忘れられない口付けを指を絡めて。そろ、と近付いてくる切島と、唇を重ねた。
それを、多分彼は忘れてしまうのだろうけど。
「え?飲み会」
「そうなんっス、いつものメンバーで、なんっスけど」
ファットガムのデスクに来て、相談が、と言うので何事かと思えばそんな話だった。切島を含む近隣事務所の若手同士で、ちょっとした集まりを定期的に行っていたのは知っていた。それは飲み会に限らず、フットサルをしたり登山をしたりといろいろな活動を月に一回ほど行っている。仲良くなるのは良いことだと、ファットガムもそれは積極的に行ってこいと言っているので普段なら切島も自分のスケジュールが合う範囲で参加していた。
けれど今回は、急遽本日開催。予定より長くなってしまったチームアップから、やっと戻ってくる仲間の労いの会らしい。今夜は切島は夜にパトロールのシフトが入っているので断ろうとしたら、ちょうど帰還するヒーローが切島と仲がいいので、少し強引に誘われたのだと言う。
「ああ、まあ、そういうことならええんちゃう?俺、今忙しくないし、代わるからええで、行っといでや」
「でも……ファット、昨日も夜勤ですよね」
「その分、明日の昼間、寝る時間作らさしてもらうし。気にせんと」
ひら、とファットガムが手を上げれば、切島はすみませんと頭を下げつつも、ホッとした顔付きで席に戻って行って、カタカタとメールの返事を書いているようだった。その横顔をちらりと盗み見て、ファットガムは小さくため息を吐く。
彼が、外で楽しく活動するのはもちろんいいことだ。そもそも、高校時代から友達の多い男だ。ここ大阪の地に勤務するようになり、友達と離れて寂しい思いをさせてないかと心配した時期もあったが、持ち前の明るさですぐに馴染んで、彼の周りはすぐに賑やかになった。
それでいい、とファットガムは視線を切島から反らす。ファットガムは、切島のことが好きだった。それは、触れたいとかキスしたいというたぐいの気持ちだ。でも、そんなものを彼に向けたらいけないということも分かっている。触れることなんかできない、キスなんてもってのほか。この思いは身体の奥底に沈めて、沈めて、外に出すことはきっとこの先ない。彼はそのうち恋をして、結婚でもして、この事務所から出て行くかもしれない。それで、いいのだ、それで。
夜。午前3時。
すっかり低脂肪になってしまったファットガムは夜警から戻り、ドアのカギを取り出しながら欠伸を一つ。さすがに二日連続はしんどい。欠伸をかみ殺しながら、カードキーをかざしてセキュリティを外そうとすれば、すでに外れているという表示が出たのでファットガムは首を傾げた。最終の施錠は天喰がやっただろうに、忘れるとは珍しい。
まあええかと事務所の中に入れば、薄暗い室内でもぞりと動く気配があったのでファットガムは慌てて近くのスイッチを叩くように押し、身構える。事務所の半分だけを照らすライトの下、見えたのは赤。
「あ?」
「あ……おかえりなさぁい、ファット」
自分のデスクのそばに立っていた切島が、へにゃりと緩んだ笑みを返す。顔が真っ赤で、首のあたりまで同じ色をしていた。いかにもな酔っ払いの姿にファットガムは思わず苦く笑った。
「どうしたんや?」
「いえのかぎ、わすれて……」
もどってきたんれす、と呂律の回らない返事。自分のデスクの上で手のひらを彷徨わせ、無い、と首を傾げる。ゆらりと揺れるその身体を、ファットガムは咄嗟に手を伸ばして支えた。
「大丈夫か?飲みすぎやで、自分」
「ん、んー?」
眠たいのか、瞼が落ちかけている。ファットガムはそのまま切島を両手で抱え上げると、仮眠室に向かい、蹴り飛ばすようにしてドアを開けた。ファットガムのサイズで作られた大きなベッドの上に、切島を下ろした。高校時代に比べたらだいぶたくましくなったとはいえ、眠たくてぼうっとする顔にはまだどこか幼さが混じっている。こんな無防備な状態でよく、何事もなく事務所まで来れたものだ。最近大分治安が良くなってきた街に感謝しつつ、ファットガムをぼんやりと見上げる赤い瞳を、見ないようにしてベッドの横に膝をつくと、切島の瞼の上に手のひらを置く。
「寝て、ええから――明日の朝、いったん帰ったらええよ」
「ふぁっと、ぉ」
「ん、俺も寝るしな、君もちゃんと寝なさい」
そう言えば、不満げな声を漏らして。切島はファットガムの手を掴むと目元からずらし、そのまま身体を起こした。真っ赤な顔はそのままだが、さっきよりは多少覚醒した顔でファットガムを見上げる。
「ふぁっと」
「うん?なんや」
