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    椅子猫

    @lsb797423
    勇尾の仮置き場

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    椅子猫

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    ※年齢操作、現パロ、DK異母兄弟(別居)
    だらだらおしゃべり。
    夏休みの宿題を滑り込み提出に来ました。青🌸18きっぷは9/10まで使えるので、賞味期限内です。

    ##勇尾

    〈下〉君のいない帰り道は夏の匂いがして 夜の間には気づかなかった隙間から、薄くやわらかなまだ夜明けの光が入り込んでいる。百之助はアラームも鳴る前であるのに、ゆっくりとまぶたを開いた。華美な花の文様があしらわれた天井に眉をひそめると、傍らで動く気配があり地続きのベッドが揺れる。青っぽい光の中で、その弱い光の陰影でも勇作の相貌ははっきりとしていた。
    「兄様、おはようございます」
     全ての輪郭がまだ曖昧な百之助の視界の中で、はっきりとした眉や長いまつ毛に縁どられた瞳だけが、像を結んでいる。ぼんやりと霞む頭のまま、いつもなら刺さるような勇作の視線から逃げ出すところであるのに、寝る前したことを忘れるようにその顔のパーツ一つ一つを視線でなぞった。
    「ずっと起きていたのですか?」
    「いえ、夢も見ずぐっすりでした……出発までまだ時間はありますか? シャワーを浴びてきます」
     互いの朝を初めて見る。すぐに身体を動かさない百之助と違い、身体を起こす勇作に気だるさは見えない。随分と普段より控えた声で話す勇作の背を一度見送った百之助が、追いかけるように脱衣場へするりと飛び込んだ。
    「勇作さん」
    「兄様、今私は汗をかいているので、近くには」
     浴室までの扉を遮る百之助の腕は、勇作にぐるりとふれている。身長の差から百之助に見上げられた勇作は、息を詰めた。二人の間には、それぞれ自分と少し似た汗のにおいが漂っている。
     百之助の視線が下がると、口角がにっとつり上がった。目尻が細められるのまで見て、勇作がにじりと距離を取ろうと動く。
    「汗も、ソレも、暑いせいですか?」
    「見苦しくて、すみません。朝起きた時に……」
     百之助の指が差す先で、勇作の身体の中心は下着のやわらかい布を持ち上げていた。視界から隠すように手には着替えがあったのだが、百之助が見る視線の居心地の悪さは変わらずだ。
    「無暗に距離を詰められると困ります」
    「なぜ?」
    「私は兄様のことが好きです。……ですから、あまりそばにいらっしゃると」
    「好きとはどんな……。ああ、勇作さんもヤリたいとか、他人に対してそういう感情を持たれるんですね」
     昨日はすっかり寝たくせにと小さく付け加えて言うと、その口が薄く笑ってみせる。百之助が笑ってみせるほど勇作の表情は強張り目に灯る光も真摯なものになっていく。
    「私は、想うことと、相手へ感情を押し付けることは違うと思っています」
    「別に、俺には押し付ければいい。ソレ、収まらんのでしょう?」
    「私の好きと言う感情は、兄様を尊重したいものです」
    「好いた、飽いたは分かりませんが、俺は勇作さんをうまそうだと思いますよ」
     
     引き合う力に抗えなくなったように、どちらからとも分からない近づき方で顔を寄せる。慎重に、互いが互いを傷つけないように、そっとやわらかく唇がふれる。ふれたところから輪郭が溶けあったように、離れる時にも少しずつ形を取り戻していった。
    「この先は?」
     百之助の手が、勇作の背を伝い腰まで降りて来たところで、とどまる。二人の視線は静かに真っ直ぐ互いを射抜く強さがある。
    「いえ……」
     その手首は勇作にそっと掴まれ引き剥がされる。大した抵抗もないままに百之助の手は離れるが、視線はじっとりと重たく絡んだままだ。
    「俺は良いと言うのに。したくないどころか、興味もないと?」
    「兄様、申し訳ございません」
    「別に、シャワーまで邪魔しようとは思いません」
    「高校を卒業しましたら、改めて思いをお伝えいたします」
     今すぐもう一度唇を合わせよう、そう言い改めることもできそうなほど熱い瞳がある。立ち昇る体温も伝わるほど近いままの身体が、ようやっと惜しむように離れ戸が閉まった。
     水音を聞きながら、百之助はすぐ隣の洗面台で顔を洗った。備え付けの冷蔵庫に入れていた、昨晩広島駅で買った水のペットボトルの封を切る。勢いよく引いたカーテンの外は、昨日の朝と同様まだ鳥も目覚める前の朝と夜のあわいにあった。



