黄色い嘴 サイラスがその話を切り出したのは三人で夕餉を囲っていたときなのだが、一瞬だけイロンデールの箸が止まっていた。
「見合い、ですか?」
唐突な話にきょとんとしたアイリスは、小鉢に箸を伸ばそうとしたまま聞き返す。頷いたサイラスは深く息を吐くと箸を置いた。
「いくつかの流派と桜華流を統合する話が出ていてな。向こうの跡目になるはずだった子息との縁談だ」
ジダ皇国には桜華流以外の剣術はいくつか存在するものの、門下生が減っていき傾いてしまった道場も少なくない。かくいうこの道場もアイリスとイロンデールのおかげで危なかった時期もあるのだが。
まだ先の話ではあるが、いずれここはアイリスが継ぐことになるであろうと言われている。周囲ではその先の跡目の話までもが上がっていた。また、今のアイリスくらいの年齢でも祝言を挙げるのは珍しい話ではない。
戸惑った様子のアイリスも箸を置いた。
「私は……まだまだこれから学ばなければならないことが多い身です。しかし、それが師範方のご意向なのでしたら……」
「まあ、統合の件もまだまとまったわけではないからな。向こう次第だがそういう可能性もあるかもしれないという話だ」
会うだけ会ってみるのもいいだろう、と言うサイラスはあまり乗り気でないようにも見えない。
つまるところ政略結婚ということになるのだが、サイラスの様子からしてなかなか難しい問題でもあるようだ。
「ごちそうさま」
ふたりの話を後目にイロンデールは先に食事を済ませてしまっていた。合掌して自分の食器をまとめて立ち上がる。
「なあ、イロンデールはどう思う」
唐紅の瞳が弟弟子を見上げた。
「さあな。そりゃアイリスが決めることだろ」
そう言ってさっさと水屋に向かう。途中で思い切り足の小指を柱の角にぶつけていた。らしくない息子の様に、サイラスは内心苦笑していた。
○
床に就く前に厠に向かっていると、居間の灯りが点いていた。覗いてみると燈台の灯りに照らされながらアイリスが繕いものをしている。よく見るとイロンデールの着物だ。イロンデールに気付いたアイリスが顔を上げた。
「またほつれたまま放っておいただろう」
稽古のときに剣を引っ掛けてしまったものを投げたままだった。
以前にもあったことだ。そのときもアイリスがいつの間にか直してくれていた。注意しながらも柔らかな口調にむずむずしたものを覚える。
「……悪い。ありがとう」
そばに腰を下ろしながら礼を言う。
「お前は剣術ばかりで他のことが疎かすぎる」
「うるせえ」
「でも、そうやってちゃんと謝れることや礼を言えることができるのはお前のいいところだ」
父上の賜物だな、と昔を懐かしむように小さく笑った。
イロンデールは座卓に肘をついて、慣れた手付きで針を動かしていくアイリスの手元に目を落とす。
イロンデールと同じくらい、もしかするとそれ以上剣を振るってきた手は剣だこでかたい。それでも女性らしいたおやかさもある。サイラスに拾われてきたばかりの頃をなんとなく思い出していた。
すぐに懐いたわけではない。記憶を辿ってみると甘味で餌付けされていたような気もする。よもぎがふんだんに使われた、良い香りのする大福だったことは憶えている。餡に罪はない。
距離を探り合いながら、ずっと共に過ごしてきた。イロンデールにとって桜華流の姉弟子であり、本当の、姉のような。そういうふうに思えるようになったのは最近の話でもある。家族として迎えてくれたことは今となっては感謝している。
暫く繕う様子を眺めていたが、ぽつりと切り出した。
「見合いの話、どうなったんだよ」
ふとアイリスの手が止まった。サイラスから話を持ち出されて数日経つが、あれからその話はサイラスたちの口から聞いていない。門下生たちのあいだではもっぱら噂の種となっているが。
「まだ悩んでいる。……だが、桜華一族にとって有益なことになるのであれば仕方ないことだとも、思う。他の流派を蔑ろにもできないしな」
「……ふうん」
「桜華侍士団はサイファ様直属の部下にあたる。なればいくら流派を統合しようと、ジダ皇国では桜華流が筆頭であることは覆らないだろう。門下生が増えれば、侍士団の力にもなれるはずだ」
「お前の――」
イロンデールが何か言いかけるがすぐに噤む。どうしたと続きを促すようにアイリスに視線を向けられた。
「なんでもねえ」
視線を振り払うように居間を出た。
「お前の意思はどうなるんだよ……」
廊下を歩きながら、さっき喉につかえて言えなかった言葉が今更こぼれた。
○
何か胸の奥がすっきりしない。
皇城に向かったイロンデールは皇王の執務室に足を向けた。
「サイファ様」
パンッと勢いよく引き戸を開けると、仕事中の皇王は机に向かって書簡に目を通していたところだった。イロンデールをちらりと一瞥する。
この剣士は、たまに手合わせをしろと唐突にやってくることがある。皇王相手にそんなことを言えるのはイロンデールくらいだ。
