美丈夫でも風邪引く受は見たい朝から喉の奥に僅かな違和感があった。おれはそれを無視して書類に目を通し、元帥府の執務室でいつものように部下に指示を飛ばしていた。だが、日が傾くにつれ、その違和感は熱を帯び、頭の奥に鈍い痛みが広がり始めていた。風邪だろうか。いや、そんな些細なことでおれの歩みが止まるはずはない。そう自分に言い聞かせながら、デスクに積まれた報告書を片付け続けた。
ロイエンタールは右目に深い黒、左目に鮮やかな青を持つ金銀妖瞳の持ち主だ。長く美しい睫毛がその異色の瞳を縁取り、通った鼻筋と白磁のように滑らかな肌が完璧な均衡を保っている。艶やかなダークブラウンの髪が指先に滑り、長身でスタイルの良い姿は動作一つ一つに優雅さを宿していた。だが、本人はその美しさを把握していても、まるで無頓着だ。鏡に映る姿を一瞥し、髪をかき上げた彼の仕草にすら、余人には及びもつかない気品が漂う。しかし、おれにはその矜持がある、と彼は考えるのみで、自分の容姿には興味がないらしい。
夕方、執務を終えた頃には熱が全身を蝕み始めていた。額に手を当てれば、僅かに汗ばんでいるのが分かる。だが、おれは表情を崩さず、いつもの落ち着いた足取りで元帥府を後にした。今夜はミッターマイヤーの官舎で酒を酌み交わす約束がある。親友である彼に会うためなら、この程度の不調など我慢できる。そう思って、おれは自らの体調を押し殺し、彼の住まいへと向かった。
官舎に着いた時、扉を開けたミッターマイヤーの顔が視界に飛び込んできた。癖のある蜂蜜色の髪が少し乱れ、いつもより柔らかな笑みを浮かべた表情。おれより身長は低いものの、がっしりとした体躯が頼もしさを湛えている。いつものように「おれの到着を待ちわびていたのか」と軽くからかうつもりだったが、声が掠れてしまいやめた。
「遅かったではないか。先に一杯やり始めるところだったぞ」
彼の声は軽やかで、おれを迎え入れる温かさに満ちていた。おれは小さく笑みを浮かべ、「少し手間取っただけだ」と返す。だが、その声は自分でも分かるほど弱々しく、ミッターマイヤーの眉が僅かに寄った。
「どうした?顔色が悪いぞ」
「何でもない。お前が心配性なだけだ」
そう言ってソファに腰を下ろし、差し出されたワイングラスを受け取った。熱で僅かに赤みを帯びた白磁の肌は、普段の優雅さを少しだけ乱している。手が微かに震え、グラスを持つ指先に力が入らない。ミッターマイヤーはそれを見逃さなかったようで、じっとおれを見つめてくる。おれは目を逸らし、ワインを一口含んだ。喉に染みるアルコールが、熱を帯びた体に追い打ちをかける。
「ロイエンタール、お前熱があるんじゃないか?」
「大袈裟だな。おれは大丈夫だ」
そう言いながらも、頭の中がぼんやりとし始めていた。朝からの無理がここにきて限界を迎えつつあるのだろう。だが、おれはミッターマイヤーの前でも弱さを見せたくなかった。いや、見せられないと思っていた。部下の前では完璧に振る舞えるのに、彼の前ではなぜかその殻が脆くなる。それが少し悔しくもあり、愛おしくもあった。
しばらく他愛もない話を続けた後、グラスが空になった。おれは立ち上がり、テーブルに置かれたワインボトルを取ろうとした。だが、その瞬間、視界が揺れ、膝に力が入らなくなった。ふらりと体が傾ぐ。次の瞬間、がっしりとした腕がおれの体をしっかりと受け止めた。
「ロイエンタール!」
ミッターマイヤーの声が耳元で響き、おれは驚きに目を見開いた。ミッターマイヤーの腕がおれを横抱きにしている。身長差があるおれを、彼の筋肉質な体躯が難なく支えているのだ。横に抱えられた姿勢があまりにも無防備で、恥ずかしさが込み上げてきた。だが、風邪でぼんやりした意識がその羞恥を薄れさせ、体から力が抜けていく。
ロイエンタールの均衡の取れた長身が頼りなく彼の腕に収まる姿は、どこか色っぽい。と、ミッターマイヤーは内心で思う。お前がその美しさに無自覚なのが、たまらなく可愛いとも。
「重い、それに体が熱いな…大丈夫か?」
