魔法のレシピ変動編 社会や仕事というのはとにかく縁の連続だ。その中でも、一期一会という考え方を好ましく思っているブラッドリーは、そのひとつの出会いを大事にしている。
一度だけの機会だとしても、それがただの電話一本だとしても。この先どこでその経験が生きてくるかなんてものは、誰にも分からないのだから当然だろう。
そうでなくては人生なにも面白くはない。折角この世に生きているのだ、全力で今を生きて楽しまなければ意味がない。
しかしその中でもブラッドリーは、自分の運を絶対的に信じている。例えばこの出会いは今後、どこかで確実に何かしらの巡り合わせがあるだろう、と。
それを鑑識眼と例える奴もいるだろう。直感に従い、何事もチャンスとして捉えて常にブラッドリーは人と接する。
だがこれは出会った奴全員に、際限なくお優しくするというわけでは決してない。言わば狙ったタイミングで恩を売り、正しい機会でそれを発揮しているまでだ。
勿論、ブラッドリーを慕ってくれる奴らにまで情が無いわけでもない。ただ打算的とまではいかないにせよ、ブラッドリーには無償でボランティアをしてやるつもりも、全員でお手手を繋いで仲良しこよしをしたいわけでもないということだ。
しっかりと線引きをして人付き合いをしている。世の中の人間が全員が優しい奴らならば、今頃世界平和はとっくの昔に成り立っているからだ。
感情的になったって、いい事なんてそうそうない。そうやってのし上がるために、生きて来た。
ここで少しブラッドリーの話をしよう。ベイン家は少々複雑で多くの兄姉がいたが、そんな家の末っ子にブラッドリーは産まれた。
ブラッドリーの母親は出産後すぐに病気で亡くなっているが、家には手伝いをする人間がいたし兄や姉が歳が離れていたこともあって特に生活に困ることもなかった。何より父親の家が所謂金持ちで家庭環境も悪くはない。
甘やかされ過ぎていたとまでは言わないにせよ、それでも昔からちやほやされることには慣れきっている。
だが、ただぬるま湯に浸かりながらのうのうと生きてきたわけでもなかった。痛感したのは反抗期と言われる時期で、特に親父と反りが合わなくなった高校以降だろうか。
半強制的に行けと言われて渋々了承した海外への留学時代は、環境の違いと文化の違いや単にお国柄の違いもあり何かと不都合が生じることも多かった。
自らが恵まれていたことを初めて思い知らされたのが正にこの時で、そうして苦汁をなめさせられることも幾つか。
しかし、簡単にやられて黙っているブラッドリーでもない。元々根気はある方で頭の出来が悪くはないことを最大限駆使し、きっちりと実力を付けてやられた分は熨斗をつけて返してやっている。
なんならその時の経験が、今のブラッドリーの土台を作っていると言っても過言ではないだろう。逆に感謝をしてやってもいい程だった。
話を戻すが、だからこそ今の会社に就職しコネだのなんだのと嫌味を言われても耐えられた。そりゃあムカついたが、慣れているということもあったし多少の勝手の違いでも直ぐさまやってやろうじゃねえかと火がつく。
全ては自身がいかに今後のために、環境を整えていくかだ。散々ナメた事を言ってきた奴らに一泡も二泡もふかせてやるためにと考えた末に、選んだ手段が人との繋がりだった。
個々の力が小さくとも、それが群れれば大きな力となる。ブラッドリーはいつかは会社のトップに立ってやるつもりでいるが、組織に属していながらもまた別の繋がりという名の組織を率いているつもりで、人と関わりながら仕事をしている。
社会人生活一年目の営業時代のことだ。遠く離れた田舎の地。そこでくすぶっていたひとりの料理人と、ブラッドリーはひょんなことから知り合うことになった。
初めはただ、そうやってブラッドリーが築いていくコミュニティの中のひとりとして繋がりを持った。その筈だった。
しかしそんな男は気がつけば、ブラッドリーにとって特別な存在になっていた。電話で話をしているうちに、どんな奴なのかと。もっと知りたくなった。
こんな気分になったのは多分、生まれて初めてだ。自身の身元も顔も、わざわざ隠して会いに行って分かった。最高の料理を作る手も、空を映したような髪も。
色々あって、数年越しに直接話をする事が叶った。それだけでなく一緒に仕事をするようにもなりそしてやっぱりな、とブラッドリーは確信することになったのだ。
料理への賛辞に嬉しそうにむずむずとさせる口元も、再会して触れ合って抱き締めた身体の温度も、それからはちみつみたいに蕩ける瞳も。全部、全部。
結局はあの日、魔法みたいな美味い飯を作る男にブラッドリーは惚れてしまったのだろう。いつしかどうしようもなく、その男の事を手に入れたくなっていた。
それからは文字通り色々とあったが、ようやくブラッドリーは全てを手に入れることが出来た。晴れてこれで男は、余すことなくブラッドリーのものになったのだと。
「……」
しかし、そう思っていたのはブラッドリーだけだったのだろうか。
耳に当てているスマートフォンから聞こえてくるのは、何度やっても変わらない機械的な音声だった。
いきなりこんな仕打ちって、ねえだろ。そうだ、絶対にありえない。ならこれは、夢か幻か。
ああ、もしかするとまだ本当は眠っているのかもしれない。昨日海外出張から帰ってきたばかりなのだ、時差ぼけでも仕方がない。
それにしてはリアルすぎる程の夢を見ている。いや、んなわけねえだろ。
脳内でひとり会話を繰り広げながら、何度もかけている電話を切る。ブラッドリーはふーと息を吐き出して、努めて冷静にスマートフォンを離しその画面を確認した。
しかし何度凝視をしても、そのナンバーに間違えない。昨日から何度かけてもこれだ。
でも違う、慌てるな。まだ〝そう〟とは決まったわけじゃない。仮にこれがもしも着信拒否をされているのであれば、また別のアナウンスが流れる筈だ。だとすればだ。
まずこれからやるべきは、商品開発課に乗り込んで男の所在を確認する。今の今まで出社して、眼前にある書類だらけの机の山を片付けるのに席に縛られていたために実際にこの目で確かめたわけじゃない。
世の中ペーパーレスが進む中で一部の書類は電子化になったものの、なかなか一気に移行できないのも現実でぐったりである。
ただこの他にもちゃんとメールとチャットには、大量の添付書類が付いたデータも同時に受信されている。
そんなこんなで、結局は手が離せなかったからこそ手っ取り早く電話をかけていたわけだ。
そしてブラッドリーは腰を上げた。自身の課を出て向かう途中、喫煙所の前を通りがかる。無意識に伸びた手が胸の内ポケットを漁ろうとしたが、ふと考えて手を止めた。
今度は腰ポケットに手を突っ込んで、目的の物を取り出す。得意の直感が、今はこうしろと告げている。
包み紙を開けば、その瞬間からぶわりと鼻腔が独特なハーブの香りに刺激される。指で摘んで口に含めば、よりすうっとペパーミントの香りが口内に広がった。
男に勧められた飴玉は、他のメーカー品よりもずっとミント感がキツく、確かに煙草を吸いたい気分を紛らわすことにはなってくれている。ただし、めちゃくちゃ歯磨きをしている気にもなるが。
つい癖でガリリッと奥歯で噛んでしまったが、その瞬間霞みがかっていたような頭が晴れて心なしかスッキリとしていくのが分かった。
一体、何度男はブラッドリーを追いかけさせたら気が済むのだろう。そう思いながらも、仕方ねえなという気になってしまうのはもう惚れた欲目なんだろう。
自分でも分かっちゃいる。だが本当に男相手だけ、あれだけ人との付き合い方を慎重にやってきたブラッドリーでも上手くいかない。
全く、勘弁しろよ。また手からすり抜けていく体験は御免だというのに。
ブラッドリーの目の前からネロが消えたのは、これが二度目のことだった。
◆
国道を走っているというのに先ほどからすれ違う車は時折で、早速ながらつくづく向こうとは何もかもが違うのを体感している。
レンタルした車はどうしたって乗り慣れた愛車と比べてしまうと、違和感はある。だがこうも道路の幅が広く雄大な景色を目の前にしていれば、そんな些細なことはすぐに気にならなくなる。
まさか、もう一度同じ地に足を運ぶことになろうとは。しかし数年ぶりだというのにも関わらず、景色の数々はまるであの日の思い出をそのまま切り取って保存していたかのように感じる。
過去この地に足を運んだ時期と今では当然季節は違うものの、澄んだ空気や匂いは全くもって変わらない。
だがこうして流れていく景色のようにいつまでも変わらないものもあれば、変わったこともあった。
ブラッドリーとネロの関係性。そしてこれからブラッドリーが手に入れようとしているのは、もっと別のものだ。
感覚的なことなので上手くは言えないが、それでも言語化するとすれば進化したものと言うのが近いだろうか。
それを直接本人に言って聞かせるために、もう二度と取りこぼさないようにするため、再びブラッドリーはここまでやって来た。
ネロの奴は本当にどこに行きやがったのか。急ぎたい気持ちからか、気がつくとハンドルを握った指先がトントンとそこを叩いている。
それにしてものどかだ。ひとつひとつが大きくて、だだっ広いのに人気はというと殆どない。
これも普段は喧騒の中に身を置いているから、より顕著にそう思うのだろう。
ちなみにネロと同じ北の生まれでも、ブラッドリーが育った市はもっと都市部の方だった。生まれてこの方そういう場所でしか生活してこなかったからか、ここまで自然が多い土地は普段とはまた違った感覚が生まれてくる。
高層ビルを前にしても小さい頃から当たり前のように見てきたからかさして感動も湧かず、へえと思うくらいなものだ。
一方で大自然を目の当たりにすると、その圧倒的な力のようなものを感じる。この季節特有の突き刺すような冷え冷えとした空気も、背筋が伸びる気配さえするものだ。
こうしてどこまでも真っ直ぐに続く道路に車を走らせていると、いつの間にかのんびりとした空気感に当てられたのか、この地にずっと自らが留まるとしたらどうするかということを柄でもなく考える。
しかしつまるつまらないの問題はまた別として、結局自分はどこでだってやっていけるだろう。
だがそんな中で、自らの隣に据えて思い浮かべた奴がいた。いつの間にか心のど真ん中にいて、ブラッドリーの人生においてかけがえのない一番無くてはならない存在になってしまった。
こんなにも自分がひとりに執着することになるとは、これもまたあの時考えもしないことだ。だけどそうまでして、手放したくは無い。
そうこうしているうちに、ようやく目的の建物が見えてきた。ブラッドリーはウインカーを出しながら滑らかに道を曲がり、車を停めて数時間ぶりに車のエンジンを切る。
その建物というのは全体的に木を主張している作りで、相変わらず温かい印象を受ける。そんな店構えもやはり数年経った今でも変わることはない。
黄色いボードに赤のポイントが映える、オムライスみたいな看板が目印の店。ネロの古巣、洋食屋UOVO〈ウォーヴォ〉だ。
ここは数年前にも、ひとりブラッドリーがネロに黙って訪れた場所だった。
聞いた話によると、本当になんの前触れもなく唐突にネロが有給申請をした、らしい。私用のために、今週一週間も休暇を取ったのだと。
普段有給を使うのを忘れる男が、いきなりだ。そうと決まれば、これは何かあったに違いないと考えるのが流れだろう。
確信を得たブラッドリーに、更に次いで情報が付け加えられる。それは休み前に放った、ネロのとある独り言だった。
「聞き間違いじゃなければなんですけど『向こう、寒いよな』って」
それから不思議そうに「一体、ネロは何処に行ったんでしょうね」と首を傾げたネロの同僚に対して、ブラッドリーは思い当たる心当たりにひとり、口元を吊り上げていた。
