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    やさか

    @83ka83ka

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    やさか

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    フェルジタの教師と生徒パロです。現パロです。3日で本作れるかチャレンジしましたが無理でした。
    ・メリバな根暗エンドです。鬱気味です。
    ・ルシフェルの行動が倫理的によくないです。ジータちゃんのSAN値ガリガリ削ります。
    ・性描写を仄めかす表現が出てきます(具体的な描写はありません)
    ・小説とは言いにくい稚拙な文章でネタ帳に近いです

    趣味満載のため何でもOKの方のみどうぞ。

    ねむり姫は王子のキスで目覚めない 彼女はふと目を覚ました。いつもの朝かと思った。しかし。
    (体が……重い)
     瞼は開いた。天井の光景がぼんやりと見えた。しかし、体が重く動かすことができずにいた。何かおかしい、そう思ったときだ。
    「ジータ!?」
     突然男性の声が聞こえた。首を動かすのも辛く、ほんの少しだけ首を動かし、目だけそちらにやる。とても整った容姿の男性がいた。……見覚えはない。
    (だ……れ?)
     その男性はベッド横にあった椅子に座っていたようだった。慌てて立ち上がり枕元にぶらさがっていたスイッチを押す。
    (あれ、病院にあるやつみたい)
     ドラマや映画で見たことがある、病院のベッドの枕元にぶら下がっているスイッチのように見えた。いわゆるナースコールというものか。
    (ということは、ここは病院?)
     自分は病院のベッドに寝かされているということなのだろうか。怪我か病気をしたのだろうか。でもそのような記憶はなく、どこか他人事のようにぼんやりとそう思う。
    「ジータ、目が覚めて本当によかった」
     目の前の見知らぬ男性は、嬉しそうにそう言い、ベッドの上にあった自分の手を握った。誰? と聞こうと思ったが、声がうまく出せない。出そうとすると、掠れたような音だけが喉から漏れた。
    「無理しなくていい。目が覚めてくれただけでいいんだ」
     そして、頭を撫でてくれた。
    (私と……仲良かった人だったっけ?)
     しかし、何回思い出そうとしても、何も思い出せない。歳は二十代後半か。とても端正な顔立ちをしている。銀色の少しはねた髪に、空の蒼さを思い出すような綺麗な蒼い瞳だ。テレビや雑誌に出ている人だと言われたら、きっと納得してしまう。白いワイシャツに紺のジャケットを羽織っているシンプルな服装だが、整った容姿ゆえか、どこか洗練された格好に見えてしまう。
     ぼーっと考えていると、足音が聞こえた。誰かが入室してきた。
    「どうしました?」
     白衣の女性だ。そう尋ねられた。
    「ジータが目を覚ました」
    「本当ですか!? 先生呼んできます……!」
     傍にいた男性がそう答えると、病室が一気に慌ただしくなった。
     
     それから、白衣の男性もやってきた。傍にいた男性は一度退席し、白衣の彼らはいろいろジータの体の様子を見ている。きっと、主治医と看護師だと悟る。体が上手く動かないこともあり、ぼんやりとその様子を眺めていた。
    「大丈夫かな?」
     主治医に声をかけられる。声を出すのが辛いため、こくこくと頷く。
    「長く眠っていて目が覚めたばかりだから、まだ体がうまく動かないのだね。じきに良くなるよ」
     そのセリフから、長く自分が眠ってしまっていたことを悟る。どうやら自分は病気か怪我で長く眠っていたらしい。それはわかったが、その理由を思い出すことができない。
     白衣の二人が去ると、先ほどの男性が入れ替わりで入ってきた。
    「ジータ、よかった。目が覚めてくれて、よかった」
     彼はとても嬉しそうにそう声をかけてくれた。きっと眠ったままだったのであれば、ぐちゃぐちゃだっただろう髪を撫でてくれた。けれども、全然思い出せない。
    「……ぁ……」
     少しだけ、掠れながらではあるが、声が出せた。だから少しずつ、少しずつ、声を綴った。
    「あな……た……だぁれ?」
     男性は酷く驚いた表情を浮かべる。
    「ジータ、冗談か?」
     信じられない、というように聞き返されるが本当に知らない。首を横に振る。彼は、慌ててもう一度ナースコールを押した。
     
    「先生、彼女は私のことを思い出せないと言っている」
     もう一度やってきた主治医に、彼は困惑したようにそう告げる。
    「検査の結果では、目覚めない以外は正常だったはずですが……」
     どうやら異常はないらしい、主治医は首を傾げるばかりだ。
    「本当に、彼のことは知らないのかい?」
     今度は改めて主治医から質問されるが、本当に覚えていないのだ。首を横に振る。
    「彼は、君の婚約者だよ」
    (婚約者……)
     自分はこの男性と婚約していていたというのか。全く実感がなかった。存在すら記憶にない人だ、実感など沸くはずがない。
    (どこで出会ったの? どうして思い出せないの?)
     今のところ全く思い出せなかったが、何かきっかけがあればと思い、自分の私生活を思い出そうとした。しかし。
    (あれ……私……誰なの?)
     何故か全く思い出せない。全く記憶になかった。言葉は話すことができる、一般的なものはわかる。しかし、自分が何者なのか全く思い出せない。名前すらわからない。急に怖くなる。
    「……わた……し……」
    「どうした?」
    「自分も……思い出せ……ない」
     辛うじてその事実を伝えると、付き添っていた男性はまた目を見開いて驚いた。
    「記憶に異常がありそうですね、もう一度検査してみましょう」
    「詳しくお願いしたい」
    「善処します」
     付き添っていた男性は、少し強めにそう言った。言われ慣れているのか、主治医は流すようにそう言った。
     
     それから、詳しい検査を受けたが、特に異常は見られなかった。
     しかし、自分は何も覚えていなかった。付き添っていた彼のことも、自分が病院に運ばれるきっかけになったことも、そして自分のことも。
     主治医と付き添っていた男性は何かを話したらしいが、付き添っていた男性にとってあまり良いことではなかったのかもしれない。その美貌を顰めて帰ってきた。
     付き添っていた男性……自分が婚約していたらしい男性は、ずっと手を握ってくれていた。
    「怖くない。私が傍にいるから、怖くない」
     本当は、面会時間は終わっていた。しかし、自分のメンタルが不安定なため、今日だけ特別に宿泊を許してもらえたらしい。
    「私は永遠に君を守ると決めたんだ、私の大切なジータ」
     きっと、自分の名前は「ジータ」というのだろう。自分の名前なのにおぼろげにそう悟る。
     そして彼は、とても自分を愛してくれていたのだろう。自分を見つめる瞳はいつも優しかった。だから、きっとそうなのではないかと悟った。
     
     それから数日経ち、ショックを与えない範囲でゆっくりと、婚約者の男性はいろいろなことを教えてくれた。
     自分の名前は「ジータ」、婚約者の名は「ルシフェル」ということ。
     ジータは、小さい頃両親が亡くなり親戚もいないこと。今年で一八歳、先日高校を卒業したばかりであること。
     ルシフェルとジータは元々、高校教師と教え子という関係だったが、実は秘密で深く愛し合っており、卒業と同時にルシフェルがプロポーズしたこと。
     卒業してちょうど一週間後、ジータは交通事故で頭を打って病院に運ばれ、どこも異常がないのに、一ヶ月近く眠ったままだったこと。
    「ごめんなさい、覚えていないです」
     全てが知らないことだった。だからジータはそう言うしかなかった。
    「いいんだ」
     そう言うと、彼は少し寂しそうに笑った。申し訳なさだけが残った。
     
     それから少しずつリハビリを行い、ジータも普通の生活を送れそうな程まで回復することができた。ちなみにそこまでたどり着くまでにはルシフェルの献身的な介護があったことは言うまでもない。
     ルシフェルは毎日、面会可能な時間の間、ずっとジータの病室にいてくれた。
    「記憶がなくて不安だろう」
    「ありがとうございます」
     記憶を無くす前は親しい仲だったのかもしれないが、記憶のないジータにとっては他人だ。頼るのも申し訳ない気はしていた。しかし、何もないジータにとって、彼の存在が心強かったことも本当だ。
    「ルシフェルさん」
    「何かな?」
     そっと彼の名を呼ぶと、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。
    「お仕事は、大丈夫なんですか?」
     彼は毎日来てくれていた。だから心配になったのだ。
    「教師はこの前やめたんだ」
    「そう……なんですか?」
    「あぁ、君と……元教え子と結婚するのは、教師としてどうかと周りに咎められそうだったから」
    「ごめんなさい」
     どうやら、自分のせいで彼は仕事をやめることになってしまったらしい。以前の自分が決めたことなのかもしれないが、申し訳がなく、謝罪の言葉を口にする。
    「教師という職にこだわりもなかったから気にしないで欲しい。知人から別の仕事に誘われていて、そちらに就職する予定もある。あぁ、君が回復してからと話はついているから安心してくれ」
    「私のせいで、ごめんなさい」
    「いいんだ。君は私の全てだから」
     ここまで彼は自分を愛してくれている。しかしジータにとってはどこか他人事のように思えてしまっていた。だから、彼に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
    (昔の私は、この人をたくさん愛していたのかな)
     高校生で結婚まで考えていたのだ。きっとたくさん愛していたのだろう。その気持ちの欠片も感じることができず、余計に落ち込んでしまった。
     
     最終的な検査の結果も異常がなく、ジータは退院した。
    「新居の予定だったマンションに行こう」
     どうやら、自分の元住んでいたマンションはルシフェルが引き払ってくれたらしく、ジータの私物も全て新居に運んだみたいだ。彼の車に乗せられ街中を走る。見覚えのない景色ではあるのだが。
    (なんだろう、分からない場所だけど、どこか懐かしい……気がする)
     そんな感情を思い出す。
    「何か、思い出せたのか?」
     信号待ちで止まっていた彼は、ジータの様子を見てそう声をかける。
    「思い出せてはいないんですけれど、何となく懐かしいというか……」
    「ここはこの街の主要道路だからな。きっと何度も通っている」
     つまり、ジータが何度も何度も見ていた景色なのだろう。
    「主治医が言っていた。脳には異常はない。精神的な一時的なものだろうと。ふとしたきっかけで思い出すこともあるらしい。少しでも君の記憶が思い出せるように尽力する」
     彼はどうしてこんなに優しいのか。そんなに記憶を無くす前の自分は素晴らしい女性だったのだろうか。献身的な彼を見てそう思ってしまった。
     
     数十分車を走らせると、マンションに到着した。新築らしい、綺麗でお洒落なマンションだ。オートロックが完備されておりセキュリティも安心そうだ。
    「お邪魔……します」
    「フフ、ただいまでいいんだよ」
     ルシフェルは優しくそう言ってくれたが、やはり知らない部屋だ。お邪魔します、の方が合っているように思えた。玄関から廊下を通り、リビングに入る。そのリビングを見てふと思う。
    (なんとなく、好きな感じのような気がする)
     根拠はない。先ほどの街中のような漠然とした感覚なのだが、そう思った。全体的に、家具は温かみを感じる色使いやフォルムのようなものが多い。部屋には観葉植物がいくつかあった。
    「君は、ずっと一人だったから、温かい家庭に憧れていたみたいだった。だから、そのような家具にした。観葉植物は、君が植物を育てるのが好きだったから」
     家具屋にルシフェルと仲良く見に行き選んだものなのだろう。……いや、関係が関係だったのだから、ネットで見たものを頼んだだけかもしれない。どのみち思い出せないが、きっと二人で選んだのだろう。
    「ごめんなさい」
    「いいんだよ。君がこうして無事に戻って来てくれただけ」
     ルシフェルは優しくジータに微笑んでくれた。
     
