カラダの相性触れ合わせた唇が、ジン、と痺れる。
幾度となく繰り返しているはずなのに、毎回新鮮に驚いてしまうほど、この人とのキスは気持ちがいい。抱きしめてくる腕の力も、重なり合う身体も、すべて、まるで誂えたように――と言ってしまうには、相手は自分には手に余るほど勿体ない相手なのだが、それでも、そう思ってしまうほどに、なにもかもがしっくりと、己の身体に合うのだ。
――駄目になる
とろとろと思考が溶けていく。馬鹿になる。触れ合ったところの感覚だけに溺れて、何も考えられなくなる。持ち帰りの仕事とか、溜まってきた洗濯物とか、そういうやらなきゃいけないことをすべてすっ飛ばして、こんな風に快感に没頭するとか信じられないくらい不合理なはずなのに。少しだけだからと言う言葉に絆され、始めてしまえば指先まで甘い痺れに支配され、抗えないから困るのだ。
ちゅる、と唾液を舐め取りながら、オールマイトが唇を離した。透明な糸が互いの唇の間を、まるで離れがたいのだというようにつないで、けれどすぐにふつりと切れた。
オールマイトの唇から零れる熱い吐息が、相澤の唇を撫でていく。
「すまない……仕事の邪魔をしてしまったね」
「あ、いや、それは……」
それは?
仕事の邪魔には違いないだろうに、何の言葉を続けようとしたのか。相澤は口籠り、さっきまで触れ合わせていた、しっとりと濡れる唇を指で撫でて。そうですね、と呟く。
「邪魔、ってほどじゃないですが。気が済んだなら、もういいですか?」
「――ああ、ありがとう」
一瞬、返事の前にあった間が気にならなくもないが、気付かなかったふりをして相澤は、玄関へオールマイトを促した。
「おやすみ、相澤くん」
「おやすみなさい」
ドアの前で交わされる自分の名を呼ぶオールマイトの言葉に、先ほどまでキスしていた名残の甘さが滲んでいるようで照れくさくて、相澤はオールマイトの顔も見ずにそれだけ言うとドアを閉めた。ドアに背を付け、大きく息を吐く。
先日。事故のようにオールマイトとキスをしたらしい。どうしてそれに至ったのかの経緯は未だによく分かっていないが、キスをして、それが驚くほど気持ちがよくて離れがたく、一晩中してしまったのだとオールマイトが言った。翌朝、嫌と言うほど知らされたのでその場は納得したが。しかし、それきりで終わるのかと思いきや、翌日以降も三日と開けずにオールマイトは、相澤にキスを強請りにくるようになった。
拒めばいいのだが、別に恋人がいるわけでもないので拒む理由もなく。気持ちがいいことは確かなので、結局、相澤も流されるように応えてしまう。ただただ溺れるように、どちらかの部屋で唇が腫れぼったくなるほどキスをして、ある程度するとオールマイトは満足するのか、今のようにそそくさと離れた。シンプルに、キスをするだけの関係を、不合理だと思いながらここ一ヵ月も続けている。後腐れが無くて大変結構だとは思うが、けれど、これはいったいなにをしているのか、と思わなくもない。
この関係は、何なんだろう。キスフレ、なんて言葉をどこかで聞いたことがあったが、これはそれにあたるのか。けれど俺たちはそもそも、友達という分類ですらない。
相澤は、どうにかこうにかオールマイトには隠しているが、キスしているうちに萌してくる、己の明確な欲を認識していた。オールマイトは、どうなのだろうか。気持ちがいい、それなら、そうはならないものなのか。
信じられないくらい気持ちがいいキス。
なら、もっと、もっと、抱き合って、触れ合って、身体を繋げたとしたら。
それはどれだけ、気持ちいいのだろうか。なんて馬鹿げたことを、オールマイトは、考えたりしないのだろうか。
ごつ、と玄関の壁に額を打つ。
余計な思考を振り払いたくて思わずそうしたが、鈍い痛みが広がるだけだった。
「馬鹿だろ」
気持ち良いから仕方がないと言い訳して繰り返す口付け。
ただ、それだけだ。自分にとっても、多分。
憧れはあれど、そんな、愛とか恋とかそういうものじゃない。オールマイトに恋するなんて、無謀にもほどがある。
あの人は、こういった触れ合いが今まで少なかったのか、距離感は近いくせに決して踏み込ませない壁がある。それを乗り越え、触れたことが、珍しいだけの。そのうち飽きたら終わりになる関係。
それなのに。
その先を望むなんてほんとうに、馬鹿げている。
「あっ、風呂上がり?」
キッチンの共有の冷蔵庫から、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出したところで背後から声がかかった。相澤が振り向けば、それは予想していた相手。
「珍しく早いね」
