してみないと分かりませんばさばさと、相澤のデスクから書類が落ちていく。
オールマイトは慌ててしゃがみ込むと、それを拾い上げた。頬が熱い。どくどくどくと心臓が全力疾走の後みたいに早くて、血液が大急ぎで巡っていくもんだから、身体中熱が籠ったみたいになっているのに頭だけは血が抜けてくらくらした。拾った書類は手の中に集めたが、それをまたデスクに戻すために顔を上げるのが気まずくて、オールマイトはしゃがみ込んだまま俯いて、じっと、手の中の書類を見つめる。
多分。
唇が触れた。
頼まれた書類を途中まで作ったものの、フォーマットがこれで合っていたか不安になって、プリントアウトしたそれを持ってオールマイトは相澤のデスクまでやって来た。相澤はパソコンの上を高速で滑る手を止め、オールマイトのほうに身体を向けて、書類を受け取り。これで合っているが、でもここの書式がちがいますねどこかからコピーしました?と聞くので、どれどれとオールマイトは背を屈め。書類を覗き込むように顔を近付けたときに、顔をこちらに向けた相澤と、ひどく近くで目が合った。あと3センチの至近距離に相澤の顔がある。どうしてか、その距離をゼロにしたくなってさらに近付いた。相澤は逃げないで、それを受けとめた。そして、触れ合わせたのは。
うわわわ、と頭を抱えたくなるが、手には拾い上げた書類の束。それを抱き締めるようにしたまま、オールマイトが動けないでいたら、頭上からふうと大きく息を吐く音。
「オールマイトさん」
びく、とオールマイトの身体が揺れる。ついでに心も。
どうして触れてしまったか未だによく分からないけれど、あの瞬間、なんだかどうしようもなく触れたいと思ってしまったことだけは確かで。
「あの、オールマイトさん」
先程より若干苛立ちが混じる声に、慌ててぴょこんと顔を上げれば、相澤は困ったように下唇を尖らせてオールマイトを見下ろしている。
「……それ、クラスの生徒に返すテストなんで、ぐしゃぐしゃにせんでくださいよ」
「あ、ああ、ごめん」
ぱっと立ち上がってデスクの上に戻す。ぎゅっと持っていたせいで少し隅が皺になってしまっていたので、相澤はそれを指でならすように撫でた。それから、さっきの書類をさっとオールマイトに突きつける。
「指摘は――それだけです、よろしくお願いします」
「あ、あの」
じろ、と睨まれたので、オールマイトは口を噤んで、自分のデスクに戻った。けれどずっと、まるでそこを火傷でもしたみたいに。じんじんと、唇が熱を孕んでいて、集中なんてできなかった。
時計が8時を回ったころ。相澤がぱたんとパソコンを閉じたのを見て、オールマイトは慌てて自分のパソコンもシャットダウンした。鞄なんてものを持たない彼は、片手に飲みかけだった炭酸水のペットボトルをひっかけただけで、すたすたと職員室を出て行くものだから、オールマイトは準備しておいた鞄を掴んで慌ててその背を追いかける。お疲れ様です、と幾人から声がかかったに笑顔で返事をしながら、職員室を出ると駆け足で職員玄関へ向かった。ちょうど、靴を履き替える相澤の背に追いついたので、やあ、と声をかける。
「お疲れ様」
「はあ、お疲れ様です」
胡乱な視線が投げられたが、すぐに逸らされる。相澤は校内で履いている靴と大差ない黒い靴を履き、とんとんとつま先で床を蹴り、別にオールマイトを待つ素振りもなく外に出ようとするので、一緒に帰ろう、と言えば、はあ、と肯定とも否定ともつかない返事。
とはいえ、寮までは徒歩五分だ。先ほどの話を切り出すには短すぎた。
「せっかくだから、夕飯でも食べに行かないかい?」
「まだこの時間なら、ランチラッシュが用意した飯が残ってますよ」
にべもない返事に、そうだね、としか、返せず。オールマイトはあっという間に見えてきた寮の灯りを恨めしく睨んだ。