成程、そう来たか。だが、ちょうどブラッドリーの方も海外出張明けで休みをもぎ取ってやろうと思っていたところだった。
なんならブラッドリーだって、有給など掃いて捨てるほどある。今日は書類整理のためにと出社したつもりだったが、そういうことならとブラッドリーは急遽予定を変更することにした。
早々に自らの課に戻り、リモートワークと休暇両方の申請を手早く提出。流れるように空港に向かい、その道すがらでチケットを手配していく。
残りひとつの空席の二文字に、ブラッドリーは自らの運の強さを喜び、そして飛行機に飛び乗ったのが数時間前の出来事。
到着したのは、ブラッドリー自身も幼少期に過ごした、この北の国というわけだった。
休憩中を知らせる札は一度目には止めたものの、構わず無視を決め込んだ。寧ろこの方が何かと動きやすい。
ここに来たのはシンプルに、ネロの実家の住所を知っているだろうと考えてのことだ。この時間でも、誰かしらは留守番や仕込みでいるだろう。
店の扉を引けばカラカランとあの時と寸分違わない入店を知らせるベルが響き、ブラッドリーを歓迎する。
そして扉をくぐって中に入った直後、男の後ろ姿が目に入り僅かにブラッドリーは目を見開いた。早速先程の考えが間違いで無かったことが、証明される。
「あー……すんません、今休憩中にした所で……」
「よお」
ひとつ手間が省けたどころか、ビンゴだ。迷いもなくブラッドリーが声をかけると、テーブルを拭いていた男が瞬時に顔を上げた。
探し求めていたネロが、どうしてかそこにいたのだった。
「ブラッド⁉︎ なんで……」
「そりゃあこっちのセリフだ。黙っていなくなりやがって。てめえこそ、ここで何してやがる」
周囲を一瞥するも、厨房に人は見当たらない。ならば、これはどういう理由か。ネロが留守番を任されているらしい。
いずれにせよ、こんな場所までブラッドリーをわざわざ迎えに来させたことに間違いはない。ブラッドリーは眉間に皺を寄せながら、唖然として突っ立ったままのネロに近づいていく。
「……っ」
するとネロが一歩後ずさった。ただし、ここまで来たブラッドリーもやすやす逃がすつもりは毛頭ない。
大股で一気に距離を詰めて、瞬時にパシリとネロの腕を取った。そしてその身体を押し付けるように、カウンターと自らの間にネロを挟み込む。
「おい。なんで、逃げんだ」
「……いや、なんか、つい」
ここまでして、ようやくネロが大人しくなる。しどろもどろとしながら口を開くその様を、じっと見ながらブラッドリーは更に眉間の皺を深くする。
なんだよついって。そんな条件反射ではるばるこんな所まで逃げられては、たまったものではない。
だがネロもネロでブラッドリーの訪問に驚いているのか、先程から目が泳ぎまくっている。まさか、本当にやましい事があるとかではあるまい。
「あの、ええと、怒ってる?」
「よく分かってんじゃねえか。お利口さんだって、褒めてやろうか?」
「……冗談言ってる割には、顔がめちゃくちゃ怖えんだけど」
しかしネロはそう言うが、まだブラッドリーはというと冷静であった。恐らくだがこの目で、ネロの姿を確認できたからだろう。
いつだってネロという男は、欲しいものを手に入れてきたブラッドリーをこうして振り回し、且つ手間をかけさせるから毎度新鮮に驚かされる。
「え、俺怒らせるようなことしたっけ……?」
「ハッ、ここまでされてキレねえってんなら、そいつは仏か菩薩様だろうな」
だがここまできても未だにとぼけようとするネロには、一周まわってブラッドリーは心配になってしまった。
おいおいと思いながら顔を見るが、確かに嘘を吐いているようにも見えない。
そして思い出した。数年前もネロと同じような真似をしたことがあった。どうしてかあの時だって、無駄に逃げ回るネロと追いかけっこをする羽目になったのだ。
そんな記憶を思い返しながら、ブラッドリーは相変わらずボケっとした顔の男の額を指でトンッと小突いて口を開いた。
「マジで分かってねえのか。なら言うがよ、電話出ろよ。何度かけたと思ってんだ」
「……は? でも、着信来てねえと思うけど」
「はああ? かけたっての! 残ってるだろ着信。電波がねえだの、電源をお切りだの言われてよ、それをてめえは俺様の勘違いとでも言いてえのか」
言いながら深々としたため息を落とし、ブラッドリーはずいっとネロに顔を近づける。それでもネロはパチリと目を瞬くのみで、釈然としない様子である。
だが間違えようもなく、ブラッドリーは確実に電話をかけている。
コイツ。いっそ、地団駄を踏んで暴れてやろうか。
「出張明けて、ようやくてめえの飯が食えると思って帰って来たってたのに。なんなんだよ、嫌がらせか」
しかしそう言って負けじと睨み続けていると、そのうちに思い当たることがあったのだろう。
急に「あ!」と声を張り上げて、ネロがこれみよがしにまずいという表情を作った。
「おい」
「あ……ははは」
ただこのいつものぼんやり顔を見ると、ああネロだなとも思う。実際、肝は冷えたし言ってやりたい文句だって山ほどあるが、これは一体何なんだろうか。
「なに、笑って誤魔化そうとしてんだ。説明しろ」
「待て、ブラッド。誤解だ」
「なにが」
そんな言葉に、今度は目に見えてネロが焦り始める。慌てて胸の前で手を振っているのを見ながら、ブラッドリーはむんずと腕を組む。
「あー、ちょっと色々あったってか。とりあえず……弁解をさせてもらってもよろしいでしょうか」
「ふん。まあ聞いてやらないこともねえよ、言ってみろ」
「ははあ、ありがたき幸せ」
おずおずと発言権を得るためにネロが挙手してくるのを許可すれば、助かったとばかりに眉を下げる。
「……てめえ、本当に反省してんのか」
「してる、してるって!」
全く、調子が良い奴だ。ブラッドリーだから付き合ってやるものの、この通りネロには少し雑な時があった。
果たしてそれを見抜いている奴は、どれくらいいるのだろう。ブラッドリーはバリバリと頭を搔いた後、とりあえずと気を取り直し、ネロに話の続きを促したのだった。
「実は……急にばあちゃんから電話が来てさ」
「あ? てめえの婆さん、何かあったのかよ」
「家の前だったんだけど……『滑って転んじゃった』って」
「おいおい、それやべえんじゃねえのか。怪我は?」
弁解をしたいと言うから聞いていたが、どうやら今回ネロが北の国に帰ってきた理由はこれらしい。だが、そういうことなら納得出来る。
高齢者の転倒事故は洒落にならない。思わず前のめりに凝視したブラッドリーだったが、しかし至ってネロは平静で、すぐさま首を振る。
「流石に俺も慌てたけど、幸いと無しだったよ。一応かかりつけの病院にも行ってもらったけど、何ともなかったし」
言葉に一先ずブラッドリーも安堵した。ネロ自身は勿論のことだが、その家族に何かあったとしてもブラッドリーだって他人事ではない。
「何も無かったんなら、良かったじゃねえか。でも、心配だからってこっち来たってことか?」
「ご名答。なんだかんだ言ってももう歳だし、心配だからさ。ただ、そしたら今度は……」
「おい、まだ他があるってのかよ」
「そう、急かすなって。色々あるって言っただろ?」
しかし聞けば更に続く声に、ブラッドリーはピクリと眉を上げた。
とりあえず椅子を引いて目の前のカウンター席に腰かけると、釣られるようにネロもその隣に倣う。
そんなネロは僅かに肩を竦めた後、首の裏に手を当てよく見る困ったような顔でこちらに笑って見せる。
それを横目に、いいから話せよと顎をしゃくるとネロは再び口を開いたのだった。
「ここの店……ほら、あんたも知っての通りおやっさん引退して、息子さんが継いだろ」
「そういや、そうだったな」
「だから今どんなもんかなって、様子見でココに来てみたらさ……居たんだよ」
ネロがこの場を示すようにテーブルを指先で小突いたのを見ていたが、その後の明らかに含みのある言い方にブラッドリーは目を細めた。
「誰が」
ただしいくらなんでもここで、この世の者では無いのを見たとか言う冗談は言わないだろう。そうこう考えているうちに、ネロがふいに空中で何かを握った後でひょいっと振るジェスチャーをする。
だが、いつも見ているからピンとくるのも早かった。これは……十中八九フライパンを振る仕草だ。
「引退した筈のおやっさん」
「はああ? なんでまた」
しかし返ってきた予想外の答えに、思わずブラッドリーは大きく声を上げた。反応を見越していたのか、それにネロがだろう、と言いたげな顔をする。
「数日前に息子さん、やっちゃったみたいでさ」
更に続けてネロはそう言うと、今度はその丸めた拳で自らの腰をトントンと叩いた。ここまで来るともう、みなまで言われなくとも分かってしまった。
すかさず「ぎっくり腰だろ」と言ってやれば、ネロが眉を下げながら「正解」と指を鳴らした。
「まあ、この時期は特にだろうな」
「でもさあ、店閉めんのは渋ってたんだ。そしたら次は、おやっさんの方が張り切っちゃってさ。ただ長らく隠居してたの知ってるし、だからカン取り戻すまで俺が臨時バイトってことで今手伝いを……あ! 言っておくけど金はもらってねえからな⁉︎」
「まだ何も言ってねえよ」
すると説明を終えたネロが一体何を察してなのか、いきなり胸の前でブンブンと手を振り始めた。
また勝手に想像を広げているらしいが、正直言ってブラッドリーが気にしているのは全くもってそこではない。
だが、ネロはすっかり説明をした気になっているみたいだが、しかしこれではまだ不十分だ。ひとつ決定的に不明な点が残っているのを、ブラッドリーは見逃していない。
そして、ブラッドリーは言ってやった。
「つーか、それとこれと俺様の着信無視しやがったのに、何か関係あったか?」
そう、結局ブラッドリーが知りたかった答えに辿りつけていない。引き続き凄むと、ネロがあれっと首を傾げている。
しかしよく見るとバレれましたかみたいな顔をしているのが分かって、流石にイラッとしたブラッドリーは、その鼻先を容赦なく摘んでやった。
コイツ、油断も隙もない。言わなきゃ、舌でも出して逃げ切ろうって魂胆だったな。
「いひゃいって!」
「この期に及んで、てめえがはぐらかすからだ」
「冗談だって! 言う、言うから! え、と、それは、あの……乗ったじゃん」
「何にだよ」
そもそも、このブラッドリー様を誤魔化そうなんざ百年早い。なのにネロときたら、何をそこまで隠したがるのか。
確かに色々あったとネロが言いたくなる事案ばかりだったのも、ブラッドリーとしては分かってやっているつもりだ。
「だから、あんたも、その……飛行機。それで、あの、えーと……」
「あ? ハッキリ言いやがれ」
しかしネロを見ると、まだ少し俯きながらうじうじと指先同士を擦り合わせている。
これでは埒が明かない。静かに「ネロ」と呼べば、途端に叱られる前の子供のようにピンッと背筋を正す。
何度かううっとネロが言葉を詰まらせるのを目にしながら、それでも最終的にちゃんと目が合う。少しの間見つめ合っていたが、そのうちにネロの頭がガクンと前方へと垂れていく。
さて、これからどんな懺悔を聞かされるだろうか。そう思って、ブラッドリーは覚悟を決めていた。決めていたのだが。
それでも、程なくして紡がれた言葉があまりに想像のはるか斜め上を走り去って行くものだと、人間いくら優秀でも考えは止まるらしい。
ネロは言った。
「こっち着いて、ずっと機内モードのままだった! 悪い!」
一回、二回、三回。ゆっくりパチパチパチとブラッドリーは合計で三度目を瞬いた。その間も、言葉が脳内に何度かリピートされる。
――機内モード。機内モードって、どんなモードだ?
