星だけが落ちた、という記憶はある。
山岳地帯でのヴィランとの追っかけっこ、捕まえた、という手ごたえと同時に、足もとが急に何もなくなる感覚。後ろから聞こえた叫び声。捕まえたヴィランを、それでもこのまま落ちたら殺してしまうと思って俺は、とにかく必死に背後に放り投げた。自分は、硬化で何とかなるだろうと思ったからだ。けれど、思いのほか落下時間が長く、そうしているうちに脳震盪を起こしたみたいに意識は飛んだ。
そして今、目が覚めた。
周りは闇だけれど、視界は一面の星。星明り、というどこかで見た言葉を唐突に思い出すくらい、それは明るく、眩しく見えた。目を眇め、ぶるりと首を振る。俺は記憶をたどり、今の状況を想像した。落ちたのは多分渓谷、転がり落ちたというより落下だったから。手のひらに触れる感触は砂利、岩。どこかからさらさらと流れる水音。指先、足先、確かめるように少しづつ体を動かしていく。硬化は落下のせいで気を失ってもぎりぎりまで保っていたのだろう、どこかを痛めた感じはしない。身体を起こし、俺は空を仰ぎ見る。着けていたインカムはどこかに落としたようで、ポケットに突っ込んでいた通信機器が、今回の唯一の犠牲だった。まあでも、生きていた、それだけでほっと息が零れる。少しだけ、ひやりとしたのが本音だから。
だんだん、闇に眼が慣れてきて。周りを見渡せば、なるほど小川が流れている。水音はこれかと思いつつ、そんなものを見れば急に喉の渇きを思い出した。けれど、川の水は寄生虫などがいるのでうかつに飲めないことを習っている。目を閉じ、考えた。どう動くのが最善か。山を下りる?こんな夜中に、やめた方がいい。目を開け、大きく息を吐いた。
ふと。
がさりと近くから音がしたので身構える。懐中電灯のような丸い灯りが、すっと目の前を横切ったので俺は動きを止めできるだけ気配を消した。ヴィランは全員捕まえたはず。みし、みし、と砂利を踏む音が聞こえる。そちらの方向に、そっと、顔を向けた。
「あ、おった」
「ファット!!」
夢か幻だろうか。そんな気分でぼうっと見返せば、やけに真顔のファットガムは手に持っていた懐中電灯を地面に向け、俺のそばをさっと照らしてから、俺の顔をもう一度照らす。俺が眩しさに手をかざして目を細めれば、ファットガムはホッとしたように頬を緩めた。あ、そうか、さっきまでの強張った顔は、あまり見たことのない、不安そうな表情で。
「……本物やんな?」
「本物です」
「そぉか」
すとんとファットガムはその場にしゃがみ込んだ。よく見れば、ファットガムの姿はだいぶ脂肪が落ちている。俺が落ちてから何時間たったのか、空だけでは判断できなかったけれど、それでも昼間が夜中になるくらいの時間は過ぎているのだ。大きく開いた脚に肘を乗せ、顔を伏せたままぼりぼりとファットガムは頭を掻く。
「――硬化を、発動してたのは見えた……せやから、無事やろうとは、思うてたけど」
「無傷っス」
「ん……良かった」
強なったな、とファットガムはぽつりと呟く。
「ここの渓谷、茂みの奥がすぐ切り立った崖になっとって、50メートルはあったんや……底は渓流と岩。烈怒頼雄斗でも、分からないで、期待したらアカン覚悟はしとき、って、地元の警察の皆様が言うとってな」
がば、とファットガムは顔を上げ、くしゃりと顔を歪めて笑った。泣く寸前、みたいに見えて、ずきんと胸が痛む。
「ふぁ、っと」
「良かった、ほんまに、君が強くて、良かった」
うんうんと大きく頷き、袖で目元をぐいと擦ってからファットガムは改めて立ち上がる。よく見れば、そのヒーロースーツはあちこち擦り切れていた。
「さて……もうこんな真夜中やし、今、山を下りるんは……合理的やない、やろ?」
君の担任ならそう言いそうやな、と冗談めかして笑う。それが無理しているように見えて、俺はどうにも胸が痛いけれど、こく、と頷いた。
「星でも見ながら、夜明けを待って、降りるで」
水も食料もあるしな、とファットガムはまた屈んで背負っていたリュックを地面に下ろし、水のペットボトルを中から一本出して、俺に差し出した、ので。俺はなんだか、どうしようもなく。ペットボトルを受け取るのと同時に、ファットガムの首にギュッと抱き着いた。
落下している最中、思ったんだ。このまま死んだらきっと俺、すごく、悔しいなって。
だって、ファットに、俺、まだ、好きって言ってないから。
「好きです」
そう、口からぽろりと零れた。零れたらもう、堰を切ったように溢れた。
「心配、かけてすみません。探してくれて、ありがとうございます。俺、助かったけど、正直こんなとこに一人で本当は不安で、だから、ファットが来てくれて、すげえ、うれしくて、あと、俺、落ちてる時に、ファットに好きって言ってなかったの、ほんと、悔しいなって、死にたくねえなって、だから、あの、死んでなくてよかったし、俺、ファットのこと、好きだって、ほんとに好きなんです、付き合うとか無理だと思うんですけど、駄目でいいんで、でも、言っとかなきゃって」
「ハイハイ、君、少し落ち着きィ」
バンバンと、少し強めに背中を叩かれる。俺が黙り込むと、ファットガムは俺の耳元で小さく独り言みたいに呟く。
「ほんま……生きててよかったわ」
ぎゅっと、俺の背中を抱き返してくる腕が、強くて。俺はファットガムの肩に頬を擦り付けた。
「ついでやけど、俺も君が好きやし君と付き合いたいんで、付き合おうな」
え?と慌てて顔を上げると、ひひ、と照れたような顔でファットガムが笑う。そろ、と顔が近付いて、唇を、暖かなものが、掠めた。
何が何だか分からず俺はただ、ぽかんとして。ファットガムの大きな手が、ポンポンと俺の頭を撫でた。
空から星だけが、見てた。