谷底の魔女の家「大体、私の口真似をするのが気に入らない! 『私』なんて言って!」
癇癪持ちの魔女がそう言う。いつも怒り出すと訳の分からない難癖をつけてくる。一人称が気に食わないなんて何年も一緒に暮らしていて今さら言い出すようなものではない。
それに口真似も何も、私が人間の言葉を覚えたのはこの魔女からなのだから似たような口調で喋るのも当たり前のことだ。
「じゃあ、『僕』?」
新しい一人称の提案をすると、さっきよりも眉間の皺が深くなり片方だけ外に出した左目もさらに吊り上がって嫌そうな顔になる。なにかいっとう気に入らないらしい。怒りよりも嫌悪を感じさせる顔だった。
「『俺』?」
「フン、それならいいわ」
その日からは私の一人称は俺になった。
魔女はサンサカという名前で、こういう風にいつもムカムカしていて、憎まれ口を叩く人間だった。他人から嫌われそうなものだが、それ以上にサンサカの方が他人をめっぽう嫌いで、俺が谷底のこの家に住み着くまではひとりで暮らしていた。
しかし谷で採れる草花を煎じて薬を作る腕は確かで、行商人や薬屋がたびたび訪れてはそこに薬を卸しているのだった。
そういう魔女にも、人付き合いはあるようでたまにどこかへ出かけていって、嫌な顔をして帰ってくる。
その日は一層ぶすくれた顔をして帰ってきた。いつもと違って、大荷物を背負って、小さな蓋つきの籠を両手で持っていた。
「本当にありえない!! いきなり面倒を見ろだとか! 命をなんだと思ってるわけ!? あのクソババアとクソジジイども!」
籠の中に入ってたのは子犬だった。サンサカは魔女の集まりで子犬を押し付けられて、面倒を見るための一式を買い揃えて帰ってきたのだ。
「うちにはもうデカい妖精が住み着いてるってのに! なにがちょっとは騒がしい方が気が紛れるよ! 何の気を紛らわせろってのよ! それに生きたものを使って良いわけないでしょう!?」
サンサカは今までで1番長い文句を大きな声で垂れ流しながら、床に置いていた干した薬草だの薬箱だのを、犬の手の届かない所にしまっていった。
「顔を合わせるたびに忘れろ忘れろって! 私があのクソ共の名前を覚えてなかったら嫌な顔して説教する癖に! ふざけやがって! 何様のつもりよ!」
子犬は何を勘違いしてるのか合いの手のように元気よくきゃんきゃんきゃんと吠える。大声を出していたサンサカは長く息を吐くと、躾けないといけないわね、と籠を撫でて言った。サンサカは犬には一度もうるさいと怒鳴ることはなかった。
サンサカは犬のことを「そこの」とか「毛玉」とか「丸いやつ」とか呼んだ。俺には名前をつけたのに犬にはつけないのかと聞くと、「そういうのはもういい」と言われた。何がもういいのかは分からなかった。
肝心の犬は「おやつ」とか「ごはん」と呼ばれるのが1番好きなようだった。
犬はサンサカが呼ぶように、黒と茶色と白の毛玉みたいな小さい犬だった。走り回るのが好きで、床中を走り回り、机と椅子の脚をかじってボロボロにした。水飲み皿で水浴びをして床をびちゃびちゃにもしたし、泥だらけの足で家中走り回って床を土まみれにしたこともある。あんな小さい体で家の壁紙を剥がした時は俺も関心した。
サンサカが薬草を採取している間に、外で犬の面倒を見るように言われて、犬が足の向くままに歩くのをずっとついて行ったことがある。
犬は好奇心旺盛でどこまでも歩き続けようとするので、すっかりサンサカの目の届かないところまでふたりで歩いていって、日が暮れる頃に家に戻ったらしこたま怒られた。犬は俺よりも反省している顔が上手かったので、俺だけで叱られる時よりも時間が短くなって助かった。
季節の変わり目には抜け毛を撒き散らして家中を毛だらけにした。どう見ても生えてる量よりも抜けている量の方が多く見えるのに、いくら梳っても犬の毛の量は変わらなかった。サンサカにこの犬は本当は妖精なんじゃないか? と聞くと、アンタよりもよっぽど賢いと言われた。俺は壁紙を剥がさないというのに。
何度も季節が巡って、何度も犬は家を毛まみれにした。次第に犬は歩いて行ける場所が少なくなり、床を走り回ることはなくなって、寝床で寝ていることが多くなった。無駄に吠えないようにサンサカが教えたというのに、家にやってきた頃のように吠えることが多くなった。
俺は犬と歩くのも好きだったが、じっとしていることも好きなので、夜でも昼でも犬のそばで寝そべってやった。
逆にいつもうるさいサンサカは言葉少なになって、日に何度も何度も犬を見に来た。
その日もサンサカは何も言わずに、犬を膝に乗せて、何時間でも撫でてやっていた。
「死んだのか」
「黙れ」
サンサカは籠に清潔な布を敷き詰めてその上に犬を寝かせた。それから庭に深く深く穴を掘って、底に籠をそっと置いて犬が気に入っていたおもちゃだの、毛布だの、寝床のクッションだの散歩道によく咲いていた花だのをみんな入れてやって、最後に籠に蓋をした。