片手はまだ切島に捕まったままなので、逆の手でくしゃりとその頭を撫でた。切島はふふと満足げに笑う。
「おれ、まだ、きすしたことないっていったら、わらわれたんすよ」
ヒドイですよね、と言われて、ああそうなんや、とファットガムはできるだけ平静を装って返す。けれど、内心は心臓バックバクだし、掴まれた手が震えて汗が吹き出しているのが、ばれないか心配なほどだ。いやいきなり何なん、何なんこの子。ていうか、どんな話してんねん。若手やもんな、猥談になるか。まあそうか。
「うん、でも、そうや。わらうようなこと、ちゃう、よな」
「っス」
おれはぁすきなひととしたいんです、と切島はそう続け、ふにゃりと頬を緩ませる。好きなひと、と言う言葉にずきんと胸が痛んだ。彼の口から、好きな人がいるかどうかは聞いたことが無かった。けれど、ああそうか。いるんやな。ひどく寂しい気持ちが体の中に満ちていく。覚悟はしてても、悲しいものは悲しい。これで相手の名前なんか出た日にゃ耐えられへんと、ファットガムは自分の口に指を押し当てて見せた。
「切島くん……シィや、もう寝なさい」
「ふぁっと?」
こてんと首を傾げ、こちらを見上げる。それと一緒に、きゅ、と切島がきつくファットガムの手を握った。なんやねん、もう、これ以上はしんどい。振りほどこうとぐいと手を引っ張れば、はずみで切島の身体がファットガムに向かって倒れ込んできた。
「う、あ」
ぽすん、と暖かな塊が胸のあたりに落ちる。
「わ」
「ちょ」
切島くん、と、どこか泣きたいような気持ちで、ファットガムの手から見たら小さな肩を掴んで引き剥がした。切島は不満げに唇を尖らせ、眉間に皺を寄せてファットガムを見上げてくる。
「なんやの?どうした?」
酔っ払い、とポンポン頭を撫でれば、切島はぶるぶると犬がそうするように頭を振って。それから、ぐ、とファットガムの腕に手を乗せ、引っ張った。
「きす、したいです」
「――そうやね」
好きな子としたいんやろ?と言えば、うん、と切島が頷く。ああもう、これ以上のダメージはしんどい。そう思いながらファットガムが顔を背けると、切島は手を伸ばし、ファットガムの頬を掴んで自分のほうに向けた。
「ファ??」
「したいんです、って」
ベッドの上で膝立ちになって、身を乗り出す。うわ、と思う間に、甘い吐息と共に唇が重なった。チュ、チュ、と拙い口付けを何度かしてから、唇を離した切島は満足げにフヘ、と笑う。
「これで、したことあるって言えるっス!」
「え、え……」
好きな子やなくてええの?と思いつつ、それを口に出せるほどは精神が強く出来ていない。むしろ。
「――これでは、言えへんのちゃう?もっと、深いやつをせな」
「ん、んー?」
そっか、と切島は頷く。いやこんなの、すぐ悪い女に騙されてしまうんちゃうん!?切島の好きな相手、今度勇気を振り絞って紹介してもろうて、ちゃんと見極めたほうは良さそうだ、なんて。親のような気分になりつつ、しかし不埒な指先は、親とは到底違う動きで切島の顎を掬いあげた。
「教えたるよ」
切島の、酒のせいかいつもより血色のいい唇を軽く吸う。ん、と甘えた声が切島の鼻から漏れた。何かに縋ろうと伸ばされた切島の手を取り、指を絡めて、顔の角度を変えた。深く重ね、緩んだ唇の間から舌を差し入れた。ああ、ひどい大人や、と思う。相変わらず可愛らしいカクテルでも飲んだのだろう、甘ったるい味のアルコールで満たされた口の中を、ファットガムはゆるゆると味わう。その甘さと、耳に時折聞こえてくる甘い声にくらくらする。離れそうになると切島からも追いかけてきて。何度も繰り返す口付けに、そのままぜんぶ貪ってしまいたいと思う気持ちが溢れそうになるのをぐっと堪えてファットガムは、唇を離した。透明な糸が繋がって、名残惜しいとでもいうみたいな。
「これで、言えるんちゃう?」
「ふぁ、っと」
「続きは、ちゃんと好きな子とするんやで」
キスのせいか酒のせいか、くたりと力が抜けた切島の身体をぽすんとベッドに転がす。ぼうっとした顔で見上げてくるのを、もう一度手のひらで塞いだ。
「おやすみ」
すぐにすうすうと寝息が聞こえてきた。ので、これで最後とファットガムは触れるだけの口付けを落とした。
これで終わり。ありがとう、君のファーストキスをくれて。君のことを好きな気持ちごと、この思い出も奥底に沈めておくから。
きっと、何も覚えていないだろう。この夜は、俺だけの秘密や。
そう思っていたのに。
翌朝、切島はデスクで寝ていたファットガムを叩き起こし、「ファットが好きです!」と大告白大会が行われるのだけれどそれはまた別の話。