    「青春18きっぷの駅スタンプ、兄様の最寄り駅、私の合流した品川、広島が二つ。旅の記録がこの切符に残るのですね」
     陽が顔を出した早朝の広島駅で、おもちゃのように黄一色の岩国行きに乗り込んだ。来た時は真っ暗闇で見えなかった街の中を抜けると、すぐに瀬戸内の海の景色に変わる。ボックスシートで向かい合わせの形であるので、行く手を見ている百之助と、走り去る彼方を見る勇作にずれはあれど、開けた視界は心地がよい。
     二人は、駅で駆け込むようにして買ったパンの袋を開けた。勇作の勧めで二つ買った瀬戸内レモンのクリームパンは、口いっぱいに爽やかなレモンの香りが広がった。
    「このパン屋さんは、東京にもあるのですけれど、広島が本店のお店ですので、つい選んでしまいました。日頃美味しいと思っているものを、兄様と分け合えるのが嬉しいですね」
    「恥ずかしい人だ」
    「誰が聞くでもないので、お許しください。このお店がすごいのは、パンを生活の中心に位置づけて、パンだけにとどまらずヒュッゲな生活をプロデュースしているんです。ヒュッゲはデンマーク語で、心地いい状態や気持ちを指します」
     顔は窓の外へ向けたまま、横目で見つめている百之助の視線が、勇作の饒舌な口を慌てて閉じさせる。
    「すみません、朝からパンの話に、一人盛り上がりまして……」
    「まあ、授業みたいだなとは思いましたけど。興味関心が広いことで」

     通路を挟んだ向かいから席を立った人が、二人をのぞき見る。ハイキングに出かけるような出で立ちだ。
    「君たち旅行? どこから来たの?」
    「東京と茨城からです」
     一瞬だけ二人は視線を交わし合うと、勇作が率先して口を開いた。勇作がしっかりと一言一言にうなずき目線を合わせているのを見て、百之助は所在無くふいと視線をそらせたままだ。
    「まぁ、そんな遠くから! おばさん張り切って朝ごはん買いすぎちゃって、良かったら穴子のお寿司食べてくれないかしら」
    「そんな悪いです……」
    「いいのよ、おばさんお昼ごはんも入らないくらいお腹いっぱいになっちゃったもの」
     箸も用意よく二膳が渡されて、大人しく受け取ることになる。通路を挟んだ先の席へ会釈の後、それまで表情を固めたままで居た百之助が冷たい眼差しをした。
    「こんなことは言いたくありませんが」
     押し殺したその言葉の先に、見ず知らずの人から食べ物を受け取るのはいかがなものか、と暗に含ませる。百之助の鋭い目線の先で、勇作はあなごと大きくプリントされた包みを剥がしていく。賞味期限の表記を兄に示し、箱の裏に止められていたテープのことも指し示した。
    「穴子がやわらかくて美味しいです。兄様もお一つどうぞ」
     頬をとろけさせた勇作から、百之助が視線をそらした先にもその人がいる。通路の向こうの寿司を渡していったその人は、まるで穴子を頬張ったようにふわふわと笑んでいた。