「埋めるのか」
サンサカは答えなかった。
「そいつを食べてもいいか」
バシン! と音がして、サンサカに頬を叩かれたのが分かった。この人に暴力を振るわれたのは初めてだった。
穴を掘るために土まみれになっていたサンサカの手は、犬の大事なものや犬の入った籠に触れる前に綺麗にされて、今も土くれのひとつも着いていなかった。
「お前が妖精だろうと、この子の体を口にするのは絶対に許さない。私の体もだ。私が死んだ時は、お前はひと口も齧らずにこの子の横に埋めろ」
そうして俺は犬が埋められていくのをただ傍らで見た。サンサカの手はまた土まみれになった。
犬や犬の寝床がなくなった部屋の床は、広々として寒々しかった。それでもサンサカはまた床にものを置いたりはしなかった。
それはきっと、サンサカが俺がこの家に住み着くよりも前から誰も使う人間がいない車輪付きの椅子をいつでも使えるように手入れしていたり、サンサカの趣味ではない本がいつまでも棚に並んでいたり、いつも1人分余計に椅子や食器を保管しているのと同じことだった。
俺は寒々しいのは好きではなかったので、よく足を蛇のようにして床に寝転がった。サンサカは邪魔くさい、と俺の尻尾を蹴り飛ばしたが、やめろとは言われなかった。
サンサカが死んだのはそれから何年も後の冬のことで、言われた通りに犬が埋められた横に穴を深く掘って、手を綺麗にして、サンサカを穴に埋めた。
サンサカは寒いのが嫌いで、冬の間はずっと文句を言うので、冷たい土の中に置いていくのは嫌だったが、きっと言われた通りにしない方が怒るので仕方ない。そういえば夏の暑さにもずっと文句を言っていたから、せめて夏に死ねばよかったのに。犬と同じ季節に死んでしまった。
サンサカの家は、俺が引き継ぐことに決まっていた。人間でない俺に引き継がせるためにサンサカは色々な苦労をしたらしい。
サンサカは朝も昼も夕方も火を熾して炊事をし、合間に仕事をしていた。俺は人間とは同じものを食べないから、火を熾す必要がなくなって、ますます寒々しくなった。
床で長くなっていても紛らわせられないほどに寒々しかったので、俺は俺の一部を身から分けて、犬の形を思い出すことにした。
ひとつ作ってみて、なんだか色が違うな、と思ってそれを床に置いて、ふたつ目を作った。これもなんだか違う。床に置く。近づいてきたけれど、こんなだったかろうか。床に置く。よっつ目もなんだか違った。それを床に置いて、椅子に座った。作りすぎて片腕が半分なくなってしまったので、そこで一旦やめた。
床を見たら犬の形をした俺の手足が勝手にもちゃもちゃとじゃれ合って遊んでいる。
終わったら元の体に戻そうかとも思っていたが、犬が暴れているのを見ると床が寒々しくないのが好ましく思えたので、そのままにした。どうせまた手足は生えてくるので問題はない。
俺の手足だというのに勝手に動いて見てて飽きないので、よいものを作ったなと思った。ただ元は俺の手足なので、壁紙を剥がしたりはしない。別に剥がしてもいいと思うのに。
ある日行商人のひとりがサンサカの家を訪れて薬を買いたいと言うので、サンサカは死んだと言うと泣きに泣いて、俺は久々に火を熾して茶を出してやった。
サンサカの作っていた薬なら俺も作れる、と言うと「そうじゃない」とさらに泣かれた。難解な奴だ。
犬たちは泣きながら茶を飲む男のズボンの裾にもちゃもちゃ絡みついて遊んでいた。
ここに来るならサンサカの作った薬が必要だろうと思い、また7日後に来たら薬を用意してやると言って、足元の犬を撫でていた男を帰した。
きっちり7日後にまたやってきた男に薬を渡し、代わりに渡された硬貨をポリポリ食べたらものすごくギョッとされた。
それから男は真剣な商人の顔になって、薬を売り続けるなら薬の作り方の他にも色々なことを覚えないといけないですよ、と俺に力説した。
色々と面倒なことを言われ、面倒な手続きを経て、俺はサンサカの薬作りも引き継ぐことにした。その方がしないより良いと思ったからだ。
薬を作っていると、今でもたまにサンサカはあの冷たい土よりも俺に食わせてくれても良かったのではないか、と思うことがある。
俺は死んだら土になるものなのだから、遅いか早いかの違いで、同じことではないのか。
俺が死んでも肉が残るものだったら、サンサカに食べてもらいたかったが、サンサカはそれもしないのだろう。犬の横に、俺も埋めるのだ。
俺が死んで、土になる時は、ふたりが埋まっている場所の上がいい。そうするのは、きっとサンサカは怒らないだろう。
でも、まだサンサカの家があって、サンサカの仕事があるのだ。もう少しサンサカをこの世に残してやるのも良い。仕事は食べられないし、家も、食べるとサンサカは怒る。
もう少し、サンサカを覚えている人間がいる間は、この家の床を温めていたい。
おわり