いや、機内モードは機内モードで、機内モード以外の何物でもない。何を馬鹿なことを。
そのうちにも、ネロが音が出るほど勢いよく手を合わせて謝っているのだけは、引き続き視覚として捉えて目に入っている。
現実逃避からか、突然思い出した事があった。大昔に姉貴がよく歌ってて疑問に感じていた歌詞。
全部は思い出せないが、単語は覚えている。確か、思考回路、ショート、寸前……的なやつだった。
当時はそれ、どういう状態だよと思っていたのだが、実際にはこういう事を言っていたのだろう。
何も言わないブラッドリーを心配したのか、ネロが証拠とばかりに自らのボトムのポケットを漁り、スマートフォンのロックを解いて突き付けてくる。
その携帯電話のホーム画面には、初期設定のホーム画像に並ぶアプリのアイコン群がポツポツと。広告で見る料理アプリに、あとは動画視聴アプリと、ゲームが数個ばかり。
上部に目を滑らせると、現にブラッドリーもさっきまで設定していた飛行機マークが堂々と点灯している。
そこでようやくブラッドリーは、ひくりと自らの口元が動いたのが分かった。
ということは、何か。単純にこれは、ようするに。
導き出された答えに、ブラッドリーは全身の力が抜けた心地にガクリ、と椅子から滑り落ちそうになるのを咄嗟に堪えたのだった。
「ブラッド?」
「………………マジで、てめえビビらせんなよ!」
「……っ、え?」
吠えるブラッドリーに、今度はネロの方が瞳をまん丸にさせてパチンと瞬かせた。どんな言葉が返ってくると思っていたのかは知らない。
だが恐らく、相当怒られると思って覚悟していたのだろう。ここに来るまで、ブラッドリーもそうしようとは思った。ただ、正直今はその気は失せている。
蓋を開ければなんてことの無い、ネロのうっかりによるただの解除し忘れ。考えてみればらしいと言えばらしく、ネロらし過ぎる失態だろう。
そうなるとこの考えに思い至らなかったブラッドリーも大概、まだまだ詰めが甘いということだ。
「……逃げたかと思うだろうが」
「!」
気を取り直してネロの肩を引き寄せながら訴えると、ビクッと身体が大袈裟に震えた。しかし程なくして、その視線がこちらにじっと向けられる。
「……そんな簡単に仕事辞めねえよ、流石に」
返しに、思わずブラッドリーはそれじゃねえよと唇を突き出しそうになった。毎度の事だが、微妙に話が通じないのもまたネロだ。
そんな男相手に、同時にどうだかと考える。ほんの一瞬だったが、それでも慌てたのが馬鹿みたいだった。
手を離して椅子の背に思い切り頭を預けて再びため息を吐くと、流石に悪い事をしたという自覚はあるのかネロが「ごめん」と重ねてくる。
だが、ここまでボケられるといっそのこと清々しいまである。少しするとネロによって、氷の入ったお冷のグラスが目の前に置かれる。
ブラッドリーは喉を鳴らしながら一気にそれを飲み干して、空のグラスをトンッとテーブルに戻した。
さて、これで仕切り直しだった。
「おい」
「ん?」
「腹減った」
ブラッドリーはネロを呼びつつ、だが思い出したようにぐうぐうと鳴る自身の腹を押さえていた。水で刺激されたのだろう、これまで別の事に気をやっていたからかこうして落ち着くと腹が減っていたのを思い出してしまったのだ。
かれこれ急いでいたために、朝からあの飴とコーヒー以外口にしていない。
そもそもブラッドリーが電話をかけたのもこの為で、本当ならいつも通り夜にでもネロに手料理を振舞って貰う心づもりだったのだ。
「いや、ここじゃ勝手に作れねえって」
「なんで」
「当然だろ。もう、人の店だし」
しかしそんな期待は、すげなく散ることとなる。折角ここに最高の料理人、おあつらえ向きの場が整っているというのにそれはないだろう。
だから頭では理解をしつつも、はいそうですかと簡単に引き下がるのも悔しかった。
さて、どうしたものか。
「てか、あれ? あんたスーツのまんま?」
ふと、ここでネロがブラッドリーの違和感に気が付いたようだった。
「ああ。朝出勤して、そのままコッチ来たからな」
「弾丸で⁉︎」
「てめえが電話に出ねえからだろが!」
「……本当に、すんませんっした!」
相変わらずボケているネロの目を改めて覚まさせてやりながら、ブラッドリーは目に止まった壁の時計を見た。
だがまあ、本気でとんぼ帰りをするならそろそろ出ないと不味い。算段してブラッドリーは立ち上がる。
すっかり昨日までの長時間のフライトと運転で凝り固まった首を回して、ゴキゴキと鳴らしながらネロを見やる。
これからまた空港までを考えると骨が折れるが、しかしネロに運転をさせてもいい。
「……おまえ、いつまでここに居るつもりだ。てめえの用自体はもうとっくに終わってんだろ。ならさっさと、一緒に帰んぞ」
「え、でも……」
そう思って口を開いたブラッドリーだったが、未だにネロが煮え切らない顔をするのに露骨にムッとした。
こちとら長らくお預けを食らっていたのだ。ここで食べられないのならば、帰って食べさせてもらうしかない。でないと、はるばる迎えに来た意味も無いだろう。
それくらい分かって欲しいものだが、どうしてか渋ってその場を動こうとしない。
元店主が心配だという、ネロの好意も分からないわけじゃない。しかしブラッドリーに言わせると、他人の店なら手伝う必要は本当はないだろうとも思うわけだ。
しかもブラッドリーは過去に、ネロがこの店に貢献した功績を知っている。それは元店主の男も同じだ。
なのにそいつと来たら、ネロではなく自らの息子可愛さに店を明け渡したのだ。
人という生き物はそれぞれの人生があり、考えに方にも十人十色、正解は無い。だから責める必要も責められることもない。
悪いとも言わない。ただ、ブラッドリーは充分恩は返しただろうと思うだけで。
その時だ。奥の方からガタガタッという音が聞こえて、それにネロがハッとさせられたように「あ」とか細く声を上げる。
「なんだい、揉め事かい?」
ふと、ブラッドリーにひとりの声がかけられた。休憩前の、最後の客だろうか。女の声だ。
それにしては、今までどこに居たのかという事になる。位置的に考えても恐らく、裏口のような所から入って来たようにも感じる。
なら従業員のひとりか。そして徐々にその身体が明るみに出てくる。近付いて来たのは、小柄な壮年の、見知らぬばあさんだった。
「誰だ、てめえ」
「あらあら、随分元気な兄さんだねえ」
ブラッドリーの威勢に、しかしそのばあさんは怖気付く訳でも無くにっこりと笑顔を作った。目尻にいくつかの、シワが浮かぶ。
ただ、ブラッドリーにそう言ってくるばかりではなく、見た目の割には意外とこのばあさん自身にも元気があることが伺えた。
証拠にネロの隣にやって来ると、少しだけ庇うように見上げてくる。ブラッドリーと、いがみ合っているようにでも見えたのだろうか。
だが、ブラッドリーはこれにひとつ閃いたことがあった。
「あの、ブラッド……」
「悪かったな。他に誰もいねえと思ってたんだ。店の奴か?」
何かネロが言いかけるが、それよりも先にブラッドリーがパッと両手を上げて、まずは敵意が無いことを表してやる。すると、ばあさんがこちらを見てくる目付きが変わったのが分かった。
その瞬間を見逃さなかった。ブラッドリーは次の言葉を吐き出す為に、息を吸い一気にまくしたてた。
「聞いてくれよ、ばあさん。コイツさ、俺様という色男がいながら、電話も出ないでいなくなりやがったんだ。つれねえと思わねえか?」
「な!」
「おやまあ、それはそれは……」
先程までの警戒は、極力なりを潜めるように。大袈裟に見せるためにわざとブラッドリーはガックリと肩を落とすと、身振り手振り交える。
これには流石にばあさんも、興味を持たざるをえないようだった。行ける、と構わずブラッドリーは確信して続けた。
「飯も作ってくれねえって言うんだぜ。はあ……折角俺はコイツの手料理を食いに戻ってきてやったってのによお」
「ちょ、ブ、ブラッ……んん!」
その間再びネロが余計な事を口走りそうだったので、先に伸ばした手で塞いでやる。そしてブラッドリーは駄目押しとばかりに放ったのだった。
「ばあさんからも、何か言ってやってくれよ」
「まあ、聞いたかいネロ。ネロの飯が食べたいんだとさ」
するとブラッドリーの予想通り、味方に引き込んだばあさんの援護射撃がネロに決まった。そのうちに腕のネロがじたばたもがくので、そろそろと離してやる。
瞬間、じっとりと視線がブラッドリーに向けられる。おっかないやつだ。
「ぷは……いや……ばあちゃんもコイツに乗らなくていいから」
だが、これはネロが頑固ならブラッドリーにも考えがあるというのを示しただけだ。
ワンチャン、ネロが作る気にとかになれば御の字だと思ったのだ。このまま帰るには、やはり腹が減り過ぎている。
しかし待てど暮らせど、効果があるように思えたばあさんはそれ以上何を言うわけでもなく、ニコニコとしたままだった。
逆に、何故かネロがちらちらとばあさんと交互にこちらを見ながら落ち着きがなさそうにしている。それを見て、早々にブラッドリーは取り繕うのを止めた。
なんだよ、結局駄目ってことかよ。
「ネロ、このばあさんもバイトかなんかか?」
「あ、いや、あー……うん。手伝いっちゃそうだし、客っちゃ客なんだけど……ええと」
「んだよ、本当にさっきからハッキリしねえやつだな」
「もしかしておまえさんが、ブラッドリーさんなのかい?」
いい加減ばあさんの正体をネロに確認している最中、しかし唐突に会話に上がったのは自らの名前だった。ブラッドリーは疑問に顔を顰める。
「なんで俺様の」
「うちのネロが、いつもお世話になっております」
「……あ、どうも」
それからいきなり畏まられたので、とりあえずと釣られてブラッドリーも軽く頭を下げる。特段名乗った覚えも無いが、どうせネロの入れ知恵か何かだろう。
そんなことを考えながら次にネロに視線を向けると、しかしここに来てネロも若干いつもより畏まっているように感じた。
そこで、ブラッドリーは妙な違和感を覚えた。
「あー、ブラッド。紹介遅れたけど……こちらばあちゃん」
「見りゃ分かるけど?」
「いや、そうじゃなくてさ……なんて言えばいいんだっけ?」
そりゃ見たまんまばあさんだろうな、これでじいさんと言われても驚いちまうなどとブラッドリーが思っていると、ネロがゆっくりとそのばあさんの背中に手を当ててから耳元でこそこそ何やら話しかけている。
親しげにしている様子を見ながら、そんな短期間で仲良くなったのか。いやそんなこと有り得るかなどと考えて、徐々にブラッドリーはおい、まさかなになり始めた。
だが状況整理をする間もなく、遂にその決定打が放たれたのだった。
「はじめまして、ネロのばあちゃんです」
ブラッドリーに向かって深々と頭が下げられる。
そして再び戻ってきた顔を、ブラッドリーは目をかっ開いて凝視した。
確かに言われれば、どことなく面影があるように感じた。ははん、成程……では、ない。
「……ちょっと、ネロ来い」
「うわ!」
しかし何事にも、優先順位というものがある。
ブラッドリーが呼んで腕を引っつかむと、とりあえずネロを角の方に引き込んだ。そして極力ばあさんには聞こえないよう、最大限ボリュームを絞りながらも、ブラッドリーは先程から言いたくて堪らなかった言葉を吐き出したのだった。
「(おまえ、早く言えよ!)」
「(はあ? 言おうとしたらあんたが遮ったんだろ!)」
だが、すぐさまギョッとしたようにネロが反撃してくる。
「(俺様のせいにするってのかよ!)」
「(どう見てもてめえのせいだったろ!)」
「(くそ、マジかよ……)」
でもそうじゃねえだろ、とブラッドリーは思うのだ。止めろよ流石に。コイツ分かってねえな。
一瞬で論破された井戸端会議を終えて、ブラッドリーはばあさんの前にそれとなく戻る。
引き続きばあさん、ことネロのばあちゃんのニコニコとした顔が眩しい。
差し出された手をゆるやかに握り返してやりながら、ブラッドリーはごほん、と咳払いをひとつして無理矢理気を取り直すことにした。
「あー……良いお孫さんですね」
直後、ブハッと後ろの方からめちゃくちゃ失礼な笑いが聞こえてくる。ブラッドリーはひくりと口元が震えた。
