可愛らしい節目のついた、温もりを感じさせる木製のドアを引き、頭をぶつけぬよう気を付けながら潜る。すると鼻腔を擽る甘くて良い匂いがふわり。胃袋のみならず心までをも満たしてくれそうな芳香にうっとりと目を眇め、仙道は目的の人物を探すべく足を進めた。
ここは仙道が通う大学から徒歩10分ほどの場所に2ヶ月前できたばかりの小さなカフェだ。様々なフルーツで彩られたパンケーキがウリで連日満席、オープンから2ヶ月経った今でも昼時は予約をしないと入れないのだとか。実際店内に入ってみると若い女性やカップルで賑わっていて、どうやら噂は本当らしい。
統一感のあるインテリア、可愛いデザインのプレートにカトラリーと細部まで店主のこだわりを感じる。それにガラス張りの店内には陽がたくさん差し込んで、明るく暖かい。デートや女子会なんかにはうってつけであろう。これだけ盛況しているのにも納得がいく。
実を言うとこのカフェ、数日前恋人の魚住に一緒に行かないかと誘った場所だったりもする。以前魚住が昼時の番組で流れていたパンケーキ特集を食い入るように見ていたこともあり意気揚々と提案したのだがまさかの玉砕、流石に少し落ち込んだ。けれども可哀想なくらいに顔を赤らめ『すまん、嫌なわけではないんだが、そのッ‥‥は、恥ずかしくて』と申し訳なさそうにする魚住を責める気にはなれない。それに代案として川釣りデートを提案してくれた(しかも魚住お手製の弁当付きだ)、今はもう気にしてはいない。
ではなぜこのカフェにわざわざやって来たのかという話になるわけだが、それはとある人物に呼び出されたからである。一体何の用で。それにオシャレなカフェよりも居酒屋が似合うあの人がなぜここに。疑問は尽きないがここに来て一つ分かったことがある。それは魚住の感性が真っ当で、それを素直に受け入れた仙道の判断は賢明であったということだ。
現時点、仙道一人でもかなり浮いている。当然だ、女性ばかりの店内に190の大男が馴染むはずがない。ではここに2メートルオーバーの魚住が加わればどうなるか、そんなことは考えるまでもないだろう。
(テラス席はあっちかな‥)
メッセージによると、目的の人物はテラス席で待っているらしい。良い意味でも悪い意味でもよく目立つ人たちだ、テラスまで出ればすぐに見つかるだろう。
「ホットケーキだけで2000円もすんのかよ。ぼったくりじゃねえのかこの店」
「パンケーキな。あとそれ、デート当日言うなよ。引かれるぞ」
「流石に言わねーっつうの。オレのことなんだと思ってんだお前」
やはりと言うべきか、試合中でもよく通る声が賑やかな店内で一際大きく響いている。そして客どころか通行人の視線までもバッチリ集めてしまっている先輩二人——三井と藤真に仙道は苦笑いを溢した。端正な顔立ちに見事なプロポーション、見る者の目を引く圧倒的なオーラ、黙っていれば引く手数多だろうに。彼女ができても長続きせずこっぴどく振られてばかりの彼らにそんなことを思う。
と、散々言ったが女性ウケはともかく仙道にとっては非常に頼りになる良い先輩たちだ。公私共に、それこそ魚住とのことで悩んでいた時などは大層世話になった。越野のように上下関係を重視する根っからの体育会系ではない仙道がこうして召集に応じるのは、それだけ彼らに対して恩義を感じているからなのである。
「お、仙道だ」
「やっと来たな。こっちだこっち」
二人が仙道に気付き、爽やかな笑みを浮かべながらスッと手をあげた。すると途端に周囲の女性たちが色めき立ち、ヒソヒソと顔を見合わせ何やら話し始める。あの人カッコいいだの、声掛けに行こうよだの。幻覚だろうか、目をハートにしてうっとりと藤真を見つめている女性まで出る始末だ。
