自室のベッドで寛いでいると不意に視線を感じた。厚みのある体に浅黒い肌、年不相応に貫禄のある相貌と、人目を引く容姿をしている自覚はある。また多くの部員たちを束ねる立場にあることもあり注目されることには慣れたもので、基本的には見られているなと思うだけに留め、深く気にせず放っておくようにしている。
しかし今はどうにもままならない。ソワソワと浮ついてならないのだ。それは待てど暮らせど視線がやむことがないからである。見過ぎだ、どう考えても。こうもマジマジと見つめられては流石に気になって仕方がない。そして理由はもう一つ。それは視線の主が良き友人であり頼りになるチームメイトでもあり、そして牧が密かに想いを寄せる男——諸星大、その人であるからだ。
諸星からの視線に気付いてからというものの、ひとつも文字を追えなくなってしまった月バスから視線を上げチラリと隣を見る。思った通り、隣に腰掛ける諸星が瞬きも忘れて熱心にこちらを見つめていた。美しいアーモンドアイ、その中にピッタリと嵌め込まれた黒い瞳には困り顔の自分が映っている。
コートの上では一分の隙もなくボールを、そしてゴールを狙うギラついた黒が、自分の前では穏やかな色を放ち時に柔く細められるのが牧はたまらなく好きだ。勿論好物を前にしたときの少年の如き煌めきも、寝落ち寸前で瞳がとろりと蕩ける瞬間も愛おしいけれど。
そうしてジッと大きな黒目を覗き込んでいると、へにゃりと目尻が下がる。先の思考を盗み見られていたのではと思ってしまうようなタイミングの良さ、なんともむず痒い。こんな時赤みの目立たぬ肌で良かったと強く思う。僅かに熱る頬を小さく掻き、ただ膝の上に置くのみとなっていた月バスをパタリと閉じた。
「諸星」
「ん〜?」
「どうかしたのか、さっきからマジマジと」
「別に、なんでもねぇよ」
「そうか?何か用があるなら」
「いやぁ、用ってほどでもねーんだよなぁ」
「なんだ、気になるだろう」
「うははッ、ほんと大した話じゃねえんだって」
牧のしつこい追求に諸星はけらけらと笑った。ぼふんとベッドに体を沈ませ足をバタつかせ、それはまるで子どものように無邪気で大層可愛らしい。しかしそんな諸星を愛でる余裕もなく先の行動の意図が、次に続く言葉が気になって気になって、牧の脳内はただそれだけで埋め尽くされていた。
しかしあんなにも意味ありげな、含みをもたせた物言い、気になって当然だろう。それも相手が好いた男なのだから尚のこと。気が急くあまり諸星のそばに手をつき、その顔を覗き込む。必死すぎたろうか、僅かに見開かれた黒目にはやはり必死な顔をした自分が映る。それでも聞きたい、知りたい。そう思い見つめ続けていると諸星がフッと笑い、自らの左目の下をトントンと指先で叩いた。
「オレさぁ、牧の泣きぼくろ好きなんだよな」
「なッ、なんだ藪から棒に」
脈絡も何もない発言に戸惑い、そしてそんな意図はないと分かっているが好いた男の口から出た"好き"という言葉に心臓が跳ねた。どうやら諸星が熱心に眺めていたのは牧の左目下にある泣きぼくろだったらしい。牧自身は特に何とも思ったことのないそれは、色気があって素敵だと意外にも好評であった。諸星もそう思ってくれているのだろうか、そんな期待は諸星の予想外の言葉に見事裏切られることとなる。
「泣きぼくろ見てたらさ、お前と目が合うから」
「ッ」
「そしたら今みたいにどうしたって、お前が構ってくれっからさぁ。だから好きなんだよな」
思わず目玉が溢れ落ちてしまうかと思った。それほどの衝撃であった。しかし当の諸星はといえば何でもないように寝そべったままで、己の発っした言葉の破壊力をてんで理解していないようである。
あんなものほとんど告白だ、好きだと言っているようなものだ。都合の良い脳味噌だと言われようが構わない、少なくとも牧はそう受け取った。諸星は無自覚なのかもしれないがその言葉から、眼差しから確かにいじらしいほどの愛を感じたのだ。
「フッ‥それならほくろじゃなくて目を見りゃいいだろう」
「そっ、れはッ‥恥ずかしい、だろ‥」
ギジリとベッドを軋ませて、先ほどよりも近い距離で諸星の瞳を覗き込む。その瞳の奥に潜む、思いの丈を確かめるために。しかしどうやらその必要はなかったようだ。恥ずかしそうに牧から逃げる二つの黒、そして牧と違い分かりやすく染まる真っ白な頬。それは諸星が抱く淡い想いを明瞭に表していたからだ。
本当に可愛い男だ、一体どうしてくれようか。優しく頬を撫でながら考える。手の平に吸い付くようなきめ細かい肌が更に強く色付く中、牧が目を奪われたのはそれよりももっと鮮やかな赤。普段は忙しなくパクパクと動くそれが今はキュッと閉じられていて、ひどく新鮮で、愛らしく映った。
「オレは、お前のよく動く口が好きだな」
「‥‥‥それ褒めてんの?」
「?そうだが」
「なんかすっげぇ馬鹿にされてる感じがすんだけど」