自分でもどうかと思って言ってんだから、傷を抉るなよと思う。にしても久々にこれは、やっちまったかもしれない。
「い、いまさら取り繕ってもだめだろ……っ」
そして再び聞こえてくるのは、すっかりツボりまくったネロがヒイヒイと笑う声だった。
◆
場所は変わり、ネロの先導で辿り着いたのは正しく今回ブラッドリーが目指していたネロの実家であった。なんだかんだであれから時間は経ち、もう夕方に差しかかろうとしている。
ブラッドリーは夕日を浴びた建物を見上げた。流行りの新築の作りでもないが、しかし昔ながらの家というわけでもなく思ったよりも綺麗な一軒家だ。
「使いやすいようにリフォームしたのよ」
車から降りてきたネロのばあさんが、到着と同時にいい笑顔でそう語ってきた。手招かれるがまま玄関フードをくぐれば、よくガラスも磨かれているのが目に留まる。
きっと、几帳面な性格なのだろう。しっかりと手入れも行き届いている。
そしてその口振りからすると、きっとリフォームにはネロの支援もあったのだろう。隣でどこか照れ臭そうな顔をしているネロに、相変わらず分かりやすいやつだなとつい口元が緩んだ。
家の手前には、畳んだというおばんざい屋があったらしい。残すか悩んだ末、結局は取り壊して今は駐車場と家庭菜園用の畑になっているようだ。
だが、流石は北の国の片田舎だ。土地の使い方が都会とはまるで違う。それがまた、別の地方に来たという感覚にさせて趣深い。
家に上がってすぐに、ブラッドリーは茶の間に通される。そしてネロのばあさんに進められるがまま座布団を受け取って、中心のローテーブルの手前に胡座をかいて腰を落ちつけた。
思えば、今日は一日中ずっと忙しなかった。やっとひと心地ついた気がする。
家の雰囲気もあるのか、漏れ出そうになる欠伸をひとり噛み締めていれば、それを見つけたばあさんが目の前でくすくすと小さく笑う。
どこからともなく急須を出して、煎茶が入った湯呑みが置かれた。とりあえず頭を下げて受け取って、口に含む。
一瞬、火傷しそうになって驚いた。思いのほかほかほかだったそれは、煎茶にしては少し熱いくらいの温度だった。
だがそれがいかにも田舎のばあさんの家という感じがして、なんだか無性にホッとさせられる。
自らの記憶を辿るが、いつの時代もブラッドリーが育ってきた家はマンションだった。ただ、決してマンションが悪いというわけではない。
今は親父も定住して実家はそこそこ立派な一戸建てになったものだが、昔や都合や事情もあってかなり転々としてきた。だからか、どうにも実家という概念があやふやだった。
そうやって過ごしてきたからか、初めて来たにも関わらずこの家はどこか懐かしい気分にさせてくれる。
ネロは帰宅早々、隣の台所に引っ込んでいた。耳をすまさなくとも、さっきから規則的に食材を切る音とクツクツと煮るような音が聞こえてくる。
しまいにはふわりと醤油のような香りが漂ってくるのに、いよいよ空腹が刺激された。
「一目見て分かったわ、おまえさんがネロの言うブラッドリーさんなんだってね」
ふと、ばあさんが口を開いた。この会話をきっかけに、ネロの調理音をBGMに夕食の出来上がりを待つ間ののどかな時間を過ごすことになる。
「そいつは俺様が、いい男だってことか? 褒め言葉として受け取ってもいいよな」
「ふふ。聞いてた通りの兄さんだこと」
だが、ここでただの世間話をしたってつまらない。ブラッドリーはテーブルに肘をついて前のめりになると、今度はこちらから口を開いていた。
「なあ、ばあさん。おまえの孫マジで鈍いんだがよ、どうにかなんねえのか」
「ネロのぼんやり癖は昔っからでねえ……悪い子じゃないんだけど」
そう言ってブラッドリーから仕掛けてやると、にっこりと笑みを浮かべたばあさんは、コホンとわざとらしく咳払いをする。
しかしその表情を見るに、しっかりとばあさんもブラッドリーと同じことを考えていたらしい。それからすぐに聞きたいだろうと言わんばかりの顔をするばあさんに、負けじとブラッドリーもニヤリと笑みを浮かべてやる。
レストランでの振る舞いから感じていたことだが、いいばあさんだと思った。孫が可愛いのが、十二分に伝わってくる。
そして思うに、これはむしろブラッドリーに語りたくて仕方がなかったという反応だろう。しかし、これはブラッドリーにとってもいい機会だった。
あまりネロは自分の事を語りたがらない。だから尚更それを逃す手はないのだ。
「なあ……俺に聞こえる所で、悪口言うのやめてくんねえかなあ」
それからいくつか掻い摘みながら話を聞いていれば、そのうちに台所からネロが顔を出した。
しかし、なんていう顔だろう。ネロは不安と焦燥みたいなものと気恥しさを綯い交ぜにしたような、そんな顔をしている。ブラッドリーはくつくつと肩を震わせた。
「……ていうか、なんであんたそんなに仲良くなってんだよ」
「どうしてだと思う?」
次いで降ってくる質問に、ブラッドリーはわざとに両肩を上下させる。
だが思った通りその返しにネロは頭に疑問符を浮かべ、よく分かっていない顔をするので相変わらずである。
「つーか、どうせコソコソされんのもてめえは気にするだろうが」
「ネロの悪口じゃないよ、褒めてたのさ。そこがネロのいい所だってね」
しかしすかさず入るのはばあさんのフォローだった。ネロを見ると、眉根を寄せて「ばあちゃん、勘弁してよ」などと気弱な事を言っている。
だが、なんでなんて聞くのは今更だろう。腕を組んで考えている間に、渋々といった様子で再びネロが台所に引っ込んでいく。
恐らく先程までの会話は丸聞こえだったのだろう。
「しっかり照れてやがったな」
「そうね」
ネロのばあさんと、ブラッドリー。共通点など、考えてもひとつしかないというのに。
やっぱりネロは鈍い男だ。そしてばあさんとふたり、今度は同時に声を上げて笑いあった。
「あー、食った食った!」
腹をさすってから軽く後ろに手をつき格好を崩すと、ふたりの視線が同時にブラッドリーに向けられる。
「本当に、食いっぷりがいいわねえ」
「マジでこいつ、よく食うんだよ」
感心するように告げられる言葉に、ブラッドリーは当たり前だろうと鼻を鳴らした。
今夜のメインメニューはブラッドリーの好きな肉だった。おまけに腹はペコペコで、こんなにもお膳立てをされて、たらふく食べないという方がおかしいだろう。
そしてネロ曰く、これが絶対に黄金比だと豪語する割り下で作られたすき焼きの味が、ブラッドリーの舌に合わない筈がないのだ。お陰で、何人前の肉を食べたか分からない。大満足である。
正直な所まだ食えたが、冷蔵庫の肉も炊いた飯も底を尽きてもう最後だと言われてしまったので、もう箸を置くことしか出来なかった。
「肉ばっか食いやがって……野菜も食えよ」
「しつけえな。ちゃんと食っただろ?」
「あんなのは、食ったのうちに入らねえんだよ」
そう言ってネロが、じっとりと睨み付けながらつま先でブラッドリーを蹴ってくる。足癖の悪い男だ。
しかし今夜は特に肉にこだわったのか牛は北国産らしく、かなり上等な代物だった。悪かったという詫びのつもりなのか、はたまたもてなしか。
いずれにせよ、洋食店でも取引があったという肉屋で帰りにネロが買ったもので、口に運んだ瞬間舌にほどけるような脂はしかししつこくもなく、いつまでも味わえる牛肉だった。
そんな肉達をブラッドリーは上機嫌で味わいながら至福のひとときを過ごしていた。だが、その目を覚ますかのごとく、容赦なくお隣から自らの器へと野菜が突っ込まれるので、最後まで食べ終わるまでに非常に苦労をさせられることになってしまった。
いくら美味い味付けとはいえど、やはり野菜は野菜の味がする。
「まだ食えるけどな。ばあさんの炊いてくれた飯も、マジで美味かったぜ。また食わせてくれよ」
「あら、嬉しいわねえ」
そう言って声をかけると、目尻いっぱいに皺を寄せたばあさんがにこりと微笑む。
土鍋で炊く米は当然、知ってはいる。だが店をやっていた時も使っていたのだという、昔ながらのガス炊飯器は今回初めてお目にかかった。
そんな炊飯器で炊いた米は、炊きたてというのを抜きにしてもひと味違う気がした。ひとえに米の研ぎ方から炊き方も熟練なのだろう、粒のひと粒ひと粒が立っていてめちゃくちゃ美味い米だった。
長年の月日の積み重ねと職人の技。こればかりはいくらいい家電と材料を買ったとしても、越えられるもでは無い。
食休みしていると、じっとネロがこちらを見ているのに気が付いてブラッドリーは視線を向けた。
「なんだよ」
それにネロがもご、と少しだけどもった後、口を開いた。
「いや……あんた今日ってどっかに宿取ってんのかな、って思ってさ」
言葉に、ブラッドリーは目を瞬いた。少ししてネロが「ブラッド?」と不思議そうに呼びかけるのに、ああ、と我に返る。
「ま、どうにかなんだろ」
「……ってことは、取ってねえの?」
それにゆるく頷けば、今度は入れ違うようにネロがキョトンと目を丸める。
「どうすっかなあ」
「いや、呑気に言ってる場合かよ。この辺あんま、ホテルとかねえぞ」
そうしてブラッドリーは顎に手を当て、思案した。ネロの言う通りで、確かにこの付近は宿泊施設も少ない。以前来た時も、少し車を走らせた先に宿を取った記憶を思い出す。
ちなみにネロにはなんでもないように言ったものの、実の所ブラッドリー自身も驚いていた。
そんな余裕も無かったのだと、突き付けられたようでらしくもない。ブラッドリーとあろうものが、今の今までその考えに全く至っていなかったのである。
しかし今までの経験上、無意識に頭では何とかなると思っていたのも事実で、単に優先度が低かっただけという話もある。
いつだって熱くなったとしても、根っこは冷静でいられた。苦笑いをしそうになるのをグッと堪えて盗み見るが、しかし幸いとネロはそこま深く考えていなさそうだった。このまま誤魔化しておくかと、ブラッドリーは算段する。
その時だった。唐突に「何言ってんだい」と上がる声に、ふたりは同時に顔を向ける。
先程までと変わらない笑顔を携えたばあさんが、パンッと手を打つ景気のいい音が響いた。
「ネロ。折角のお客さんなんだ、泊まっていってもらいなさい。ばあちゃんのことは気にしないでいいよ、お友達の家に行ってるから、ブラッドリーさんと好きに使いなさい」
「いや、でも」
だが、そんなばあさんの言葉に間髪入れずにネロも声を上げる。しかし対してばあさんも、ゆるりと首を振る。
「ばあちゃんね、後から迎えに来てくれるように、もう連絡もしてあるんだ」
「……えっ、誰に? や、流石にブラッドも人の家とかさ……ほら、色々気にしちまうだろ?」
「ばあさん、悪いな。なら、世話になるぜ」
「ブラッド⁉︎」
ふたりの会話を聞いていたブラッドリーだったが、しかしそういうことなら言葉に甘えるべきだ。即決すると、ぎょっとしたようなネロの視線が突き刺さった。
「なんだよ。俺がここに泊まっちゃ、なんか困る事でもあんのかよ」
「そ、ういうわけじゃねえけど……」
次いで、ごにょごにょとぼやくネロの声。けど……その後は一体何だというのだろう。普段からあれだけお互いの部屋に泊まっておいて、随分ととぼけたことを言うじゃねえかとブラッドリーは考える。
しかもばあさんだって気遣って、友人の家に行くというのだ。だとすれば、尚更遠慮もない。場所が変わったとて、ブラッドリーが泊まってはいけない理由はもう何処にもないだろう。
痺れを切らしてブラッドリーはネロの肩に腕を回し、そのままグイッと引き寄せる。大きくその身体が揺れて「ちょ、おい!」と焦った声が上がった。
それでもまだネロはいまいち煮え切らないようで、まごついている。だが、いちいちそれに構ってもいられない。
というわけで、今晩ブラッドリーはネロの実家で一泊することになったのだった。
暫く落ち着かずにそわそわとしていたネロだったが、とんとん拍子に進んだ決定事項が覆る様子がないのを悟ったのだろう。結局は話をしているうちに、ばあさんとブラッドリーの会話にネロも混ざっていた。
そしてたまに作る直伝の南瓜の煮付けの話から、話は先程出された寄せ豆腐の話題にへと移る。