    「慣れていますね。とんだ人たらしだ」
    「慣れと言うか、近いことがありまして。夏休み前に球技大会があったのです。同じ部活の三島と昼を食べ終わった後、まだ小腹がすくので購買に追加を買いに行く話をしていたところ、クラスの子がサンドウィッチを分けてくれまして」
    「一人くれると、周りからもこぞって渡された、ですか?」
     百之助が先読みをすると、はたと慌てた勇作は頭を下げた。
    「失礼しました。以前も兄様にお話ししましたね」
    「いいえ、どうせそんなことだろうと」
     手振りで先を促され、勇作は頬を緩めて話しを続けた。
    「球技大会ということで、クラスの枠を超えて弁当を食べている方が多く、名前も知らない同級生たちからも玉子焼きやら、チキンカツなどが集まってしまいました。私が腹をすかしているといろんな方に知れ渡ってしまったようで、恥ずかしかったです」
    「食いものがいっぱい集まるなんて、昔ばなしか何かか……」
    「まさしく一飯之恩ではありませんか。恩返しを考えども、名も知らぬ方もいらっしゃったので」
    「どうせ貴方と話す機会が欲しかっただけのことですから、いいんじゃないですか?」
     百之助が夜半のコンビニの明かりに集まる虫を払うように冷たい目をする。その仕草にも構わず、勇作は目を見開いて大袈裟に表情をくるりと変えた。
    「昨日のおにぎりの御恩もです!」
    「いやいや、あれは俺のバアちゃんのしたことで……」
    「兄様にももちろんですが、おばあ様にもです。お礼にお伺いしなくては」
    「俺が人を呼ぶと言ったら、張り切って赤飯でも炊きかねない。それどころかあん餅やよもぎ餅も作るかもしれません」
     百之助の祖母は、親族の訪問があると決まってもてなしの品々を作る。曾祖母の代から変わらないハレのメニュー、それを言う百之助の表情は日常そのものだ。それなのに勇作はより決意を固くしたように、元よりいい姿勢を正した。
    「重ねて頂いてしまっては、本末転倒ではありませんか……。ハムとかお持ちしたらよいですか?」
    「それでは、まるで御中元だ」
    「では、メロンですとか……アイスクリームも合わせます!」
    「持ちきれんものを……送迎でうちの家の前にデカい外車を止めんでくださいよ。近所中の騒ぎになる」
     二人の頭の中でのイメージが、どっさりとお中元の贈答品まがいのものを抱え、高級車から降り立つ勇作の姿で一致する。
    「ふふふ、お話しがそれてしまいましたが、いつか兄様のお家にお邪魔したいのは本当です」
    「何もありません。貴方がこれから帰る先のように、大きくもなければ古めかしい日本家屋でもないですよ」
     「その、古めかしい日本家屋も見て頂けたら良かったですね。アニメ映画のトトロの姉妹の家のように、洋風の一角と平屋作りの家とがつながっている、不思議な建物です。少し高台にあり、昔はこの車窓の景色のように海まで見渡せたそうです」
     二人の視界を埋める海は、燦々と強い夏の日差しを浴びて青く広く輝いている。電車が抜けていくそばの草木は風に凪いでいるが、眼下の海辺では風もないのか緑が茂っていた。所々にビビットなピンク色が弾けているのは、樹皮の白いサルスベリが並んでいるからだ。
    「鹿児島で見せたいものの話は、その家のことですか」
    「兄様が見たいのであれば、お連れしますが。また別のものです」



    「海が広いですね」
    「昨日から何度か見ているじゃありませんか。全部同じ瀬戸内海ですよ」
    「島との間隔が違いますので、場所が変われば景色も変わりますね。なにより海が見えるとわくわくします。関門海峡は高速道路が橋で通っていると記憶しているのですが、電車はどちらを通るのでしょう?」
     勇作は厚い時刻表から路線図をひらき、乗換を確認する。どの列車に乗っても山口の下関と福岡の小倉の間のたった二駅の区間で乗換をしなくてはいけない。その間に本州と九州を渡る。
    「さあ、俺は九州は初めてなので知りません。帰省先もない。保護者と旅行といっても、日帰りくらいしか行かない。修学旅行以上に遠方に来たのは初めてなので」
    「兄様は準備もよく、乗換などもご存じなので、てっきり……。いえ、知らぬもののことこそここまでご準備をされて、さすがです」
     勇作はまるで自分が褒められでもしたように誇らしげで、自分で言った事にも深く納得するように頷いてみせる。
    「うちの修学旅行は、いくつか上の代の先輩が問題を起こしたとかで、大阪までしかいかんのですよ。勇作さんのところは海外でしょう?」
    「私の学校は旅行と言えど、学びの場なのです。ボランティア活動によって、行先の国から選択します」
     国、という言葉を聞き直した百之助と、きょとりと小首をかしげ今一度伝えなおした勇作の間に、少し間が開く。その間を電車が揺れるがたごととした音が埋めていった。
    「途方もねえ、違いだ。……ハハ、勉強の場といっても、きっと昼飯を恵んだ人の何人かは、そこで恩返しすることになるでしょうな。夜間の呼び出しに一時間ほど付き合ったり、夜な夜な恋人ごっこをしたり」
    「もし万が一呼び出されることがあっても」
    「勇作さんは、お優しいですから」
    「いいえ、私はどなたにも。仮初の優しさなどは持ち合わせていません」
     百之助は何かを口にしようとしては、つぐむのを繰り返し、そのまま黙ってしまった。二人の目線は通わなくても、景色の変わる車窓を眺めていれば時間は経っていく。