     そのままソファに座ると、ルシフェルは珈琲を入れてくれた。
    「私は珈琲が好きなんだ。君ともよく飲んだ」
    「そう……なんですね」
    「君は最初苦いと顔を顰めていた。だから、砂糖とミルクを多めに入れたら、今度は甘くて美味しいと喜んでいたよ」
     ジータの目の前にある珈琲とルシフェルの珈琲は明らかに色が違った。ルシフェルの珈琲は黒に近い色をしているのに対し、ジータの珈琲はブラウンだ。熱くないことを確認し、一口飲んでみた。
    「甘い……美味しいです」
     口に砂糖とミルクが混ざり合った珈琲のほんの少しの苦さが広がる。確かに、甘くて飲みやすい。
    「フフ、味覚は変わっていないな」
    「そうなんですね」
     自分のことなのに、目の前の彼の方が詳しくて、違和感がまだ消えない。
    「……ルシフェルさんって、私より私のことに詳しいですよね。なんだか不思議」
    「君のことは何でも知っているつもりだよ。教師という立場ではあったから、表沙汰にはしていなかったが」
    「どんな生徒でしたか、私?」
    「そうだ、卒業アルバムを見せよう」
     ルシフェルは立ち上がると、別室から卒業アルバムを持ってきてくれた。
    「君のものだ」
     表紙と裏表紙の裏には、同級生の寄せ書きがたくさん書いてあった。
    「君は明るくて前向きで優しい子だったから、友達がとても多かった。皆に信頼されていた」
     どのメッセージも温かいものだった。「いつも助けてくれてありがとー!」「卒業してもずっと友達だよ!」「大好き!」など、個性豊かなメッセージがぎっしりと書いてあった。きっとルシフェルの言う通りだったのだろう。
     ふと、ぎっしり書かれていた寄せ書きに、妙なスペースを見つける。
    (……なんだろう、このスペース)
     ちょうど一人分スペースが空いていた。誰かに書いてもらおうとして、意図して空けておいたのだが、書いてもらえなかったのだろうか。そのスペースだけが浮いており、そんなことを思った。
    「ここが、君のクラスのページだよ」
     ジータがそんなことを考えていると、ルシフェルがページをめくってくれた。「三年三組」と書かれたページを開く。担任の欄には、目の前のルシフェルの写真があった。そして、生徒を目で追っていくと確かにジータの写真がある。
    「本当に、先生だったんですね」
    「疑っていたかな?」
    「いいえ。疑っていたわけではないですが、改めて事実だと認識したというか……」
    「こちらには部活動の写真もある。君は理科実験を行う部活の部長だった。顧問は私だ」
     他のページを開くと、部活動ごとに収められた写真があった。ジータと蒼い髪の女の子、あとはルシフェルと、男子生徒が三人いる。
    「この子とこの子は君の幼馴染だと言っていた。少し落ち着いたら会ってみるといい」
     蒼い髪の女の子ともう一人の男の子を指さしそう教えてくれた。彼らも、写真のジータもとても楽しそうにしていた。記憶はないが、楽しかったのだろうと容易に想像がつく。
     それ以外の写真も、ジータはどれも楽しそうに高校生活を送っているように見えた。記憶がないことがもどかしい。
    「……ありがとうございます」
     アルバムをそっと閉じ、テーブルに置いた。
    「写真はあるのに記憶がないので、実感がないですね……なんだか少し寂しい」
    「そうか。……そうだ、私たちの出会いの話をしようか」
     ルシフェルは、思い出すようにそっと話し出した。
     
      ◆◇◆◇◆
     
     ルシフェルは、特に志を持って教師になったわけではなかった。
     今考えると、そもそも人生自体にこだわりがなく、だいたいが人の勧める道を歩んでいた気がする。
     たまたま頭が良かった。苦手なことはなく比較的何でも良く出来た。だから、周りから自然と大学進学を勧められその通りにした。大学三年になり、大学を卒業した後のことを考え始めたときも同じだ。特に将来のこだわりはなかった。だから、知り合いから誘われこの私立高校の化学教師になった。当然、特に教師になりたかったわけではない。逆にやりたいこともなく、安易に教師になる道に進んだだけだ。それでも、それなりに無難にこなしていた。
     
     それは今からちょうど三年程前のこと。
     教師となり数年が経っていたルシフェルは初めて担任を任せられた。一年二組、新入生の担任だ。高校は有名な私立高校で、難関大学の合格者数も多い。そのため勉学に熱心な落ち着いた生徒が多かったのだが。
    「先生、先生って結婚しないの? 彼女は?」
    「いないよ」
    「えー、もったいない」
     この年頃の女の子は、時と場合によっては勉学よりも色恋に興味があるらしい。独身で若いゆえだろう、ルシフェルはよくそんなことで女子生徒に絡まれていた。ルシフェル自身、このような質問であれば特に構わないのだが。
    「先生、これ、読んでください」
     生徒から一方的に半ば強引に手紙を渡される。渡したときの彼女の様子から中身は想像がついていた。開いてみると想像した通り、愛の告白が書かれていた。
    (私の何がいいのだろうか)
     ルシフェル自身特に思ったことはないのだが、よく顔が良いとは言われたことがあった。その自分の容姿と、少しだけ年上の男性という点で、この年頃の女の子にはもしかしたら魅力的に見えているのかもしれない。
     気持ちだけ知って欲しいという場合もあれば、明確に返事を求めてくる子もいる。明確に返事を求めている子には「教師としてそもそも君と付き合うことができない」それだけ返していた。教師として、その返答は正しいとルシフェルは思っているが、当然心苦しさはある。告白してきた子だって、ルシフェルの立場を考えると付き合えないことはわかっているはずなのだ。それなのにどうしてそんなことをするのがわからない。
     また、告白こそしないが、色恋に鈍感と揶揄されたことのあるルシフェルですら気が付くくらいの好意を示す女子生徒もいる。勉強を教えて欲しいと言われて教えていたら、体を密着させられることがある。あまりいい気分がしないし、誰かに見られたら何と思われるかわかったものではない。
     だから、ルシフェルは理科準備室に鍵をかけてこもり、そこで作業するのが好きだった。
     この学校は新校舎と旧校舎に分かれていた。新校舎と旧校舎は渡り廊下でつながっており、名前の通り新校舎は新しく美しい一方、旧校舎は古く少しだけかび臭いようなほこりっぽいような匂いもしていた。基本的な一年一組などの教室やよく使う特別室や施設は新校舎にあり、生徒も教師も旧校舎に行くことは少なかった。理科室は新校舎と旧校舎、二か所あった。ほとんどは新校舎の理科室が使われるが、実験が別クラスと被ってしまったとき、ごくたまに旧校舎の理科室が使われることがある。
     ルシフェルはそのうち、旧校舎の理科準備室にいることが多かった。旧校舎だから人はあまり来ない。他の理科の教師も好んで寄り付かない。だからとても静かで作業が捗る。それに加えて。
    (今日も綺麗だ)
     旧校舎の理科準備室は二階にあった。その窓からは、花壇が見えた。美化委員が管理している花壇だ。その花壇を見ながら、自分で入れた珈琲を飲むのが、楽しみだった。
     
     ある日、いつもと同じように窓から花壇を眺めようとすると、美化委員が花壇の整備をしていることに気が付いた。
    (あの子は)
     見覚えがあった。隣のクラスの生徒だ。名前は確か。
    (ジータだ)
     金髪を肩ほどの長さまで伸ばし、ピンクのカチューシャをしている。小柄だが元気が良く明るい生徒だと記憶している。授業の態度は真面目そのもの。小テストや提出物も良く出来ている。定期テストがまだ行われていない時期だが、きっとそれなりの点数を叩きだすことは想像に容易い。
     どうやら、彼女は美化委員らしい。一生懸命、花壇の手入れをしていた。周りを見るが誰もいない。きっと一人だ。
    (感心だな)
     ルシフェルがそう思うのには理由がある。ルシフェルが眺めている花壇は、旧校舎に近い場所にある。つまり、あまり人が来ない場所なのだ。だから、花壇が綺麗であっても喜ぶのはルシフェルくらいで、荒れていたとしても気が付く者もいないのだ。現に、今まで見たことのある美化委員の中には、適当に水だけ与えてさっさと帰ってしまう者もいた。
     でも、ジータは違った。花壇の雑草を丁寧に抜き、花の様子をじっくりと観察している。誰かが見るだろう花壇ではない、しかも周りには誰もいない。それでも彼女は丁寧に作業をしていた。
     ルシフェルはその様子から目を離すことができず、なんとなく彼女の作業が終わるまで見つめ続けていた。
     
     それからも、ルシフェルが花壇を覗くと、ジータが手入れをしていることがあった。
    (今日も感心だな)
     しかし、そのうちあることに気が付く。
    (彼女の回数、多くなっている気がするな)
     恐らく曜日ごとに当番が決まっているのか、以前はいろいろな生徒が手入れをしていた気がした。しかし最近は、ジータであることが多くなっている。きっと気のせいではない。
     ルシフェルは、理科準備室を出て階段を下りる。その途中、渡り廊下を抜けて新校舎に立ち寄り、自動販売機でお茶を購入した。そして旧校舎に戻ると、理科準備室のちょうど真下の部屋に入り窓を開けた。
    「ジータ」
    「あ、ルシフェル先生。お疲れ様です」
     活動中のジータの名前を呼ぶと、名前を呼ばれたジータはくるりと振り向き、そう挨拶をしてくれた。
    「珍しいですね、旧校舎にいるなんて」
    「いつもは上の階の理科準備室にいるのだが、少し気になることがあって。たまたま窓から見えたのだが、君は最近、ずっと当番をしている気がするのだが」
    「あ、はい。その、他の委員の人は、部活が忙しいらしくて、帰宅部の私が代わったんです」
    「つまり、君は押し付けられたのだろうか」
    「あ、誤解しないでください! 私、好きでやっているので! 植物の世話、好きなんです。大会が近いと、どうしても委員と部活の両立は大変みたいで、私から代わるように提案したんです」
     ジータに頼んだ委員が怒られては困ると思ったのか、ジータは慌ててそう釈明をする。
    「そうか。……よかったら、これ飲んでくれ」
     ルシフェルは、先ほど買ったお茶を窓からジータに差し出す。
    「いいんですか?」
    「あぁ、いつも綺麗な花壇をありがとう」
    「そう言ってもらえると嬉しいです。私こそありがとうございます」
     ジータは嬉しそうにお茶を受け取った。
     
     それからルシフェルはジータに差し入れをすることが多くなった。
    「先生の負担になると思うので、こんなに毎回受け取れませんよ」
    「私は珈琲を飲むからいいんだ」
     そう言うとジータは、バツが悪そうにしながらも、受け取ってくれた。そして、差し入れの飲み物を飲みながら、いろいろな話をするようになった。
     最初は花壇の話だった。次は、学校生活はどうだとか、授業はどうだとか、そういう話。
    「今のところ、授業は大丈夫ですよ。わかりやすいです」
    「よかった」
     会話を重ねていくうちに、ジータも気心が知れてきたのか、ニコニコと笑いながら、いろいろなことを話してくれるようになった。私の授業はどうだ? と聞いたらそう返してくれた。
    「奨学生ですから、成績も落とせませんし」
     ルシフェルは担任ではなかったため知らなかったのだが、ジータは学校の特別枠で入った奨学生らしい。道理で成績がよく真面目なわけだ。
     ジータの両親は幼いときに事故で亡くなってしまったらしい。それからは、できるだけお金のかからない方法で過ごしてきたのだという。高校もその一環で、ダメ元で奨学生として受けてみたら受かったとのことだ。
     こんなに小さな体で、たくさんのことを犠牲にしながら、一生懸命生きてきたのか、そう思うと庇護欲が少しだけくすぐられた気がした。
     
    「君は、部活には入らないのか」
     部活のある委員の手伝いばかりしているが、彼女自身は部活に対してどうなのか、ふと思い尋ねてみた。
    「部活にですか?」
    「あぁ、帰宅部だと聞いていたが、気に入った部活がなかったのか?」
    「そういうわけじゃないんですけれど……」
     ジータの歯切れが悪い。
    「部活って、お金がかかるので……」
     彼女の気にしていることを聞いてしまった。
     確かに、部活は道具を揃えるだけでお金が多少なりともかかる。奨学生として学費を免除してもらえるように努力してきた彼女に失礼なことを聞いてしまった。
    「す、すまない……! 君の気持ちを察することができなかった! 忘れてくれ!」
    「いえ、いいんですよ! 気にしないでください」
     もしかしたら慣れているのかもしれない。ジータは手を横に振ってそう言う。
    「いろいろなことに興味はあるんですよ。それに、部活って高校生の青春って感じで憧れてはいるんです。同じ目標に向かって、みんなで力を合わせるって楽しそうで。だからちょっと寂しいな、って気持ちはありますけど」
     納得したようなことを言いながらも、ジータは寂しそうにそう付け加えた。少しだけ、彼女にしては珍しく、寂しそうな顔に見えた。
     