どうも伝え方が悪かったのか、諸星はあまりお気に召さなかったらしい。ギュッと眉間に皺が寄り、唇がツンと突き出された。うん、やはり可愛い。好きだという思いを再認識し、牧は緩く口の端をあげた。血色が良い赤は目に楽しいし、しっかり手入れが施されたそこはしっとりとしていて薄いのに柔らかそうで。そしてそれが目まぐるしく変化する諸星の心情に合わせて形を変えるのが、牧は好きで好きでたまらない。しかし好きな理由はそれだけではない。
「オレにたくさん話しかけてくれるこの唇が好きだ。お前と話していると主将としての重荷も忘れて、ありのままの自分でいられる」
「ッ‥‥ぅあ、そ、そう‥なのか」
「ああ。オレはお前の隣にいるときの自分が一等好きだ。諸星、いつも支えてくれてありがとう」
「はッ、恥ずかしいって牧‥」
全て本当のことだった。諸星の気を引きたいがための甘言ではなく、嘘偽りのない本心で。まさかこんな形で打ち明けることになるとは思わなかったが、それでも伝えられて良かったと思った。
かつて神奈川No. 1プレイヤーと謳われ、その二つ名に恥じぬよう研鑽を重ね、積み上げた全国2位という実績。しかしそんな牧でも大学バスケでは苦難の連続であった。練習は質も量も高校時代とは比べ物にならぬほどにハードで、おまけに顔も名前も碌に入っていないチームメイト相手ではゲームの組み立てもままならない。そして牧同様インターハイを勝ち抜いた全国の猛者どもが集まる関東エリアでは、かつての栄光などクズほどの価値もなかった。日が暮れるまでガムシャラに練習をして、毎日の練習で過去の試合の映像で先輩たちのプレーを飽きるほど眺めて、そんな試行錯誤の日々でいつも隣にいてくれた諸星。外部進学で牧以上に苦労が絶えなかっただろうに、そんな素振りは少しも見せずいつだって牧の心に温もりをくれた。
『牧、一緒に自主練していこうぜ』
『たぶんだけどあの先輩、短めのパスのが好きな気がする』
『牧、レギュラー入りおめでとう。オレもすぐに追いつくから。早く、お前と一緒に戦いてえ』
諸星の賑やかな声は、力強い言葉は気付けば牧にとってなくてはならないものになっていた。そして諸星へ抱く感謝や尊敬、信頼に恋慕の色が混ざるのにそう時間はかからなかった。諸星の全てを自分のものにしたい。身も心も、もっと深いところに触れる権利がほしい。それでもこの関係性を失いたくはなくて胸の内でひっそりと育んできた恋情、それと同じだけのものを諸星も差し出してくれることがたまらなく嬉しくて。恥ずかしいと唇を尖らせ視線を逸らす諸星の頬に触れ、優しくこちらを向かせた。赤い頬。抵抗は少しもなく、僅かに濡れた瞳に見つめられた瞬間に牧の心は烈火の如く燃えたぎった。
「ま、まき‥」
「‥それに、キスがしたくなる」
「ッ、それって」
頬に触れていた手をゆっくり口元へと滑らせ形の良い赤をなぞる。優しく丁寧に、それでいて色を混ぜて。そしてお前が欲しいのだと愛しい男に訴えかけた。眼差しで、指先で、手の平の温度で。
人の感情の機微に聡い男だ。それにずっと牧の隣に立ち支え、共に笑い、時に競い合ってきた。これだけでも十二分で、その証拠に元より大きな黒目が更に更に大きくなってゆらゆらと揺れる。
それでもなお確かな言葉を欲する諸星のいじらしさを、純情さを愛おしいと、丸ごと愛したいと思った。野暮だなんて少しも思わない。とはいえ敢えて言葉にはしないなどという選択肢、そもそも牧には微塵も存在しなかったのだけれども。
「好きだ、諸星。お前の全てが欲しいんだ」
「まき‥」
「諸星、お前の答えが聞きたい。教えてくれ」
こんなにも優しくて甘やかな声が出せるのかと、牧自身今の今まで知らぬことであった。諸星だけに向けられた、気恥ずかしいほどに甘美な響きは室内に溶け諸星の琴線に触れる。そして潤んだ瞳には膜が張りついにはほろりと一雫、静かに溢れ出した。
もごもご口をまごつかせ、それから消え入りそうな声で「オレも好き」と確かに呟いた。そしてふにゃりと、心底幸せだと言わんばかりに顔をほころばせる。そんな諸星を見ているとじんわりと伝播して、牧も気付けば笑っていた。幸福で満ちていた。
(幸せだ‥本当に‥)
愛し愛されることで心がこんなにも満たされることを牧は初めて知った。18の春、挫折を知り。成人を迎えてからは酒の味も知って。それでもきっとまだまだ知らないことがごまんと溢れている。それをこれから諸星と知っていく、それはいたく幸せなことだと思った。
耳に向かってゆっくりと流れていく小さな雫を追う。舌先でそっとすくって、そして涙の道を唇で辿っていく。チュ、チュッと可愛い音を響かせながらようやく目尻まで辿り着き、擽ったそうに笑い身を震わせる諸星と目が合った。
キスがしたいと思った。諸星も、それを望んでいるように思えた。言葉はいらなくて、どちらともなく唇を重ねた。初めてのキスは涙で少しだけしょっぱくて、そして体の中があたたかな何かで満たされる感覚。それからふわふわとした浮遊感に包まれる。それはまるで海に抱かれているようで、牧はうっとりと瞳を閉じた。