     広島も山口の県境よりにある街であるのに、下関までは長かった。岩国から三時間ほど同じ電車に揺られていた。小倉から博多までは、北九州の工業地域を抜け、人は増えるばかりだ。友人と連れ立って街に遊びに出る高校生が乗ってきた時は、刺さる視線に首をすくめる百之助と、好奇の目を気にも留めずスマートフォンの電子書籍に目を落としたままの勇作がいた。

    「乗換電車の都合で、博多からは高速バスに乗り換えます」
    「私が朝シャワーにお時間を頂いてしまい申し訳ありません」
    「いえ、 昨日から乗り換え続きで少し疲れたので」
     周囲にもビルが立ち並ぶことはもちろんだが、駅ビルも連なって壁のようにそびえている。駅前の広場には、特設ステージとマルシェが開かれており、人で溢れていた。道を挟んで、通りにもビルが立ち並んでいる。視界が建物で埋まるのが久々に感じられた。
    「さすがに、博多の街はビルが多いですね」
    「道中の景色を思えば、東京への集中が異常なくらいだ。さて、鹿児島行きのバスまでに昼飯を食いたいので、急ぎましょう」
     バスセンターの案内表示に従って近づいたところで、地下路の看板にレストラン街を見つけて吸い寄せられていく。
    「私はとんこつラーメンが食べたいです!」
    「そうですね、時間も余裕がないので丁度いい。貴方は存外、あれが良いこれが良いと要望を通すのがお上手だ」
    「丁度ラーメン屋さんもありましたので、そちらへ」
    「銘店がと、また紹介があるのかと思いました」
    「いえいえ、今はバスの時間が優先ですので」
     トッピングの並んだ小瓶を珍しそうに見ていた勇作は、全てをどんぶりに一つまみずつ入れ完成させたラーメンを静かにすすって食べる。二人はそろってバリカタを頼み、替え玉のカタもつるりと食べあげた。猫舌故に少々食べるのがゆっくりであった百之助と、ネギどころかトッピングした高菜や紅ショウガまでスープから綺麗に拾い上げた勇作の食べ終わりはきれいにそろった。
     真昼の鹿児島行きのバスは空いていた。

    「勇作さん、トイレ休憩です」
     物静かに目を閉じ、修行僧の座禅のような穏やかな佇まいの勇作の肩を百之助はそっと揺らした。時の止まった彫刻のような相貌は、眠りを不意に遮られたところであっても曇りはない。
    「すっかり眠っていました。すみません」
    「午前の電車、山口のあたりもすごく眠そうでしたもんね。高速バスにして丁度良かった」
    「見られてしまっていたんですね。お恥ずかしい」
    「今のように寝ればいいじゃないですか。弟なんですから」
     勇作が聞こえるか聞こえないかの声で、弟と口の中で復唱して目を輝かせる。その後にかぶりを振って表情を引き戻すのを始終見守って、百之助は口の端を少しだけ上げて笑った。兄弟として春と夏の二つの季節しか知らない二人は、関係についている名称にまだむずがゆさを感じるきらいがある。
    「兄様も寝て頂いても」
    「もちろん、俺も寝てましたよ」