     ジータの寂しそうな顔は一瞬だった。けれどもルシフェルは彼女の寂しそうな顔を忘れることができなかった。
    (何か、力になりたい)
     ジータの力になりたい、そう思い始めていた。ジータの憧れる部活動を経験させてあげたかった。
     ルシフェルにはそれなりの蓄えはある。だから、気になる部活の道具を提供してあげることも一瞬考えたが、一人の生徒に肩入れすることはできないし、何よりそれはジータのプライドを傷つけてしまうことになると考えた。
     何か、お金がかからない方法で、彼女を部活に入れてあげることはできないだろうか……そう考えたとき、それならば自分が顧問になり、そのような部活を作ればよいことを思いついた。
    (何がいいか)
     道具にお金がかからないような、学校からもらえる予算で全て賄うことができるような活動がいい。悩んだ末、理科実験を行う活動はどうかと思いつく。理科は自分の管轄内だし、申請さえ出せば理科室の実験道具は自由に使うことが出来そうだ。
     
     早速、次に会ったとき、ジータにその話をしてみた。
    「……ということを考えてみたのだが」
    「……」
     ジータは話を聞き、そのまま言葉を詰まらせた。自分では良いと思ったが、ジータの様子を見て不安が押し寄せる。
    (押しつけがましかっただろうか。いや、そもそも、年頃の女の子に理科実験を行う活動という点がよくなかった気もしてきた……)
     考えていたときは良いと思ったが、よく考えたらあまり彼女の気が乗るような内容ではない気がしてきた。
    「すまない、独りよがりだった。忘れて欲しい」
     きっと断る口実を探しているのだろうとルシフェルは思い先に切り出したが。
    「ち、違います! 違います! あの、すごく興味あるんです! 私、理科好きなので楽しそうだな、って思いました! で、でも……」
    「何か気になることが?」
    「先生、忙しいのに、これ以上忙しくさせたら悪いな、って」
     どうやら、ルシフェルを気遣ってくれたらしい。そのいじらしさに胸が熱くなる。
    「大丈夫だ。そもそも無理なら提案自体しない。私は部活の顧問も委員会の顧問もやっていないから」
     だから、笑顔でそう優しい言葉を返す。
    「そうなんですね」
    「君が望むなら、部を作る準備を始めようと思う。ただ……」
    「ただ?」
    「部として成立するには、部員が五名以上必要なのだが……」
    「なるほど、人数を集めればいいんですね」
    「それもあるのだが……」
     ルシフェルは言いにくいことがあり、少し口ごもってしまう。
    「どうかしましたか?」
    「その、昔の話だし、自惚れが強いとは思ってほしくないのだが……」
    「大丈夫ですよ。聞かせてください」
     ルシフェルの言いにくさを感じ取ったジータは、ニコリと笑いルシフェルの話を促してくれた。
    「昔、とある部活の顧問を頼まれて始めたのだが……私目当ての女子生徒が多く入部してしまい、迷惑を……」
    「あ……」
    「私もよくわからないんだ。きっと、君たちの年齢からみると、少しだけ年上というだけで魅力的に見えるのかもしれない。私目的だったためか、モチベーションの低い部員が多くなり……」
     ルシフェル自身、恥ずかしくない生き方をしているつもりではあるが、どうしてここまで女子生徒に人気があるのかよくわからず困惑している。そして、そのルシフェル目当てに女子生徒が集まってしまい、本当にその部の活動をしたい部員に迷惑をかけてしまった、苦い経験があった。
    「フフ、先生、かっこいいからですよ」
     すると、ジータはからかうように笑いながらそう言う。
    「そうでもないと思うのだが」
    「かっこいいですよ」
     二回もジータにからかわれ、少しルシフェルの頬が赤くなる。確かに「かっこいい」とは言われたことはあった。そのときは何とも思わなかった。けれどもジータに言われた今、何故か少しだけ照れ臭かったし嬉しかった。
    「……コホン、で、だから……君が大丈夫そうな生徒を勧誘して欲しい。部員の上限も最低人数の五名にすれば、君の勧誘した生徒以外は入部しないことになるから、いいと思っている」
     照れ隠しの意味も込めて咳払いをした後、そう言った。
    「いいですよ、任せてください! 何人か心当たりがあります。確か、部活の掛け持ちは二つまでは可能でしたよね。忙しいときは、元の部活を優先してもらっても大丈夫ですよね?」
    「あぁ。とりあえずは名前だけでも書いてもらえれば」
    「じゃあ、引き受けてもらえると思います!」
     ジータは嬉しそうに笑い、そう意気込んだ。
     
     ジータはあっという間に五人を集めてきた。同級生が二人、上級生が二人だ。
    「グランとルリアは、先生も受け持っていますよね? 私たち、幼馴染なんです。二人とも真面目でいい子です。ルリアは女の子ですけれど……きっとグランのことが好きなので、ルシフェル先生には見向きもしないですね」
     ジータは、いたずらげにそう笑いながら説明をしてくれた。
    「そして、ランスロット先輩と、ヴェイン先輩。部活で優秀な成績を収めて、何回も表彰されているので、ご存じですよね? 私と同じ美化委員なんです。美化委員の当番を代わったことがあって、仲良くなりました。名前だけでも、ってお願いしたら快くOKしてくれました」
     とりあえず、ルシフェルの心配は解消されたようだ。
    「これで大丈夫ですか?」
    「あぁ。あとは私に任せて欲しい」
     教師になってから、あまり心躍ることは無かった気がする。けれども、ルシフェルはとても楽しそうなことが始まりそうな予感がして、わくわくしていた。
     
     準備を終え、ジータが部長、ルシフェルが顧問として部の申請書類を提出した。ルシフェルが念入りに準備した書類だ、不備もなくすぐに承認された。
     基本的には週に一回。決めた研究テーマをもとに、実験や観察を行う。ジータの言う通り、ランスロットとヴェインは、最初のオリエンテーションのみであまり顔を出すことはなかった。だから基本的には、ジータとグランとルリアの三人で和気あいあいと活動をしていた。
     その光景をルシフェルは微笑ましく見守っている。
    「おっ、やってるな!」
    「あ、ランスロット先輩、ヴェイン先輩!」
    「お疲れ様です! あの、元の部活は大丈夫なんですか?」
    「今日は、早く終わったんだ」
     ルリアの疑問に、にこやかにランスロットが返す。
    「せっかく面白そうな部活に入ったのに、全然顔を出さないのももったいないだろ? な、今なにやってるんだ?」
    「えっとですね、これは……」
     ジータは楽しそうに、今やっている実験の説明をランスロットとヴェインにしている。ここにはジータの気心が知れたメンバーしかいない。しかし、ジータは楽しそうに活動していた。
    「へぇ、不思議だな。ここ、何でこうなるんだ?」
    「二年の化学ではもう教わっている内容だと思ったが」
     不思議がっているヴェインに、ルシフェルはそう声をかける
    「げっ」
    「ヴェイン、この前の授業でやったぞ」
     そのやりとりを見て、ジータもグランもルリアも笑いがこぼれた。それはルシフェルも例外ではない。
    (楽しいな)
     あまり感情の起伏がない方だと思っていた。特に心惹かれることもなかった。自分でもそう思っているし、他人からの評価もそうであることが多かった。
     けれども、今、この空間にいることをルシフェルはとても楽しいと思っていた。
     
      ◆◇◆◇◆
     
     そこまで話し終えたルシフェルは、ふっと一息つき、珈琲を飲んだ。
    「正確に言えば、君との初めての出会いは授業だろう。しかし、それは多くいる生徒の中の一人として会ったに過ぎない。だから、本当の意味での君との出会いはこの件だと思っている。このときはまだ、君に今のような感情は抱いていなかったと思う。……いや、抱いていて気が付かなかったかもしれないな」
    「そうなんですね、私、美化委員で、花壇の世話をしてたんだ……。部活もきっと楽しかったんですね。アルバムの私、すごく楽しそうにしていました」
     新居に観葉植物がある。きっと植物の世話が好きだったのだろう。
    「他の部活のように何か大会があるわけではなかった。でも君はとても楽しそうに活動していたと思うよ」
     きっとそれは間違いない。記憶はないが、部活の写真を見ると何となく心が温かくなる気がした。
    「ルシフェルせ……」
    「もう先生ではない。まだ婚姻届を出していないから夫ではないが、婚約者だ」
     今の流れから、先生と呼びそうになったジータを、ルシフェルが止める。
    「教師と生徒の時間が長すぎた。一人の男として君に接したい。呼び捨てで呼んで欲しい。敬語もやめて欲しい」
    「わ、わかった。ルシ……フェル」
     そう言うとルシフェルは嬉しそうに笑った。笑って、抱き寄せられた。
    「きゃっ!?」
    「す、すまない」
     ルシフェルは慌ててジータを離す。
    「ご、ごめんなさい……まだ、その……」
     抱き寄せられ、思わず声を上げてしまったのだ。
     きっと仲が良かったのだろうことは理解できた。でも、今のジータにはまだ次に進む気持ちの整理がついていない。だって、今のジータにとっては、出会って数日の人なのだから。
    「そう……だな、すまない」
     ルシフェルは蒼い瞳を伏せ、少し悲しそうな顔をした。
    (なんで……記憶無くなっちゃったのかな)
     きっとルシフェルはジータを深く愛してくれている。ジータもきっと深く彼を愛したのだろう。そして、卒業してようやく、堂々と愛し合うことができる、そのタイミングでジータは事故に遭い記憶を失ってしまった。彼の気持ちを考えると、心が痛かった。
    「一気に話すと、君も混乱するだろう。今日はここまでにしよう。もう夕方だな。そうだ、君の好きだった、オムライスを食べに行こうか。君はふわふわのオムライスに目がなかった」
     ルシフェルはきっとジータが気にしないように、無理にそう言ってくれたのだろう。ジータの心がより痛んだ。
     
     外で食事を済ませると、お風呂を沸かしてジータを先に入れてくれた。新品らしいパジャマも用意してくれていた。きっと、新居で着ようと用意したものだったのだろう。
    「……お風呂、ありがとう」
     お風呂を上がり、リビングに移動する。
    「きちんと温まったか?」
    「うん」
     ジータは聞きたいことがあった。でも、彼の答えが怖くて、なかなか言えずにいたのだが。
    「……大丈夫だよ、私はソファに寝るから。君はベッドで眠るといい」
     ルシフェルが先に察してくれて、そう言ってくれた。
    「退院したばかりで、慣れないことも多く疲れただろう。ゆっくりベッドで休むといい。……そうか、寝室をまだ紹介していなかったか」
     ルシフェルは寝室へとジータを案内してくれた。リビング同様、温かみのある印象だ。その部屋に、ダブルのベッドが一台だけあった。枕は二個。その光景にドキリとしてしまう。
    「何かあったら起こすんだよ」
     ルシフェルはジータの頭に手を伸ばそうとしたが、先ほどのジータの様子を思い出したのか、手をひっこめた。
    「おやすみ」
     気まずさからだろう、ルシフェルは苦笑いを浮かべながらそう告げ、ジータの返事を待たずに寝室を後にした。
     申し訳なさと共に広いベッドに横たわる。病院のベッドに比べて広すぎるベッドだ。本当は、ルシフェルと二人で眠るベッドだったのだ、それも当然だ。
    (私……どうしたらいいのかな)
     きっと、記憶を思い出すか、今のジータもルシフェルを愛するまで、その悩みは解消されないのだろう。目を閉じたが、なかなか眠れそうになかった。
     
     それからもルシフェルは優しかった。そして、ジータにはできるだけ触れないようにしているように見えた。ジータはただ、そこにぼんやりと存在しているだけなのに、壊れ物を扱うように大事にしてくれた。
     だから、ジータも体力の回復に合わせて少しずつ無理の無い範囲で、彼の為になればと家事を始めた。まずは彼の家事を手伝うことから始めた。幸い家事に関しては覚えていることも多く、あまり時間もかからずにジータは多くの家事を行うことができるようになった。
     そして、新居にやってきて二人で暮らし始めてから一ヶ月程が経っていた。
    「ジータのハンバーグ、美味しい」
     今日はジータの作ったハンバーグを夕飯に出した。ルシフェルはとても美味しいと嬉しそうに食べていた。
     自分自身のことは何も覚えていないのに、料理のレシピは何となく覚えていた。そして体も料理をすることを覚えていた。
    「嬉しい。ありがとう、ジータ」
    「……」
     でもジータは気づいている。ルシフェルが望むことは、こんなことではない。きっと、恋人らしいことを自分に望んでいる。我慢していた分、触れたり抱きしめたりしたいと思っている。いや、大人の男の人だ。きっとキスだって、その先だって……。
    「ねぇ、ルシフェル」
    「ん?」
    「ご飯食べたら、時間……あるかな?」
    「どうかしたか?」
    「また……昔話の続き、聞かせて欲しいな」
     もしかしたら、昔話は思い出すきっかけになるかもしれない。ジータはそう思った。彼のことを愛していた記憶を早く思い出したい。
    「喜んで」
     ジータの前向きな変化と喜んでくれたのか。ルシフェルはニコリと笑ってそう言った。
     