あそこに今から行くのか、仙道は足取りが僅かに重くなるのを感じた。正直言って行きたくない。ただでさえ人目を集めてしまい居心地が悪いというのに、あんなところに行こうものなら注目の的だ。しかし一向に席まで辿り着かない仙道に業を煮やしたのか、三井が席から立ち上がる。ダメだ、早く行かねば今以上に状況が悪くなるだろうことは明白だ。仕方なく腹を括り、二人が待つ席へと足を進めた。
「お待たせしました」
「今一瞬こっち来るの躊躇したろ」
「あ、バレました?」
「流石にバレるわ。一瞬足完全に止まってたぞ」
「ははは、すみません。それで今日は何の用で?」
「それなんだけどよ、お前の目から見てどう思う。このカフェ」
都合の悪い流れは早々に断ち切り今日の目的を問う。すると帰ってきたのは今回の待ち合わせ場所、このカフェの是非について問う言葉。質問を質問で返されたことに思うところがないでもないが、仙道はひとまず与えられた課題に向き合うこととした。
雰囲気、これはバッチリだ。オシャレなインテリア、明るくてあたたかなテラス、所々に置かれた緑も目に優しく欠点らしいものは見当たらない。次に食事、これは食べていないので断定はできないが他の客のテーブルに並ぶ軽食はどれも美味しそうだ。あちらこちらからいい匂いが漂ってきて、うっかり腹が鳴ってしまいそう。こちらも文句なしだ。そして三井が懸念していた価格帯についてだが、まずこういった店舗にコストパフォーマンスを求めるのがお門違いである。店の雰囲気を楽しむ、それ込みでの値段設定。それが仙道の認識だ。
「どう思うも何も、いい店じゃないっすか。キレいだし、メシも美味そうだ」
「だよな!!よし、じゃあここにするか」
「え、もしかして今日デートの下見っすか?でも今三井さんフリーでしょ」
「なんか今狙ってる女がいて、デートに誘いたいんだと」
「え」
ズゴゴゴとアイスコーヒーを啜る藤真の放った言葉に、失礼も忘れて思わず驚きをあらわにしてしまった。しかし三井はよほど舞い上がっているのか別段咎めることなく、どこか照れくさそうに鼻をかいた。
正直言って意外だ。三井は兎にも角にもバスケ最優先の男で、意中の女性、交際中の女性も二の次でバスケに打ち込んではフラれる——それが今までの恒例であったのである。しかしそんな三井が今、意中の女性をデートに誘おうとわざわざこうして下見までしているのだ。信じられない。呆然と立ち尽くしていると呆れたように小さくため息を吐いた藤真に着席を促され、仙道はどこか上の空のままこれまた洒落た椅子へと腰を下ろした。
「この前の合コンで知り合った経済の子でよぉ、最近練習とか試合とか見に来てくれてんだよ」
「へぇ、脈ありだ」
「な?そう思うよな?すっっげえ可愛いしバスケ好きなら理解もあるだろうし、こりゃもういくっきゃねえだろ」
「ふーん。でも三井の女の趣味って結構アレだからな」
味方だと思っていた三井の突然の転身が面白くないのか、藤真は冷めた目をして呟き、用無しとなったストローをくるくる指先で弄んでいる。これには流石の三井もクイと眉毛を吊り上げたが、暫しの逡巡の末に黙り込んだ。信じられない、これは本当に"もしや"があるかもしれない。
「仙道と魚住見てたらよ、やっぱ好きな相手がいるって良いよなって‥オレもバスケばっかりじゃなくて、ちゃんとした恋愛してみてえなって思ったんだよな」
「三井さん‥」
「あ、勿論一番はバスケな!そこは今後もずっと変わんねえから」
そう言うと三井は気恥ずかしそうに頬を掻いた。まさかこの流れで自分に話の矛先が向くとは仙道とて思わない。それに三井が自分たちを見てそんな風に思ってくれていたのかと、予期せぬ喜びと三井の照れの伝染で頬に熱が集まっていく。