彼の声には心配と苛立ちが混じっていた。おれは小さく笑い、「お前なら支えられるだろう」と掠れた声で返す。いつもならもっと冷静に振る舞えるのに、今は熱に浮かされた頭が素直さを引き出していた。ミッターマイヤーの目が一瞬揺れ、彼の理性が僅かに軋む音が聞こえた気がした。
「ずっと無理していたのではないか?朝から調子が悪いと分かっていて、なぜ言わなかった」
「……知っていたのか」
おれは目を細め、抱き止められた腕の中で小さくため息をつく。熱で潤んだ金銀妖瞳は、長く美しい睫毛に縁取られ、ミッターマイヤーを捉えている。ミッターマイヤーはその姿に息を呑んだ。
ロイエンタール自身、こんな風に親友に抱き抱えられていることが信じられなかったが、その温もりが心地よくて、少しだけ油断してしまっていた。
「部下には見せられない姿だ。だが、お前になら……まあ、仕方ない」
その言葉に、ミッターマイヤーの表情が緩む。おれを愛おしそうに見つめるその瞳に、おれは僅かに頬を熱くした。普段なら隠してしまう弱さが、彼の前ではなぜか可愛げとして受け入れられている。それが少し照れくさかった。
「仕方ない、だと?お前がそんな状態でここまで来たことが信じられん。このままベッドに寝かせてやるから今夜は泊まっていけ」
「待て、おれは帰る。迷惑をかけるつもりはない」
そう言って身を起こそうとしたが、ミッターマイヤーの腕がそれを許さなかった。おれを無視するように抱き上げ、そのまま寝室へと運んでいく。長い脚が少しはみ出しながらも、ミッターマイヤーの力強い腕にしっかりと収まっているのが分かった。そして、ベッドにそっと下ろされた瞬間、おれは熱で赤くなった顔を隠すように目を伏せた。
「お前が帰るなんて許さない。こんな状態で一人にさせるわけにはいかないだろう?」
ミッターマイヤーの声は優しく、それでいて有無を言わせぬ強さがあった。おれは小さく抗議するように呟いた。
「……申し訳ないから帰る、と言っただけだ」
ミッターマイヤーは一瞬黙り、そのままベッドから立ち上がった。怒らせたのか、風邪が移るのを避けて別室で寝るつもりなのかと思った。
ここまで世話になっておきながら、胸の奥に小さな寂しさが広がる。だが、ミッターマイヤーはすぐに戻ってきた。手には薬と水の入ったグラスを持っている。展開が読めず呆気にとられていると、そのままベッドの縁に腰掛けた。
「少し頭を上げろ」
そう言って、薬を口に含み、そのまま顔を寄せてきた。突然のことに抵抗する間もなく、唇が重なる。口移しで薬を渡され、冷たい水が喉に流れ込む。だが、その量が多すぎたのか、口の端から水が溢れ、首筋へと滴った。
ロイエンタールの口から思わず「んっ…」と小さく声が漏れるが唇はそのまま離れず、さらに深く唇を重ねられる。「っふ、う…」思わず鼻から抜ける声がどこか他人事のように遠くで聞こえた。
ミッターマイヤーに慣らされた身体は、すぐに快感を拾ってしまう。無意識にミッターマイヤーの袖を掴み、その熱に翻弄されていた。
よくやく離れた時に互いの口元を繋ぐ銀糸をぼんやりと目で追う。まだ掴んだままだったおれの手を見つめ、「可愛いな」と呟いた。
その声に自分でも気付くほど愛おしさが滲んでいて、ミッターマイヤーは内心で思う。お前が自分の魅力に無自覚なのが、こんなにも惹きつけるのだ、と。
「申し訳なさで帰るなら尚更返す訳にはいかんな。ほら、今度はあんな寂しそうな顔をさせんよう横で一緒に寝てやる。だからここで朝までゆっくり寝ろ」
そう言うとベッドに潜り込み、おれをそっと抱き込んだ。その体温が風邪で冷えたおれの体を温め、安心感が広がっていく。おれは彼の胸に寄り添い、掠れた声で小さく呟いた。
「……ありがとう」
ミッターマイヤーはおれの髪を優しく撫でながら、癖のある蜂蜜色の髪を揺らし小さく笑った。おれはその温もりに包まれ、目を閉じる。
熱に浮かされた美しい顔に長く優雅な睫毛が静かに影を落とし、ロイエンタールの身体から力が抜けていく。
逞しくも愛おしい腕に抱かれ、疲れ果てた体がようやく安堵の眠りに落ちていったのだった。