     食事とお風呂を終えたところで、二人はソファに座った。
    「珈琲をどうぞ」
    「ありがとう」
     ルシフェルはジータにまた珈琲を入れてくれた。初めて飲んだ時と同じ、砂糖とミルクの多いブラウン色の珈琲だ。
    「どこまで話したかな」
    「私が、部活で楽しそうにしてた、ってところ」
    「そうか。……それからは特にしばらくは何もなかった。君とは部活と美化委員の作業時に顔を合わせるだけの接点だった。けれども、君が二年になってから、状況が変わった。私は君の担任になった」
     
      ◆◇◆◇◆
     
     ルシフェルの勤めていた学校では、高校二年のときに進路に合わせたクラス替えを行っていた。
    「ルシフェル先生、今年から担任ですね」
     そしてルシフェルは、ジータの担任になった。
    「三年はクラス替えがないから、卒業まで一緒だな。よろしく頼む」
    「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
     ジータとルシフェルの距離はより近くなる。授業で顔を合わせ、部活で顔を合わせ、担任としても顔を合わせることになった。
    「先生、やっぱりここでしたね」
     だから、ジータはルシフェルのことを良く知っていた。用事があれば、迷うことなく旧校舎の化学準備室までやってくる。
    「どうかしたか?」
     静かに仕事をしたかったときに、ここに来ていたはずなのだ。だから、あまり来訪は好ましく思わないはずなのだ。けれども、ジータの来客は少しだけ嬉しかった。
    「部活の予算関係の申請書、目を通してサインください」
    「あぁ」
     ジータが作った丁寧な書類に目を通す。彼女の性格が良く出ている。不備はなさそうだ。そのままサインをする。
    「でき……」
     書類を渡そうとすると、ジータはルシフェルの珈琲セットを見ていることに気が付いた。
    「気になるのか?」
    「あ、じろじろ見てしまってごめんなさい。そういえば、先生、珈琲が好きって言ってたな、って思って」
    「あぁ。ジータは珈琲は?」
    「実は飲んだことないです」
     なるほど、だから好奇心旺盛な彼女は余計気になっていたのか。
    「いいよ。そこの席に座ってくれ。御馳走しよう」
    「いいんですか?」
    「あぁ、特別だ。他の子には内緒だ」
     そして、ルシフェルはジータのために珈琲を入れた。
    「……」
     カップに注がれた真っ黒な液体をジータはじっと見つめている。その後、くんくんと匂いを嗅いでいる。どこか警戒心の強い小動物のように感じ、ルシフェルは微笑ましかった。
    「……っ!?」
     そして、口を付けると、ジータは声にならない声をあげた。正確に言えば、何かを口に出しそうになって、こらえたという所か。だいたいルシフェルは予想がついていた。
    「苦かったか?」
    「!?」
    「砂糖とミルクがある。多めに入れるといい」
     そして、自分はめったに使わないが、一応用意してあった砂糖とミルクを手渡す。
    「先生、私が苦いって言うの、分かってたんじゃ……」
    「初めての珈琲だから、珈琲本来の味を知ってもらった方がいいと思って」
    「いじわる」
     怨めしい表情でそう言われるが、それさえもルシフェルには微笑ましかった。
    「君は甘党だったな。たくさん入れてごらん。きっと美味しいよ」
     そして、砂糖とミルクを少し多めに入れる。カップの黒が大分薄くなる。
    「……」
     今度は大丈夫かと少しだけ警戒しているようだ。また、くんくんと匂いを嗅いでいる。そして、先ほどよりゆっくりと、コクンと一口飲み込むと同時に。
    「あ、甘くて美味しい……!」
     今度は、目をキラキラさせ、そう言葉を綴った。
    「フフ、喜んでもらえてよかった」
    「はい! 美味しいです!」
    「また御馳走するよ」
     彼女とは心穏やかに過ごすことができた。一緒に居ると落ち着くし、それなのになぜか楽しい。
    (妹がいたら、こうなのだろうか)
     だから、ジータに対してそんなことを思うことがある。ルシフェルには、同じ顔の少し性格に難のある双子の兄がいるだけだ。実際に居ないが、妹が居たらこんな気持ちになるのか。
     コロコロと変わる豊かな表情は見ていて全然飽きない。そして、辛い境遇ながらも頑張りつづける彼女を応援し守ってあげたいと思っている。
    (生徒の一人を贔屓してはいけないな)
     とはいえ、成績はもちろん、それ以外の内申の点でも、贔屓をしているつもりは全くない。いや、贔屓をしなくても彼女はとてもよく出来た。だから、贔屓などはないと思いつつ、明らかに彼女は自分の中で特別な存在となってしまっていた。
     
     二年の中間の頃。ちょうど十月頃か。三者面談の時期となった。どの生徒もだいたいの進路を決めることになり、保護者と三人で話をする。ジータも例外ではない。夕方放課後の教室、ジータとルシフェルは向かい合っていた。
    「……」
     ジータは一人だ。それは仕方がないことだ。きっとジータも慣れている。しかし、それを抜きにしてもジータの表情は暗い。
    「先生、私……大学進学は諦めます」
     絞り出すようにジータは言った。ジータは学ぶことが好きだ。だから、大学に進学したいと言っていた。
    「どうして!? 君は進学を目指して頑張ってきただろう」
     だから、ルシフェルも驚いた。思わず、少し語気を荒く言ってしまう。
    「高校みたいに、学費が免除される制度を利用しようと思っていました。でも、それ以外にもいっぱいお金がかかることがあって。だから、大学進学は諦めて、就職しようと思います」
     確かにそうだ。学費だけでは済まない。学費以外にいろいろなことにお金はかかる。そして、ジータの家の周りに大学はないため、どうしても遠くの大学に通うことになる。そうなると、交通費や場合によっては引っ越しも考えなければならない。
    「君の夢だろう? 私も何か良い手がないか調べてみるよ」
     ルシフェルはジータの悲願だということを知っていた。だから、そう言ったのだが。
    「大丈夫です。今は一度就職して、お金を貯めて大学に行くこともできると思うので。今は、就職でい……」
     ジータらしい、前向きな発言だと思ったのだが、途中でジータは言葉を詰まらせる。
    「……っ……」
     少しの沈黙の後、ジータの大きな瞳から涙がこぼれた。一度流れ出すと止められなくなってしまったのか、ジータは次から次へとぽろぽろと涙を流して泣き始めた。普段は明るくて前向きなジータが泣いていた。ルシフェルは初めて見た。
    「っ……! ごめんなさい……」
     担任として泣き止むように慰めなければいけない、本当はそうすべきなのだ。けれども。
    (……あぁ、なんて愛らしい)
     もしかしたら夕暮れ時の、オレンジ色の薄暗い教室のこの雰囲気が、そういう気分にさせてしまったのかもしれない。ぽろぽろと涙を流すジータはなんて愛らしいんだ、そう思ってしまった。このときは教師であることを忘れてしまっていた。ただ、一人の男として、そう思った。
     そして、この愛らしい人を、あらゆるものから守ってあげたい、そう思った。昔からそれは思っていた。けれども今までの感覚とは違う。なぜなら、守ってあげたいと思うと同時に、別のことを思ってしまったから。
    (抱きしめたい)
     その感情を強く自覚した。強く抱きしめてあげたい。大丈夫だと頭を撫でてあげたい。
     ――それでようやく気が付く。
    (私は……ジータを、妹のような存在としてではなく、女として好きなんだ)
     こんな感情教師失格だと、複雑な気分になると思っていた。けれども、そんなことは全くなかった。むしろ、どうして今まで気づかなかったのかと、妹のようだと思っていた自分を愚かにすら思った。
    (可愛いな……ジータ)
     小さくて愛らしいジータ。容姿も性格も、どこもかしこも愛らしい。
     今まで特にやりたいこともなかった。望むこともなかった。けれども今は違う。目の前の愛らしい人を何があっても守ってあげたいという、強い欲望を覚えた。ずっと傍に寄り添ってあげたい。愛してあげたい。欲望は尽きることがなさそうだ。今までの自分はモノクロの世界に生きていて、今、目の前で世界が鮮やかに色づいていくような気さえした。
     気づいてしまった気持ちはもう止められそうにないし、倫理的にダメだというのであれば、隠しさえすれば問題ないはずだ。
     けれども今だけは。今だけは彼女にどうしても気持ちを伝えたかった。
    「ジータ……私は」
     そこで一度深呼吸する。そして。
    「私は、君のことが好きだよ。だから、君がどんな決断をしようと私は君の味方だ。何があっても君を守る。ずっと傍に寄り添う。だから、私を信じてついてきてほしい」
     
