20時のシンデレラ「伏黒さん。悪いんだけど会議室のコーヒー、片付けといてくれる?」
「分かりました」
仕事終わり、荷物をまとめていると上司から指示された。
この課では恵が一番の後輩なため、備品の補充やテーブルの拭き掃除などの雑用を任されることが多い。
この日も使用後の会議室の後片付けを任され、そのまま退社できるよう、バッグを持って席を立った。
会議室に向かっていると、曲がり角から女性が飛び出してきた。
「…っあ、すみませ…」
急だったため避けきれず、肩がドンっとぶつかってしまった。
反射的に謝り、ぶつかってきた女性を見て驚いた。
(…え、裸…?!)
違うフロアの人なのか、顔に見覚えはないその女性は、正確には上半身は下着のみ身につけ、両手には恐らく着ていたであろうスーツを抱えていた。
「あの、大丈夫ですか…?」
追い剥ぎにでもあったかのような格好に心配になって声をかける。
女性は恵の首からかけてあるIDカードにちらりと目をやった後、鬼のような形相で睨みつけてきた。
「…っ何で、あんたなんかが!!」
「え、」
突然怒鳴られて固まっていると、女性は踵を返してしまった。
(なんなんだ一体…)
不審に思いつつ会議室のドアを開けると、見覚えのある人影がそこにはあった。
「お疲れ〜♡」
「…五条さん…」
背が高く、白髪の、日本人では珍しい青い瞳の、芸能人とも引けを取らないルックスを持った男。
彼、五条悟は会議室の窓際の席に座りながら恵にひらひらと手を振ってきた。
「何してるんですか」
後ろ手で会議室のドアを閉めながら恵が言うと、五条はへらへらしながら立ち上がった。
「何って、仕事だよ。…さっきまで面倒くさいことばっかりだったけど恵と会えたから来たかいあったな♡」
「!」
すり、と頬を触られてびくりと肩が跳ねた。
「どうしたの、そんな初々しい反応しちゃって。そっか、最近会ってなかったもんね」
五条はくすりと笑い、恵の頬に手を添えながら顔を近づけてくる。
「…っやだ、離して!」
顔を逸らして叫ぶと、
「あれ、伏黒さん?」
会議室の外から男性社員の声が聞こえて、反射的に会議室の電気を消した。
「どうした?」
「いや、今伏黒さんの声が聞こえた気がして…」
「…誰もいないし、気のせいじゃないか?」
「そうかな…」
「なんか用事?」
「いや、特にないけど…飲みに誘いたかった」
「あの子そういうの行かないって有名じゃん。彼氏いるって噂だぞ」
「まじで?!やっぱりそうかぁ、可愛いもんな…」
「そんな落ち込むなよ。今度合コンしようぜ」
落胆したような声と励ます声が聞こえた後、2人の足音が遠のいていった。
「…あいつ、恵のこと狙ってんだって」
温度の低い声で五条は呟いた。
「…知りませんよ、別に…」
五条の顔はよく見えないけれど、なんとなく居心地が悪くて顔を背ける。
「ねぇ、あいつは知ってんのかな?」
「っ!」
抱きしめられ、耳元で囁かれる。
「その可愛い伏黒さんが、不倫しちゃうような悪い子だってこと♡」
薄暗い部屋の中で、五条の左手薬指にはめられた指輪が鈍く光る。
その光が目に入った瞬間、突かれたように胸が鋭く痛んだ。
「…っもう、会うのやめます…」
五条の胸を押し返そうとするも、力で敵うはずもなくびくともしない。
それどころか、仔猫に戯れられた時のように楽しそうにあしらってくる。
「そんな悲しいこと言わないで、楽しもうよ」
五条と初めて会ったのは数ヶ月前。
他社の社員を含んだ大勢の前での初めてのプレゼンで、恵は緊張してしまい思うような結果が奮わなかった。
上司から叱責され、落ち込んでいるときにプレゼンに参加していた五条から優しく声をかけられて、よかったら飲みに行こう、と誘われたのが始まりだった。