そうなんすね、なんて煮え切らない曖昧な返事をした。突如流れた生温かく黄色い空気。先ほどまでは面白くないといった様子で唇を尖らせていた藤真もゆるりと、口角をあげたその時——三井がガタリと、勢いよく立ち上がった。
「あ、あの子。あの子だわ、例の子」
「「え」」
「ッ、おい嘘だろ‥いや、でもアレって」
三井の顔が嬉しそうに綻んだのはほんの一瞬のことで、すぐにサーッと青ざめていく。思いを寄せている女性を見たにしては明らかに異常な反応だ。視線の先に一体何が、そう思い仙道も三井に倣って店外へと顔を振った。
「あ」
「いや、何か事情があんだろッ‥ほら、実は店の常連とかよ」
「おい仙道、早まんな。ちゃんと魚住のこと信じてやれ」
視界の先にいたのは三井が惚れ込むのも納得がいく、艶のある長髪がよく似合うスラリとした美人。そしてその女性と楽しそうに談笑する男——仙道の恋人である、魚住純その人であった。
距離があり何を話しているのかは分からない。しかし仙道が愛する淡いヘーゼルの瞳を柔らかく眇め、時折肩を震わせて笑う姿を見ていればとても心穏やかではいられなかった。煮えたぎるマグマの如き熱が腹の底から湧き上がってくる。これは怒りなのか。平時あまり感じることのない激しい、嵐のような感情の起伏。気付けば勢いよく椅子から立ち上がっていた。
「お、おい仙道待てって」
「仙道!マジで落ち着けって」
何を言っているのだろうか、落ち着けだなんて至極的外れな指摘である。仙道は至って冷静だ。周囲の声も表情も反応も、漏れなく具に拾えている。拾えている上で、それでも恋人の元に向かうと選択しているのだ。
店内の雰囲気にそぐわぬ仙道の様子を怪訝そうに見つめる客の視線も、背後から降ってくる先輩2人の制止の声も、全て置き去りにして一目散に店外を目指す。暫しの時をおいて再び視界に入る恋人の姿。それはやはりただの客や知り合いに向けるものではない、自分だけが知るはずの優しくあたたかな微笑みであった。
「魚住さん」
「ッ、せ、仙道ッ!?」
「オレ以外に、そんな顔見せないで」
ただの嫉妬だ。魚住はあの女性とただ仲睦まじく話していただけなのに、みっともなく妬いて、仙道自身酷く狭量だなと思えてならない。それでも淡い色彩を宿す瞳に光が差し込み、より一層眩く煌めく美しさ——それを知っているのは自分だけだと、見ることができるのは魚住の恋人でおる自分だけの特権だと、そう思っていたのだ。
本当は今すぐにでも魚住を抱きしめて、胸にしまい込んで、誰の目にもとまらぬように隠してしまいたい。しかしそれは現実問題、物理的にも社会的にもできそうもなく、仙道は仕方なく魚住の腕をそっと引き自らへと向き直らせた。
大好きなヘーゼルに映る自分の姿がゆらゆら揺れる瞳に合わせて形を変える。あぁ、こっちを向いた。独り占めは叶わない、それでも魚住の瞳が今は自分だけを映している。そのことにこの上なく満たされて、いからせていた肩からふっと力を抜く。すると向かい合っていた魚住の頬が見る見るうちに赤く、赤く染まっていった。
「み、道をッ‥聞かれていた、だけだ‥」
「へ」
「あ、えっと‥私、いつもと違う駅から降りたから大学への行き方が分からなくなってしまって‥それで、この方に道案内をしていただいたんです」
「‥‥‥」
「恋人がここの大学に通っているって仰ってましたけど、まさか仙道選手とは思いませんでした。ごめんなさいね、勘違いさせてしまって」
仙道の無礼を少しも咎めず柔らかく微笑む女性の姿に、少しずつ冷静さを取り戻し、そして急速に羞恥心が芽生え始める。ぼぼぼぼ。そんな音でも聞こえてきそうだ。顔面目掛けて急激に熱が集まり、全身から嫌な汗がドバッと吹きした。
まさか初対面だとは。今日会ったばかりの、それもただ道を尋ねただけの相手に嫉妬の炎を燃やすなど、あまりに嫉妬深く余裕がない。
続きます