水族館での話 俺と伊吾は金沢の奥、能登島へ来ていた。
水族館を鑑賞し、イルカウォッチングをした後、能登島温泉で一泊をする予定だ。
「わあ、志賀兄見て!ジンベエザメが泳いでいるよ。大きいね」
伊吾はそう言って笑う。
薄暗く、青い照明が水面に反射してゆらゆらと光り、伊吾を照らす。キラキラ、ゆらゆらと揺れる。
──美しい。
俺はただ、そう思った。
かつて親友だった男。だが何度だってそう思ったことがある。なぜそんなことを思うのか。頭を振りながらその考えを払うようにした。
ふいに強い風が吹く。伊吾の長い前髪を揺らす。彼は目を細めて笑った。それはまるで天女のような美しさだった。
俺は胸を強く握られるような感覚を覚える。顔が熱くなり、心臓が激しく脈打つ。この感情は何だろうか……。
気付くなと言う方が無理であるほど大きなものだということは分かっていた。
……きっとこれは恋心なのだろう。
初めて会った時から惹かれるものがあったのだ。しかし、それは可愛い弟分としてだった。
次第に伊吾は成長し、年上の俺や友人たちとも対等に渡り合えるようになっていた。打ち解けて話していくうちに、一番気が合うのは伊吾だと感じるようになっていった。どこか自分に似ているところがあると感じていたのかもしれない。
一緒に過ごすうちに俺の中を伊吾で占める割合がだんだんと大きくなっていった。彼の笑顔を守りたいと思った。
誰かのものになる前に自分のものにしたいとも考えたこともあった。
しかし聡いやつだ。そんな俺の気持ちに気づいていたのだろう。
俺の気持ちを否定こそしないが、そんな関係に進む気はないとでも言いたげに、俺に掴まれた手を必死で離したことがあった。
それで俺はハッとした。俺の気持ちは伊吾には届かないのだと、重荷になっているのだと自覚はした。
その後はなんとか気持ちにキリをつけようと思ったがなかなかできず、様々な状況がこじれて大喧嘩をした。
約8年にも渡る大喧嘩。
その最中でも伊吾を愛おしく思う気持ちはなくなりはしなかった。
しかし、“恋心”というような気持ちはだんだんと消えていった。それは“恋心”ではなく、深い愛情へと変化していったように感じている。
それは全部過去の記憶。
今の俺たちは、本来の魂の一部を仮の肉体に入れることでできた“文豪”という存在でこの世に存在している。
この世、と言ってもかつて生きた世界とは完全に別の世界のようで、なんだか夢でもみているようだが、それでも俺たちは確実に過去の記憶を持ちながらここに存在していた。
現在の肉体が若い青年の姿のためかもしれないが、成熟した晩年の記憶よりはまだ未熟だった若いときの気持ちの方を強く感じる。そのせいか、俺は伊吾への気持ちに、かつて生涯にわたり抱いていた“深い愛情”に加えて、強く“恋心”も自覚するようになっていた。
かつて抱いたことがある感情の中にはない、愛情と恋心が混ざった気持ち。広い青空の下でゆったりと草花が揺れているような感覚から、地獄の底でマグマがぐらぐらと煮えたっているような感覚まで様々に変化し、俺の心を乱してやまない。こんな気持ちは初めてだった。
この感覚を抑えるにはどうすればいいかわからなかった。
伊吾を苦しめないためには、この気持ちになんとかキリをつけなければいけないと悩んだ。
しかしどうしたらそうできるのか、どう考えても答えが出なかった。今のままではいけないということだけは理解していた。
そう思っていたが、ある時、伊吾の方の感情にも変化が起きていないかと考えるようになった。
なぜなら俺はここに転生してきてから、かつては抱いていなかった感情を抱くようになったからだ。あいつにも少なからず感情に変化が訪れていると考えられるのではないか?
その疑問が確信に変わるのはすぐだった。
──武者さんに嫉妬してた。志賀兄にとって僕は、何?
こんなことを聞いてきたのだ。
そんなことを素直に言うようなやつではないと認識していたが、俺よりも幼い少年のような姿で転生してきた伊吾は、少年時代に抱いたという俺への恋心を持ったまま転生してきたのではないかと俺は思った。
それから俺は、感情を抑える必要がないのではないかと思った。
心が跳ねた。もしかしたら、俺はここでは…この世界では、伊吾とかつては至らなかった関係になれるのではないかと期待した。
しかし焦ってはいけない。
伊吾の気持ちも確かめながら、冷静に距離感を見極めていこうと自分に言い聞かせた。
かつて抱いた『重すぎるイリュージョン』をまた見てしまわないよう、今度は慎重に…
**
僕はかつて90年以上の生を完うした里見弴ではない。転生してきた僕は、魂こそ里見弴の一部が入っているが自分が何者だかわからない、断片的な記憶だけ持った記憶喪失の少年だった。
しかし、ここで過ごしていくうちに魂が馴染んでいったのか、かつて小説家として生きていた頃の記憶がじわじわと蘇ってきた。記憶が戻れば戻るほど、今の自分の姿とうまく混ざり合うことができずに困惑した。
そんな気持ちを抱えながらも、日々を過ごすしかなかった。そしてある日のことだった。
「伊吾」と呼ばれて振り返るとそこには親友がいた。
彼もまたかつての記憶があるのだとすぐにわかった。その瞬間、なぜか胸が高鳴ると同時に嫌だと感じたことも覚えている。この感情は何なのかはわからずじまいだけれど……。
その後に彼は言ったんだ。お前が好きだ、ってね。
ああ神様はなんて残酷なんだろうと嘆いたことを覚えている。
生前、彼が僕に対して抱いていた気持ちがまだ消え去っていなかったことに絶望さえ感じた。それでも彼と距離を置こうとすると、その度に志賀は悲しげに笑うものだからなんだかいても立ってもいられなくなって結局そばにいることにした。
それはそれで、楽しいといえば楽しかったけれども……それでもやっぱり苦しかった。
だってそうだろ?一度死んだはずなのにこうして生きているだけでも不思議なのにさあ!その上彼に恋をして告白されて付き合って幸せだった思い出まで持っていかなきゃいけなくなるんだよ!?これを運命と呼ばずに何を呼べばいいのかな!!(半ばヤケクソ)
……運命、必然。やはりどこか惹かれ合う星の下に生まれたということなのだろう。ということにしておく。
そう思いに更けていてふと現実に帰ると、斜め後ろから志賀の視線を強く感じた。
この人は昔からそうなのだ。人を観察する癖がある(それは僕にもあるが)。しかし、自惚かもしれないが、それは特に僕に対して強かった。
「志賀兄」
今世の呼び名で呼びかける。
「どうした?」
なんでもないように応える。ずっと見てたくせにね。
ゆらゆらと、薄暗い部屋に水槽の青い光りが揺らめく。
雨の夕方という条件のせいか、他に客も見当たらない。
ぐい、と志賀の手を握り、自分の方へ引き寄せた。ぐらりと体を傾けた志賀の身体を抱きしめて、「好きだよ」と囁こうとした。しかし勢いがつき過ぎてそのままカーペットが敷かれた床に倒れ込んでしまった。
僕が優位だったつもりなのに形勢逆転となり、しまった、と思った。しかしまあ、夜はいつもこの態勢だしなあ、なんてすぐに呑気に考えた僕は、そのまま志賀の首に腕を回して
「好きだよ」
と囁いた。
予期せず押し倒す形となった志賀は呆気に取られた顔をしていたが、僕の囁きを聞くとすぐに目を細めて幸せそうに笑い、そしてそのまま唇に触れたのだった。