちははじめっから、自分が誰より強いってことを示すために――そこに一つの線をただ引くために、走っているんだから。

     でも、でもさ。そんな、神様にだって消せやしないラインマーカーで書かれた、その線を。
     それを、猫さんがぴょいって飛び越えるようにして、見えてくる――そのジャンプした先にしか見えない、キミの姿が。そこにある。
     自分の中の全てを出して出し切り合って走り抜けた先。
     ようやく辿りつける、たった一つの場所。
     そこでは境界線すら水のように透き通って。
     そこでは、アタシたちは、もう一回、新しく――出会うことができる。
     アタシは、それが好き。
     それが、きっと――アタシが走ってる、もうひとつの、理由かもしれない。
     だからアタシは何度だっていつまでだってキミといっしょに走りたい。走り続けたい。



     不思議だけど。
     ついさっきまでベンチでのんびりしてただけなのに――。
     今こうやってアタシとキミは。
     あの、レースの時と同じ。
     あの場所に、緑のじゅうたんの上に、はっきりと。立っている。


     そして。
     タイシンが、言った。


    「アタシは、ナリタタイシンは、あんたが好き。チケットが好き。バカでドジで間抜けで優しいあんたが――大好き。チケットとずっと一緒にいたい」


    「――――」

     タイシンの。言葉が。
     この子だけの、花が、ーー。

     あたり一面に。咲き誇った。
     夕暮れの、お月さまの淡い光に照らされる花々。
     タイシンが咲かせた。
     タイシンだけのお花。
     


     う、わ。
     わ――。

     ――――いや。
     ダメだ。
     今は泣いちゃダメなんだ。
     涙で視界をぼやけさせたりしちゃったら――。

     あのレースの。
     あの表彰台の。
     あの時みたいに。

     しっかり目を見開いて――。
     
     口から、音をだす。
     音が、声になる。
     言葉になる。
     タイシンにだけ届けたい、アタシだけの言葉の花。



    「アタシも、好き――タイシン、タイシンが好き。――大好き!!」



    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

    「わ、もうこんな暗くなっちゃってるね~。そろそろ寮に戻んなきゃ、怒られちゃうね!」
    「ん、そだね。――つか、このやり取りっていうか、シチュエーション……なんか、前にもあったような気がするな……ちょうどあの時も――」
    「あ、アタシも思い出してた! ほら、モールのお花屋さん寄って、その帰り道! 黒猫さんが通りかかったのをふたりで見て――ん? ……あっ! ひょっとしてあの時の黒猫さんって、もしかして――」
    アタシは、タイシンがまだ抱きかかえてる黒猫さんの方を見る。
    「うーん、どうなんだろうね。あの時はちょっと遠目だったし、流石にそこまで確証は持てないな。――ね、実際どうなの、そこんとこ。あんときのネコって、アンタ?」
    タイシンが黒猫さんに話しかける。

     そしたら。
     黒猫さんは、みゃあって一声鳴いた後。
     タイシンの腕から離れて、地面にすとっと着地して。
     
     それから、しっぽをふりふりさせながら――公園の奥、草陰の方へ。
     立ち去って行った。

    「――行っちゃったね。おうちに帰るところなのかな?」
    「うん、たぶん、世話してくれてる人たちのところにね。——何、アンタあの猫が地域猫だって、知ってたの」
    「うん、お耳のところ見てたら、ね。」
    「そっか。――ね、チケット。さっきあの子の一声。……あれって、はいのみゃあ、いいえのみゃあ、どっちか分かった?」
    「ん? えへへ、ぜんぜん分かんなかった! タイシンは?」
    「そりゃ、もちろん――分かるワケないだろ」
    「あはは、そっか! ――でもさ。どっちだか分かんないにしても――また、会えるよね、きっと。あの子に」
    「うん、当然だよ。ここに来たら、また会えるよ」

    「また、いっしょに――会いに来ようね、タイシン!」
    「うん――うん。いっしょに――会いに来よう」

     アタシ達の目の前をを、ぴゅうっと駆け抜けていった黒猫さん。
     アタシとタイシンの間の――ふたりだけの間にかかる梯を渡してくれた、黒猫さん。
     きっとまた――会いに行くね。 

    「ね、タイシン。アタシ達も――帰ろっか」
    「――うん」

     そうして。
     お互い肩と肩が触れ合うくらいの距離で。
     アタシたちは一緒に、歩きながら。その公園を後にした。


     帰り道に、横断歩道のところで信号待ちした。
     陽が水平線の向こうにさよならしかけてる時間で、薄闇が周りを覆いかけていて。
     でも、横断歩道の白線は、そんな夕暮れ時でも、くっきり浮き上がっているみたいに見えた。
     海面の波しぶきみたいにして。

     信号待ちしながら、じっとその横断歩道を見てるタイシンを見て、言った。
    「ね、タイシンタイシン! タイシンが今何考えてるか、当ててあげよーかっ!」
    「――はあ? いきなり何」
    「えへへ~、今のアタシは超能力者でテレパシストウマ娘のチケゾーだもんね~! ……えっとね、ズバリ、タイシンは今! あの白線の上をぴょんぴょん飛んでいきたいと思ってる、でしょ~!」
    「……、……」
    「あ、そのチンモクは、せいかーいっ! ってことで、良いのかな~? ね、どうどうっ?」
    「あーはいはい。もうそういう事でいいよ、ったく」
    「えへへ~チケゾーテレパス、大正解だあ~!――あっ、でもね。そーやって思ってるのはね、タイシンだけじゃなかったりするんだよね~!」
    そう言って、彼女の掌を握って。ぎゅっと。
    「え、チケ――」
    そうして、信号の赤色が、ブルーに変わる瞬間。

    「――ほら、いっしょにいこ、タイシンっ」

    「ちょ、え、ちょっと待って、チケット、わっ――」
    「ね、今なら周り、誰もみてないからっ! だいじょうぶダイジョーブ!」
    「そ、そういう問題じゃなくて……うわ、ちょ、タイミング合わせろってのバカたれ」
    「へへ~~、楽しいなあ! ――ね、タイシン!」
    「たく、何やってんだかもう、もうほんとアンタバカ、ばかだよ、ばかチケット――あははっ」

     アタシとタイシンはそーやって、横断歩道の白線の上を。ふらふらと、つんのめりながら、不格好に飛び越えていった。
     最初っから最後まで。二人一緒に。

     もし、この白線から音符が飛び出てきたら。それは今、どんな曲になるだろう?
     それは、黒猫さんがピアノの上を好き勝手じゃれまわって、鍵盤の中から出てくる音みたいな。
     そんなちょっとデタラメでヘンテコなメロディーかもしれない。

     でも、それはきっと、きっと――。
     アタシとキミ。
     ふたりだけにしか奏でられない曲だから。

     ただの音であって、ただの音じゃない。
     そんななにか。

     きっとそれが、この白い線の上を飛んで、跳んで――ずっとずっととびこえていったその先にも。

     ずっと、これから先。アタシ達の中で。鳴り響いてくはずだから。

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