職業柄もあって、ついどこの物か気になっていた。豆の味が濃厚で美味かったと言ってやると、ばあさんがニコニコしながら礼を告げてくる。それにブラッドリーは首を傾げた。
「美味いよな、アレ。ばあちゃんの手作りなんだ」
「マジかよ」
どこか、そう言って付け加えるネロの方が得意げだった。だが、豆腐まで手作りだというのだから驚かされる。
ネロの料理を作ること、そして手間をかけることの惜しまなさや思いの強さは誰よりも分かっているつもりだ。間違えようもなく、ばあさん譲りなのだろう。
この反応にばあさんも気を良くしたのかついには明日、何種類ものおかずを用意した小鉢いっぱいの朝食を作ってくれるという所まで話が進んでいく。
これは朝食が楽しみだ。いい旅館に泊まるより、よっぽど飯が美味いに違いない。
張り切るばあさんを「おいおい、大丈夫かよ」とネロは心配していたが、しかし久々に気合いの入ったばあさん渾身の飯が食えるとだけあって、最後には目の色を変えて無邪気に喜んでいるようだった。
話が盛り上がりすぎたからか、穏やかな動作でネロのばあさんが茶を啜り始める。ブラッドリーとネロも倣うように口にしたが、その後だった。
「それにしても、ネロがこんなにいい人を連れてくる日が来るなんてね。ばあちゃん本当に嬉しいわ」
しみじみ、という感じに本当になんの前触れもなく吐き出された言葉に、ふたりして顔を見合わせる。
「……な」
少しの間が空いたが、言葉の意味を理解したのだろうネロが頬を染めて息を呑んでいた。「ばあちゃん、違えから!」などと言いながら身振り手振りをしだすネロを横目に、ブラッドリーは崩れていた姿勢をゆっくりと正していく。
流石に今日の今日でどうかということを考えていたが、これはまたとない機会かもしれない。
「心配すんなよ。これからは、俺もネロと一緒に遊びに来てやるからさ」
「あら、ありがとうね」
言葉に、ネロのばあさんが柔らかく微笑んだ。テーブルの上にそうっと湯呑みを戻すその手に目を向けると、薄い皮膚に皺が寄っている。
所々に浮く血管に、その手を見ながらやっぱり今だろうなと決心がつく。いくら元気そうにしているとはいえ、ばあさんはブラッドリーとネロのふた周り以上も生きている。
今回こうして怪我を案じて文字通りネロが飛んできたように、いつどうなるかだなんて誰にも分かりゃしない。
「なあ、ネロのばあさん。聞いて欲しい事があんだけどよ、いいか」
呼ぶと、優しげな瞳が真っ直ぐブラッドリーを見た。それからブラッドリーは、ふうと息を吐く。
隣のネロは、静かだった。というよりも、また何か言うのかと警戒をしているのかもしれない。
ある意味、それはアタリだが。そしてブラッドリーは再び口を開いた。
「また改めて挨拶はしに来るつもりだがよ……今、俺はネロと付き合ってる」
そう言うと、ネロのばあさんがゆっくりと頷くのが分かった。だがまだブラッドリーが言おうとしているのを察してか、何も言ってはこない。
思った通りの、聡い人だ。しかし急だったとはいえ、言葉に驚くことも、引くこともされていないことは、ばあさんの目を見ていれば分かった。
「俺がこいつを幸せにするから、ばあさんは……」
「タンマ!」
しかし、このタイミングで口を挟んで来たのはさっきまで黙っていたネロだ。何となくだがこうなる気もしていて、ブラッドリーは一度話を中断する。
「おい。すぐ終わるから、少しの間黙って聞いてろよ」
「いや、無理」
「あ?」
だが、ネロとは長い付き合いだ。まあ仕方ねえな、と思いながらなるべく譲歩して言ってやるも、間髪入れずにお断りされてつい口元がヒクついた。
コイツ、とブラッドリーはネロを見た。その顔はどこか、焦っているようにも見える。
ただ、今は揉めている場合ではない。折角のいい機会で、雰囲気も良かったのだ。
でもネロも強情だ。一歩も引く気配がなく、まるで試合を中断するレフェリーかの如く、座る場所を変えてまでブラッドリーとばあさんの両方に手を伸ばしストップをかけてくる。それに、とうとうブラッドリーは顔を顰めた。
「はああ……なんだよネロ、照れてんのか? でもよ、ばあさんには言っておいた方がいいだろうが」
「ち、違……いや、違わねえんだけど……ええ、と。話の腰を折ったのは、悪かったよ。だけどさ、ブラッド。いっこだけ、確認したいことがあんだけど」
「……なんだ」
ここにきてまで、確認したい事って何だよと思う。舌打ちしそうになる気持ちを抑えながら、一応とブラッドリーはばあさんを一瞥する。
思った通り、急に揉め始めたブラッドリーとネロを見て、ばあさんはぱちぱちと目を瞬いている。
血の繋がりがあるのだから当たり前のことだが、そうしているとネロと似ている。だが年の功か、もしくは洋食屋でネロとこうしているのを見たからか再び湯呑みに手をつけたのを見て、ブラッドリーはひとまず安堵した。
そしてネロに向き直る。やけに真剣な顔をしたネロが正座で座って待っている。
ゴクリとその喉が動いた後、ついにネロから言葉が放たれた。
「俺とあんたって、いつから付き合ってたっけ……?」
洋食屋の時と同じで一瞬、何を言われているか理解出来なかった。しかしそれも僅か数秒の事だった。
「はあああああ⁉︎」
多分、今人生で一番の声が出た。これがブラッドリーの家だったらおやっと思われる程度だろうが、ネロの家だったら確実に壁ドンされている。
ここが近所という近所がなく、それも一軒家である意味助かった。だが、根本的に言及したいのはそこじゃない。
今日、ブラッドリーが北の国に来たのはネロと帰るためで、決してドッキリを仕掛けられに来たわけではないのだ。
「ふざけんのも、大概にしろ。この期に及んで……っておい、マジで……おまえ言ってんのか……?」
言いながらネロの表情を伺うブラッドリーだが、しかし困ったことに嘘をついているようにも見えない。
それじゃあ、何か。ネロと関係を持ってから、そうだと思っていたのはブラッドリーだけだったと、ネロは言いたいのだろうか。
考えて、急に頭が痛くなってくる。だとしたら、冗談と言われる方がまだマシだ。
ばあさんに零したように鈍い鈍いと常日頃思っていたが、まさかここまでとは思っていない。努めて冷静に状況を判断して処理しているようだが、現在ブラッドリーはシンプルにショックを受けていた。
「ええと、悪い……俺めちゃくちゃ今、混乱してて……マジでごめん……」
だが思い出すと、過去にも妙にネロの行動や発言が噛み合わないと感じることは多々あった。でもひょっとしてと思った所で、その時に聞くのは普通にダサい。第一、確認の真似事なんざガキのやる事だ。
深くため息を吐いたブラッドリーと、困惑するネロ。そしてそこに加わるのは分かっているのか分かっていないのか、のんびりとしたばあさんの声だった。
「おやおや、修羅場かい?」
「「ちょっと、ばあさん(ちゃん)は黙ってろ(て)」」
「あら、本当に仲がいいのね」
本当に、勘弁してくれとブラッドリーは眉間を揉む。極めて混沌とした茶の間に「新しいお茶、入れましょうかね」という声が続いた。
◇
あんなに騒がしかった茶の間に、壁時計の音だけがやけに目立って聞こえている。でも昔からこの音が大好きだった。
聞きながらよく寝落ちをした事を思い出す。だが今はそんな懐かしさに浸る間もなく、逆にこの音に急かされているのではないかと錯覚してしまうのは、今置かれた状況のせいだろう。
それほどに頭の中が、酷く混乱していた。秒針が動く程、時間が経てば経つほど男に言われた言葉が上手く咀嚼出来ない。
ネロはチラリと隣を伺う。そこに新しい渓谷でも作るのかという程に眉間に皺を寄せに寄せて、口をむっすりと引き結んでいる。
男はサーブされたばかりの茶を、黙って啜っていた。
〝ネロと付き合ってる〟
ブラッドリーが会話を切り出したのは、突然だった。一体ばあちゃん相手に何の話をし始めたのかと思いながらも、一先ずはとネロも静観していた。
自らの名前が上がってもいまいちピンとこなかったが、しかし聞いているうちに段々と理解はしてくる。
ブラッドリーは多分、ばあちゃんを安心させようとしているのだろうと。
顔が整っている男だが、なんせ真っ先に目につくその鼻っ面の傷のせいで第一印象は強面だし、過去に何をやらかしたのかは知らないが、他部署や取引先のメーカーにブラッドリーの名前を告げるだけで震え上がる奴らも実際にいるらしい。
ただそんな男も、どうにもじいさんやばあさんといったお年寄りには弱いのだろう。
そう思っていたのだが、その憶測が狂ったのはふと見えたブラッドリーの表情が、かつて無い程に真剣だったからだ。
あれっと思った時にはもう、口を挟まないわけにはいかなくなってしまったのが、つい先の出来事。
そしてネロは、目の前に置かれた湯呑みから立ち上がる湯気を淡々と浴びながら再び思案した。
でもこっちにだって、言い訳のひとつやふたつくらいはある。そもそも有り得ないだろう。
答えは単純明快で、あんなに女にモテるブラッドリーがわざわざ男と付き合う必要なんてない。
だから思ってもいない所からその言葉が出てきて、驚かされたのはネロの方だ。ブラッドリーは決定的な勘違いをしている。
まるで冷蔵庫の中に、全く身に覚えのない食材が見つかった時と状況が似ている。でも結局それは過去の自分が買ったことを忘れて、ただ放置されていただけなのだがそんな事今はさて置いて。
嬉しくないわけがない。しかし、ネロとしては都合のいい相手だからと手が伸ばされる方が丁度いいとは思っている。
この気持ちは、本当に男を好きだからこそだった。
確かにこれまでも、どことなく会話が噛み合わないというか、何かズレている気がすると感じる事はあった。
それでも、今までもしかして男がネロをそういう意味でなんて思った事もなかった。
考えれば考える程、分からない。やっぱり何かの間違えじゃないのか。
遂には頭が痛くなってきた。いつの間にか喉もカラカラに乾いていて湯呑みを引っ掴んで茶を煽るが、しかし急いでネロはそれを離す。
危ない、すっかり忘れていた。ばあちゃんの淹れる茶がしこたま熱いことに。
それにしても、よくコイツ平気で飲めたな。ネロは静かに慌てながらもそっと湯呑みを置いて、ひと息吐く。
あやうく火傷をする所だったが、でも刺激のお陰でいくらか頭は冷静になれた気がする。
これは例え話だが、万が一だ。ブラッドリーがネロを選んだその時、男の未来はどうなるのだろう。
考えるだけで、じわじわと心臓が握られているように痛い。だが、ブラッドリーにとって何がいいのかなんてネロが一番分かっている。
ひたすらに天秤が、ゆらゆらと揺れ続けていた。
ネロの人生は、ずっと中途半端だった。しかしそれは男に出会うまでと、再会するまでの話。
ただ唯一、あの時からケリをつけられていなかったのがこの気持ちだった。
さよならを告げた日に、ガムテープでガチガチに固めて奥底にしまい込んだと思っていたのに、そんな事はなかったかのように男は強引にそこをこじ開けてきて、ネロの全部をかっさらっていった。
いつだって眩しくて、宝石みたいな上等な男。ぬるま湯に浸かっているような、夢心地の関係でいたからかバチが当たったのだろう。
未だに実感が湧かない。むしろ、夢なら醒めて欲しい。こんな風に本気で願ったのは、行方知れずの男を探して、しんどくてしんどくて寂しかったあの日以来だった。
でもそれが今じゃ、あんなに探した男は隣にいるだなんて過去の自分に言っても絶対に信じないだろう。
相変わらず胸の中は子供が描いたラクガキみたいに、グチャグチャの線が絡み合っている。
ネロにとってのブラッドリーは、憧れた男だった。いつまでも、その気持ちは変わる事はないだろう。
それなのに、隣に胸を張って立ちたいと思った気持ちにまで嘘を吐いて本当にいいのかと自問自答する。
無力感でいっぱいだった、あの朝の日を思い出しながら、ネロは目を伏せた。
何が正解かはとっくに分かっている。でもどうしてだろう。答えはまだ、出せそうに無かった。
「ネロ」
あれからも黙々と考え続けていたが結局考えは纏まらずに、ネロはかかった声にハッと意識を浮上させた。
まるで思考にストップをかけるように響いた低音に、ゆっくりと男を見やる。