      ◆◇◆◇◆
     
    「そして私は、君にできるだけの言葉で気持ちを伝えた。そうしたら君は、私を受け入れてくれたんだ。同じ気持ちだったと、嬉しかった」
     ルシフェルはそこまで話し終え、一息ついた。
    「でも、それからも私たちは普通の教師と生徒という関係を変えなかった。他人から見てやましいと思われるようなことは一切しなかった。君も私も真面目な性格だったから、特にどちらからというわけでもなく、卒業までは普通の教師と生徒でいようとなったのだと思う」
     昔のジータはどういうつもりだったのかわからない。でも今のジータもきっと同じことを思った。きっと、いくら彼を好きだとしても、学生である自分と彼の関係がばれれば、立場的に良く思われないのはルシフェルだ。
    「それでも、とても嬉しかったよ。視線が合って、私が微笑むと、君も微笑んでくれた。部の相談があると理科準備室に呼び出して珈琲を御馳走していろいろ話もした。普通の恋人のように、触れあったことは無かった。けれども、君がそばにいてくれて、気持ちが通じていると思っただけで嬉しかった。だから、卒業したらすぐにプロポーズしようと思っていたんだ」
     きっと、本当の意味で恋人のような間柄になったのは、ごく最近か、いや卒業したばかりで怪我をしたのであれば、まだだったのかもしれない。しかし、きっと昔の自分とルシフェルは、ゆっくりと愛を育んでいたのだろう。
    「……ルシフェル」
    「ん?」
    「キス……する?」
    「ジータ、声が震えているよ」
     ルシフェルの指摘した通りだ。ジータはまだルシフェルが怖い。けれども、ジータは知っている。
    (私が、ルシフェルに出来ることはこれしかない)
     きっと自分には何もない。記憶のない空っぽのこの体だけだ。それならば、出来ることはこれしかない。
     ルシフェルは言わないが、自分の記憶以外はしっかりジータは察している。彼はジータのために多くのものを犠牲にしている。彼の時間はもちろん、きっと金銭的にもそうだ。そして教師という職もやめさせることになってしまった。
     それがとても苦しかった。だから、ジータは、彼の愛に報いるためにはこうするしかないと思っていた。
    「私、ルシフェルとキスしたことあった?」
    「……卒業してから一度だけ」
    「じゃあ、キスしたら、思い出せるかも。しよう?」
     ジータからルシフェルに触れた。そっと、ルシフェルの大きくて男の人らしい手に自分の手を重ねた。自分の手と比べるととても大きい。大きくてゴツゴツしていて温かい。
    「わかった」
     ルシフェルは、ジータを抱き寄せた。一瞬体が強張る。
    「やめてもいいよ」
     そのことを感じたのか、ルシフェルはそう言う。
    「緊張してるだけ」
    「言い出したら聞かないところ、変わらないな」
     苦笑いにも似た笑みを浮かべられる。
    「ジータ」
     ルシフェルは愛しいぬくもりだという風に、包み込むように抱きしめてくれていた。きっと慣らそうとしてくれているのか。そのまま少しだけ彼の腕の中にしばらくいた。
    「記憶が無くなっても、私は変わらず君を愛そう」
     ジータが落ち着いただろう頃、ジータの顎を掴み少しだけ上を向かせる。そして、ゆっくりと優しく唇を重ねた。
    (これが、キスなのか……)
     ルシフェルへの罪滅ぼしの気持ちが一番大きかった。だから、「思い出せるかも」というのは口実に過ぎなかった。でもほんの少しだけ、もしかしたら思い出せるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていたが、残念ながらその期待は裏切られたようだ。
    「ジータ」
     ルシフェルは唇を離し、顔を上げた。
    「好きだ。君がやっぱり好きだ。離したくない。全て私のものにしたい」
     そして、先ほどより強い力で抱きしめられる。きっとたくさん無理させてしまっているのだと、漠然と思う。もう心に決めた。この先どうなっても覚悟はできている。
    「怖くて、言えなかったことがある」
    「言えなかったこと?」
     ジータを抱きしめるルシフェルの腕が少しだけ震えた。
    「卒業して、数日後、初めてキスをした」
    「そう……なんだね」
    「その少し前、私が悪くて君を怒らせてしまった。怒った君が、あまりにも酷い言葉を投げかけたから、君の口をふさぐように初めて」
     事故に遭ってからのことしかわからないが、ルシフェルはとても穏やかで誠実という気がしていた。そのルシフェルがそんな状態になるということは、よほど酷いことを言ってしまったのだろう。もしくは。ルシフェルからよほど酷いことをされて、そう言っても仕方がない状態だったのか。
    「何をしたの?」
    「いくつか思い当たる節はある。しかしどれがそこまで君を怒らせてしまったのかわからない。……そしてその後、君は交通事故に遭ってしまった。怒って私から逃げるように横断歩道を渡っていたときに、信号無視の車が突っ込んできた」
     詳しい事故の様子は怖くて聞けなかったが、今のルシフェルの話で、ジータはルシフェルの目の前で事故に遭ったことを知った。
    「怖かった。君を失うことを考えると怖かった。どうしてあのとき、君の手をきちんと掴んでおかなかったのか、そう何度も後悔した」
     ルシフェルの腕がより一層震え強くジータを抱きしめた。ジータは彼より大分年下のはずだが、まるで彼の方が年下のように思えた。母親にしがみつく子供のように思えた。
    「大丈夫。私はここにいる。記憶はないけれど、生きてる」
    「よかった。君にまた会えた。もう、離さない。何があっても、君を離さない」
     そして、またキスをされた。今度は先ほどより深めのキスだ。そのままソファに押し倒されてキスをされる。
     ぼんやりとジータは思う。きっと自分は今日このまま、彼と一線超えるのだろうと。
    「ルシフェル……待って」
    「!?」
     ジータに名前を呼ばれ、ルシフェルの動きが止まる。
    「す、すまない……理性を……」
    「ち、違うの……あの……私って、初めてなのかな?」
    「そういう話をしたことはなかったが、高校時代は誰とも付き合ってはいないだろうし、君は貞淑な性格のように思えていたから、恐らく……」
     記憶の無いジータだが、同じことを思っていた。きっと自分はそういう経験がない気がした。
    「じゃあ、初めては、きちんとベッドの上がいいな」
    「いいのか?」
    「うん。いいよ。ルシフェルに、私の初めて、あげる」
    「ありがとう」
     もう一度軽くキスをされ、そのまま抱きかかえられ、寝室のダブルのベッドに運ばれる。ずっとジータが一人で眠っていた広すぎるベッド。ジータとルシフェルの体重で、ベッドがきしむ音がした。
    「ジータ、私だけのジータ。愛している」
     ルシフェルはジータの名前を呼び、またキスをした。唇だけではない、いろいろなところにキスされる。おでこや頬、首筋。少しだけくすぐったい。そのまま、パジャマに手をかけられる。
    (私には、もうこれしかできることがない)
     やはり少しだけ怖い。怖くて体が震える。でも自分が出来ることを考えると、これしかない。
     きっと、怖いことではないはずだ。記憶を失う前は自分だって彼と結ばれることを望んでいただろう。記憶を無くした今だって、また彼を好きになればいい。
    (後悔はない、後悔はない)
     ジータは何度かそう心の中で繰り返し、そのまま彼に身を委ねた。
     
     予想通り、ジータは初めてだったようだ。それが終わると、気を失うように眠ってしまった。
     それから、朝になり目が覚めたが、体力的にも精神的にも、初めての体験は衝撃的で、ジータは少しぼんやりとしてしまっていた。
    「ジータ」
     ルシフェルは嬉しそうに、腕の中のジータの髪を撫でてくれている。
    「可愛い、私のジータ。ようやく結ばれた」
    「は、恥ずかしい……。も、もう可愛いって言わなくても大丈夫」
    「どうして? この世の中で一番可愛らしいよ。愛している」
    「大げさすぎて嘘っぽい!」
    「大げさではない。私はこの世の君以外のものは、些細なものだと思っている。君が私の全てだ」
     ルシフェルは冗談を言っているように見えない。いや、冗談を言うような性格ではないことをジータは分かっている。
    「記憶がなくても、記憶が戻っても。君は私の愛したジータだ」
     そして、頬に触れられそうになったとき、あることに気が付く。
    「……あれ、指輪」
    「あぁ、あんなことがあったから、しまってあったのだが、出してきた。君の左手薬指も」
     言われて左手を見ると、同じ指輪がいつの間にかしてあった。眠っている間にしたのだろう。ジータの指にぴったりの美しい銀色の指輪だ。
    「ジータ、改めて言おう。結婚して欲しい。君を絶対に幸せにする。君を守るよ」
    「……うん」
     本心を言えば、その返事でよかったのかと、少し悩むところはあった。けれども、自分にはこの道しか残されていないことを、漠然と理解していた。
     
     そして、二人は夫婦になった。
     ジータが一人で家に居ても問題ないくらい回復した頃に、ルシフェルも新しい職場に就職した。ジータも、ルシフェルのために家事を頑張っていた。
     結婚してから、ルシフェルは、ジータによく触れるようになった。
    「おはよう」
     土曜日、キッチンで朝食を作っていると、後ろから抱きしめられる。
    「る、ルシフェル、びっくりさせないで!」
    「可愛い妻の後姿を見たら、嬉しくなった」
     そして、首筋に顔を埋められる。
    「んっ……ルシフェル、だめ!」
    「……わかった。これ以上はしない」
     ジータが強く言うと、ルシフェルの手が止まる。ジータから離れた。
    「朝食が終わったら、君に触れてもいいかい?」
    「……えっちな触り方でなければ」
    「フフ善処する」
    (これは、ダメなパターンだ……)
     今日の予定はないし、明日は休みだ。きっと、そのままベッドになだれ込まれる。ジータは溜息をつく。ルシフェルは、そういうことを想像させないような高潔な雰囲気があるが、一線を越えてからはそんなことはなかった。とにかくジータをよく求めてくる。夜は寝かせてもらえないこともよくある。これが、大分待たせてしまったツケなのだろうかと、ため息をついたこともあった。
     それ以外にも、とにかくルシフェルはジータに良く触れてくる。よくキスをしてくる。ルシフェルはとても嬉しそうだ。ジータ自身、ルシフェルに触れられることに大分慣れた。夫婦はそういうものだろうし、何より、自分には拒絶する権利はないだろうと思っている。
     時間が経ってもルシフェルは優しくて誠実だ。一緒にいると、心強いし満たされた気分になる。ジータをとても大切にしてくれる。そのうえ、ルシフェルはルックスもよい。顔も良いし、身長も高く、良い体付きをしている。一緒に買い物に行くと、ルシフェルを見ているだろう女性をよく見かける。それだけでも奇跡のような人なのに、頭も良いらしく、知り合いに乞われて就職した会社は一流と言われるジータもよく知る会社で、お給料も申し分なかった。
     何を言いたいのかというと、非の打ちどころがない、完璧に近い夫なのだ。
     けれども、ジータはまだ彼を男として好きとは思えなかった。人としては好きだと思っている。ジータができるかどうかは別として、見習うべきところはたくさんある。尊敬できる。けれども、男として夫として好きかと言われると、きっと素直に好きとは言えない気がした。好きではあるが、感覚的には兄に対する好きという感覚に近い気がした。
    (きっと、今の私も、男の人として好きになれる)
     自分にとっては、まだ数ヶ月前に知り合ったばかりの人だ。時間の問題だと、そういつも思い込むようにした。
     
     それから数ヶ月が経った。記憶を失ったときは冬から春になりかけであったが、既に季節は夏だ。
     相変わらずジータの記憶は戻らない。そして、ルシフェルの溺愛も変わらない。相変わらずジータをとても大切にしてくれている。さすがに外では自重しているようだが、家の中だと隙があればくっ付いて来ようとするくらいだ。
    「私のどこがそんなに好きなの?」
    「容姿も性格も好きだ。君が傍にいてくれるだけで何もかもがどうでもよくなる」
     ジータの方が恥ずかしくなってしまう回答をいつもされてしまう。
     そしてジータもなかなか、異性にたいする好きという確信を得られないままだった。しかし、過ごす時間が長くなり、前より距離は近くなった気がする。触れられても怖くないことが多くなった。
     きっとこうやって、少しずつ少しずつ愛を育み、いつか異性として好きだと思うようになるのかもしれない、そう思い始めていた。
    「そうだ、ジータ」
    「ん?」
    「君の私物だが、今度一緒に片づけようか? 部屋を少し空けた方がいいと思って」
     そういえば、入院している間にルシフェルがジータの元住んでいたマンションを引き上げてくれたことを思い出す。あまり物はなかったようで、今は空いている部屋に段ボールに入れて保管してもらっていた。
    「使うものは出して、使わないものはしまった方がいいと思う」
    「そうだね。私も気になってた。天気のいいときに、一人でやるから大丈夫」
    「……無理だけはしないように。重いものは私が運ぶから、置いておくんだ」
    「もう、過保護すぎだよ」
    「昔からよく言われていた」
     そして、クスクスと二人で笑った。
     
     そして、良く晴れた日の午後、窓を開けてジータは私物の整理を始めた。記憶がないゆえ、私物と言われてもあまりピンとこないものも多い。
    「はは、交換日記だって。ルリアとしてたんだなぁ」
     どうやら、ルリアと交換日記をしていたらしい。ノートが出てきた。
     ちなみに、幼馴染だったらしいルリアとグランとは、落ち着いてから連絡を取り、ルシフェルも一緒に一度会っていた。二人は記憶を失ったジータをとても心配してくれた。ルリアに至ってはルシフェルに「どうして教えてくれなかったんですか!?」と怒りをあらわにしていた。
     ルシフェルとジータが結婚したことを伝えると、二人はとても驚いた様子を見せた。
    「仲がいいことは知っていたけど、そういう仲だったとは、知らなかった」
    「そうですね……てっきり、先生と生徒として仲良しなのだと」
     どうやら、自分たちの擬態は完璧だったらしい。教師と生徒という関係ゆえ若干の懸念は見えたが、最後は「お幸せに」と二人も祝福してくれた。
     そのときのことを思い出しながら、どんなことを話していたのかと、交換日記をめくる。内容は些細なことだ、テストで良い点取った、あそこのパフェが美味しかった、可愛い雑貨のお店を見つけたからショッピングに行こう、そして。
    「今日もグランがかっこよかったです」
    「そうだね、グランもルリアのこと、好きな気がするけれどなぁ」
    「か、からかわないでください……! うぅ、でも、そうだといいなぁ……」
     そんな恋バナをしていた。ジータからはルシフェルの話は一切していなかった。自分の恋を秘めたまま、どんな気持ちでこのやりとりをしていたのだろうか……思いを馳せたが、全くわからなかった。
     ルリアは信頼できる親友だったと聞いている。そして、一度会った印象だが、きっとそういう性格だったのだろうと何故か確信を持てた。つまり、ジータの秘密を他人に話すような子ではない気がした。そんな子にまで、ただの生徒として振る舞うことに、女子高生だった自分は苦しさを覚えなかったのだろうか。
     たまに、記憶を失う前の自分がわからなくなるときがある。
     引き続き片づけを進めると、授業で使っていたのだろうノートが束で出てきた。パラパラとめくると、どのノートも丁寧にまとめられている。ルシフェルは、真面目で成績のよい生徒だと言っていた。ルシフェルは自分を過剰に誉める傾向が強い。盛っているのだと思ったが、強ち嘘ではないらしい。
     国語、数学、英語……各教科のノートをパラパラとめくっていると、途中から勉強ではないノートが混じっていることに気が付いた。
    (これ……)
     勉強のノートに挟まっていたから、パッと見て気が付かなかった。でも間違いない。これはジータの日記帳だ。ちょうど、高校に入学した頃からの日記が始まった。記憶のないジータの推測だが、家に帰っても家族の居ない自分は、日記を付けることで両親に今日の出来事を話したような気持ちになっていたのではないか……そう思った。
     これは思い出すチャンスかもしれない。ジータは片づけを中断し日記を読み始めた。
     最初の方はルシフェルの言った通りだった。奨学生で入学したから勉強を頑張ろう、植物の世話が好きだから美化委員になった、今日はルリアと帰り道クレープを食べた、そんな些細な日常が記されていた。中には、もうひとりの日直当番がさぼったせいで私まで怒られてしまった、そんな内容も書かれている。きっと思ったことを自由気ままに書いていたのだろうと予想ができた。
     ある日、気になる記載を見つける。
     