彼の左手薬指の指輪にも気付いていたし、こんな綺麗な人が自分なんかを相手にする訳がない、何か間違いなんて起こるわけがないと思って、恵は誘いに乗った。
何よりその時、恵の心は弱っていた。
誰でもいいから、優しくされたかった。
酒が飲めないと言う五条は、居酒屋でずっとソフトドリンクを飲んでいた。
ヤケ酒気味に酒を煽る恵に、飲み過ぎなんじゃない?と声をかけてきたり、これ飲む?と自分の飲んでいるメロンソーダを差し出してきたり、彼の対応は紳士的だった。
それに対して自分は、別にこのくらい普通です、そんな甘ったるい物飲める訳ないじゃないですか、と突っぱねた。
そんな生意気な小娘の態度に気を悪くする様子もなく、笑って話を聞いてくれる彼に対してすっかり酔っ払った頭でさすが、結婚している男の人は余裕だなぁなんて思った気がする。
「恵、そろそろ終電だから帰らないと。駅まで送るよ」
そう言って席を立とうとする彼に、ひどく寂しさを覚えた。
「…かえりたくないです」
驚く彼の左手薬指の指輪をなぞってから、きゅっと手を握った。
「…五条さん。今日、奥さんお家にいるんですか…?」
彼の顔は見れなかった。
その後2人でタクシーに乗って、気がついたらふかふかの大きなベッドで彼に組み敷かれていた。
キスの直前、左手薬指が目に入って少し胸が痛んだけど、すぐに気持ちよくなって、幸せで、何も考えられなくなった。
左手薬指の指輪の感触も分からなくなるくらいどろどろに蕩かされて、眠りに落ちた後。
翌朝、彼の腕の中で目を覚ましてひどく後悔した。
やってしまった。
どうしよう。
奥さんが帰ってくる前に逃げないと。
そこら辺に散らばった下着やらスーツやらを急いで身につけ、逃げるように五条のマンションから出た。
気の迷いだ。
一夜の過ちだ。
次はない。
どうせあっちも同じことを思っている、大丈夫…自分に言い聞かせながら、その足で何食わぬ顔で出社した。
「恵〜!ひどいじゃん、何も言わずに帰っちゃうなんて」
五条が、社員が大勢いる会社のロビーで自分に手を振ってきた。
視線が一斉に自分に注がれる。
「…っば、」
慌てて五条の腕を引っ張り、辛うじて人気の少ない場所へ移動した。
「馬鹿じゃないですか?!誰かに聞かれたら…!」
恵が耳打ちすると、五条は首を傾げた。
「聞かれて困るようなことある?」
「あるに決まってるじゃないですか!あんた、結婚してるくせに…!」
左手薬指の指輪を指しながら言うと、五条は少し考えた後笑った。
「…そうだね。恵ちゃん、真面目な顔して不倫しちゃうなんて大胆♡」
不倫、その一言が重く胸にのしかかる。
恵は深々と頭を下げた。
「…昨日は本当にすみません。気の迷いです。あんた…五条さんも忘れてください」
「え?嫌だけど」
「!」
「あんなに相性よかったのに一回だけなんて勿体なさすぎでしょ!…それとも、ここで言いふらしてやろうか。ここの社員が不貞行為働きましたって」
「そんなことしたらあんただって…!」
「僕はいいよ、別に今の会社辞めたって痛くも痒くもないし。何なら自分で会社建てるのもいいな〜」
他社の自分でも知ってるくらい、五条はかなりやり手のため、今の言葉がハッタリではないことは明確だった。
それに比べて自分はどうだ。
今の会社をクビになったら、次の就職先の保証はない。
「…お願いします。何でも言うこと聞くので、内緒にしてください…」
震える声で、涙目になりながら言うと五条はハンカチを取り出して恵の目元を拭いた。
「泣かないでよ。…じゃあ、こうしようかな」
それから五条から連絡があると、2人で会って話したり夜一緒に過ごすようになった。