    「私が眠っていたというだけでなく、あまり土地勘がないのでいつの間にか熊本という気持ちです……いきなりだごが売っていますね、お一ついかがですか」
    「だご?」
     指し示されたサービスエリアの建物の入り口にひらがなで書かれたのぼりを見て、百之助は聞き間違いでないことまでを確信したまま顔を難しくした。
    「だんごのことです」
    「ちょうど腹が減ったので。……しかしどうにも、この二日何もしてないのに食ってばっかりいる気がしますが」
    「分かりやすく身体は動かしていませんけど、ホームへの階段移動があったりと、積み重ねはありますよ」
     近づいた土産物売り場の一角に個包装の大福のように白いまんじゅうが並べられていた。本当は二つ三つ食べてしまいたいと勇作が言うのを、百之助が笑うと二人は一つずつにとどまった。
     ふかされたサツマイモに粒あん、周りを包むかわは素朴なでんぷんの弾力でもちもちとする。サービスエリアの大小の自動車が並ぶ人の営みの景色の他は、山々の影と森の濃い緑が広がっている、そのなんでもない眺めに昔ながらの甘味はよく合った。
    「勇作さんの食べる量につられるからか、普段より食ってるんですよね」
    「私も兄様といると、間食をつい食べてしまって……以前ご一緒したハンバーガーショップで、ナゲットのパックを買いすぎてしまいましたよね。私も兄様も分けるつもりで、それぞれがナゲットを十五個ずつ買って」
    「ああ、ハンバーガーも頼む勇作さんにつられて、俺もしっかりセットメニューを頼んで」
    「私もさすがにあの日ばかりは、家の夕飯がちっとも食べられなくて、買い食いがばれてしまいました」
    「え……たこ焼きだの、ラーメンだの他を食った日は、夕飯普通に食ってたんですか」
    「はい」
     胸焼けをしたように顔をしかめてみせた百之助に、勇作は奥ゆかしく頬を染めながらも良い返事をする。水泳部で日頃負荷の大きな運動をしていることを考慮すれば、摂取するカロリーが人一倍なことは自明だ。
     それでも、この乗り物に揺られ動くのは景色ばかりの旅の中で食べたものを一通り振り返り、百之助は苦い笑みをこぼした。
    「この二日、随分と小食で過ごしたんですね」
    「いえいえ、しっかりと食べていますよ」



     高速道路の山の間ばかりだった景色は、街へ降りるとがらりと変わった。高速バスの停留所を過ぎる度に建物は増えていく。鹿児島中央駅で人がぞろりと降りていったのを見送り、天文館でバスを降りた。
     通り雨があったのだろう、地面は所々色の濃くなったところが残っており、むわりと湿度の高く重い空気が立ち昇る。昨日降り立った広島とは、日が沈みかけという時間を差し引いても空気のはらむ熱が違う。
     雨雲はすっかり去ったようで夕焼けが空を橙に広く染め上げていた。色の抜ける先は高く、天文館は街中であるが空が広い。
     足を止めた百之助の口が開くのを待っていた勇作は、その頬を橙に染まったまま強張らせていた。
    「それでは、ここで終わりです。まだ在所に行くにも足りる時間でしょう」
    「待ってください」
    「俺はネカフェでもどこでもで寝ます」
    「兄様、明日の飛行機を取りましょう」
    「飛行機? まさか、高速バスくらいでのんびり帰りますよ」
     今朝ホテルの中で近づいてから、ずっと一定の距離を守っていた勇作の身体が、ぐいと近づいて兄の顔を覗き込む。陽を映さない百之助の瞳がわずかに揺れるのを見て、言葉を選ぼうとする口の中がもたつき乾いてしまうようだった。

    「私の旅がここで終わるように、兄様の旅にも早く終わってほしいのです。これは、兄様と私の旅であって、他の方との旅ではない。わがままであるのは、承知です」
    「兄なんぞに、ひどい執着だ。自覚していらっしゃいますか」
    「私の中の執着や好意は、血縁とは別だと認識しています」
    「滅茶苦茶なことを言う」
     売り言葉に買い言葉のような応酬を聞く通行人もなく、幅の広い幹線道路は二人の声をかき消すほどには車が行きかっている。勇作は猛る感情を押し込めるように拳を握りこんだ後、それを崩して百之助の手をとった。
    「わがままついでに、二人でもう一泊させてください。まだ私は兄様にお見せしたい景色にお連れ出来ていません」
    「自分とヤリたいという人間と密室に行けと」
    「いえ、そんな、私は……」
    「では、俺をホテルに連れ込んでどうするんです」
     じっと温度の変わらない表情ばかりを浮かべていた百之助は、言葉が続かなくなった勇作を見て口元を緩めた。
     百之助の変わりゆく顔を見て、勇作の眉もなだらかに下がる。
    「ハハ、分かっていますよ。高校を卒業したらと言った、勇作さんは頑固ですから。慌てる顔を見たかっただけです」