      ●○●○●
     
     六月x日
     ルシフェル先生が、私のために部活を提案してくれた。部活に憧れていたからとても嬉しい。理科も好きだから活動も楽しそう。
     ルシフェル先生は、直接関わりのない私にも優しい。私のことを真剣に考えてくれる。私も大人になったら、ルシフェル先生みたいな大人になりたいな。
     
      ●○●○●
     
     一年の六月の日記らしい。恐らく部活を立ち上げた頃だろう。文章を見ると、そこには恋人への思慕はなかった。この頃ジータはまだ好意を抱いていなかったようだ。
     それからも読み進めるが、聞いていた通りだ。学校が楽しい、部活が楽しい、この学校に入学できてよかった、そんな内容が強い。
    (私は、いつルシフェルを好きになったのかな)
     ルシフェルの描写は、尊敬する恩師としては良く出てきた。しかし、好意を寄せる異性としては全く出てこない。
     読み進め、二年の秋頃の日記になった。
     
      ●○●○●
     
     一〇月x日
     今日は三者面談……とは言っても、私は一人だからルシフェル先生といつも通りの面談だ。
     そこで私は迷って伝えられなかった、大学進学を諦めることを伝えた。ルシフェル先生は私を応援し続けてくれていた。だから、伝えるのが苦しかった。
     伝える途中、思わず泣いてしまった。本当は大学に行きたかった。そのために勉強も頑張ってきた。でも、金銭的な問題であきらめることになり、悔しかった。
     すると、ルシフェル先生は優しく、でも力強く励ましてくれた。守ってくれると言ってくれた。ルシフェル先生は優しい。私は、いつもルシフェル先生に甘えてしまう。本当はこんなに甘えちゃダメなんだと思う。でも、私はまたルシフェル先生の優しさに甘えてしまった。でも、今日くらいは、いいよね? 明日からはまたしっかりしないと。
     
      ●○●○●
     
    「……」
     ルシフェルは、三者面談で想いが通じたようなことを言っていた。確かにそうとは取れなくはない内容ではあるが。
    (こんなもの……なのかな)
     両想いだと分かったのだ。しかも、自分しか見ないような日記だ。もう少し書き方があったのではないかとふと思う。
    (それとも、記憶を無くす前の私は淡々としていたのかな)
     幼馴染の二人にも悟らせず、打ち明けもしなかった。自分はもしかしたら、それほどルシフェルを愛していなかったということなのだろうか、そんなことさえ思ってしまう。
     それからも、あまり代わり映えのしない内容だった。ただ、ルシフェルの描写は更に増えていった。部活のことを話した後おしゃべりした、就職のことを相談に乗ってもらった、そんなことが書かれているが。
    (好きな人の話なのに、全然そんな感じに見えない)
     ジータはそれを強く思った。交換日記のルリアの文章は、恋する乙女だった。グランが大好きなことがよくわかる文章だった。それに比べて自分のルシフェルに対する文章は、師への尊敬しか感じられなかった。ページをどれだけめくっても、好意は全く見られない。だから、ジータは別の疑問を抱き始める。
    (私は、本当に、ルシフェルが好きだったの?)
     一度もそのようなことが感じられず、何となく不安を覚え始める。
     ふと、今の状況を考える。自分はルシフェルと結婚した。それは彼の愛情に何も返せないという自責の念もあったが、昔は婚約するくらいに好きだったと聞かされていたからだ。だから、もしかしたらこれ以上ページをめくらない方がいいのかもしれない、そう思う自分がいた。もし自分の思った通り、そもそもルシフェルを愛していなかったとしたら。そう考えると怖くなってきた。
     しかし。
    (ううん、ここまで読んだら、もう戻れない)
     このまま戻ったとしても、きっと自分はもやもやと考え続けてしまう。だから、読み進めることにした。また次々とページをめくる。
     三年になると、就職の話題が増え始める。学校に来ていた求人をいろいろと受けていたらしい。
     
      ●○●○●
     
     八月x日
     また書類選考で落ちてしまった。
     やはり両親がいないと、就職に不利なのだろうか。それとも私に何か非があるのか、わからない。
     不採用を告げるとき、ルシフェル先生も残念そうな顔をしていた。何度もルシフェル先生にこんな顔させてる。ごめんなさい。
     君と縁がなかっただけだよ、そう言ってくれたルシフェル先生の言葉に救われる。
     
     
     一一月x日
     結局就職先が決まらなかった。少し疲れてしまった。少しだけお休みしようかな。在学中の内定は諦めよう。
     コンビニで見た無料の求人誌を見たら、たくさんアルバイトが載っていた。卒業したら、この中から急いでアルバイトを探せば大丈夫だよね?
     
      ●○●○●
     
     どうやら、学校に来た求人は全てダメだったらしい。その苦悩がよく描かれている。そして、毎回、結果を告げてくれるルシフェルに悲しい顔をさせてしまったことを心苦しく思っていたようだ。
     そして、一一月の日記、内定を諦めた内容の日記を読んで、違和感に気が付く。
    (卒業したら、ルシフェルと結婚するはずだったんだよね?)
     結婚する予定だったのに、急いでアルバイトを探さなければならないものなのだろうか。確かに結婚しても夫婦で共働きしてもおかしくない。しかし、今のルシフェルの様子を見る限り、就職先が見つからなかったとしても、責めることは当然しないだろうし、ルシフェルの稼ぎで十分だと言ってくれそうな気がした。いや、むしろ……家にいて欲しいと言われそうな気がした。だから、どうして自分は急いでアルバイトを探す必要があったのか、わからなかった。
     この日記には、ルシフェルの言っていたこととは違う情報が含まれている気がしてきた。ページをめくる手が早くなる。相変わらず、ルシフェルへの異性への好意が一切登場しないまま、日付は三年の三月を迎えた。
    「……」
     最初は読み間違えかと思った。何か冗談かと思った。しかし、それは明らかに読み進めてきたジータの筆跡であったし、冗談とは思えない内容だった。
     
      ●○●○●
     
     三月一日
     今日は卒業式だった。でも、信じられないことが起こった。
     理科準備室に来て欲しいとルシフェル先生に言われて、理科準備室に行った。そうしたら、急にプロポーズされた。私の名前を書くだけの婚姻届とか、指輪を渡されそうになった。だから、怖くなって逃げ出した。
     私は、先生のこと、お父さんやお兄さんのように思っていた。でも先生は違った。先生が、そんな目で私を見ていたなんて全然知らなかった。お世話になったのに、気持ち悪いと思ってしまった。だって、私の気持ちも確かめないのに、結婚して一緒に暮らす準備まで済んでいるなんて、ちょっとおかしい。怖い。卒業式の思い出も、高校生活の思い出もぐちゃぐちゃだ。わけがわからない。でも、こんな薄情な自分も嫌だよ……。
     唯一の救いは学校に行かなくてもよいことかもしれない。もう顔を合わせなくて済む。よかった。
     
      ●○●○●
     
     日記を持つ手が震え手から落としてしまった。
    (私は……ルシフェルを愛していなかった)
     今のジータと同じ気持ちだった。父や兄、師に対する親愛や尊敬に近い気持ちであって、異性への愛情は一切なかったのだ。
    (わた……し)
     ルシフェルは嘘をついていた。そして自分は、ルシフェルの嘘を信じてしまった。信じ、体を許し、結婚までしてしまった。その事実に吐き気がこみ上げてくる。
    (どうしよう、どうしよう……)
     何をしたらよいのかわからない。嘘をつかれていたのだ。騙されていたのだ。もう、顔を合わせたくない。このまま家を飛び出した方がいい気がした。でも、どこに行ったらいい? どうしたらいい? いろいろ考えれば考えるほど気持ち悪くなってくる。
     吐き気が酷い。水を飲んで落ち着こうと立ち上がろうとして、手に何かが触れた。目をやると落とした日記帳だ。それでふと、続きがあることに気が付いた。
     
      ●○●○●
     
     三月二日
     先生が家に来た。私は学校に行かないけれど、確かに先生は私の家を知っているから、来るのは簡単だ。そこまで考え切れなかった。
     居留守を使ったら、何回もインターフォンを鳴らされた。怖くてただ震えていた。ようやくインターフォンが止み、玄関の様子を見に行くとメモが新聞受けに入っていた。気持ち悪くて見ないで捨てた。
     どうしよう、怖い。こんなこと、誰に相談すればいいのかもわからない。
     どうしてこんなことになっちゃったのかな。私が悪いのかな……。
     
     三月五日
     今日は先生が来なかった。少し安心したけれど、少し怖い。
     
     三月六日
     今日も来なかった。よかった。
     
     三月七日
     どうやら、諦めてくれたらしい。今日もインターフォンは鳴らなかった。よかった。
     そろそろ食料もなくなってきた。明日買いに出かけよう。
     
      ●○●○●
     
     どうやら三月五日以降は来訪がなかったらしい。そして、そこで日記が終わっていた。
    (三月七日……翌日の三月八日は私が事故に遭った日……)
     この日記を読む限り、ジータは買い物に出かけたのだろう。そして、ルシフェルの嘘が含まれていないのだとしたら。
    (私はきっと、その途中にルシフェルに会った、いや、きっと、ルシフェルは私が出るのを待っていたんだと思う。そして、口論になって……)
     考えると頭がぐちゃぐちゃになってきた、吐き気が増してきた。胃の中のものを戻しそうになる。トイレまで間に合わず、思わず口を強く押さえる体勢を取ったとき、強烈なデジャブに襲われる。
    (あれ、あのときも、こうやって、口を押えて……)
     そうだ、ルシフェルと口論した。そして、彼にとって聞くに堪えないだろう言葉を吐きだすと、まるで口をふさぐようにキスされた。とっさのことだったが、彼を突き飛ばして逃げ出した。気持ち悪くて、口を強く押さえて駆け出した。
     ――その瞬間、急に頭がクリアになり、全てを思い出した。いや、思い出してしまった。
    「わた……し……」
     思い出した衝撃からか、少し茫然としてしまった。
     そう、記憶の無かった自分が考えた通りだった。自分はルシフェルを異性として愛していなかった。当然、結婚だってする気もなかった。今ははっきりと当時の感情を思い出すことができた。
     そして、記憶を思い出したジータは一番恐ろしいことに気が付く。
     それは、ルシフェル自身、記憶喪失になったジータを騙そうと嘘をついたつもりは全くないことだ。彼は、嘘を言ってジータと結ばれようとしたわけではない。彼は彼の目から見た、彼が信じていた真実をただ告げただけなのだ。ルシフェルは本気でジータとは在学時代から両想いだったと信じている。きっと今でもそれは変わらない。
     三者面談までの記憶は、ルシフェルの話してくれた通りだ。そしてジータもルシフェルを慕っていた。優しくて誠実なルシフェルを尊敬していたし、教師という枠を超えて、自分を守ってくれる兄や父のように感じていた。それは事実だ。
     異なるのは三者面談からの記憶だ。
     
      ◆◇◆◇◆
     
     三者面談で、ジータは進学を諦めなくてはならないと泣いていた。
    「ジータ……私は」
     ジータが大泣きしたからだろう、ルシフェルの雰囲気も違った。どこか重々しさを感じる。彼は一呼吸置くと、そっと口を開いた。
    「私は、君のことが好きだよ。だから、君がどんな決断をしようと私は君の味方だ。何があっても君を守る。ずっと傍に寄り添う。だから、私を信じてついてきてほしい」
     それはジータとしては、教師としての発言だと思っていた。もしかしたら、普段であれば言葉選びがおかしいことに気が付いたかもしれない。しかし、進学を断念せざるえない状況で心が弱っていた。だから、あまり考えずジータはルシフェルに甘えてしまった。
    「ありがとうございます。……私、先生に甘えっぱなしでダメですよね。でも」
     少し呼吸を整え、ジータはニコリと笑って言ってしまった。
    「私も先生のこと好きです。何があっても先生についていきます。私、先生のこと、信じていますから」
     このジータの一言で、きっとルシフェルは両想いだと勘違いしたのだろう。
     