ブラッドリーと一緒に過ごして、分かった事がある。それは暴れて怒鳴り散らかしている時はまだいいが、男はこうして静かに淡々としているのが実は一番厄介ということだ。
店で肩を引き寄せてきた時も同じく怒っているようだったが、でも未だにブラッドリーが何を考えているのかよく分からなかった。
普段一緒に生活していて、あ、今醤油欲しいよなだとか、なんてことないのはすんなりと分かるのに。
はるばるこうして実家にまでわざわざ迎えにやって来た事も、結局はぐらかされた。気まぐれにしては、不思議だった。
ネロは胡座を崩し、少しばかり姿勢を正した。男の機嫌が戻る方が先か、それともネロの足が痺れる方が先か、なんて。
今なら、知りたかった事を聞いても許されるんだろうか。しかしこの状況下でそれを言うのはとんだ自殺行為で、火に油な気はしなくもないが。
到底フランベ所では収まらず、あやうく大事故にだってなりかねないし、現に男の眉間の皺はいつまでも緩みそうにない。
ただ今後、どんな選択をネロがしても結局ばあちゃんには悪い事をしてしまうのも変わらない。それを思うと、ネロの考えを伝えておくのは早い方がいいのだろうというのはずっと考えていた。だからある意味、いいタイミングではある。
ちなみに今更だが、店にいた時から男とぐだぐだやっているのを見せてしまったが大丈夫だろうか。
というのも過去にネロが友達を家に呼んだ事はおろか、そういう話は一度もした事がない。だからばあちゃんは驚いているかもしれない。
実際、ネロなら腰を抜かす。今まで一切素振りが無かった孫が、いきなり知り合いを連れて来た挙句に同性から急に交際しているとまで宣言されたのだ。
後者に関しては、ネロもまだ真意の程を疑ったままだが。
ネロは隙を見てばあちゃんに目を向ける。しかし相変わらずおっとりとした様子で、ゆっくりとお茶を飲んでいる姿が目に留まった。
むしろそのままお茶菓子にまで手が伸びてしまいそうないつもの気配に、ネロはひそかに安堵する。
ここまでくると逆に気にならない方がおかしいと思うものだが、ばあちゃんもばあちゃんで昔から天然な所がある。
どうしたって同じ血が流れているのに、肝の座り方か遺伝しなかったのだろう。
「言いてえ事があるなら、聞いてやってもいい。ただ、ここまで来といて渋るってのはやめだかんな」
ごほん、とわざとらしい咳払いの後に釘を刺すような男の声が放たれる。それにネロはゴクリと唾を飲んだ。
「……分かってるよ」
こんなに男と話すのが億劫だと感じた事は初めてで、緊張していた。しかしやっと腹が決まった。
意を決して、ネロは続けて口を開いたのだった。
「……俺、その……あんたに付き合おうとか、言われたことねえんだけど……」
ああ、ようやく言ってしまった。かれこれ、付き合いだけはやけに長くなった。
でも出会ってから今までを考えれば複雑な関係になりすぎていて、思えば一度も確認なんて事はしたことが無かった。
今一度、ブラッドリーとの関係を整理しておきたい。ネロはそう思っていた。
しかしだった。待てども暮らせども、男からの返事がない。
ネロは顔を上げて改めて男の様子を伺う。目に映ったのは、極限まで目を見開いた男の顔だった。
生簀から出したばかりの魚みたいにはく、はくと口が動いている。
「いや、その、だからさ……付き合って、たっけ……と思っ……て……」
それから程なくして返ってきたのは、肯定でも否定の言葉でもなかった。はああ、という盛大なため息にネロは肩を震わせる。
そして、段々とネロも思い直してきた。もしかしてブラッドリーが言った付き合っているというのは、ハッタリだったという線はないだろうか。
だとしたら、今のネロはとんだ思い上がりをしている事になる。めちゃくちゃ自意識過剰もいい所だろう。
「てめえ……それとぼけてるとかじゃなくて、やっぱマジで言ってやがんのか」
気がつけば、男が額を手で覆っている。
ただし、そういうことなら男がここまで怒るのも頷けた。先程バカでかい声で驚いていたのは何だったのかは気になるが、ネロは完全に失敗したと思った。
「だ、だよな。俺とブラッドが、なんて……」
勘違いでなければ部屋の温度が、一気に数度下がった気がする。そして次の瞬間、男がテーブルの上を叩くダンッという音が響いた。
その後に舌打ちが聞こえて、部屋は再びシンと静まり返った。
完璧に男を怒らせてしまった。
どうして、いつもこうなんだろう。だが妙に噛み合うのに、とことん気は合わないのがブラッドリーとネロだ。十中八九相性の問題だと、もう分かっている。
しかしネロも話し始めた手前、後戻りは出来ない。
でも思う。聞いてやると言うから話したのに、どうしてネロがこんなに言われなきゃいけないのだろうか。
それに考えてもみて欲しい。ネロの立場からすれば何も伝えられずに、曖昧な関係を続けていたのだ。
都合の良い関係に甘んじていたネロにも、そりゃあ非はある。だが、ここまで責められる筋合いはない。
せめて、そうだよな言わなかった俺も悪いくらい言ってもらえさえすれば、ネロだってすんなりと受け入れられたかもしれないのに。
それをこの男ときたら、何なんだ。
「おい」
「……なに」
「あ? なんで、急にてめえがキレてんだよ。わけわかんねえヤツだな」
気がつけば悶々としていたせいで、思っていたよりも低い声が出た。それに男も驚いたようだったが、今更取り繕ってもしょうが無いとネロは開き直る。
ちなみにネロに言わせれば、わかんねえのはてめえの方こそだよ、である。
そうなると、やはり今の今までハッキリとしてこなかったブラッドリーが悪いだろう。
だいたい、毎回毎回ネロを悩ませておきながら男から出てくるのは文句ばかりだった。いざこうしてネロが口を開いても、ぐだぐだだのケチもつけたがる。
「ネロ。おまえが何を勘違いしてんのか知らねえがよ、てめえが今考えてる事当ててやろうか」
それでも残念な事に、厄介なのが情というヤツだった。もうとっくにこれ以上無理という所までこの男に惚れてしまっているのが、尚更ムカつく。
あーあ、なんでこんなに好きになってしまったんだろう。一体、どれだけこちらの気持ちを振り回したら気が済むのか。
そのうち「聞いてんのか!」と男が念を押してくるので「聞いてる!」とイライラ気味にネロは返した。
隣で騒がれて聞こえていないわけがない。馬鹿かこいつと更にネロは苛立った。
「どうせ俺様がてめえとどうにかなるはずねえとか、嘘だとかなんだのゴチャゴチャ思ってんだろ。馬鹿だなおまえ。んなワケねえだろが」
「なっ……!」
しかし男から吐き出された言葉に、ネロは絶句した。同時に、奇しくも同じような事を考えていた事に嫌悪する。
それから男はさぞかし呆れたという顔をした。ネロの額をやや乱暴に、ピンッと指先で小突いてから再び口を開く。
「いいかネロ、よーく聞け。今どき『付き合ってください』、『はい、よろこんで』つって付き合うヤツがいると思うか? おままごとやってんじゃねえんだよ」
今度はその指が、勢い良く目の前に突きつけられる。
確かに、言われてみるとそれはそうなのだが。
でもな、と思っているうちに更に男が続けてきた。
「ついでにもうひとつ言わせてもらうがよ、てめえは好きでもねえ付き合ってもねえ男のブツをケツに挿れて、一線越えんのか」
「おいブラッド!」
しかしその言葉を聞いた直後、ネロは反射的に男の胸倉を掴んでいた。しかし間違いなく馬鹿にされたのだから、当然だろう。
大事な家族の前で下品な話題を振られた事に、ネロは一気に頭に血が上がっていた。
「ふん。俺様が言わなくても、そこのばあさんならてめえよりよっぽど勘がいい。薄々、分かってんじゃねえか」
だが、ここまできても男は喧嘩腰の態度を変えなかった。それどころか知った風に、ヒョイっと肩を竦めて更に煽ってくる。
「てめえ、マジでふざけんな」
「ふざけてんのは、てめえだろ」
せいぜい、今回だってネロが折れるとでも思って高を括っているのだろう。それにしたって流石に加減というものがある。
ただこれがいつものパターンなら千歩譲って折れてもやってもいいが、残念ながら今日はネロも引く気が無い。
「ハッ。ここまで言っても通じねえ、てめえなんざもう知るかよ。言っとっけどなネロ、俺様はモテるぜ」
「はあ? んな事、今更言われなくても知ってるし……つーかあんた、さっきから何が言いてえんだよ」
しかし先程から、男が何をネロに求めているのかさっぱり見えてこない。更に睨みを利かせて問いかけてみるが勿論効力などある筈も無く、ふんっと目の前で鼻を鳴らすだけ。
しまいには胸倉を掴まれている側だというのに、随分と余裕そうな所がまたムカついた。
「おまえが、この期に及んでジメジメしてっからだろ」
「てめえ……」
そして笑い飛ばすように放ってくるブラッドリーの言葉に、いよいよネロの額に青筋が浮かぶ。
てめえが悩ませてんだろうが!
いよいよ腹はグツグツに煮えていた。しかし男がそう来るなら、ネロにも考えがある。
「……じゃあ、俺からも言わせてもらうけど。てめえがおモテになんのは知ってるよ。でもそれって、せいぜいちんこがデケエからとかじゃねえの」
「なんだとゴラァ!」
ネロが放った言葉に、ブラッドリーがブチ切れた。真正面から怒号を浴びながら、今度は男の方がネロの胸倉に掴みかかってくる。
「なら、そのデカチンに毎回あんあんよがってんのはどこのどいつだ」
「……あんなもん、演技に決まってんだろ」
言葉に男がヒクリと口元を引き攣らせたのが分かる。お互いガンを飛ばして睨み合い、そして顔を背けられる。
多分、いや絶対傷付けた。当然、ネロの言葉こそハッタリで嘘っぱちだった。
でも男を焚きつけるには、充分な発火剤になるのを知っている。だからこれでいいと無理矢理納得する。
しかし、ネロの予想が外れたのはそこからだった。急に男はハッとしたように舌を打った後「……ああ、そうかよ」と力無くネロの胸にかかった手を放す。
らしくもなかった。実際、絶縁するかしないかギリギリのかなり際どい所で男とやり合った事も過去にはあった。でもその時と比べると、なんというかキレが悪い。
いつもならもっと派手に取っ組み合いをするのだが、これにはネロも肩透かしを食らう。
あんた、こんなもんじゃねえだろ。もっとネロがぐうの音も出ない程に、その回る頭と舌を駆使してこてんぱんに罵ればいいのに。
気がつくと、先程まではホンモノの取り立て屋のように怖かった顔に全く覇気がない。それきり、吐き捨てた男は何も言わなくなってしまった。
再び、気まずい空気が場に流れる。ただこれも男の為だ。これで嫌ってくれるなら、もうそれでいい。
でも正直、流石に言い過ぎた感も否めない。ブラッドリーに合わせてネロも下品な言葉で罵倒したが、なにもあそこまで言わなくても良かったし、なんなら正気に戻った今、ばあちゃんの前だった事を思い出した。
それに男と別れた後なんて、絶対に向こう何年も引きずるだろう。なんせ実家でやり合ってしまったので、下手したら死ぬまで思い出す羽目になってしまったのも大誤算である。
ネロは相変わらずぶっすりと口を引き結んでそっぽを向き、あからさまに不機嫌になった男の顔を盗み見た。
揉めたばかりだというのに、その拗ねている様だってどうしたって可愛く見えてくるからいけない。こういう時に、そういえばコイツ末っ子だったなと思う。
でもここで絆されたらおしまいだ。それに、これもヤツの作戦かもしれない。
「なんだい、ネロ。まだあんた、ばあちゃんに遠慮してんのかい?」
その時だった。ここに来て、突然黙っていた筈のばあちゃんが声を上げる。急な事にびっくりしていると、男も同じくばあちゃんに目を向けていた。
「いくらネロが沢山経験してようが、ばあちゃんは何にも言わないよ。あと言ってなかったけどね、ネロ」
「……へ、な、なに」
急に振られて、ついネロは挙動不審になりながら応えた。でも、今から何を言われるのかは皆目見当もつかない。
背中には変な汗が伝う。そしてばあちゃんは再び口を開いた。
「実はばあちゃんね、今いい人がいるのよ」
「……へ?」
「いやね。ばあちゃんにも、付き合ってる人がいるのよ。だからネロもばあちゃんの事なんか気にしないで、あんたの好きなようにしなさい。電話でも言わなきゃ言わなきゃとは思ってたんだけどね、すっかり逃して今になっちゃった!」