いつの日だか五条のスマホの着信履歴がたまたま見えて、そこには女性の名前がずらりと並んでいてドン引きした。
自分は妻がいない間の、暇つぶしの相手のうちの一人なんだろうと思う。
あえて言うならセフレだろうか。
そんな関係がずるずると続いて、今に至る。
「ちょっと!ここどこだと思って…!」
会議室のテーブルの上に乗せられ、スーツとワイシャツを脱がされる。
「一回会社でやってみたかったんだよね〜」
「悪趣味…!」
恵が毒づいても全く気にすることなく、五条はスカートの中に手を入れてきた。
「僕、恵の脚好きなんだよね。細くて、色白で…すごい綺麗なのに年中タイツ履いてるのも好き。この下は僕しか知らないっていう優越感かな」
「…っ!」
五条は恵の履いていたタイツをするすると脱がせて、内腿にちゅっと口付けた。
その刺激に身震いすると、五条はくすりと笑って耳元で囁いてきた。
「好きだよ、恵」
「…っん、」
今度は唇にキスをされ、真っ直ぐに見つめられる。
「大好き。恵が一番好き」
「〜…っ!」
嘘つき。
他に何人もいるくせに。
私のことなんか、大勢いるセフレのうちの一人としか思ってないくせに。
どうせ他の人にも同じことを言ってるんでしょう。
そう思うのに、心のどこかでもう一人の自分が叫んでいる。
こんな形で出会っていなければ。
もっと早くに出会っていたら。
あなたの隣にいたのは、その左手薬指とお揃いの指輪をつけていたのは、私だったかもしれないのに。
「恵」
彼から優しく名前を囁かれ、触れられるとそんな想いもどこかへ消え失せてしまう。
そしてこの時だけ、勘違いしてしまいそうになる。
彼が言うように、自分が一番愛されているのではないかと。
会議室の床に落とされた自分のスーツが目に入る。
(さっきの女の人…)
会議室の方から向かってきた、上半身裸の女性。
そして、会議室にいた五条。
恵の中で繋がった。
先程の女性も、五条からこんな風にされたのだろう。
「…っうわ!」
五条の腹に蹴りを入れた。
油断していた五条がよろめいた隙にテーブルから降りて、脱がされたスーツとワイシャツを拾う。
「恵?どうしたのいきなり、」
力一杯の蹴りだったにも関わらず、五条は咳き込んだりする様子もなく、ノーダメージのようだった。
どうしたのなんて白々しい、と心の中で舌打ちしつつ、会議室のドアに手をかけた。
「帰ります」
「は?」
「さよなら」
「いや、せめて服!」
五条が言い終わる前に、服を抱えて会議室から飛び出した。
(…あ、コーヒー片付けるの忘れた)
明日の朝早く出社しよう。
ガラスに自分の姿が映る。
先程の女性と同じ、裸の上半身を隠すようにスーツを抱えた姿。
靴も履かないうちに飛び出したため裸足だ。
じわり、と目に涙が浮かぶ。
惨めだった。
さっきまで抱かれていた女と、全く同じように抱かれそうになるなんて。
自分は彼の二番目どころか何番目なんだろうか。
先程まで五条が触れていた部分が熱い。
こんな関係もう終わりにしてしまいたいと何度も思った。
それでも、彼と二度と出会えないと思うとどうしようもなく切なくて、どんなに惨めでもいいからこの関係を断ちたくないと思ってしまう。
「勘違いしてんだろうなぁ」
一人会議室に残された五条が呟く。
恵が来る数分前、会議が終わり、自分も帰ろうとしたら女性社員から呼び止められた。
「五条さん。よろしければこの後一緒に飲みにでも行きませんか?」
「僕下戸なんだよね。それにほら、結婚してるし」
左手薬指を見せると、女性は笑った。
「それ、結婚指輪じゃないですよね?見ればすぐに分かりますよ、そんな安物の指輪…有名ですよ。五条さんは女の子寄せ付けないためにカモフラージュしてるって」