とはいえ、自分はこれ以上長い時間を彼と過ごして、それでいったいどうしたいのか。相澤と、事故のようなキスをした。ただそれだけのことだ。相澤はきっと、本当に事故だと思っているし、何とも思ってないようだ。
――ああ、そうか
何でもなかったようにされるのが、嫌なのかもしれない。
「相澤くん」
ぐいと、その腕を引いた。
「はい?」
相澤は不思議そうに視線を上げた。
「少しだけ、いいかな」
「は?」
強く腕を引き、寮へと続く街灯から逃れるように木陰に彼を引き込んだ。まるで何か外敵から隠れるような素早さだったので、相澤は驚いた顔をしつつも不安げにオールマイトを見上げる。
「なにかありましたか?」
「そう、だね。あるかも」
「わかりました、ならすぐに連絡を」
んぅ、と突然塞がれた相澤の唇から唐突に終わらされた言葉の続きが呼吸となって漏れる。覆いかぶさり、唇を塞いだのはオールマイトの唇で。相澤の目が、驚きで見開かれるのを、近すぎてぼんやりとした視界の中で見つめた。ふふ、と小さく笑いが漏れる。そのまま口の中に舌を差し入れて蹂躙したくなる気持ちを押さえ、名残惜しいと思いながらその柔らかさから離れれば、暗がりでも分かるほどに相澤の顔が真っ赤になっていたのでなんだか不思議と嬉しくなる。相澤はわなわなと、半分怒ったような顔で唇を震わせ、それを覆うように片手で押さえた。
「あん、た、っ、なに、っ」
「さっきも、したよね?」
そう問えば、目を見開き。ゆるりと首を曖昧に振ると俯く。
「したよね?」
繰り返し、問えば、顔を上げた相澤は今度こそ怒った顔をしていた。けれど、なんだろう。顔が真っ赤なせいでいつもみたいに怖くない。
「だから、なんだっていうんです?」
「――なんだろう?」
何だろう、まだ、よく分からないんだった。唇が触れたことを、無かったことにされたくなくて。もう一度、したらきっと、反応してくれるかなって思って。そもそもなんで、無かったことにされたくなかったんだろう。もう一度、したいって、思ったんだろう。
「いやそれ、俺が聞いてるんですが?」
「うん……そうだよね」
そっと、相澤の頬を両手で挟むようにして掴んだ。びく、と相澤は肩を揺らすが、逃げるわけでも拒む素振りもない。ああそうだ、彼ならこんな風にされたって、簡単に振り払えるだろうに。
「相澤くんは、何だと思う?」
「知りませんよ……」
相澤は微かに、諦めを含んだため息を吐き。ぺちぺちと、頬を覆ったオールマイトの手の甲を叩いた。
「分からないのに、こんなことせんでください」
「うーん、でも、もっとしたいんだ」
「ちょ」
唇を、また重ねた。うっすらと開いた唇の隙間に、衝動のままに舌を指し込んで見る。相澤の口の中をゆるゆると、舌先で擽るように撫でていれば、んあぁ、と鼻から抜けるような甘えた音が相澤から零れて、背中がぞくりとした。そのまま更に角度を変えて深く差し入れ、相澤の舌に絡ませればおずおずと遠慮がちに相澤も絡ませてきたので、頭が真っ白になる。
いつまでそうしていたのか、時間の感覚を失っていたけれど。どんどんと胸を叩かれてオールマイトは唇を離す。ぷは、と相澤はまるで水から上がってきたときのように大きく息を吐いた。
「っ、は……窒息させる気ですか、しつこ、い!」
「あ、ご、ごめん」
「……で、分かりました?」
はあ、はあ、と荒い息を互いに吐きながら。喉まで出かかっているような、この行為の原因に、オールマイトはまだ言葉を見付けられずにいて。
「もうちょっとで、分かりそうなんだけど」
「そうですか」
「もっとしたら、分かる気がするんだ」
は?と焦った顔をする相澤を抱えて寮の部屋まで駆け上がり、散々キスしたところでこれは恋だと気付いたものの。それからしばらくは相澤から避けられて、ろくに仕事以外で口をきいてもらえないまま1週間。
もうしないと約束し、平謝りしてどうにか許してもらったものの。まさか両思いだったということを知るのは、まだだいぶ先の話。