一体、ここにきてばあちゃんは何を言っているのだろう。あまりに一気に情報が入ってきた事とあって、脳の処理が未だに追いついていなかった。
その後にも「さっきお友達って言ったけど、その人がそうなのよ」と続けられても、正直ネロはポカンとするだけだ。
しかしそんなネロを他所に、ばあちゃんの顔はどこか達成感のようなものに満ち溢れていた。ようやく言えたとばかりに満足気にすっきりとしているのを見ると、もう何も言えなくなる。
「おい、大丈夫かよ」
さっきまで黙りを決め込んでいた男が心配して、肩を叩いてくるのに何とかネロは首を上下させる。
「……ば、ばあちゃん今、彼氏いるの」
少しして深呼吸の後、やっとの思いで絞り出したネロの声は見事にひっくり返っていた。だが、状況も状況なのでここは及第点としておきたい。
そこに当然のように「そうよ」と返ってくるのは、やはり間違えようもなくばあちゃんの声だ。マジかよ。
「おわ、ネロ!」
遂にネロの頭はパンクした。ふらりと傾いた拍子にそのままゴンッとテーブルに額を強く打ち付ける。
ネロは文字通り撃沈したのだった。
ピリピリとしたムードから一変、苛ついていた男も今ではすっかり何事も無かったかのような雰囲気で「ばあさんもやるな」などと話しかけている。
既に頭の中は、手当り次第に引き出しから物を出しまくられて、荒らされたような感じである。空き巣にでも入られたのかという具合には、グチャグチャとしている。
先程打ち付けた額が、ジンジンと熱を持っていた。しかしこの痛みこそが夢ではないことを、ネロによく知らしめてくれていた。
物心ついたばかりのネロが来た時にはもう、この家にじいちゃんの存在はなかった。ばあちゃんの旦那さん、もといネロのじいちゃんはネロが産まれる前に病気で亡くなっているからだ。
だからネロはじいちゃんと話した事はおろか、最後の旅行で撮ったのだというばあちゃんと一緒に写った写真と遺影くらいでしか、その姿を知らない。
ばあちゃんがこの家に、若くして嫁いで来たのは話には聞いていた。お見合い結婚だったらしいが、時代的には珍しい話でもなんでもない。
だが飾られている写真のふたりの姿から分かるように、本当にふたりは仲睦まじかったという。
幼少期のネロは仏壇に線香をあげる度に、幸せそうに写っているそれを見るのが好きだったのをよく覚えている。
そんな写真のじいちゃんばあちゃんの姿は、今のネロの歳よりも少しだけ歳が上といったくらいだった。この辺りの事は詳しく聞いていないが、恐らくふたりが夫婦として一緒に暮らした年月はそう長いものでも無かったのだろう。
きっとふたりとも心残りがあっただろうし、何より寂しかったと思う。
しかし、そんな短い暮らしの中でも充分にじいちゃんは愛してくれたのだと、よくばあちゃんが話してくれていた。
だから今回の報告を聞いて、ネロは本当に飛び上がる程驚いたのだった。
「流石に、この歳になってばあちゃんも再婚はする気はないのよ。でもね、やっぱり寂しいんだわ。だから、一緒にいるくらいはいいかなあって思ってね」
だが、ばあちゃんの口からその言葉を聞いてネロは息を呑んだ。そして更にばあちゃんは続ける。「じいちゃんもね、許してくれてるのよ」と。
ばあちゃんがじいちゃんを見送って、数十年は経つだろう。言葉の通り、ばあちゃんをひとり残していくのが不安だと、じいちゃんの残した日記にはそう書いてあったという。
確かに、本当に大好きな人には幸せでいて欲しいとネロも思う。もし同じ立場にネロが立つとしたら、俄然強くそう思うのだろう。
しかしそれでも今の今までばあちゃんがそうしなかったのは、ひとえにじいちゃんのことをいつまでも愛していたからだと思う。
そしてその思いは今でも変わらない。じいちゃんの話をする時のばあちゃんの顔を見れば、それは一目瞭然だった。
ここまで一通り喋り終えたばあちゃんは、ようやく話が出来た安堵感からか、どこか晴れやかな表情を見せている。
育ててくれたばあちゃんが幸せなら、ネロも嬉しかった。そしてばあちゃんが良いと言うのならば、当然反対もしない。
ばあちゃんの伺うような視線に、ネロも何か早くリアクションを返さなくてはと考える。しかし、どうしてだろう。さっきからおめでとうと言いかける度に、言葉が喉元でつっかえていた。
なかなか口に出来ない自分自身がもどかしい。でもその理由は、自分でもよく分かっている。
それはネロ自身が、ばあちゃんをひとりこの北の地に残してしまった当事者だからだった。
当然、ばあちゃんを置いて行くことはかなり迷ったし、心配をしているからこそこうして実家に戻って来ている。
あの時はやってみなさいと背中を押されて、甘える結果になった。でも当時は、ここまでの気持ちにはならなかったはずだ。
恐らく、ばあちゃんがあの頃よりも歳を取ってしまったからだろう。実際にばあちゃんと会って、この目で無事を確認をするまでは正直生きた心地がしなかった。
転んだという報告を受けた時、どれだけ胸がザワついた事か。
お相手の人は、今でもばあちゃんがじいちゃんを思っている事をきちんと理解をした上で、一緒にいてくれるらしい。その気持ちをまるごと背負って、支えてくれる人が現れた事は素直に喜ばしかった。
改めて後日、ばあちゃんからお相手を紹介をしてくれるという事で一旦話は落ち着いたが、しかし未だに心のどこかに引っかかっている。まるで魚の骨が、喉に刺さったような違和感。
ばあちゃんの寂しさに、拍車をかけたのはネロなのかもしれない。厄介な事に一度そう思ってしまうと、一層心が落ち着かなかった。
「……!」
その時だった。膝に置いていた手の上に、唐突に温もりを感じる。ハッとして意識を戻せば、隣の男とバチンと視線がかち合った。
そしてもう一度。今度は先程よりも少しだけ強めにぎゅうっと握られて、ネロは目を瞬いた。
「まずは、ばあさんおめでとう」
だが時間にすると、僅か数秒の出来事だった。気が付くと男の手は引っ込められている。
それを少しだけ残念に思いながらも、再びばあちゃん相手に話す男にネロは耳を傾けたのだった。
「けどよお、それを聞いちゃあますます、ばあさんが寂しくなる前に俺たちが遊びに来てやらねえとな。なあ、ネロ」
不意打ちだった。相槌を求める男に一瞬だけ遅れをとったものの、ネロも勿論だと首をコクコクと上下させて慌てて頷く。
偶然だろうか。それにしては見透かしたような言動だと思う。しかしこの一連の流れに、ばあちゃんが安堵をしたようにくすりと微笑むのを確認したネロは、ホッと胸をなで下す。
不覚にもネロは、男の存在に助けられてしまったのだろう。そして話題はまた、いつの間にやらネロ達の話へと戻されていくのだった。
「ふふ、男前ねえ。ネロ、本当にいいのかい?」
「……本気で言ってる、んだよな?」
声に緊張が混じって、上擦っていく。それでも意を決して口を開けば、相変わらず熱い男の視線がネロをとらえている。
「懲りずにまだてめえは疑ってんのかよ」
「そ……ういう、訳じゃねえけど……」
「前にも言ったよな。俺の気持ちだけは疑ってくれるなって」
そしてこの言葉で、ネロは大きく瞳を見開くこととなった。恐らく、いや確実にこのブラッドリーのこれは、初めて最後まで身体を合わせた時の話だろう。
思い起こせばあの時も、ネロが勝手に男を案じて散々言い合いになった。
相手にしてみれば、あれもさぞ余計なお世話だっただろう。だとしても、ネロが考えない訳にはいかない。
いつからか始まった、少し行き過ぎた触れ合い。その末に、どうしてブラッドリーがあれ以上先を望んだのかだけがずっと疑問に思っていた。
勿論たまたま都合が良かったというのも、理由のひとつに含まれているかもしれない。ただ、確かに特別な扱いをされている事にはとっくに気が付いてはいた。
でも、そうじゃないと言われるのが怖くて向き合おうとしてこなかったのも、ネロの方だった。
ネロは自分自身に足りてない物もよく分かっているつもりだ。ここまで渋るのは、ネロが自分に自信が無いから。
そりゃあそうだろう。ネロ・ターナーの性格上、ブラッドリーのように自分の行動に誇りをもったり、今後自分がどうなりたいというビジョンはおろか、確証もないのに敢えて茨の道に突き進む覚悟を出来るわけがない。
しかしその中でも確実に自覚していることを上げるとすれば、男に置いていかれたと知った時に目の前が真っ暗になって、世界が一度終わったとすら感じたことだろう。
しんどくて、しんどくて、苦しくて、落ち込んだ。大都会にひとりきり、ポツンと残された時のどうしようもなさ。
その時の消失感に比べれば、もうどんなことが起きてもちっぽけに感じられるとすら思える。今だって思い出すだけで胸が苦しくなる程で、それくらいブラッドリーという存在がネロの全てになっていた。
だから、未だに夢を見ているのかと思う。それどころかまだ奇跡みたいなことが起き続けていて、現実かと疑ってしまう時だってあるくらいだった。
昔から欲がないと言われるのが常だった。でも本当はそうじゃない。
ただ単に、皆が夢中になる物に興味が湧かなかったからずっと譲ってこれたってだけで、そんなネロが唯一本気になれたのが料理という行為だった。
これさえあれば、生きていける。ばあちゃんの背中を見ながら、ネロは夢中で料理に向き合っていった。
しかし仕事にすることを選んで続けているうちに、色々な壁にぶつかるようになった。
好きなことにも悩みがあるのだということに気がついて、急にやるせなくなった。同時に社会の厳しさや、自らの至らなさを目の当たりにすると、もっと悩みがつきなくなった。
そんなある日、忽然とどこからか現れて雁字搦めになっていたネロを掬い上げた人物がいる。それがブラッドリーだった。
珍しく男は、ネロが次の言葉を口にするのをじっと待っている。宝石のような色の瞳が、真っ直ぐにネロを見つめていた。
しかしその眼光に耐えきれず、つい無意識に逸らしてしまいそうになった直後だった。許さないとばかりに先回りされ、伸びてきた手にネロの顎はパシリと取られていた。
「……っ」
「先に言っておく。俺様はもうてめえが隣にいる未来しか見てねえぞ」
そして男は言った。クンッと引き寄せられるように腕を動かされて、再び視線が交差する。
言い聞かせるようなその声色は、真剣さを帯びていた。本当に賢しく狡い男だと思った。
同時に結局はこうして追い打ちをかけてくる所も、なんともブラッドリーらしいとも思う。
「ついでにもう一個、てめえに話しておきてえことがある」
今頃、ネロの頬は赤くなっているに違いない。でもこんなに好きな男から感情をぶつけられて、逆上せない方がおかしいくらいだろう。
返答に困って暫くの間黙っていると、ふっと男から吐息が漏れてその口角が上がった。
「ここで話すかは、正直迷ったところだったが……けど、いるかも分からねえ神なんかよか、てめえの目の前にいる奴に聞いてもらう方がよっぽどいいと思ってな」
言葉に萎縮した身体がビクリと反応する。それに小さく笑いながら、くつくつと肩を揺らした。
多分、その表情からしても悪い話ではないのだろう。しかしそう思う一方で、身体は緊張から見ての通りガチガチに強ばっている。
「だからばあさんには、俺たちの立会人になってもらうぜ」
そうして最大限まで高められた気配の中、ブラッドリーは続ける。「詳しくはまた、ふたりの時にしてやるよ」と。
ばあちゃんも巻き込んで、一体なんの話をするつもりなのだろう。だが急に振られたにも関わらず、ばあちゃんに驚いている様子は見られない。
それどころかすっかり男の強引さにも慣れてしまったらしく、どうやら静観を決めたみたいだった。昔から思っていたが、本当に強い人だと思う。
そうしてブラッドリーはネロの顎にかかっていた手を離しながらゴホンとわざとらしい咳払いをひとつ零し、再びその口を開いたのだった。
「ネロ、てめえ言ってただろ。いつか店やれたらって」
「!」
まず過ぎったのは、どうしてそれを男が知ってるのだろうかということだった。
「それってもしかしなくても、このばあさんに憧れてた所があんじゃねえのかよ」
