パン屋のかいがくこのご時世、バイトも楽じゃない。先月までは居酒屋のバイトをしていた。しかし、飲み会の減少などで給料も人員も削減となり、臨時でパン屋のバイトを始めることになった。店長のおっさん以外は女ばかりのバイト先。男手は重宝されたから、そこまで給料は良くなくても居心地は良かった。
ある日、配達された小麦粉の袋を運び入れていると、レジの方が騒がしかった。覗けば、フランスパン片手に中年の男が何か言っている。
「このフランスパンでボクのお尻を叩いてください……」
は?
はぁあ?
まだ昼だぞ。
いや、夜でもダメだが。
駅から少し離れた商店街にあるパン屋は、夜になれば多少酔っ払いが来る。と言っても9時以降は閉めているから、こんな珍事は初めてだった。周りの店員もやんわり断ろうとしているが、おっさんは折れない。
「一発でいいから……」
ここは居酒屋バイト経験があり、男である俺が行くしかない。女しかいないと思って野郎が出てきたら、どうせ驚いて逃げるだろう。
「すみません。俺が代わります。それで、お客様、叩いてほしいということですか?」
「あっはい。お尻を少々」
え、普通に応対されたんだが。
俺でもいいのか?
いやいや、引くに引けなくなっただけだろ?
騒めく店内。客達はさっきまで店員を心配そうに見つめていたのに、今や好奇の目を向けている。注目を集め過ぎだ。とにかく場所を変えよう。
「他のお客様のご迷惑となりますので、店の裏に来ていただけますか?」
「あっはい。待ってます♡」
おっさんはウインクしながら、フランスパンを購入して出て行った。シンプルに気持ち悪い。どうしよう。警察呼ぶか?店長はあいにく留守だ。留守中に警察沙汰になるってのは避けたい。
レジを代わり、小麦粉の袋を所定の位置に片付け、200mlの牛乳パックを一気に飲み干した。ふぅとため息一つ。裏口の扉を開けると残念ながらおっさんは待っていた。フランスパンを両手で持ち、モジモジしている。
「お待たせしてすみません」
「あっ大丈夫です」
「ええっと、それでですね。当店ではそういったサービスは、やっていないんですよ」
「え?フランスパンを売っているのに?」
フランスパンを売っているのに??いや、フランスパンは尻を叩くものじゃないだろ。もしそうなら、売れ残りの尻を叩く物体が俺の主なエネルギー源になる。イヤ過ぎる。とぼけた顔でふざけやがって。周りを見渡したが、裏路地は人通りがなく誰かが撮影している可能性もない。
「はぁ……尻を叩かれれば満足か?」
「あっはい」
フランスパンを奪い取り、棒立ちになっているおっさんを壁に押し付けた。野球のバッティングのように振りかぶる。
「テメェの!性癖を!人様に!押し付けてんじゃねぇ!」
一節毎にぶっ叩けば最後、フランスパンは折れてしまった。拾って恍惚の表情を浮かべるおっさんに渡した。
「落ちたもんも捨てるなよ?近所の公園にあるふれあい動物広場は寄付もOKだから持ってけ」
二度と来ないことを祈って、裏口のドアを閉めた。
---
「獪岳くん、あのお客さん来てるけど……」
翌日、申し訳なさそうに声をかけられた。別に俺の担当ではないだろと思いつつ、重い腰を上げた。
レジに並ぶおっさんの手にはフランスパン。嫌悪感をあらわに睨んだが、手を振られた。裏に回れとジェスチャーすると、ニコニコと頷いている。
はぁ。どうするか。
思えば今日は店長がいる。事情を話すと「110」を入力した状態のスマホを片手に裏口から出て行った。ビビり過ぎてて不安だが、後は大人同士なんとかするだろう。
焼き上がったパンを乗せた鉄板を取り出す。空腹が刺激される作業に唾を飲んでいると、裏口から店長に呼ばれた。出れば、あのおっさんがまだいる。
「獪岳くん、ちょっとフランスパン持ってここで素振りしてもらえる?」
「なんて??」
「いや、勘違いしてほしくないんだけどね。叩くとかじゃなくて、素振りしてほしいだけでね。その素振りが誰かに当たったとしてもそれは事故なんだよ。もちろん事故の処理はこちらでするから、獪岳くんは気にしないで?」
大人って汚い。絶対おっさんが当たりに来るじゃねぇか。パン屋の経営も苦しいのか?黙っていると、金を握らされた。三万円。大人は汚いが金を持っている。目を閉じて、振り抜いた。
---
「獪岳く〜ん、またお願いー」
「はーい」
裏口からかかる声にも慣れた。あれから尻叩きを希望する客が怖いくらい増えた。気付けば居酒屋のバイトの全盛期の倍は稼いでいる。
目を閉じて、振り抜いて、終わり。
その日もそのはずだった。だが、振ったはずのフランスパンが手の中からすっぽり消えた。背後には、グラサンスーツの長身な男が立っていた。明らかに堅気じゃない。
「こういった商売は……誰の許可を得てやっている……」
「えっ、いや、俺はただ、素振りを」
「ほう……報酬は得ていないと……?」
核心をつく問いに、冷や汗が滲む。真っ黒なグラサンは無機質。肩を掴んだ手は鉄のように硬い。血の通っていない殺戮サイボーグを思わせる。
「お、俺、店長に言われただけで!」
「報酬を得た時点で同罪だ……」
「すみませんでした!お金は返します!」
まさか路上で土下座することになるなんて。嫌な汗が頬をつたう。冷酷な視線がピリピリと背中に刺さる。なんだこれ。なんか懐かしい。いや、懐かしいわけあってたまるか。
「まぁ……未成年だ……一発で終わりにしてやろう」
「え、え?一発?」
グラサン男は壁を指差した。さっきまで、おっさん達が尻を叩かれるために手をついていた壁だ。グラサン男は硬さを確かめるようにフランスパンで手を打っている。
どういう意味か、わかった。だが、抗議なんて出来るわけもない。一発、一発で終わるなら……。おずおずと立ち上がり、壁に手をつき目をぐっと閉じた。
風を切る音。
尻から衝撃が走った。脳天へ、足の先まで突き抜ける。電撃を食らったようにビリビリと。力が抜けて、壁沿いにずりずりと膝が落ちる。足元には一発で折れたフランスパンが転がっていた。
---
「まだそこに居たのか……」
耳元に響いた声で我に返った。あのグラサン男だ。立てない。力が入らない。膝がガクガク震える。無理に立とうとして、よりにもよって男の方へと倒れた。
「す、すみません!ひ……!?」
男は俺を軽々と抱き上げ、じっと見下ろす。舐めるような視線にぞわぞわが止まらない。ふいに尻を撫でられた。悲鳴を上げたはずが、声にならなかった。
「怪我でもしたか……?」
「あぁあぁ!大丈夫です!腰が抜けただけで!」
震えながら身を固くして、懇願の手を合わせる。男は大きく息を吐くと、俺の頭に鼻を寄せて深く息を吸った。何か吸われた気分だ。なに?魂?魂なら抜けそうだが?
「とりあえず……ここに置いておくのは危ないな……」
「えぇ!?」
男はスタスタと歩き出した。表通りには黒塗りのいかにもな車が停めてあるじゃないか。
「なんで!?置いてってください!本当に大丈夫です!」
「襲われてしまうかも知れない……」
「誰に!?」
「私のような輩に……」
それはもう、結果的に駄目じゃないか?
まだ襲われてないけど、秒読みでは?
嫌に座り心地のよい革張りのシートに沈む。男は満足気に微笑んだ。