フェザーンの一夜フェザーンの街は、銀河の交易の中心らしく、昼夜を問わず賑わっていた。ネオンが瞬く通りには、帝国風の装飾を施した店と同盟の簡素な看板が混在し、異文化の交錯がこの中立惑星の独特な空気を生み出していた。そんな雑踏の中、ヤン・ウェンリーはフード付きのコートで顔を隠し、気ままに街を歩いていた。
彼は休暇を利用したお忍び旅行だった。イゼルローン要塞の喧騒から離れ、たまには自分の時間を楽しみたい。そんな思いでフェザーンに立ち寄ったのだ。歴史書を片手に古書店を覗いたり、露店のスパイス料理を試したり。だが、ヤンののんびりした散策は、思わぬトラブルに直面していた。
「ねえ、兄ちゃん、いい服着てるね。ちょっと話さない?」
路地裏に迷い込んだヤンを、柄の悪い男たちが取り囲んだ。フェザーンの裏通りは、こうしたならず者が跋扈することで知られている。ヤンは内心でため息をついた。軍人としての実力はあれど、目立つのは嫌いだ。どうやって穏便に切り抜けようかと考える間、一人の男がヤンの手首を乱暴に掴んだ。
「離してくれよ、別に用はないよね?」
ヤンが冷静に言いながら手首を振り解こうとしたその瞬間、鋭い音とともに、男が目の前から消えた。いや、正確には、誰かに殴られて地面に崩れ落ちたのだ。ヤンが驚いてそちらを見ると、そこには長身で異様な存在感を放つ男が立っていた。黒いマントの下に覗く軍服、鋭い眼光、そして右目が黒、左目が青の金銀妖瞳が、薄暗い路地を照らすように輝いていた。
「フェザーンの人間は卑怯なのだな。数人で一人を囲むとは」
その男――オスカー・フォン・ロイエンタールの声は冷たく、軽い嘲笑を帯びていた。残った男たちはその言葉に激昂し、「なんだと、てめえ!」と一斉に飛びかかった。だが、ロイエンタールの動きはまるで舞踏のように優雅で、かつ無慈悲だった。一人目の喉元に正確な拳を叩き込み、二人目の腹に肘を打ち込み、三人目の膝裏を蹴り上げる。あっという間に、ならず者たちは全員、呻き声を上げながら地面に倒れていた。急所を的確に突くその手際は、軍人としての訓練の深さを物語っていた。
ヤンは呆気にとられつつ、ほっと息をついた。目の前の男を見上げると、背が高く、整った顔立ちはまるで彫刻のようだ。軍服の仕立てから、帝国の軍人だと直感したが、ヤンはその名を知らない。知るはずもない。ヤンと彼は、戦場では間接的に相対したかもしれないが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
「ありがとう、ほんと助かったよ。君、軍人だよね? 動きが素人のものではないことは、私でも分かったよ」
ヤンはいつもの気さくな笑顔で礼を述べた。ロイエンタールは、目の前の青年を一瞥し、わずかに眉を上げた。ぼさっとした黒髪に、平凡なコートを羽織った姿は、どこにでもいる旅行者に見える。だが、その口調や立ち振る舞いには、どこか軍人の匂いがした。
「礼には及ばん。フェザーンの街は、油断ならないだけだ」
ロイエンタールの声は低く、どこか皮肉めいた響きがあった。ヤンはその声に、なぜか心が軽くなるのを感じた。なんて綺麗な人だろう、と素直に思った。整った顔立ちに加え、黒と青の金銀妖瞳はまるで夜空に浮かぶ星のようだ。ヤンはふと、こんな出会いを逃すのはもったいない気がした。
「いや、でも本当に助かったんだ。お礼に、せめてお茶でもどうかな? 近くにいい店を知ってるんだよね」
ヤンの提案に、ロイエンタールは一瞬、黙って彼を見つめた。彼は貿易視察の名目でフェザーンを訪れ、部下を待つ間、単独で街を見ていたところだった。暇を持て余していたこともあり、この奇妙な青年の誘いは、意外と悪くない選択肢に思えた。ヤンの無邪気な笑顔と、どこか人を引きつける雰囲気も、興味をそそった。
「……ふむ。面白い提案だ。よかろう、付き合ってやろう」
ヤンの巧みな話術に半ば押し切られる形で、ロイエンタールは頷いた。ヤンは内心で小さくガッツポーズしつつ、彼を近くのカフェへと案内した。