そして続いた言葉に、いよいよネロは困惑を極めていた。
だがしかし、薄らと蘇るのはネロが店で料理人として働いていた時代の事だ。当然数年も前の事なので、所々の記憶が途切れ途切れでモヤがかかっているみたいに曖昧な所はある。
でもそれくらい、電話越しに何度もブラッドリーと会話を交わした。
ネロが男の方を一瞥すると、未だにその顔に不敵な笑みを浮かべているのに気がつく。ということはまだ、他にも何かあると言うのだろうか。
男もネロが見ていることが分かると、更に機嫌が良さそうにする。
「俺がてめえを今の会社に誘ってから……いんや、正確にはその前からだな。俺様がずっと考えてた話を、今からしてやるよ」
こうなると最早、次に一体何の話が飛び出てくるか分かったもんではない。ブラッドリーは焦らすようにネロの肩に手を置き、顔をずいっと顔を近付けてくる。
「今すぐって話じゃねえ。まずは親父と、双子の件があるからな」
お陰でネロの手のひらは、緊張からくる汗でびっしょりと濡れていた。より身体も固まってしまったが、それでも無性に続きが気になって仕方がない。
「だが双子から実権奪い返して、たらふく稼ぐだけ稼いだらよ、そん時は……今ん所とは、おさらばしてやるんだよ」
「……え? そ、それって、辞めるってこと?」
ネロの質問に、ブラッドリーが短く「おう」と返事する。これによっていよいよネロの頭が考えることを放棄し、ストップがかかった。
そんなこと、今の今まで一度も聞いたことがなかった。男も初めて話すと言っていたから、当たり前なのだがそれにしてもどうして急にと思う。
「え……な、なんで」
何とか絞り出した声が、何とも不格好にひっくり返る。しかし今は、そんな程度のことに構っている暇はない。
まるで盆と正月、おまけにゴールデンウィークまで一気にやって来たという感じだった。なんならクリスマスが追加されたとしても、お釣りが来てしまうかもしれない。
それ程に今日は、怒涛の展開が起こりすぎていた。
「ふっ、分かってねえな」
この男の言葉に、てめえのことは分かりたいって常日頃俺も思ってるよ、とネロは脳内ツッコミを入れた。
それでもこうなっているのは、毎度毎度予想を上回る無茶苦茶を言ってくれるどこぞの誰のせいだろう。
ちなみにその表情はというと、やはり近くで見てもいつも通りでどこか自信に満ち溢れた顔をしている。口元は変わらず、余裕そうな弧を描いていた。
「おい、拗ねてんなよ」
考えていた事が表情に出ていたのか、そう言って男が親指で唇をなぞるよう無遠慮に触れてきた。
誰のせいだ、誰の。どうしてコイツだけは、いつもこうもひとりで楽しそうなんだ。
ネロはすっかり振り回されている事実に隠すこともせず、眉間に皺を寄せる。
「そりゃあ俺が、一から作った会社じゃねえからに決まってんだろ。俺様は目の前で奪われたモンを、ただ取り返してやりたかっただけだしな」
だが恐らく、ブラッドリーはこの質問が飛んで来るのを読んでいたのだろう。男はそう言って、ふんっと鼻を鳴らした。
しかし、これには流石のネロもポカンだった。そんな理由で、ブラッドリーは会社を辞めるつもりなのか。
普通なら気狂いだと思う所ではあるが、だがよく考えてみると確かにブラッドリーらしいといえばらしいのかもしれない。
なんせ男のような破天荒を絵に描いた様な性格で、組織に雇われているというのに違和感はずっとあった。
しかも、言い方は悪いが前科もある。上層部に噛み付くのはしょっちゅうで、現にやり合って降職させられた上に左遷まで食らった男だ。
そのせいでネロと盛大なすれ違いを起こしたのだが、ある意味それが男の隣に立つ為の成長に繋がったとも言えなくもないが。
でも、男はまたそう言ってネロを置いていくつもりなのだろうか。だとしたら、さっき意気揚々と宣言してきたのは何だったのか。しかし、男の話はまだ続くらしかった。
「ま、でも一番の理由はそれじゃねえ。俺様にも出来ちまったからな」
「……なにが」
「ふっ、言わせんなよ。そんなの、決まってんだろ。〝夢〟ってやつだよ」
ブラッドリーが照れたように鼻の頭を掻き、そしてはにかんだ。それをネロは無言で受け止める。
時々、男は妙なタイミングで照れることがあるのだが、どうにも今がそうだったらしい。
なら声に出して言わなきゃ良いのになと思うのだが、きっとそうもいかないのが人間の性なのだろう。
まあ、今はそんなことは置いておいて。
「ネロ、てめえにそれが何だか分かるか」
これにネロが素直に首を左右に振れば、男は「仕方ねえなあ」と言いながらも満更でもない顔をしながらその目を細める。それから男はトントンと自らのこめかみを軽く叩き、更に続けた。
「俺が最高の知識と、場所を提供してやる。だからてめえは、その腕と舌を俺様に貸しやがれ。当然夢で終わらせる気はねえし、退屈も損もさせねえさ。だからネロ……俺様とやろうぜ」
「……なにを?」
「飯屋」
「…………な、っ」
その時、いつかの記憶が唐突にネロの脳裏に蘇ってくる。
『田舎でも都会でも何でもいいからさ。いつか、あんたとそういう店やれても楽しいかもって……何、言ってんだ俺』
あの日は酒を飲みながら話をしていたこともあり、言わなくてもいいことまで言ってしまったかもしれないと、後になって滅茶苦茶に焦ったのを覚えている。
「てめえは覚えちゃいねえかもしれねえけどな。だが俺は、あの時約束した。あんな声で誘われちまったら腹括るのが男だろ」
ただあれ以降はその話になることも、触れられることもなかったので、ネロはすっかり夢の中の出来事だと思っていたのだ。
それがまさかここに来て話題に上がるだなんて、それこそ夢にも思っていなかった。そもそも、そんな数年前のことを覚えていたなんて。
「一度したモンを破るってのは、俺様の矜恃が許さねえ。てめえがどこでもつったんだ、場所は俺様が決めて構わねえんだよな。ならいっそ、一緒に海外にでも飛んじまうか?」
驚きで口が、はくはくと開いては閉じることだけが繰り返されている。からりと笑いながら言う男は、相変わらず眩しかった。
「最高だろ?」
駄目押しとばかりにニカッと歯を見せて笑う様に、真っ向に浴びたネロはぐうっと唸り、そしてバチンと勢いよく額を押さえる。
ということは、今の会社にネロを誘った時から既にこれを考えていたということなのだろうか。
それって、そんな。やっぱり、無茶苦茶だ。信じられない、まさかこうくるとは。最早、ここまで来ると笑えてきそうだった。
今回、一連の話をされてからというものの、色々なことが頭の中でグルグルと回っていた。本当にいいんだろうか。ネロなんかが手を伸ばしても。
ずっと、いつかはさようならを男にしなければいけないと思っていた。
でも、それはれっきとした裏切りになるだろう。きっとこの男の思いも全て打ち捨てて、無下にすることになる。
いくら男のためを考えていたとしても、それで本当にネロはいいのだろうか、と。
「だからネロ、俺様と一緒に生きろよ。おら、返事。まあ、イエス以外は受付てねえけどな」
ブラッドリーが「ははっ」と悪戯っ子のように笑う。それに再びくらくらとしそうになるのを、ネロは必死で耐え忍んだ。コイツ、こっちの気も知らないで。
「ほ」
「ほ?」
これに、ネロはどうするべきなんだろうか。本当にさよならをするべきは諦めてばっかりだった、自分自身にするべきなんじゃないのか。
「…………っ、保留で」
「⁉︎ てめえ、俺様の話聞いてたかよ⁉︎」
しかし考え抜いた末にそう返答すれば、ブラッドリーがコントのように机に置いた腕をズルリとさせ、そして流れるように吠えた。
いい返事を信じて疑わなかったのだろうが、それについては申し訳ない事極まりない。しかし、ネロにだって言い分はあった。
「聞いてたからこそだろ! つーか勝手にホイホイ決めやがって……そんなこと言われたって色々と急だし……マジでちょっと考えさせてよ……」
いかんせん、いざ直面するとなると話が違うのだ。本音を言うと、やはりここぞという勇気が出ない。
「ふん。ンな顔して言うことじゃねえんだよな」
そんなネロの言い訳を聞いた男が恨みがましく、じっとりとした視線を向けてくる。しかし暫くもしないうちに、ブラッドリーは頬杖をつくとそれっきり大人しくなる。
「ま、俺様は気が長い方だからな」
「どの口で言ってんだか……」
どうやら今回は急かす方ではなく、待つ方を選択したらしい。だが、男のことだ。せいぜい、返答は時間次第だというのがバレているのだろう。
いずれにせよ、ネロがこうして恥ずかしい思いをしていることには変わりない。
「あら。ネロったら、こんなにいい男フるつもりなのかい」
しかし、ようやくゆっくりと考える時間が出来たと思ったのも束の間、今度はここまで黙っていたばあちゃんが声を上げる。
「……ばあちゃんって、どっちの味方?」
「俺様だよな」
「ブラッド、口出すな。ていうかさマジで、俺があんたにつりあうと思ってる……?」
「てめえの自信がねえのも、程々にしてくれ。俺様の目え疑ってんのか」
これについてはさっきも言ったが、決してそういうつもりでは無い。だが毎度毎度ネロがこうしてご丁寧に否定して回るとなると、確かにそういうことになってはしまうので全くもって心境は複雑である。
ついにネロは「ああもう」と頭を抱えた。目の前のばあちゃんが、けらけらと笑う声が聞こえてくる。
「あんたら本当に、お似合いだねえ。ネロだって本当は、覚悟が決まってるだろうに」
「……だって、こんなの俺に都合が良すぎるってか……おい、コラ」
必死で弁解をしている最中にも、横目で見ると男が口元を緩めつつニヤニヤとしてくるのが目に留まる。
それを体重をかけた肘でどつきながら黙らせていると、ばあちゃんが突如として柔らかく微笑んだのが見えた。
「大人になったわね」
「え」
これは、一体どういう意味だろうか。首を傾げて考え始めるネロだったが、次の瞬間外から聞きなれないエンジンの音が聞こえてくる。
ばあちゃんが嬉しそうに立ち上がったのを見て、迎えが来たのだということを理解する。ネロ達も同じく立ち上がり、ふたりでばあちゃんを見送ることにした。
そうして玄関まで辿り着いたその時、ばあちゃんがゆっくりと振り返り言った。
「ネロ、そろそろばあちゃんの事は自由にさせてちょうだいな。ばあちゃんだってね、あんたに面倒見てもらおうって気はないんだから」
これにネロは目を瞬かせた。今までばあちゃん相手に、不満や文句をひとことも言ったことはなかった。
当然それがあったわけでも誤魔化してもいなかったのだが、しかし本音を見せないようにするのは人よりも上手いという自覚はあった。
でも、血が繋がっている家族だからこそなのかもしれない。大概ブラッドリーも勘が鋭い男だが、ばあちゃんには全てお見通しなのだろう。
「ブラッドリーさん。ばあちゃんの立会人は、あれで務まってたかしら」
「おう、充分だったぜ。ありがとな」
「なんもさ。あとは、若いおふたりでごゆっくり。部屋掃除すんのはばあちゃんなんだからね。あんたら、程々にしなさいよ」
「ちょっ、ば、ばあちゃん」
「はは、もう喧嘩しねえよ」
ばあちゃんの言葉にネロが狼狽えていると、すぐさま隣の男が口を挟む。
あ、そっちか。ネロは真っ先に頭に浮かんだ事を、慌てて頭を振り脳内から打ち消した。
一瞬、ばあちゃんにしてはだいぶ攻めた冗談だと思ったがそりゃそうだ。きっと、それくらいのんびり羽を伸ばしてから帰れということなのだろう。
「ネロのばあさん。改めて、世話になります」
そして最後に、懇切至極丁寧にばあちゃんに向かって男が頭を下げた。いきなりのことにネロも驚いてしまったが、しかし改めてネロは思う。
押しが強い男はあるが、こういう義理堅い所にもネロは惚れたのだ。気がつけばニコニコ顔のばあちゃんにつられて、ネロも自然と笑みが零れる。
「自分の家だと思ってたくさん寛いでって。明日は朝来てご飯作るからね。ネロも手伝うんだろ? ちゃあんと朝、起きれるようにしてなさいね」
「……うん。ありがとう、ばあちゃん」
色々気づかせてくれてくれて。それからネロを、ここまで立派に育ててくれて。
ネロは長年の感謝を告げ、そしてばあちゃんを男とふたりで見送ったのだった。