    「改めてお願いいたします。私と、もう少しだけ旅を続けてくれませんか」
     百之助は勇作にとられたままであった手をするりと抜けだすと、蝶の飛ぶ軌道でひらひらとふって見せ意地の悪い顔をする。
    「俺は、人のわがままを聞くような人間じゃない」
    「私がわがままで面倒なのは明白であるのに、こうして鹿児島まで連れてきてくださったではありませんか」
     勇作のいつの間にか沈んだ夕日を閉じ込めたような瞳に押されて、するすると百之助の視線は逃げてしまう。深いため息と、他所を向いたまま自嘲のような薄い笑み。
     昼間飽きるほどに鳴いていた蝉は黙り、夜の虫が鳴きだすまでの静かな時間に、百之助のつく息の音はやけに響いた。
    「……そうですね。勇作さんがいると面白いので」
    「ありがとうございます、兄様」
    「ホテル、決めました? 早くしないと、俺がまたラブホを探しますけれど」
    「ではそちらの、今看板がみえている所にいたしましょう!」

     ホテルに荷物を置いた後、どうにか鹿児島名物をと意気込む勇作と敷居が高い店には入れないと言い張る百之助が折を付けたのは、黒豚とんかつだった。キャベツとご飯をなかばおかわり自由かの勢いで勧められ、ほとほと食べた二人はくちくなった腹を抱えて宵の空を見上げる。何かを思い出した勇作が天文館公園へと案内した。
    「ペルセウス座流星群を見ましょう。これも一つ、兄様に見せたかったものです」
     市街の公園らしいストレッチ用の遊具に並んでもたれかかると夜空を見上げる。公園であるのでどうにも視界の端に外灯が入るのを、木の陰でよけ目が慣れるまでは一等星ばかりしか見えない。
     少し離れたところでは、手持ち花火を持った家族連れがいて、風に乗って火薬の匂いが勇作の鼻をくすぐった。
    「花火も楽しそうですね」
    「勇作さんは、いかにもな思い出というか、ああいう華々しいものがお好みかと思いました」
    「ほとんどやったことがないんです。手持ちのものを少しだけ。音が鳴るものですとか、色々あるんですよね?」
    「爆竹とかですか? ねずみ花火とか、全部勇作さんを避けて俺に寄ってきそうなので嫌ですね」
    「ねずみの形の花火があるのですか?」
    「輪の花火が火薬で回転して、走り回るんですよ」
     え、と一声上げた後起き上がってしまった勇作を、明かりをみてしまったでしょうとたしなめる。しずしずと元通りの姿勢に戻っていく姿を吐息だけで百之助が笑うので、罰が悪そうな顔に赤みが差した。
    「それは危険です」
    「宇佐美とやらなければ、安全ですよ」

    「今、流れましたね。兄様、見えましたか?」
    「星なら家でも見える。でも、勇作さんに誘われないと俺は流星群のことも知らなかった」
     空の深く広がる濃紺にすっかり慣れた二人の目には、大きな星と星の間に散らばる名も知らない星たちまで映る。その点在する星々の合間、空の幕に切れ目を入れたように時折星が流れた。
     多い時には十秒に一つを超える頻度で振ると言うそれを、互いの体温を近くに感じながら広大な宇宙の闇と一体となって見上げる。
     見上げる星が小さいのか、二人が小さいのか、物の感覚はない交ぜになっていく。
    「勇作さんといると、俺にも世界が違って見えます」
    「この旅の間、私ばかりが兄様の視界にお邪魔しているような心地でした。嬉しいです、兄様が私と並んでものを見てくださったことが」
    「貴方も俺と居ると新しいものが知れると言った。物珍しいだけじゃなかったんですね」