「入るときくらい声をかけなさい」
「サイファ様のとこに行くってウェルナー様には言った。それよりちょっと付き合ってくれよ」
それとこれとは話は違うのだが。鯉口を切ってみせるイロンデールに、また何か癇癪でも起こしたかと思った。この調子では承知するまで居座るだろう。やれやれと溜め息を吐いた皇王は愛刀を佩いた。
城の調練場で打ち合いを始めたが、明らかにイロンデールの剣筋が乱れている。珍しいと思いながらも応えていく。
「どうした、今日はやけに荒れているな」
「そんなこと……!」
「またサイラスに大目玉でも食らったか」
「そんなんじゃねえ」
何かあったのであろうということは分かっていたが、こうも露骨なことは珍しい。斬撃を受けながら思案していたサイファはあることをふと思い出した。
サイファが桜華流剣術の使い手であるため、皇国内の流派についての陳情書はたまに送られてくる。先日目を通したもので気になるものがあったのだ。
「そういえば、アイリスに縁談の話が来たそうじゃないか」
途端、イロンデールに隙が生じる。しかしすぐに持ち直し、サイファの一太刀をすんでのところで受け止めた。
その様子に、なるほど、とイロンデールの心情を察したサイファは嬉しそうに口元を綻ばせる。
「っ今それは関係ないだろ。それに、跡目の話になるなら俺が出る幕じゃない」
「しかしお前は既に免許皆伝を言い渡されているだろう」
「だからどうした」
「桜華流の師範に認められている。お前は侍士団員ではないが、一族の存続には血縁に重きを置くことばかりではない」
「何が言いたい」
「アイリスはまだ免許皆伝を受けていない」
「でもあいつだって強い!」
「それは私も知っている」
イロンデールから繰り出される乱撃を、サイファはこともなげに受け流していく。遊ばれているだけのように感じるイロンデールの焦燥は増していき、それが如実に太刀筋に表れた。
「話がどうまとまるかによっては、アイリスが他の流派へ嫁ぐようになることだってあるのではないか?」
「それはない」
きっぱりと言い切る様はいっそ清々しい。事実、桜華の者となれば婿取りの可能性のほうが高いが。
「だが、もしアイリスが嫁ぐことになれば寂しいのだろう」
「だっ、誰が! 寂しいとか思うかよ!」
「むきになる辺り図星と見える」
「あのなあ!」
剣を交えている最中だというのに、矢継ぎ早の斬撃を流しながらサイファは朗らかに笑ってみせる。
なんとなく自分でも分かっていたことだが気付かないふりをしていたというのに。改めて他人から指摘されてしまうと、なんともはや。
イロンデールが吠えた直後、鋭い音と共にイロンデールの手から剣が弾き飛ばされた。
「今日はこれで終いだ」
衝撃で尻もちをついたイロンデールに手を差し出すが、むっとした顔をしながら自分で立ち上がった。
「普段のお前ならもう少し粘れただろうな。少しは晴れたか?」
「……俺は別に、アイリスがどうしようが知ったこっちゃねえけど。政略的なのが気に入らないだけだ」
「素直でないやつだ」
「だから!」
「分かった分かった」
サイラスとアイリスを家族として感じられるようになったのは良いことだが、跡目や血筋のこととなると一歩ひいているところがある。拾われた負い目か。
しかしそれはそれとして、存外かわいいところもあるものだ。むすっとした様子の幼いツバメに、サイファはふっと笑った。
○
イリソの出の門下生から良い茶葉を貰った。城下町の露店で買ってきた大福と一緒にいただこうと三人が居間に集まる。
湯を沸かして来ますとアイリスが立ち上がろうとしたとき、サイラスが口を開いた。
「先日の見合いの話なんだが」
そう切り出した瞬間、大福に手を伸ばそうとしていたイロンデールの手が止まる。腰を上げていたアイリスも座り直した。緊張を腹の底に感じていたふたりは、サイラスがどこか穏やかな顔をしていることに気付く。少なくともふたりにとっては悪い話ではないようだ。
サイラスはふたりの顔を順に見てから話の続きを始めた。
「統合の話自体がなくなった」
曰く、皇国随一の戦闘集団でもある桜華流と合流するのは荷が重いという。何度か話し合ったそうだが、しかして縁談も白紙となったわけだ。
「なんだよそれ」
またも唐突なことにイロンデールがふんと鼻を鳴らした。
「手放しに喜ぶ話でもないのだが、お前には余計な心労をかけてしまったな。まあそういうことだ」
「い、いえ、私もなかなか決心がつかずご迷惑を……」
そう言いながらも肩の荷が下りたような明るい表情をしている。
アイリスは改めて湯を沸かしに水屋に向かうと、イロンデールは知らず知らずのあいだに安堵の息を吐いていた。イロンデールもまた改めて大福に手を伸ばす。
「ほっとしたか?」
「なんのことだよ」
サイラスがにやにや笑いながら訊いてくる。イロンデールはなんでもないふりしてよもぎ大福を頬張った。