【最終話】こちら月より、愛を込めて No.15「千空ちゃん。もう時間だよ。行かなくちゃ」
二人で一夜を共にしたバラックを後にした。
ロケットの発射台まで、五指の指をしっかりと絡めるように繋いで歩く。
打ち上げ前に二人だけで過ごす最後の時間だ。
突き抜けるような雲ひとつない青空に、ときおり吹くそよ風が頬を撫でて心地よかった。
本日は晴天なり。絶好の打ち上げ日和だ。
俺と千空ちゃんは発射台に向かって、ただ無言で歩いた。
もう言葉はいらなかった。
言葉なんて無くても、俺たちはもう大丈夫。
目には見えなくても根っこの部分で深く強く繋がってる、そんな気がした。
歩きながら、時折千空ちゃんの顔を覗きみる。
朝日に照らされてまっすぐ前を見つめて歩く千空ちゃんの横顔は凛々しくて、たくましくてかっこいい。
出会った頃はまだ少年の面影が色濃く残っていたけれど、今ではすっかり成人男性の精悍な顔つきになっていた。
ただ見つめていられるだけで、俺の心は満ちたりた。
不思議なことに朝になると昨日まで感じていた不安や戸惑いや寂しさが、俺の中から綺麗さっぱり消え去っていた。
それはまるで嵐の後の静けさのようだった。
昨日、散々抱いてもらって、約束をもらって安心したのかな……、いや、それだけじゃなくて、はからずも千空ちゃんの自慰だなんて珍しいものを目撃したおかげかもしれない。
正直、昨日は一睡もしていなかった。
なんだか眠ってしまうのがもったいなくて。
たくさんえっちして身体はヘトヘトのはずなのに、やけに意識はしっかりしてた。
でも俺がいつまでも起きていると、千空ちゃんが落ち着いて休めないから寝たふりをした。
そうしたら、千空ちゃんは俺にひっついて自慰をはじめた。
あんなにたくさんえっちした後なのに。
求めても求めても足りないとうように、千空ちゃんはせつなげに幾度も自身を扱いて、眠っている俺にキスを落とした。
本当に嬉しかった。嬉しすぎて叫び出しそうになるのを堪えるのが大変だった。
俺は本当に千空ちゃんに頭のてっぺんからつま先まで愛されているんだと実感できたんだ。
だから、千空ちゃんが精根尽き果てて眠りに落ちたあとは、ずっと千空ちゃんの端正な寝顔を見てた。
俺の隣で、何もかもを許して穏やかに眠る千空ちゃんが何よりも愛しくてかけがえのないものだったから、いつまでも瞼に焼きつけていたかったんだ。
ふいに千空ちゃんが足を止めた。
「……千空ちゃん?」
「見すぎだろ」
千空ちゃんは吹き出すように笑って、俺の頬にかかる横髪を梳くように撫でた。
俺は思わず真っ赤になる。
「……だって」
「……俺に惚れてただろ」
「うん?出会う前から惚れてたよ」
「いや、なんつーか、今、恋に落ちる瞬間みてーな顔してた」
「ふは、ご明察♪ 俺はね、出会ってからも朝が来る度に何度も何度も千空ちゃんとの恋に落ち続けているんだよね。何千回も何万回も」
たとえ今、すべての記憶を失ったとしても俺はすぐに千空ちゃんとの恋に落ちるだろう。
そう確信できる引力が千空ちゃんにはある。
千空ちゃんは愛おしそうに目を細めて微笑を浮かべた。
「ISSみてーだな、俺らの恋は」
「どういうこと?」
「ISSも落ち続けてんだよ、永遠に。いわゆる慣性の法則だ」
千空ちゃん曰く、俺たちの恋はニュートンの法則で止まることを知らず、脈々と回り続けているのだった。
千空ちゃんは俺の頬を撫で触れるだけのキスをした。
基地についてみんなと合流し、俺と千空ちゃんは別れた。
千空ちゃんたち宇宙飛行士チームは、様々な検査や消毒や準備をして宇宙服に身を包む。
俺は大樹ちゃんや杠ちゃん、ルリちゃんたちと一緒に千空ちゃんたちが出てくるのを待った。
ここまで来ると物理的な接触はもう不可能だ。
千空ちゃんたちはビニールシートの通路の向こう側にいて、もう俺の頬に触れることも手を繋ぐこともできない。
宇宙空間は人間が生命を維持するにはとても過酷な環境で、ロケットの精密機器に髪の毛一本でも紛れ込もうものなら大事故に繋がり兼ねないし、病原菌が入り込んで宇宙船で病気になろうものなら誰も助けにいけない。
だからこそ、俺と千空ちゃんの間に横たわるビニールシートは、千空ちゃんたち宇宙船クルーの命を繋ぐ、文字通りの命綱なのだった。
打ち上げ時刻が近づいて、宇宙飛行士たちがビニールの円筒のような通路の中に現れた。
コハクちゃんはルリちゃんやスイカちゃんと。
スタンリーちゃんはゼノちゃんと。
千空ちゃんは大樹ちゃんや杠ちゃんたちと。
最後の別れを惜しむ時間だ。
「ついにお月様にいけるお祭りみたいだったけど、今までみたくロケットが失敗しちゃったら……」
コハクちゃんとの離別の挨拶を終えて、スイカちゃんが不安げにぽつりと呟いた。
みんな、明るく振舞ってはいるけれど、脳裏には幾度もロケット打ち上げ失敗の記憶がまだ生々しく残っている。
誰もがみな、不安を隠せていなかった。
ーーここはひとつ、メンタリストのお仕事かな。
「大丈夫、大丈夫~~♪」
俺はつとめて明るい声を張りあげた。
「だって、みんな石化してロケット乗っていくんでしょ? も~し打ち上げに失敗しちゃってバラバラになっても、散らばった石片集めてくっつければ復活じゃない♪ ね、大樹ちゃん」
「うぉぉ、う?!」
「いや、それはムリだろ。雑頭の大樹ですら戸惑ってんじゃねえか」
「……大丈夫♪」
ーー君がどんなにバラバラの石片になってこの世界に散り散りになろうとも、俺は千空ちゃんの欠片を集め続けるよ。たとえどんなに時間がかかって、おじいちゃんになったって諦めるもんか。
「だから……大丈夫」
「ゲン」
俯いていると、ふいに千空ちゃんに甘い声で呼ばれた。
千空ちゃんにビニール越しに手招きされる。
俺は吸い寄せられるように千空ちゃんに近寄った。
ただ薄い膜を張られたような二人の間の隔たりがもどかしい。
千空ちゃんは顔を寄せて囁いた。
「必ずテメーのもとに帰ってくる」
「うん、ずっと待ってるから。むしろあんまり遅かったら、俺もロケットに乗り込んで迎えに行っちゃうよ~」
透明な膜を隔てて千空ちゃんと見つめあう。
千空ちゃんの紅蓮の瞳には重力がある。
千空ちゃんの瞳に熱く見つめられると、俺はまるで枝から落ちた林檎のように大地に引き寄せられてしまうんだ。
俺と千空ちゃんはビニール越しにそっとキスをした。
ほんの刹那の永遠のような時間。
青い惑星から愛を込めて、千空ちゃんの無事を祈る。
微かに唇が離れた時、出発前に交わす最後の言葉が重なった。
了