     虫除けスプレーもにじむ汗で落ちてしまったんだろう。耳元を周回する蚊の羽音が、どうにも我慢ならなくなった百之助は音を上げた。
     それまでに二人が見た流れ星は十個ほどに達しただろうか、同じ公園で花火をしていた家族もいつの間にかいなくなっていた。普段住む街よりずっと南にきたが、夜風は海や林で冷やされるのか、汗をかかずにホテルまでの帰路を歩いて行ける。
     勇作はウィッシュリストを一つ叶えたことが、余程嬉しいのか足取りも軽い。
    「流れ星には、いったい何を願ったんですか?」
    「兄様の帰路の無事と、次の旅のお天気です」
    「俺はこれが、最初で最後だと言いました」
    「次の旅行に出ることは、星に願わずとも自分で叶えてみせます。この夏は私たちの最初の夏ですから。次は反対の方角へ、北海道を目指すのはいかがでしょうか」
     百之助が作った前提を覆してしまったことに呆れ笑うが、暗がりにとけていると思い込む口元はやわらかだ。
    「今回は俺が行く先を決めましたから、次回がもしあるのなら、勇作さんが決めたらいい」
    「来年が楽しみです」
    「来年勇作さんは受験生でしょう」
    「本当は、この夏にもう一つ出かけてもいいくらいなのですが。先に楽しみが欲しいとも考えまして……。今から計画していれば、受験くらい関係ありません」

    「俺はどこへでも行けたのに、貴方に期待をしてしまう。勇作さんを待たなくては行けなくなった」
    「期待でも、なんでも。兄様も望んでいいのです。自分は何を望んでもいいのだと思って頂きたい。勇作が自分の思う通りに旅行へもどこへでもついてくるのだと思って頂けたらいい」
    「それは自惚れでは」
    「自惚れて頂いてもいいのです。私が行動で示して返しますから。そう考えるくらいは、私は兄様にやさしくして頂いています」
    「俺は何もしていません」
    「大丈夫です、私が分かっていれば」
     ホテルの明るい部屋の中に戻れば、勇作の頬は相も変わらずバラ色に染まっているのが百之助にもよく見える。
     昨晩とは違いこじんまりした間取りにベッドランプを挟んで二つ並びのベッドの部屋は、華美な装飾もなく、風呂も一人で入るのがやっとだ。ただの寝るためだけの部屋のつくりだった。

     勇作に勧められるままに先にシャワーを浴びた百之助が、備え付けの浴衣をまとって出る。
     それまで備え付けのテーブルセットで本を開いていた勇作が、手を止めると慌てて百之助のたもとを直した。
     その距離に来るのを待ちかまえていたように百之助が勇作のうなじへ手を回すと、今朝をなぞるように唇を合わせた。その先にある熱くてやわらかい粘膜も知らないまま、唇の輪郭を確かめるように。どちらからとも分からない引力だけでゆっくりと近付いた二人ともが能動的であるように。
     勇作から離れたにもかかわらず、頬に長く手を寄せていたのは勇作だった。今にも泣くような笑うような曖昧な顔を浮かべて、すれ違うように浴室に入ってしまう。
     照明を絞った部屋にぽつりと残った百之助は、備え付けのテレビの成人向け有料チャンネルの肌色まみれの広告を引き出しから勇作に割り当てたベッドへ一度投げたが、すぐに回収して元の通りへ戻し、ベッドへ潜り込んだ。

     朝、空港バスまでの時間に散歩を称してドルフィンポートまで桜島を見に行った。二人の血の中に共通して流れる故郷の景色に、きっと誰もが海と生きる山を見たら郷愁を感じるだろうと皮肉って百之助は笑った。勇作は鹿児島の天気予報特有の桜島を中心とした風向きの細かな情報を見た時から、この風化を知らない切り立った山の稜線と植物のない山肌の話をしていた。
     この旅で見たもの、今まで二人で過ごした放課後のこと、どれも他愛もない話だが、歩きながら口にしていれば時間は過ぎてしまう。
    「いつか、こうして帰り道で別れなくても良いように、同じ家に帰りたいです 」
    「また、無茶を言う」
    「わがままは、聞いて頂けることがあると学びましたので。またご連絡しますね兄様」   

     二人の帰り路はばらばらだ。その空いた隣の席に、車窓を見つめる瞳の先に、胸がつかえるような寂しさがある。
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