わたしを少し、置いて帰るよ「ああ、あの魔女が飲む煮汁のような茶のことか?」
「フフフ、いい感性だね、ファーさん。ルイボスティーだよ。マンゴーとシトラスの香りを施してある。冷やして飲むと美味しいだろう?」
「その香りは雑味だ。ただの水分補給に余計なものは要らん」
「オレから雑味を引いちまったら何が残るんだい。さあ、オレといる間はこの茶を飲んでもらうぜ。どうせ普段はコーヒー、エナドリ漬けなんだろう?これはノンカフェインで、その点でもちょうど良いのさ」
冷蔵庫を開けると、サプリメントとゼリー飲料とタバコ(冷やす必要は全くない。ただ、部屋にものを増やすたび捜索が面倒になるので、一番分かりやすい冷蔵庫にしまうことにしている)しか入っていないはずのそこに、銀の水差しが加えられていた。長らく使っていなかった割には綺麗で曇りないその入れ物には、例の茶がたっぷりと用意されている。合鍵を欲しがったので好きにしろと伝えてはいたが、どうやら俺の留守中に仕込んで帰ったらしい。その証拠に、床に散らばっているはずの衣服が今は窓際のハンガーラックで大人しく整列している。近づくと、熱帯の海辺の、それも日陰に咲く花みたいな匂いが残っていた。あいつの香水だ。いつもあいつからは派手なくせに陰気な匂いがする。ここにあるものは全て俺の所有物だ。他所から持ち込んだものを良く思わないのは、ベリアルもよく承知のはず。普段なら髪の毛一本ですら、気づけば蓋付きのくずかごへ捨てていく。それなのに、今日は冷蔵庫の中にまで、あいつは自分の破片を残していったのだ。小賢しい振る舞いだけは上手にこなす飼い猫め。
今は午前2時過ぎ。そろそろ何か作業を、という時間でもない。明日に着る上下をラックから手に取って寝室に引き込んだ。それでも、うっすら香ってくる香水はいつもより遠く、そして体温がない。そんなことに気づいたルシファーは、溜め息のような声を吐き出して、とにかく眠ることにした。
珍しく日中に街を歩く機会があった。普段は曜日も日付変更線も曖昧な生活をしている為、久しぶりに対峙する休日、しかも暮れ方の人出に気圧されつつ、目的までの時間つぶしの先を探していた。が、この時間帯にいくら一人でも腰を落ち着ける席の余裕はどの店にもなく、駅からかなり離れた位置の人気ない喫茶店に入るまで約二十と五分。こんな時に限って日差しも強く、季節外れの汗をうっすらかいていた。なんでもいいから冷たいものを、とアイスコーヒーを指さしたところで、急に呼び付けた男の顔を思い出した。指先はメニューの下へずれていく。
「││こっちのアイスティーで」
お客の不機嫌を察したウェイターはさっさと厨房に逃げていった。スマートフォンを見ると、例の男からショートメッセージがみっつと着信がひとつ。現在地のスクリーンショットを送ると、二秒後に「オーケイ」の返事が届く。少しして注文の品もテーブルへ届き、ようやっと気を落ち着けることができた。それなのに、飴色のアイスティーのグラスを傾けて気づく。俺は部屋でも同じものを飲まされている。
「嫌そうな顔」
気づけばそこに居たベリアルが、心底嬉しそうな顔をしている。予想よりかなり早い到着で思わず上着のポケットの中をまさぐった。
「やだなあ、何にも仕込んじゃいないさ。知らないでこの店に入ったのかい?」
持ち上げた左手には、店の看板と同じロゴが入った紙袋。
「ファーさんのことだから、一時間は遅れてくるかと。今日に限って早く着くなんてね。先に買い物を、と思ってこの店に来て正解だった。座っても?」
向かいの席を指差したので、適当に手で促す。すれ違う瞬間に呼び止めたウェイターに彼と同じものを、とだけ告げて腰を下ろした。
