溶ける 海、というものを間近で見たのは初めてだ。
元の世界にもどこかのリージョンには存在するのかもしれないが、自分が旅をした中では見た記憶がない。
こちらの世界に喚ばれてからも、遠目に見るのみで、近付いた事はなかった。
上には空、下には海。
視界一面が青で埋めつくされる。
名前のせいもあるだろうが、青い色は好きだ。
雲一つない晴れやかな空と太陽の光を反射して眩しいほどに輝く水面。
眺めているだけでも十分満足出来る。
だが、せっかくの機会なので、少しだけでもと思い、海へと足を踏み入れる。
水際の浅い場所という事もあり、水温は思っていたより高い。
口元に跳ねた水を舐めてみると、聞いていた通り塩辛かった。
いくらか水深のある所では泳いでいる者達もいるが、泳ぎ方を知らない状態ではさすがに不安だ。
足元だけを軽く水に浸して、砂浜に敷いたレジャーシートへと戻る。
シートの脇には大きなパラソルが立てられており、昼間の強い日差しを遮ってくれていた。
ビーチバレーやらビーチフラッグとかいう遊びにも誘われたが、初めての海をゆっくり堪能したくて断ってしまった。
どうやらルージュも同じ考えだったらしく、少し離れた場所の浅瀬で膝ぐらいまで足を浸からせている。
時折声を掛けられては少し話して、また一人で波と戯れていた。
遠目に見ても少し不機嫌そうなのが分かってしまう。
自分が青を好きで赤が嫌いな事と同じように、赤が好きで青は嫌いだと言っていた。
見渡す限りの青に、気分を損ねるのも無理はない。
だが、海自体は気に入ったのか、砂浜の方へ上がってくる様子はなかった。
海へ入る前に羽織っていたパーカーとタオルが砂浜に落ちているのを見つけ。
風で飛ばされてしまう前に、回収して自分が座っていたレジャーシートの上に置いてやる。
持ってきた本の続きでも読むかと思ったが、しばらくは海で遊ぶルージュの姿を眺める事に決めた。
少し大きな波が足元を襲い、驚いたように後ずさると、下の方で結った髪が跳ね。
今度はもっと大きな波に足を攫われ、転んだかと思えば波打ち際に座り込んで砂を捏ねだした。
まるで幼い子供のように遊ぶ姿を眺めていると、つい口元が緩んでしまう。
しばらく砂を弄っている内に陽射しで体が温まったのか、再び海の中へと入っていく。
空も海も青く、その中にいるルージュを見ていると、まるで彼が自分の物になったかのような、仄暗い感覚が湧き上がる。
気付くと、高い位置にあったはずの太陽は、水平線へと近付きつつあった。
どうやらいつの間にか眠ってしまったようだ。
海や砂浜で遊んでいた人々もすっかりその数を減らしており、いまや数える程しか人の姿は見えない。
青かった空は陽が水平線へ近付くにつれ赤く変わり始め。
それによって海の色も青から赤に染まり始めていく。
完全に日が暮れない内に宿舎へ帰ろうと決め、水辺で遊んでいたルージュに声を掛ける。
「おい……、そろそろ戻るぞ」
「なぁ、ブルー!」
こちらへ来いと、ルージュが手招く。
何か面白い物でも見つけたのかと思い、パラソルの下を出てルージュのいる水際まで近付いた。
「もう少し、こっち」
ぱちゃりと音を立て、水に足を踏み入れる。
その途端、ルージュの方へ向かって、強く腕を引かれた。
危ないと思い足に力を入れたが間に合わず。
派手な音と水飛沫を上げながら、ルージュもろとも海に倒れ込む。
「……っ!」
すぐに体を起こしたが、口を開けたままだったせいで、塩辛い水が思い切り口の内に入り込んだ。
咳き込んで海水を吐き出すも、不快感は消えない。
少し遅れて、ルージュも体を起こす。
普段あちこちに跳ねている銀色の髪は、海水で濡れて肌に貼り付いていた。
ふるふると首を振って水気を散らし、前髪をかき上げて笑う。
「あははっ、ひっどい顔だなぁ」
誰のせいだ、と言ってやりたかったが、口の中が渇いて上手く言葉が出てこなかった。
楽しそうな笑い声を上げるルージュを睨み付けてやるが、気にした様子もない。
立ち上がろうとした所、今度は肩を押されて体勢が入れ替わる。
夕陽を背に受けているせいで、表情はよく分からない。
銀色の髪を伝って、塩辛い雫が顔に落ちる。
伸ばされた手が頭の後ろに回され、髪の留め具が外された。
視界の端に映り込む、自らの髪。
ルージュの指先がすくい上げた髪は、夕陽を反射して普段とは違う色に見える。
「こうしてると、一つになったみたいだな」
海も空も、目の前にいる男も。
何もかもが赤くて、自分もその一部になってしまったのではないかと思う。
少し前に自分も同じような事を考えていたのを思い出し、口元に笑みが浮かぶ。
影が近付いて、冷たい唇が触れた。
隙間から僅かに流れ込む海水の雫と、溶け合っていく体温。
人の声はすっかり聞こえなくなっていて、打ち寄せる波とお互いの呼吸音だけが耳を支配していた。
その空気を壊したのは、ブルーの口からこぼれた小さなくしゃみの音だった。
長い時間水に浸かっていた上、日中よりいくらか気温も下がっているため、体が冷えてしまったらしい。
先に立ち上がったルージュが手を差し伸べ、その手を取ってゆっくりと立ち上がる。
「あー、楽しい」
帰りたくないな、と小さく呟いた声。
宿舎にか、元の世界にか、と聞こうとして顔を上げるが、ルージュの表情を見て口を噤む。
「……そう、だな……」
少し寂しそうな、遠くを見つめる瞳。
だがそれもほんの数秒だけで、口元を吊り上げたいつもの笑いを浮かべていた。
「か弱いブルーくんが風邪をひいちゃう前に帰るか」
「……お前のせいだろうが」
纏わり付く砂や海水を鬱陶しいと思いながら水際を離れる。
ずぶ濡れになったパーカーとサーフシャツの水気を絞り、用意してあったタオルで体を拭く。
髪も絞って水気をある程度落としてからタオルで拭いたが、海水と砂のせいでひどく軋む。
「……早く風呂に入りたい」
「そうだな、腹も減ったし早く帰ろう」
もう間もなく夜が訪れる。
二つ並んだ長い影。
いつの間にか太陽は水平線の向こうから僅かに顔を覗かせるだけで、赤かった空は少しずつ紫に近い色へと変わっていた。