女性はスーツとワイシャツを脱ぎながら、五条に擦り寄ってきた。
(やっぱ普通気づくよな…)
色っぽい赤い下着姿で、豊満な胸を押し付けられても自分の下半身は全く反応しない。
女性の言う通り、自分は未婚である。
この左手薬指の指輪は女を寄せ付けないためのカモフラージュだ。
カモフラージュ用に本物の結婚指輪を買うなんて馬鹿らしくて、安物の指輪を嵌めることにしたが、見る人が見れば一発で分かってしまうようで、気休め程度にしかならなかった。
でも、彼女は違った。
あの日飲みに誘った時、恵は五条の左手薬指を見てうろたえた。
それでも精神的に弱っていた恵は、自分の中で何か葛藤した後、誘いに乗ってきた。
「五条さんは呑まないんですか?」
「僕は下戸だから呑まないよ〜」
「ふーん、つまんないの…」
「えぇ…」
居酒屋での恵は思ったよりもサバサバしていて、適当に遊ぶ相手には向いてないから終電で帰ろうと思っていた。
「…五条さん。今日、奥さんお家にいるんですか…?」
安物の指輪をなぞりながら精一杯に誘う姿がいじらしくて、可愛らしくて堪らなかった。
「こんなのだめ…っ、五条さんには奥さんがいるのに…っ」
「好きっ、五条さん好き…でもどうしよう、五条さんっ…」
そんなことを口にし、罪悪感に塗れながらそれでも快感に抗えず抱かれる恵の姿は、ひどく扇情的だった。
恵と出会う前は複数の女性と関係を持っていたが、その日を境に自分から全て連絡を絶った。
それでも相手からの連絡は止まず、恵からは疑われてしまっているが。
自分は未婚だと、好きなのは恵だけだと伝えてしまえばいいものの、好きな子には意地悪したくなってしまうものなのか。
(結婚してないって言ったとして、じゃあ終わりにしましょうなんて言われたら立ち直れない…)
そんな弱くてずるい自分もいて、まだ言い出せずにいる。
「ごめん。僕好きな人いるから」
やんわり距離をとると、女性は訝しげな顔をした。
「好きな人?」
どうでもいい奴はこうやって近づいてくれるのに、どうしてあの子は。
もううんざりだ。
「そうだよ、君から伝えといてくんない?伏黒恵っていうんだけど彼女鈍くてさ。この指輪本物だと思ってるし、その間にも僕は君みたいな女に声かけられてますます恵から疑われちゃうし」
「…っ最低!」
女性は五条を睨みつけて、服も着ないで出て行ってしまった。
半ばやけになって女性に恵の名前を出してしまったが、これで曲がり間違えて恵に伝わってくれたりしないだろうかと淡い期待を抱く。
まぁないだろうな、あの女はこの会社の社員じゃないみたいだし、そんな親切でもないだろうし。
やはり自分から伝えるしかないのだろうか。
ため息をつくと、聞き覚えのある、愛しいあの子の足音が近づいてきた。
「うわ、恵靴忘れて行ってんじゃん」
脱ぎ捨てられた、というか自分が脱がした恵の黒のパンプスを拾い上げる。
(ほぼ裸で出て行ったよな…まぁもう時間も遅いし、恵のことだから人目の少ないとこ選んでるだろうけど…)
上がほぼ裸で、涙目になりながら走る恵と、さっきの恵を狙っているであろう男とかが出くわしたとしたら。
どうしたの、話聞くよなんて声かけられたりでもしたら。
恵は推しに弱いだろうし、その男に流されて、一緒に…
「…そんなの死んでも無理!」
誰もいない会議室で1人叫んだ。
我ながらかっこ悪いと思う。
でも、このくだらない虚勢や駆け引きの末に、彼女の隣を他の誰かに掻っ攫われるのを指咥えて見る、なんてことになる方がもっとかっこ悪い。
パンプスを握りしめて、恵を追いかけるために廊下を駆けた。
手の中にある黒い小さなパンプスが、ガラスの靴になる日はそう遠くないのかもしれない。