     そして、ルシフェルの言う通り、特に大きく変わった様子はルシフェルになかった。だから、ジータもルシフェルが勝手に両想いだと思い込んでいることに気が付けなかった。
    「ジータ、珈琲は美味しいか?」
    「はい、美味しいです」
     よく呼ばれることは確かにあった。でも、そもそも接点が多い故気が付かなかった。化学準備室に呼ばれて、用事を済ませたら、お礼にと珈琲を御馳走してくれた。美味しいとニコリと笑いかけると、彼も嬉しそうに笑い返してくれた。
     それから、些細な雑談をする。学校に関することから、私生活のこと、いろいろ話した。
    「ジータ、相談があるのだが」
    「どうしました?」
     そして、たまに相談に乗ることがあった。
    「悩んでいるんだ。君だったら、どの本棚が好ましいと思う?」
     突然、家具屋のカタログを見せられる。
    (先生、迷ってるのかな……)
     もしかしたら、決められずにちょうど悩んでいたのかもしれない。
    (普段お世話になってるから、私のできることで恩返ししないと!)
     ルシフェルの力になりたいと思い、カタログを真剣に見比べる。
    「お部屋にもよると思うんですけれど、私は木のぬくもりのある、こっちの棚の方が好きですね。私、一人だから、温かい部屋に憧れがあるんです」
    「なるほど。確かにいいかもしれないな」
    「参考になれば幸いです」
     ルシフェルはいつも、ニコニコと嬉しそうにジータの話を聞いてくれたし、ジータも楽しかった。
     
     三年になると、学校に来ていた求人の企業に応募を始めた。
    「ルシフェル先生、ごめんなさい」
    「いいんだ。これが教師としての仕事だから」
     ルシフェルはとても親身になってくれた。履歴書に書く志望動機なども一緒に考えてくれた。
    「これで出しておくよ」
    「お、お願いします……」
     しかし、ジータの元に、採用の連絡が来ることはなかった。
    「ジータ、伝えにくいことなのだが……」
    「今回もダメだったんですね。仕方がないですよね」
     受からなかったことは残念だ。けれども、ルシフェルに毎回そんな報告をさせる自分が嫌だった。
     ここまで落ちるということは、自分に何か原因があるのだろうか。成績は自分で言うのも気が引けるが、奨学生だから優秀な方ではある。学校生活も真面目に過ごしているつもりだ。敢えて言うなら。
    (両親いないから……かな)
     そればかりはどうにもならない。
    (もう、疲れたな。ちょっと、休もう)
     応募可能な求人は、だんだん少なくなっていった。だから途中でジータは、在学中の内定を諦めることにした。昨日コンビニで見かけたフリーのアルバイト求人誌には、たくさんのアルバイトがあった。校則でアルバイトは禁止されているため、卒業してからその中から仕事を探せばいいと思った。
     その時期にはもう授業は終了しており、大学受験をする生徒のための特別授業になっていた。進学の予定の無いジータは、特別授業に出る必要もなく、心の傷を癒すように少しだけぼんやりと時間を過ごした。
     
     そして、あっという間に卒業の時期になった。
     二月末になると、卒業式の予行練習で、何度か登校する日が出てきた。その頃には、就職先が決まらなかったことは割り切れるようになっていた。それよりも、楽しかった高校生活、明るい気持ちで卒業式を迎えようと思えるようになっていた。
    「ジータ」
     予行練習で登校したある日。ルシフェルに呼び止められた。
    「どうしました、先生?」
     そういえば、ずっと学校に来ていなかったから、こうして会うのは久々のような気がする。
    「受験の生徒の対応に忙しく、君をないがしろにしていると勘違いされていないかと心配で」
    「そんなことないですよ。大丈夫です、先生は過保護ですね」
     ジータはクスクスと笑うと、ルシフェルも少しだけ笑ってくれた。
    「あと、卒業式の日なのだが」
    「卒業式の日がどうかしました?」
    「全て終わったら、理科準備室に来てくれないか? 待っている」
    「わかりました」
     部長と顧問という間柄だった。何か伝えたいことがあるのかもしれない、このときのジータは、そのくらいのことしか考えていなかった。
     
     数日後の三月一日。ジータは高校を卒業した。卒業証書と卒業アルバムを受け取る。
    「ジータ……また、遊びましょうね」
    「うん、絶対遊ぼうね」
     基本的には進路はばらばらだ。地元に残る者もいれば、遠くの大学に進学する者もいる。友との別れと、終わってしまった楽しかった高校生活を思うと、自然と涙があふれてきた。
    「ジータ、私の卒アル、メッセージ書いてよ」
    「あ、私も!」
     そして、いろいろな友達と卒業アルバムにメッセージをお互い書きあう。
    「ジータ、ここに書いていい?」
    「うん、ここの空けてあるスペース以外なら、どこでもいいよ」
     ジータはあらかじめ少しだけスペースを空けておいた。
    (ここには、一番お世話になったルシフェル先生に書いてもらうんだ)
     そう、一番お世話になったルシフェルにメッセージを書いてもらおうと思っていた。しかし、ルシフェルは担任だったこともあり、次から次へとメッセージを書いて欲しいと生徒にせがまれ忙しそうだ。だから、理科準備室に呼ばれていたため、そのときにお願いしようと少しだけスペースをあらかじめ空けておいたのだ。
    (今までルシフェル先生に頼りっぱなしだったな。これからは、一人で頑張らなきゃ)
     ずっとルシフェルの優しさに頼りっぱなしだった気がする。ずっとルシフェルは傍でジータを支えてくれた。守ってくれた。これからは自分ひとりで頑張っていこうと、そう決意した。
     
     教室も人がまばらになってきた。ジータもある程度友達とも別れの挨拶を終えた。
    (そろそろ、行こうかな)
     よく見ると、いつの間にか、ルシフェルもいなくなっていた。きっと、理科準備室にいるのだろう。
    (あ、卒アル、忘れないようにしないと)
     卒業アルバムと筆記用具を手に持ち、旧校舎の理科準備室へと足を運ぶ。何度も足を運んだ理科準備室。これも最後だと思うと寂しかった。
    「先生、失礼します」
     いつも通り入室すると、ルシフェルがいた。
    「来てくれて嬉しい。今日で卒業だな」
    「そうですね。三年間たくさんお世話になりました。本当にありがとうございました。私、先生のこと、ずっと忘れません」
     ジータなりに、想いをこめた感謝の言葉だった。しかし、ルシフェルは少し不思議そうな顔をした。
    「先生?」
     何か気に障るようなことを言ってしまったのか、少しだけ心配になる。
    「いや、君も不思議なことを言うなと思って」
    「不思議なこと?」
    「忘れるなんて、おかしいだろう」
     ルシフェルは少しだけ笑ってそう言った。しかし、目が笑っていない。少しだけ心がざわりとした。
    (先生って、自惚れない方だと思っていたけれど)
     つまりルシフェルは、ジータが自分を忘れることは絶対にないと言いたいのだろう。
     ルシフェルは基本謙虚だ。女子生徒にモテることも、自分の年齢が原因だと思っている。あれだけ輝かしい容姿ゆえだとは全く思っていないところが、その証拠だ。だから、奇妙だと思ってしまった。
    「ようやく卒業出来た。この日をずっと待っていた」
     そんなジータの様子を気にすることなく、ルシフェルはぽつりとつぶやいた。
    「……」
     いつもだったら、そうですね、など相槌を打っていた気がする。でも、ルシフェルの様子がいつもと違う気がした。少しだけ……何となく、怖い。
    (早く、卒アル書いてもらって、帰ろう……かな)
     旧校舎の古いどこか不気味な雰囲気もあっただろう。卒業式後の静寂もあっただろう。きっとそのせいだ。そう自分に言い聞かせる。
    「あの、ルシフェル先生、卒アル書いてくれませ……」
     卒業アルバムと筆記用具を差し出そうとする前に、腕を引っ張られる。そして、抱きしめられた。
    「……」
     何が起こったのかわからなかった。わからなくて頭が混乱している。固まってしまった。
    「ようやく、抱きしめられた。ジータ。柔らかくて、いい匂いがする」
     名前を呼ばれ、顔を少しだけ埋められたところで、頭がはっきりとした。ようやく事態を理解する。
    「や、やめてください……!!」
     ジータは少し突き飛ばすように、ルシフェルから離れる。
    「先生……?」
     きっと酷く怯えた目でルシフェルを見つめていただろうと、鏡を見なくても簡単に想像がついた。
    「すまない。我慢できなくて、君に聞く前に抱きしめてしまった。これでようやく、君と結ばれるのだと思ったら、抑えがきかなかった。許して欲しい」
    (結ばれる……? 何……?)
     何を言っているのかはわからない。足が震える。持っていた卒業アルバムをぎゅっと抱きしめ、一歩後ずさる。
    (目の前にいるのは、ルシフェル先生じゃないの?)
     ジータの知っているルシフェルはこんなことしない。ジータの知っているルシフェルは穏やかで優しい人だ。頭が酷く混乱している。そのジータに畳みかけるように、ルシフェルは言った。
    「ジータ、私と結婚して欲しい」
     彼は小さなケースを取り出し、ジータの前で開いた。中には美しい銀色の指輪が輝いていた。
     身長の高いルシフェルを見上げるように見つめる。彼は頬を赤らめて微笑んでいた。でも、ジータの知っているルシフェルの笑みではなかった。目を細めてジータを見つめているが、その視線には熱っぽい、欲のようなものを感じた。背筋がゾクリとする。
     この状況、ジータもルシフェルの真意を認めざるをえなかった。
    (全然……気が付かなかった。ルシフェル先生、私のこと……そういう目で見てたんだ)
     目の前の麗しい彼がプロポーズをする姿は、知らない人が見たらドラマのワンシーンのようにキラキラと輝いているように見えただろう。しかし、ジータにとってはとてもとても恐ろしい光景だった。尊敬していた人から突然そんな感情をぶつけられ、恐怖や衝撃のあまり、動けずにいた。
    「君も望んでいただろう? 遅くなってすまない」
     その一言で、更にジータは混乱する。
    (どういうこと? 先生、私が、先生のこと好きだと勘違いしてる……?)
     確かに、好きだ。ジータはルシフェルのことが好きだ。しかし、それは彼が自分に抱く好きとは違う。
     そこでようやく、彼との好きがすれ違っていたことに気が付く。
    「受け取ってくれないのか? 指輪のデザインが気に入らなかったか?」
    「え……」
    「私たちの間柄を考えると、相談もできなかった。だから、君の白くて細い指に似合う指輪を勝手に選んでしまった。わかった、今度買い直そう」
     受け取ってくれないジータに何か思ったのか、そんなことを言いながらルシフェルは一旦指輪をしまう。
    「先に婚姻届を出しに行こう。少しでも早く君と夫婦になりたい。もう用意しておいたよ。君の名前を書けば終わりだ」
     指輪の代わりに差し出されたのは、婚姻届だ。ジータは実物を初めて見た。そして自分の名前以外全て埋めてあることに戦慄した。
    「一緒に出しに行こう。そうか、卒業式が結婚記念日になるのか。忘れられない日になりそうだ」
     ジータはそんなこと望んでいない。それなのにジータの意見など聞かずに彼はそんなことを言う。どうして、どうして彼はそんなことをするのか。ジータは全然わからない。ただ、卒業アルバムを抱きしめて震えていた。
    「せん……せい」
    「ん?」
    「わたし……そんな……こと……」
     言わなくては。ジータの本当の気持ちを言わなくては。あなたの勘違いだと言わなくては。そう思うが、心臓がバクバク音を立てている。冷や汗が流れる。怖い。気持ち悪い。自分は彼と結婚するつもりはないし、そもそも異性として好きなわけでもない。それを言葉に紡ごうとするが、震えた唇は上手く紡ぐことができない。
    「もしかして嬉しくて言葉がでないのか? 無理しなくても大丈夫だ。私も嬉しいよ。大好きな君とずっと一緒に居られる。あぁ、そうだ、新居も決めておいたよ。明日から生活ができるように、家具も揃えてある。明日からは朝から夜までずっと一緒だ」
     ジータの態度が、嬉しくて言葉が詰まったと判断したのか。彼は少し照れたようにそう言った。
    (どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう)
     ずっと心の中でそう思っていた。どうしたらよいかわからない。とにかく怖い。恐怖で体が先ほどから震えている、上手く動けない、歯がカチカチと小さく音を立てている。
    「近くには公園もあるんだ。子供が出来たら、子供と遊ぶのにいいと思う。温かい家庭を作ろう。君も子供もたくさん愛する。大切にする」
    「い……」
     もう、ジータのメンタルが限界だった。
    「嫌ぁ……!!」
    「!?」
     卒業アルバムを投げつける。一瞬ルシフェルの気がそちらに取られたのを確認し、理科準備室から逃げ出した。
     