そうだったかと時計を見上げれば、たしかにまだ9時前だ。いつもに比べたら早いかもしれない。
「はあ……今日は夜警もないんで、寝れるときに早めに寝ようかと」
「それはとてもいいことだ」
ニッコリと笑ったオールマイトは、相澤と入れ替わりにキッチンに入り、自分用のマグカップを戸棚から取り出すとそこにティーバッグを一つ。ポットからお湯を注ぐのと同時に、ふわ、と花のような香りが漂った。その流れるような仕草をキッチンの入り口に突っ立ったままぼうっと見ていれば、顔を上げたオールマイトは怪訝そうに首を傾げる。
「相澤くんも飲むかい?ジャーマンカモミールだよ、リラックス効果があるからよく眠れる」
「美味いんですか?」
美味しいよ、と言いながら、オールマイトはそれを一口飲んで。ふふ、と笑う。
「もうひとつ淹れるから、良かったら私の部屋で飲んでいくかい?」
どきりとする。それがどういう誘いか、分からないほど鈍くはない。視線を逸らし、俯く。手の中で、とぷんとミネラルウォーターが揺れる感覚。
「……いただきます」
ふふ、とオールマイトがさっきよりも目を細めて微笑んだ。いつもと変わらない青い瞳に映る自分が、できたらあさましく見えなければいいと思う。
自分の分のマグカップを受け取り、並んで廊下を歩いた。独特の花の香りは、少し甘くて林檎のような匂いがする。幸運にも誰ともすれ違うことなくオールマイトの部屋に来ると、室内に通される。オールマイトがいつも付けている香水の香りがほのかにして、それと同時にキスの気持ち良さを思い出して相澤はぶるりと身体を震わせた。
「相澤くん」
上からひょいと包み込むようにマグカップを掴まれ、奪われた。ことりと、ベッド脇の小さなテーブルの上に置かれるのを目で追う。隣に、オールマイトのマグカップが並んだ。
「飲まないんですか?」
「まだ、熱いぜ」
君、猫舌だろう、と揶揄うように言われてむっと唇を突き出せば、ちゅ、とその先を吸われて肩が震える。
「また、ですか」
「分かってたろ」
ベッドに座らされ、オールマイトが床に膝をつく。やけに恭しく視線を合わせてから、オールマイトはすっかり慣れた様子で顔を寄せると、相澤の唇を啄んだ。オールマイトも風呂上がりなのか、香水よりもシャンプーか何かの爽やかな香りがした。目を伏せ、緩く首に手を回せば、それが合図のように口付けが深くなる。角度を変え、大きな舌がぬるりと唇を割って入ってきた。人よりだいぶ大柄なだけあって、手や足も大きいが舌まで大きい。厚みはないが、長くて器用に動くそれで口の中をなぞられれば、あっという間に酸欠にでもなったかのように頭がぼうっとしてくる。
「石鹸の、においが、するね」
口付けの合間、オールマイトが唇を触れ合わせたまま囁いた。風呂上がりですからね、と答えれば、オールマイトはちゅっと相澤の鼻先に口付けた。
「いつもの、君の匂いがしないな」
「すみません、いつも何か匂いますか?」
次から気を付けます、と言えば、そういうことじゃないさ、とオールマイトは苦笑。
「君の匂いがしなくて……物足りない、のかもしれない」
半分自問自答のような言葉に、分かる気がする、と相澤は痺れた頭で思った。確かに、いつも感じるオールマイトの匂いが薄いのが、少し寂しい。
「オールマイトさん」
相澤は、ぎゅっと、オールマイトの首に回した腕に力を込めた。肩口に鼻先を擦り付ければ、少し匂いを感じて嬉しくなる。
「私も、抱きしめていいかい?」
「こんだけしといて、何言ってんですか、あんた」
「そうだね」
くすりと小さく笑ってから、オールマイトの腕が背中に回った。そのまま、ベッドに乗り上げるようにしてくるので、自然、相澤の身体も背中からベッドの上に倒れた。顔の距離が近くなり、それが自然なように口付ける。舌先を絡めていれば、だんだん、オールマイトの重みを感じてくる。遠慮するように肘で身体を支えながら抱きしめていたのが、力を抜いたのか、ずしりと圧し掛かってくる身体が重い。重いのだけれど、不快ではなかった。縋りつくように首に回した手を背中まで伸ばした。浮き上がった肩甲骨に触れ、薄い部屋着の上からそこを引っ掻くようにすれば合わせたままの唇の隙間から微かにくすくすと笑う音。
ちゅぷ、と舌を抜き、唇を離せば、首を上げたオールマイトが覗き込んでくる。
「相澤くんは暖かいね」
「あなたは、冷えてますね。湯冷めしてます?」
「いや、この身体になってから体温が低くてね」
だから暖かい飲み物を飲むのかと納得してから、思い出したように相澤は身体を持ち上げようとした、ら、阻まれる。
「どこいくの?」
「違いますよ、あんた、冷める前に飲んだ方がいい」
もう猫舌の自分だって余裕で飲める温度だろう。