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カフェは、フェザーンらしい異国情緒漂う内装だった。木製のテーブルには星図を模した装飾が施され、窓からはネオンの光が差し込む。ヤンとロイエンタールは、窓際の席に腰を下ろした。互いに素性を明かさない暗黙の了解があったため、会話は当たり障りのない話題に終始した。
「フェザーンって面白いよね。帝国と同盟の文化が混ざり合って、まるで銀河の縮図みたい」
ヤンがそう言うと、ロイエンタールはグラスを傾け、軽く笑った。
「確かに。だが、その混沌こそが、フェザーンの本質だ。秩序と無秩序が共存する場所――まるで戦場に似ている」
「はは、さすが軍人らしい視点だね。君、ほんと綺麗な目をしてるよ。まるで戦場を俯瞰してるみたい」
ヤンの唐突な褒め言葉に、ロイエンタールは一瞬、動きを止めた。だが、すぐに皮肉めいた笑みを浮かべ、話を流した。
「随分と気軽に人を褒めるのだな。君のような者は、戦場では生き残れそうにない」
「まぁ、戦場より本を読んでる方が好きだからね。君はどうだい? 軍人らしいけど、普段は何してるんだ?」
ヤンは悪びれず、にこにこしながら尋ねた。ロイエンタールは、相手が軍人だと察していることに気づきつつ、曖昧に答えた。
「書類仕事と、部下の世話だ。君も軍人なら、似たようなものだろう?」
「うん、確かに。私も書類と格闘してるよ。まぁ、歳も同じくらいだし、似たような悩みがあるのかもね」
二人は歳が近いこと、軍人であることだけを共有し、後は歴史やフェザーンの文化、果ては銀河の酒の話まで、話題を広げていった。ヤンはロイエンタールの鋭い観察力や、時折垣間見えるユーモアに感心し、ロイエンタールはヤンの軽妙な語り口と、どこか掴みどころのない魅力に引き込まれた。
「君、ほんと美人だよね。こんな人と話してるなんて、フェザーンに来てよかったよ」
ヤンがまたしてもストレートに褒めると、ロイエンタールは苦笑した。
「君のその口調、どこまで本気なのか測りかねるな。だが……悪くない気分だ」
意外にも、ロイエンタールの口調は柔らかかった。ヤンはその反応に心の中でほくそ笑みつつ、こんな時間がもっと続けばいいのに、と思った。
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やがて、時計の針が進み、別れの時間が近づいた。カフェの外に出た二人は、ネオンの光の下で立ち止まった。ヤンは名残惜しそうに、ロイエンタールを見上げた。
「いやぁ、ほんと楽しかったよ。名前くらい、聞いてもいいかな?」
その瞬間、遠くから声が響いた。
「ロイエンタール閣下! こちらです!」
部下の声に、ヤンの目が見開かれた。ロイエンタール――その名は、同盟の軍人なら誰でも知っている。帝国の「双璧」の一人、冷徹な戦略家にして、類まれな美貌の持ち主。ヤンは一瞬、言葉を失った。まさか、目の前のこの男があのロイエンタールだったなんて。
ロイエンタールは、ヤンの驚いた顔を見て、わずかに目を細めた。そして、今日一番の柔らかい笑みを浮かべた。
「同盟の方にまで名前を知られているとは、ありがたいと受け取るべきか?」
その声は、どこか楽しげだった。ヤンがまだ動揺している間に、ロイエンタールは軽く頭を下げ、部下の元へ歩き出した。背中を見送りながら、ヤンはようやく息をついた。
「ロイエンタール、か……見目の良さで噂が届くなんてどんなものかと思ってはいたけど、百聞は一見にしかずとはよく言ったもんだ」
ヤンは苦笑しつつ、自分の名前を名乗らなかったことに少し後悔した。だが、同時に、こんな出会いも悪くない、と思った。ロイエンタールは最後まで、目の前の青年が「イゼルローンの魔術師」ヤン・ウェンリーだと気づくことはなかった。
フェザーンの夜は、二人を飲み込むように、また喧騒に満ちていく。