    (何なの、何なの?)
     わけがわからない、その一言だ。
     ルシフェルに性的な目で見られていた。それだけでもショックだった。兄のように慕っていた人なのだ、あの優しさも、ジータのことをそういう目で見ていたからなのだろう。ジータは純粋に慕っていたこともあり、裏切られたような気がした。
     それだけでもジータを混乱させるには十分なのに、彼の用意周到さに狂気を強く感じてしまった。渡されそうになった指輪に、記入済みの婚姻届。彼は明らかに、この日にプロポーズする予定だったのだろう。それに加えて、一緒に住むマンション、将来子供を作る前提で準備していたなんて、どう考えてもおかしい。
     ジータが派手に逃げたからか、追って来そうな雰囲気はなかった。あれだけ騒いだ、きっとルシフェルもジータにその気がないと理解してくれたのだろう。ジータは足早に教室に戻り、鞄を持って帰路に就いた。
    (わからないよ……わからない……)
     もう学校から大分離れた。追ってくることもなさそうだ。家に帰りようやく落ち着くことができた。それでも、ジータは心の整理をすることができなかった。誰にも相談することもできなかった。日課となっていた日記に書き込み、あとは恐怖で震えていた。プロポーズをされた時の、彼の目が怖くて忘れられない。思い出すだけで体が震えた。夜もなかなか眠ることができず、朝方まで起きていた。
     
     翌日、ピンポンというインターフォンの音で目が覚めた。
    (やだ、今何時?)
     見ると時計はそろそろお昼近くを指していた。寝つきは悪かったが、眠ってしまったらぐっすりと眠ってしまったらしい。寝起きのパジャマ姿だ。居留守を使うことにしたのだが。ピンポン、ピンポン、インターフォンが鳴りやまない。
    (何……怖い)
     玄関に近寄り状況を確認する勇気はなかった。インターフォンを鳴らしているだろう来客者が向こうに居る玄関を見つめることしかできない。
    「ジータ」
     突然、ドアの向こうで名前を呼ばれた。ひやりとする。そう、忘れもしない、何度も名前を呼ばれた。ルシフェルの声だ。
    「昨日はすまなかった。私も気がまわらなかった。許して欲しい」
     もう会わなくて済むと思っていたのは間違いだった。そうだ、担任である彼は自分のマンションを知っている。ワンルームのマンションゆえ、玄関のドア一枚しか隔てていない。昨日と同じ恐怖を覚える。ベッドに丸まっていた。その間もインターフォンは鳴り続けている。きっと、彼は自分が部屋にいることを知っている。けれども鳴らし続けているのだろう。
    (怖い……怖い、早く帰って)
     ジータの祈りが通じたのかわからない。でも、その数分後インターフォンは鳴りやんだ。
     その代わり。ドアの方でカタリと音がした。恐る恐る近づく。紙が一枚落ちていた。寝る前にはなかった。きっと、新聞受けから、ルシフェルが入れたものだろう。ジータはその紙を読まずに、細かくちぎってゴミ箱に捨てた。
     
     それから、彼は次の日もやってきた。状況は一緒だ。
    (早く、帰ってよ……)
     ジータは、一人震えていた。彼は何度かインターフォンを押し続けながら「会いたい」「私が悪かった」など、声をかけていた。
     その言葉を無視するように、寝具を頭からかぶり、耳を強くふさいでいた。そして、十分程鳴らし続けると、ジータが出てこないことがわかったのか、何かメモを残して去っていった。
     これがずっと続くのか、誰かに相談したいが、誰に何と相談したらよいかわからない。食事も喉を通らず、ノイローゼになりそうな気がしていたときだ。
     突然彼は来なくなった。最初は逆にその平穏が怖かった。しかし、数日立て続けに来なかった。
    (もしかして、今度こそ諦めてくれたのかな)
     きっとそうに違いない。そう思うとほっとした。
    (明日は久しぶりに出かけよう。食料品もないし。……それに、アルバイトも探さなきゃ。まだあのコンビニに、無料の求人誌置いてあるかな)
     
     翌日。ジータは予定通り出かけることにした。卒業記念と気分転換に、奮発して何か美味しいものを食べよう。そう思い、お昼少し前に家を出た。
     玄関を出る。春らしい外の匂いがした。久々の外は空気が美味しい。マンションの階段を足取り軽く降りたときだ。
    「ジータ」
    「!?」
     名前を呼ばれ腕を掴まれた。とっさのことで、訳が分からずそのまま引っ張られる。
    「せ、先生……」
     引っ張ったのはルシフェルだ。顔が引きつるのが分かる。距離を取ろうとするが、腕を掴まれており、それも不可能だ。
    「もしかして、ここでずっと……」
    「あぁ、会ってくれそうになかったから、ずっと待っていた」
     まさか、ずっとこんな近くの距離で待ち伏せされていたなんて。ジータをまた恐怖が襲い掛かってきた。
    「君は、理科準備室のときから、何か態度がおかしい。もしかして私は、君を怒らせてしまったのだろうか?」
     しかし、そんなジータの気も知らずに、ルシフェルは困ったように尋ねる。
    「怒らせる、ってどういう……」
    「プロポーズが遅かったと怒ってしまったのか?」
    「え……」
    「私は勝手に君も同じ気持ちだと勘違いしていた。お互い、卒業まで待って教師と生徒という関係が終わってすぐに結婚しようと思っていると、思い込んでいた。でも、君はもっと早くプロポーズして欲しかったのか? 確かに、私が教師をやめればそれも可能だったかもしれない。けれども、私は君と少しでも長く過ごしたかった」
     彼の回答はジータの常識の範囲を超えていた。何を言っているのかわからない。余計怖くなる。
    「違う! 違います……! そんなこと思ってない!」
    「なら、やはり指輪のデザインが気に入らなかったのか? 何が君をそこまで怒らせてしまったのか、教えて欲しい。君の不快だと思うところは、必ず直す。だから……!」
    「私は、先生と結婚しない、好きじゃない!」
    「だから、悪いところは何でも直そう。私は君が好きだ。君を妻にしたい」
     きっと、この人には何を言ってもダメだ。はっきりと言葉にした。けれども彼はそうとしか言わない。同じことの繰り返しだ。
    「離して……! こんなことしている暇ないんです! 私、アルバイト探さなきゃ……!」
    「無理して君が働く必要はない。私の給料で暮らしていける計算だ」
    「私は、あなたに養われるつもりはない……!」
    「あぁ……、また君を怒らせるような言い方をしてしまったかもしれない。私の言葉が君のプライドを傷つけてしまった。そうだな、君は他人思いの優しい性格だ。だから、私のことを思って自分も働くと気を遣ってくれたのだな」
     もう、話をするのも嫌だった。こんなに話の通じない人だっただろうか。腕を振り払おうと何度も試みるが、彼の力は強く全然びくともしない。
    (誰か助けて)
     誰か通りかからないかと目を配らせるが誰も通りそうになかった。
     そのとき、彼はジータの予想しなかったことを言った。
    「君は、私のことを思って、あれほど熱心に就職活動をしていたのだろう? それは私も気づいていた。だから、今回の失言を許して欲しい」
    「え……」
    「私は君のことをわかっている。本当は就職活動中の君に、私の給料で君も養えることを伝えたかった。でも、君はこれと決めたら言うことを聞かない傾向がある。だから、そもそも応募自体しなかったのだから」
    「……」
     初めて気が付いた。ジータはどこの企業にも採用されなかったわけではない。そもそも、ルシフェルが応募すらしていなかったのだ。
    (この人のせいで、私の人生滅茶苦茶だ……)
     この人を慕っていた自分は何て愚かなのか。就職の邪魔をされた。ジータの気持ちも考えずに自分の気持ちを押し付けられた。楽しかった高校生活も全て汚されたような気がした。先ほどまでは、恐怖で血の気が引いていたが逆に怒りがわいてきた。
    「……い」
    「?」
    「大っ嫌い……! 二度と、私に近寄らないで! 大っ嫌い!」
     ジータの心からの言葉だった。ルシフェルが酷く傷ついた顔をした。しかしジータの心は痛まなかった。
    「もう二度と、私の前に現れるな……!!」
     そう言った直後、腕を再度引っ張られる。引っ張られると思ったときにはもう遅かった。
    「っ……!?」
     言葉を紡げないように、キスで口をふさがれた。
    「んっ……んん……!」
     気持ち悪い。涙がこぼれる。吐き気がする。
    「ジータ、どうしてそんな酷い言葉を」
    「酷いのはどっ……っ……! んぅ……!」
     一瞬唇を離し、悲しそうな顔でそう言われた後、また口をふさがれる。
    「んっ!!」
     思いっきり体当たりをした。彼の唇が、腕が離れる。
     とにかく、人がいるところに逃げよう。走り出す。唇に残る感覚が気持ち悪い。吐き気がする。口を押えながら、とにかく走る。どこでもいい、ここから離れて、人が多い場所に行こう。
    (もう、こんなの嫌だ……)
     走りながら強く思う。自分が何をしたというのだ。いっそうのこと、全て忘れられたら、どれだけ楽だろうか。
     そのとき、目の前に横断歩道が見えた。ちょうど今、青になった。そのまま減速せず横断歩道を渡り始めたときだ。キキキキと、きつくブレーキをかける音が聞こえた、思わずそちらを見ると、ちょうどジータめがけて車が突っ込んできた瞬間だった。
     
      ◆◇◆◇◆
     
     はっきりと全て思い出した。
    (私……)
     何度も肌を重ねたことを思い出す。鳥肌が立つ。また、吐き気がしてくる。一緒に涙がこぼれそうになる。
     そのとき、玄関の方からドアの開く音がした。
    (帰って……きた……)
     いつの間にか、夕方になっていた。そして、リビングに居ない自分を探しているだろう足音がした。逃げることもできず、ジータはその場に座り込んでいた。
    「ジータ、ただいま」
    「……」
     すぐに見つけられた。思わず後ずさる。体が震える。
    「ジータ、顔色が悪い。体調が悪いのか? 心配だ」
    「私……思い出した」
    「もしかして、記憶を!?」
    「整理していて、思い出した……」
    「ジータ……!」
     すると、ルシフェルは、嬉しそうに笑って、ジータに駆け寄り抱きしめた。
    「ひっ……!」
    「よかった。記憶がなくなっても君だとは思っていた。変わらず愛していた。けれども本当は、記憶がずっと戻って欲しかった。私との思い出を忘れて欲しくなかった。ジータ……」
     少し腕を緩め、顔を見つめられる。ルシフェルはいつもと変わりない。きっと、彼は今でもそうだ。高校時代は両想いで過ごし、卒業後に些細な喧嘩をして、事故に遭ったと思っている。そう、嘘をついているつもりはないのだ。
    「うっ……う……」
     吐き気がこみ上げてくる。ルシフェルを押しのけ、トイレに駆け込む。
    「ごほっ……ごほ……」
    「ジータ、大丈夫か?」
     そして、優しく背中をさすってくれる。そして、そっと言われた。
    「恐らくそうではないかと思っていたのだが――」
    「……」
     絶望とは、このことを言うのか。ジータは思った。どうして自分はこんな目に遭わなくてはならないのか。
     彼の言葉を信じたくなかった。けれども言われてみればジータにも心当たりがあった。
    「あの部屋も早く使えるようにした方がよさそうだな、ジータ」
     もう、どうすればよいかわからなかった。力が抜けると、そっと彼は抱きしめてくれた。
    「大丈夫だよ、これからもずっと君を守ると誓おう。愛している」
     彼はそっと頭を撫でてくれた。
     ぼんやりと思う。彼は真面目だ。嘘は言わない。誠実だ。きっと、ジータが死ぬまで、永遠にルシフェルはジータを愛し続けるだろう。何があっても守り続けるのだろう。
     だから、少しでもこの腕の中が心地よいと思えれば楽になれるのではないか、そう思った。しかし、そんな日、来るかどうかもわからないだろうと嘲笑する自分もいた。
    (思い出さない方が……よかったのかな)
     いや、違う。きっと。あのとき、目覚めなければよかったのだ。何も知らずに、そのまま眠り続けることができれば幸せだったのだろう。王子がいつまでも訪れることのないねむり姫のように。
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