茨が妊娠する話6 筋力を衰えさせるわけにもいかないので、川沿いの土手をゆるゆると散歩するのが日課になっていた。今日は夕飯何を作ろう。まだ蒸し暑いが、もう九月だしシチューがいいかもしれない。玉ねぎがないから玉ねぎを買って……。
小さな八百屋さんで玉ねぎを買ったら、もうすぐ産まれるの? とおばあちゃんに聞かれる。ええ、そうですねとわらうと、まあがんばってねえと応援された。なかなか生まれなくて階段上り下りしてたわぁと懐かしそうに語る。そうそう、テニスボールがいいのよね、と店の奥にいって、黄色の新品らしいボールを持ってきて渡された。孫がテニス部でねえ新品よ、と手を握られる。
「? 何に使うんですか?」
いきみ逃しにつかうのよぉ、お尻の穴に……、娘がこれでねえ、とおばあちゃんは楽しそうに語った。なんでも陣痛が来たら後ろからこれで押してもらうらしい。どういう状況かわからないが、まあ貰っておこう。
「ありがとうございます、また来ますね」
がんばってね、と手を振られる。
頑張るのは得意なので、期待に応えることが出来るだろう。
***
「あ……?」
シチューを煮込み始めたら、なにやらきゅうと締め付けられるような鈍痛が始まった。これは知っている。前駆陣痛の時の痛みと似ている。また前駆陣痛か……、と思いながら、火を弱めてソファに座る。出産予定日を過ぎているし、もういつでも陣痛が来ておかしくないのはわかるのだが……。
微妙に痛い。
一応陣痛タイマーで測っていく。シチューの火を止め、ソファに座ってぼんやりした。
タイマー十五分。
陣痛の痛みは三十秒ほど。
それが繰り返されている。
不規則であれば前駆陣痛で、規則的に陣痛が繰ればそれは本陣痛だ。
また来た。
「う……」
三回目の陣痛で、これが本陣痛っぽいことを知る。
「まじか……」
とりあえず入院セットを玄関に用意して、ナプキンを股に当てて……。
ぎゅ、ぎゅ、と収縮する痛みがまた来た。多分これは女性の生理痛の痛みなのだろう、こんな風に痛いのか、知らなかった。
「うう……」
ベッドに寝る。まだ耐えられるような痛みだった。拷問には屈さない。
「ただいま」
閣下が帰って来た。よろよろと居間に向かった。
「おかえりなさい……」
「え、どうしたの? 体調悪い?」
「どうやら陣痛が……」
「来た……? 大丈夫?」
椅子に座らせられて、心配そうに見つめられる。
「えっと……、病院に電話だっけ?」
「陣痛の間隔が十分になったら電話です……、たしか男性出産なので早めに行くらしく……」
「そうなんだ……」
「これ十時間くらいかかるので、とりあえず腹ごしらえしますね」
「座ってて。私がよそるからね」
「うーん」
また陣痛が来た。ぎゅむぎゅむと腹が握りつぶされるような痛み。こえがでてしまう。
「……痛い?」
「痛いです……でもまだ耐えられますね。食べましょう」
シチューを食べると、少し落ち着いた。
なるほど、陣痛には相当のエネルギーが必要だから、陣痛の合間に何か食べていた方がいいような気がしてきた。栄養補助食品はたくさんあるし、あとはおにぎりでも握るか……。
「なにか……私にできることないかな……」
閣下がそわそわしながら周りを歩いている。ちょっとかわいい。
「えーと、単純計算で朝方に病院に行くことになるので、寝てていただければ」
「茨が苦しんでいるのに寝れないと思う」
「そうですか……じゃあこれを」
そういってテニスボールを渡した。
「? なあに?」
「俺がそれを必要としたら、ケツの穴をそれでおしてください」
「……わかった」
「まあ必要になるかわからないですけど」
と余裕綽々と答えたのが六時間前。
「痛い無理出ます出てください押してください痛いです」
とろとろと寝たり起きたりしていたが、いよいよ陣痛の感覚が十分以内、陣痛時間が一分をこえるようになってきた。
楽になる姿勢を探して、横寝したり立ったりしていたが、四つん這いで叫ぶのが一番楽だった。その恰好で、後ろからテニスボールを押してもらう。なんかこう押されると少しだけ楽になる。
「……病院に電話したから、もう来ていいって」
「ううう~~まってください痛い、はあ、ちょっと、はあ……」
あさぼらけ。本当に十時間たっていた。まだ暗いマンションのエントランスに陣痛タクシーを呼んで乗り込む。閣下が横で手を握っていてくれた。いつもなら恥ずかしくて無理なのに、今日だけは頼もしいと思ってしまう。
病院について病室に通され、腹にモニターを付けられる。そうして子宮口を確認され、まだ三センチですねえと云われた。
「三センチ……何センチになればいいんですか……」
十センチくらいです、と云われて部屋を後にされる。
「茨、がんばろうね」
閣下はベッドサイドに綺麗な白いサメの歯を置いた。それは閣下のコレクションで、出産の痛みを和らげると信じられているものだった。
「茨が痛くなくなりますように」
「うう……閣下、スポドリが飲みたいです……」
「うん、用意しておいた」
「ううう……!」
陣痛の痛みが半端なく強くなっている。こえが勝手に出て、何かに捕まっていないと体がバラバラになりそう。寝たままスポドリを飲ませてもらって、陣痛の間の無の時間に、呆然とするしかなくなってしまう。
これがあと七センチひらくまでやるのか……?
遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえる。今日生まれた子もきっといるのだろう。
無事に産みたい。
でも痛い、痛すぎる、何だこの拷問は……!
「茨、どうだろう、ゼリー状の栄養補助食品は飲める?」
「……はい」
「熱い? 扇いであげるね」
「……ありがとうご痛い痛い無理痛い痛てえうわああ」
叫ぶしかない。巨大な巨人にハンマーで腹を殴られているような痛み。四つん這いになって柵に掴まりどうしようもない衝動を逃した。閣下はナイスタイミングでケツ穴をテニスボールで押してくれている。いきみが逃げる、ありがたい。
何時間たったかわからない、陣痛の感覚が二三分になってきた。
「むりです! 開けて出してください! 帝王切開! 痛い! やめて! ぐあああ」
「大丈夫、茨は頑張ってるから大丈夫だよ」
閣下が手を握ってくれている。握りつぶしそう。
もはや何を云っているのかわからなくなってきた。
医者がやってきて子宮口を触診し、あと少しですがと顔を合わせる。
「出します! 出てください! 痛い! 無理! 無理ですか!? 駄目です! はあっ! 無理です! あ! うんこでます! なに!? え! むり!」
呼吸が苦しくなってきた。意識が遠のく。
排泄の時のような感覚がせりあがってきて、どうしたらいいかわからなかった。
分娩室に行きましょう、とのこえで、酸素マスクを付けられ、ベッドでそのまま運ばれていった。分娩台に乗せられ、上を向くと閣下が心配そうにそこにいた。
「茨、あと少しだよ、大丈夫だよ」
そういわれたら大丈夫なんだなあとぼんやり思う。看護師さんのいきんで、のこえにあわせて腹式呼吸のように下腹部に力を入れる。一回目、二回目、三回目……。切りますよ、と主治医が何か云っているが何もわからない。股を切られたらしい。四回目、五回目……。
ぱっと、世界が止まって、そこにはちいさな産声が広がっていた。
「あ……」
生まれた。顔だけ出たらしい。顔が出てすぐに泣くなんて元気だな、と泣きそうになる。あと少しですよ、といきみの合図にあわせて力を入れる。にゅるりと体が出ていったらしい。
おめでとうございます、元気な男の子ですよ、と告げられた。
「……うまれた……」
赤ちゃんは元気に鳴いて、看護師さんに抱かれてなにやら処置をされていた。
「おわった……」
「茨、おつかれさま」
呆然としてしまう。股を何やら処置されていたが、もうそんなのどうでもよかった。
胸に、真っ白な帽子をかぶされた赤ちゃんがやってきた。泣き止んで、ほんとに赤くて、かわいい。ちいさくうごいている。
「……よかった、茨も赤ちゃんも無事で……」
「……はい……」
経過を見るために分娩室に待機になって、家族三人だけになった。
怒涛の十八時間、絶対に忘れられない一日だ。
「……かわいいね。こんにちわ、赤ちゃん」
すやすやと眠っている。目元は閣下に似ている、くちもとは俺、……。
目まぐるしい日々はきっと、これからも続くのだろう。だけれど、このいのちに出会えてそれだけれ嬉しい、なんて、普通の人間みたいなことを思う。
「茨、ありがとう。全部茨のおかげだよ」
「そう云われると、まあ、嬉しいです」
「これからも頑張っていこうね」
「もう頑張りたくないですね~~」
二人してわらった。きっとこれが家族と云うものなのだろう。
(211102)