「相澤くんのほうが暖かいよ」
「馬鹿言ってないで飲んで下さい」
「やだ」
かぷ、と戯れのように首筋を噛まれ、ぞくぞくと身体が震える。
「ん、あ、っ」
大きな声が勝手に零れた。とんでもねえ。思わず目を見開く。これは、まずい。キスだけじゃない、きっと、相性ってもんが本当にあるのなら、この人とはカラダの相性も。
首に回していた腕を解き、かぶりを振って強引に身体を起こそうとすれば、ギュッと驚くような力強さで手首を掴まれた。見上げれば、静かに燃えるような青い瞳とぶつかって相澤は息を飲む。
「ちょ……お、おーるまいと、さ」
「逃げないで」
そっと、顔が寄せられ。唇に触れるかと思いきやそのまままた、顔が肩口のあたりに埋められて、ちゅ、と緩い襟元から首の付け根辺りを吸われた。びくびくと、明確に身体が震える。
「あ、それだめ、です、っ」
「あいざわくん」
もうちょっとだけ、と。熱に浮かされたような声でオールマイトが囁く。大きな手がTシャツの上から相澤の身体をまさぐり、ちゅ、ちゅ、と何度も首筋に口付けが落ちてくる。見ないつもりだった股間のあたりを見れば明らかに膨らんでいるのが見えてくらくらする。
――このひとが、俺で興奮してる
嘘だろ、と言う気持ちと、自分と同じなのだとホッとする気持ちと、ひどく嬉しくて仕方がない気持ちが交錯する。このまま流されて身を任せてしまえばきっと気持ちがいい。そう思い、目を伏せかけたところで、Tシャツの裾から入ってきた指先の冷たさに、我に返った。
「待て、っ、!」
ぐいと肩を押せば、オールマイトは夢から現実に戻ってきたような顔でぼうっと相澤を見て。それからハッと口元を覆うように手を当てた。
「あいざわ、くん」
「これ、以上は……さすがに洒落にならんでしょう」
そうだ、洒落にならない。身体までも触れ合わせて、その行き着く先はどこだ?
「すまない……」
俯いたまま固まってしまったオールマイトの下からするりと抜け出し、相澤は最初のようにベッドに腰掛ける。オールマイトはベッドの上に正座するような体勢のまま、押し倒された相澤よりよっぽどショックを受けた顔でわなわなと手を震わせていた。相澤は、怒っているわけではないと示すように膝の上に置かれた方の手をそっと取って、両手で包むようにして撫でる。
まあ、そりゃショックだろ、と冷静に考える。キスが気持ちいいとはいえ、同僚の、それもどちらかといえば小汚い部類の男にうっかり欲情するとか。正直、ろくに恋愛をしてこなかった相澤は、自分の性指向がヘテロかどうかも分からないけれど。けれど、別にオールマイトから欲をぶつけられても自分は不快には思わなかった。実際、キスも受け入れているくらいだ。しかし、どこまでも実直に生きて居そうなオールマイトと言う人物にとって、そりゃ、男に欲情なんて、そもそも論外なのかもしれない。
「大丈夫ですから、オールマイトさん」
ぽんぽんと、優しく手の甲を叩けば、オールマイトはハッと顔を上げる。ゆる、と首が横に揺れた。
「私は、相澤くんになんてことを」
「大丈夫ですって、言ってます」
「けれど」
「しつこい」
実質、何をされたわけでもない。キスのほうがよっぽどだ。相澤はオールマイトの手を片手で取ったまま、ぼりぼりと逆の手で頭を掻いた。
「けど、さすがに、これ以上は……気持ちいいって理由だけで流されてやることじゃないかと。あんたがおれとセフレになりたいなら、一応は考えますが」
「え?」
オールマイトはひどく驚いた様子で相澤を見た。その言葉を、まったく予想していなかったという顔だ。
「セ、フレ?」
「ええ、知ってます?」
「一応は」
そういうことです、と相澤は頷いてみせる。
「だって、そうでしょう?これ以上すると、最終行き着く先はセックスです、あなた、俺とキスだけじゃなくてセックスもしたいですか?」
オールマイトは呆然とした様子だった。違う、と瞬時に返ってくると思っていた相澤は、少しばかり意外に感じつつ、肩を竦める。
「あんたがしたかったら、一応は考えますよ。けど、さすがにここじゃできねえし、準備もあるんで、事前に言ってください」
「考えるの!?」
焦ったように勢い込んで聞かれた言葉に、相澤は、うるさい、と小さく返し。
「考えんでいいなら考えませんよ」
「あ、それはちょっとまって……」
まって、と繰り返し、それからオールマイトは自分の顔を覆うように手を当てる。
「――私、君と、その、っ……ックス、したいのかな」
そんなの分かるわけねえだろと、相澤は盛大に溜息をついた。
だけど、自分のことなら分かる。分かってしまった。
俺はこの人と、セックスしたいと思っている。
理由なんて――――絶望的過ぎて、考えたくもない。