爪を切る話 ソファーの足元に敷かれた毛足の長いラグ。そこに座り込んで、ルージュは自らの指先を見つめていた。照明の方へ手を翳すと、指先からはみ出した部分の爪が光を透かす。
「少し伸びてきたかな……」
長さを確認すると、テレビボードの引き出しから爪切りとやすりを取り出す。テーブルの上にティッシュを広げ、まずは爪切りを手に取った。
あと少しで日付が変わろうかという時間帯もあり、外からはほとんど音が聞こえてこない。ルージュの指が動く度に、ぱちん、ぱちんと、小気味良い音が室内に響く。
音が鳴る度に、すらりとした指先から三日月型に切り落とされた爪が離れ、ティッシュの上へ落ちていった。
その合間に、紙を捲る音が鳴っていた。ルージュの背後では、ソファーに腰掛けたブルーが雑誌を呼んでいる。
普段はもう寝ていてもおかしくない時間帯ではある。だが、二人共明日の予定がないこともあってか、リビングでゆっくりと過ごしていた。
ブルーの指先が立てる小さな音を聞きながら、十指すべての爪を切り終わった。爪切りをやすりに持ち替えて、爪の形を整えていく。時折天井の照明に手を翳しては、長さを確認する。
それを何度か繰り返し、まずは左手の爪を整える。ルージュの作業が終わるのを待っているのか、背後からは変わらず紙の擦れる音が聞こえていた。
左手の爪を整えてから一息つき、ブルーの様子を窺う。ブルーはソファーの背凭れに体を預け、旅行雑誌の紙面に目線を落としていた。一ページずつしっかりと内容を読み込んでいるのか、まだ半分も進んでいない。
ふとそこで思い立ち、ブルーの膝を割ってその間に入り込む。
「なぁ、ブルー」
名前を呼べば、雑誌に向けられていた目線がルージュの方を向く。
「どうした?」
「右手の爪、やって欲しいな」
ブルーに向かってやすりを差し出すと、小さくため息を吐いて雑誌の方へ目線を戻そうとしてしまう。
「そこまでやったんだ、残りも自分でやればいいだろう」
「えー……、暇なんだからいいじゃないか」
暇じゃないと言いたげな表情で、ブルーはルージュの方を睨み付ける。だが、その程度でルージュが怯むはずもなく。
足に腕を絡みつかせ、太腿に頬を擦り寄せてブルーを見上げ、甘えたような声を出す。
「ブルーにして欲しいんだ。……なぁ、いいだろう?」
「……っ」
数秒ほど考え込んだ後、ブルーの唇からもう一度、ため息がこぼれた。
「まったく……やるなら自分で最後までやれ……」
そう言いながらも、やすりを寄越せとばかりに手を差し出してくる。あれこれ小言を並べはするものの、ブルーはルージュの頼みを断らない。余程ブルーに不都合が生じる場合を除けば、だが。
ルージュ自身もそうやって甘やかされることに対して、悪い気はしない。
読んでいた雑誌をテーブルに置くと、ブルーの体がソファーとルージュの間に入り込む。
まだ処理の終わっていない右手を持ち上げられ、親指の先にやすりが当てられた。
寄りかかっている背中や触れた手から伝わる、ブルーの体温。等間隔で聞こえるやすりが爪を削る音。それらが、ルージュに眠気をもたらす。やすりが指の先で動く度に、頭がゆらゆらと揺れてしまう。
前後に動くルージュの頭にブルーの手が添えられ、肩へと凭れさせる。首筋へ鼻先を擦り寄せると、髪が当たってくすぐったいのか、体を揺すってその動きを咎められた。
「ルージュ、動くな。集中できない」
「うぅ……うん……」
声を発したことで少し目が覚めたようで、ほぼ閉じられていたルージュの瞼がゆっくりと持ち上がった。
「しかし……短く切りすぎではないか?」
すぐ近くで聞こえた声に反応して、視線を指先の方へ向ける。中指まで整え終わったらしい爪は、確かに深爪とまではいかないが、白い部分はほんの僅かしか残っていない。
「まぁ、確かに短いかもしれないな……」
「短すぎるのも良くないと聞いたぞ」
「ん……そうだな、気を付ける」
ルージュが爪を短く整えているのには、理由があった。だが、ブルーはまだそれに気付いていないらしい。
ふいに湧いて出た悪戯心に任せ、唇をブルーの耳元に寄せる。
「……だけど、短くしておかないと」
ルージュの右手を包むように支えていたブルーの右手。その指から抜け出して、短くなった爪で掌をくすぐる。
「お前に痛い思いをさせてしまうかもしれないから」
掌から指の方へ指先を這わせ、その間に滑り込ませた。指の付け根にある関節を指の腹でさすったり押したり、短い爪の先で引っ掻いてみたりする。
「……っう、ぁ……っ」
その動きの意味を、頭が理解するより先に体の方が理解したらしい。無意識にすり合わせようと動いたブルーの膝が、ルージュの脇腹に当たった。
ブルーの唇から吐き出された息が、首筋に触れる。それは先程までとは違って、僅かに熱を帯びたものになっていた。
「……なぁ? ブルー」
わざと行為の最中に出すような低い声で囁いてやると、大袈裟なまでにブルーの体が震える。
「ぅ……、うるさい、……っ! 余計なことをするな……!」
耳へ流し込まれる甘ったるい声を振り払うように、首を数回振ってから、絡んでいた指先を引き剥がす。
先程までと同じようにルージュの右手を掴み、残った薬指と小指の爪を整えようとするが、やすりを持つブルーの手は小さく震えている。
きっと、ルージュの指先を見ているだけで、色々と余計な想像をしてしまっているのだろう。そんな状態では上手く進むはずもなく。やすりの表面が力なく爪の先を滑っていった。
その様子が可愛らしく思え、ルージュの口元に笑みが浮かぶ。
「ブルーはかわいいなぁ」
自由な左手で頬を撫でると、小さくため息を吐きながらおざなりに顔を擦り寄せてきた。
「……何でもいいから、大人しくしてくれ」
「はーい」
これ以上調子に乗って怒らせてしまっては良くないので、大人しく引き下がることにした。
背後のブルーが何度か深呼吸をして、乱れていた呼吸が落ち着いていく。再び等間隔で爪を削る音が聞こえ始め、そこからは、やすりを動かすブルーの指先に意識を集中させることにする。
ルージュに比べて少し長めではあるが、ブルーの指先も綺麗な形に整えられている。掌の大きさも指の長さも、ルージュ自身とそう変わらないはずなのに、その持ち主がブルーだというだけでとても愛おしく感じる。
「……ほら、終わったぞ」
親指から中指までに比べて少し時間はかかったが、右手の爪が綺麗に整えられた。ルージュの指先に残っていたものとやすりをティッシュで拭い、ようやくやすりがブルーの手を離れた。
「ん、ありがとう」
くたりと体から力を抜いてブルーに寄り掛かってみる。首筋に鼻を擦り寄せてみても、押しのけられるようなことはなく、優しい手付きが髪を撫でた。
「おい、寝るなら自分の部屋へ行け」
そう言うが声音は穏やかで、一度は去ったはずの眠気が再びルージュを襲う。
「んー……ブルーも一緒に寝よう……」
「あぁ、分かったから、ここで寝るな」
もう一度頭を撫でてから、頬に軽く口付けられる。ソファーとルージュの間から抜け出したブルーが、リビングを片付け始めた。
その姿を半分以上閉じた目で見つめながら、ルージュは小さく笑う。