「コーヒーを飲んでいたら揶揄ってやろうと思ってた!」
「機嫌を良くするな。喧しい」
「それはそれは、ごめんよ、ファーさん。さあ、早速本題に入ろう」
声が一段低くなる。飲み切ったグラスをテーブルの端へ置いて、ベリアルと対峙した。あれから何度世界が変わろうと、姿が変わろうと、それは俺の計画の前ではなんら問題でない。それを承知しているのは、目の前の男だけだ。それで、なんら問題でないのだ。終末は間も無く成就する。
「││ああ、音楽なんてのもいいね。今も昔も人間はみんな音楽が好きさ。音楽といえば、ちょっと前に、アイルランドあたりのロックバンドを少し脅してやったのに、結局何にも変わっちゃいないようだ。あれはうまくいかなかったけど、今度はオレたちが直接関われば良い」
淹れたてのコーヒーと時折トマトソースの香りが漂う穏やかな店内、グラスの中で溶けて緩くなった氷をストローで追いかけ、明日の天気を話すみたいに会話は続く。彼らにとって、それはほんの日常の会話に過ぎない。
「ニッポンはどうだい?閉鎖的な小さい島国でね。死にたがりがうようよ歩いている。前に都市部へ派遣されていた時も月に二、三度は人死にが原因で交通機関が止まっていた。あいつらそれに慣れてるみたいでさあ、一時間後には何も無かったように元に戻る。信じられないだろう?どうせ大半が死ねずにいるんだ、門出祝いにちょっとくらい先走っちまっても構わないよ。そこから始めるのは?」
何も言わない俺を置いて、ベリアルは一人で語り続ける。
「ところでファーさん、作曲の経験は?オレ、実はミュージシャンになるのがずっと夢だったんだ」
この男はすぐ口先だけの嘘を吐く。代わりに結果で全てを示す。
「お前に似合いの曲を用意してやる」
「フフフ、天国の門に中指突っ込んで来いって事かい⁉オレもトんじまいそうだ!そのまま下へ堕ちるようなデカいの振りかざして追い込むなんて、今からラテックス系の工場によく言っておかないと決行日までに人口が倍に増えちまう!」
大声で笑い楽しそうに体を震わせる。ちらちらと周りの客が声の方へ振り返るも、その内容が彼らに知られることはまず無い。ふたりはあの時と同じ、星の言葉で話す。使用者が世界でふたりきりの言語は、こういう内緒話にはもってこいだ。
「羽孔を拡げるな。におう」
それは数千年前、ルシファーがベリアルを諫める時にかける言葉。今、ヒトの身の狡知に羽は備わってなどいない。それを差し置いても、背中が奮い立つような高揚を隠せないでいる。
「ねえやっぱり背に羽を施すのはダメかい?このなりで耳までヴァージンだぜ?」
「無駄な装飾だ。必要性が無い」
「あいつらに見せてやるんだよ。この黒い羽が、世界を覆い尽くして、その時にお前たちはもう助からない、ってね」
少し間を開けて、ルシファーが返す。
「│ 奥付刑死の店を知っている。その時にお前も来い」
「あれ、もしかして、ファーさんも施術を受ける気なのかい?」
「仕事は美しいが、痛いのが評判の店だ。曰く死んでしまう程な」
「へえ・・・?」
「気を失ったらその場で自死しろ。お前が言い出したんだ、羽の無い狡知は狡知たり得ないと。得意の口先はもう飽きた。成果で示せ。この程度も成せぬ獣は俺の創った狡知では無い」
「面接はもう始まってるって事?ウフフ、頑張らなくっちゃ!」
首を絞める王冠と、背を抱く黒翼にはたっぷりと血の匂いが染みこんで、彼らによって齎される死が美しいものだと錯覚させる。そのような魅力を、既に備えたふたりには蛇足かもしれない。しかし、耳あるものに歌を用意するように、目あるものに分かり易いモチーフがあっても良い。お前らが最期に聴く声と見る印を、どうか忘れず神様の心臓まで持っていってくれ。