縫合する猫
茨がいなくなって探し回っていたら、雨の中路地裏で震えていた。こんなシチュエーション、ジュンが貸してくれた漫画で見た気がする。やっと見つけた、きっと悪の組織から逃げてきたんだろう。どろどろになった茨を抱き抱えて、二人の家に帰り、シャンプーする。小さく何かを訴えていたけれど、今はそれどころではない。茨、いばら、やっと見つけた、もう何処にも行かないでね、茨……。
***
茨が猫になった。
ベッドの横にうずくまっているのは赤毛の小さな猫だった。人間の茨がいるはずの場所に眠っている。
「……茨?」
赤毛の猫は控えめにミャアと鳴いて、海色の瞳を瞬(しばた)かせた。猫になっても綺麗な茨。私は触ってみたくなって、狭い額をそっと撫でる。嫌そうに目を細めたけれど、逃げなかった。しっぽがぱたぱたとベッドを打って、やめろ、って言っているみたいで可愛い。
「茨、大丈夫? あ、ごはん食べたいかな。茨は何食べる? 猫缶のほうがいいのかな」
私はもう一度だけ茨を撫でて、その吐息を聞いた。不機嫌な時の茨の呼吸だった。
***
猫になった茨は私のことをちゃんと覚えていてくれているのだろうか。そればかりが気がかり。でもいばら、て呼ぶとちゃんと返事をするし、時折そばに来てくれる。頭を撫でるとおとなしく受け入れて、目を細める。喉を鳴らして、何も言わない茨。抱きしめると遠慮がちに鳴いて、私の頬を舐め上げた。
「茨、いばら。……抱きしめてもらえないのは寂しいな」
いつも伸びてきたしなやかな腕は失われていて、なめらかな毛並みばかりがそこにある。茨はため息をつくようにミャアと鳴いて、また私の頬を舐めてくれた。
私はなんだか眠くなって、茨を抱きしめながら眠った。茨の匂いがした。
***
端末が震えて、今日の仕事を思い出す。
茨が猫になったことはきっと誰にも言ってはいけない事だと思う。私は平気だったけれど、普通の人はびっくりしてしまうだろう。もしかしたら悪の組織が茨をまた連れて行ってしまうかもしれない、解剖して猫の中の人間を探すのかもしれない。それは怖い事だから、きっと誰にも言ってはいけないんだろう。……でも日和くんとジュンにはいいかな。きっと二人もわかってくれると思う。
控室には日和くんがいて、早速茨のことを教えてあげる。
「日和くん、あのね、ふふ、茨が猫になっちゃったんだ」
そういうと日和くんは一瞬怪訝そうな表情をした、けれどすぐに笑ってくれた。
「毒蛇が猫になったなんておもしろいね! おうちにいるの?」
「うん。寝てるんだ」
「そう。――じゃあ邪魔しちゃいけないね、爪を立てられるかもしれないね」
「茨はかしこいからそんなことしないよ。ああ、でも――」
私は仕事のことを思い出す。
「……茨の仕事はどうしよう? 猫じゃ何もできない」
「――死んだことにしたら? 死んだ人間は働けないからね、みんな納得するね」
「……でも人間に戻った時大変そう」
「それは戻った時に考えればいいね! 生きてたとなればみんな大喜びだね! サプライズだね!」
「……そうだね。それがいいかも」
「うんうん! 茨の仕事のことも会社のことも全部僕が言っておくからね! 大丈夫猫になったことは秘密にしておくからね! 僕と凪砂くんとの秘密だね!」
「ジュンも入れてあげて」
日和くんはほっとしたような表情をして、私の頭を撫でてくれた。
「凪砂くん、ちゃんと眠ってる?」
「……うん。茨がそばにいると眠くなるんだ」
「そう。――それならよかった、ね」
手を握られて、今度遊びに行くからね、そうしたら動物病院にも行こうね、秘密は守るね、と日和くんはやさしく言う。
「何話してるんすかぁ」
「茨のこと」
「ジュンくん! 茨は猫になったね!」
「……最初から説明してくださいよぉ」
日和くんが居て、ジュンが居て、そして茨がいれば、私たちは完成する。早く二人に茨を会わせてあげたかった。
***
人間の茨がいるはずの場所には赤毛の猫がいる。
茨が死んでから凪砂くんは眠らなくなった。体調も崩して無表情に泣いている。茨の死を説明してもそれを拒否して、茨を探し回った。茨は悪の組織に拐(かどわ)かされてしまったらしい。早く助けたいと言っていた。
僕が何度も説明したってそれを受け入れてくれなくて、ずっと泣いてばかりで、美しい顔(かんばせ)が翳っていくのはみていられなかった。死の喪失からくる鬱症状が悪化したらもっと酷くなるだろう、どうにかしないといけないと悩んでいた時、凪砂くんは猫を拾ったらしい。猫を茨と言った。それで綻びていた世界は縫合された。茨は生きているけれど、死んでいることになった世界は、現実と整合する。
やがて凪砂くんはちゃんと現実に向き合う。その日まで茨は猫だ。どれほど大きな存在だったのだろう、凪砂くんの中の茨という男は。きっとあの世で茨も安心している、だって茨の全てだったからね、乱凪砂は。
(201115)