# 覆水 盆にかえることはないけれど◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――――何を今更、という顔をしていたのかも知れない。
あの、ブラッドから。諸事情あってこの数年、随分と距離を置いていた実の兄から。
実の弟に抱くべきではない感情を、彼が抱えていた事情とは別にずっと持て余していたらしいことを、何の構えもなく聞かされた際、(懺悔のような告白を事前宣告する人間も、そうはいないだろうけれど)フェイスは自身の表情筋がどのような動きをしていたのか、全く思い出せない。
多少目を見開きはしたものの、目つきで何かを訴えたりだとか、衝動のまま口を開きそうになっただとか、そんな失態は犯していない――筈だ。恐らくは。生憎と、周囲には鏡も窓ガラスもなかったので正解はわからないけれど。
「……大事なことは何も話せないまま、自分の欲だけは口にしている愚かしさは、自覚している」
責めるような態度は出していないつもりのフェイスに、傷つけた方が傷ついたような顔をしてそんなことを口にしている点は些か腹立たしく思わなくもなかったが、フェイスは黙ってブラッドの言葉を待った。
曰く、
許さなくていい、と言われた。
何も話せないブラッドを、許す必要はないと。
それを聞いた瞬間、フェイスの肩から少しだけ力が抜けたのは事実だ。
フェイスの心の中に、ひとつのキャンバスがあった。
それは大小様々なペインティングナイフで少しずつ、着実に、ずたずたに引き裂かれていった。フェイス自身、投げやりになって適当に選んだ暗くて冷たい色の絵の具を、ぶちまけもした。
いっそのこと棄ててしまいたいと、何度も考えた。けれど昔そこに描かれていた、あたたかでやさしい色の何かを、その名残をなかったことにはできなくて。
大きな布を覆い被せて、物置の隅に追いやって鍵をかけることで、己の中の感情になんとか折り合いをつけたばかりだった。
許すだとか、許さないだとか。そういった区切りをつけるために、扉の鍵を開けたくはなかった。少なくとも、今は、まだ。できるなら、この先も。
だから。狡いとわかっていても、フェイスは遠慮もオブラートも使わずに、飾ることなく本音で答えた。
過去にフェイスも、同じ気持ちでいたことを。そしてそれを、自らの意志で手放したことを。これから先、同じ想いをまた抱くとも、抱かないとも、わからないことを。積極的に誰かを愛したいとは、思えないことを。
自身の感情を大きく揺らすことなく告げたフェイスに、ブラッドが本心、何を思って何を感じたのか。フェイスにはわからない。わかりたい、と強く思うことは多分、もうない。期待することはもう、とうに諦めたのだから。
そうしてその日から、フェイスとブラッドの関係は多少の変化を迎えた。それを提案したのはブラッドで、フェイスは積極的に拒絶しなかった。(消極的に承諾したわけでもなかったが。)
「どうかしたのか?」
キッチンに立ってぼんやりとしていたフェイスを案じてか、リビングで書類に目を通していたはずのブラッドが声をかけにきた。
「……珈琲、淹れようかなって。飲む?」
「ああ、いただこう」
フェイスの態度に、何か察することがあったのか、そうではないのか。どちらであっても、構わなかった。今のフェイスにとって重要なのは、息がしやすいか、そうでないか。それだけだ。
並び立ったブラッドはフェイスの横髪に手を伸ばして、耳にかけた。それを合図と取ったフェイスが僅かに顔の向きを変えれば、頬へ、唇へと、ブラッドの薄い唇が触れる。
ふとしたときのハグやらチークキスやら、こういった物理的なキスやらは、子供の頃に存分に与えられ、フェイス自らも進んで行っていたスキンシップと殆ど変わらない温度感だった。
情欲を孕んだ瞳ばかり目にしてきたフェイスにとって、それは何よりも安心できる温もりと触れ合いだった。見返りを求めてこない、押し付けがましくない熱量は、サンルームで貪る微睡みのように心地が良い。
「……ん、」
「……フェイス?」
「んん……きもちい、だけ」
「……そうか」
「ん……」
軽く触れ合っては離れて、角度が変わって触れ合って、また離れる。
啄むだけのそれが深くなることもあれば、リビングのソファに寝転がって体を寄せ合ったままうたた寝をすることもあるし、寝室で朝まで過ごすことも稀にある。
お互いメインの居住はタワーであるため、シングル向けのマンションに用意したベッドは然程大きくはないが、長身でそれなりに鍛えている男二人が多少激しく軋ませても、壊れることはない。
まさかこの兄は、そんなことまで事前に想定して家具屋で手配を行ったのだろうか。そう考えると、ふふ、と笑い出しそうになる。
――――ずっと、息ができなかった。
何が間違っていて、何が正しくて、何を選べばよかったのか、どうすればよかったのか、わからなくて。
最後には必ず導いてくれた、たった一人の道しるべを失って。光の先はいつまで経っても遠くのまま、フェイスの足元を照らすことなく、輝き続けていた。
ようやく少しだけ近づけたところで、手を伸ばせば火傷をしてしまいそうだった。
だから、フェイスは諦めた。
そうして初めて、ほんの少しだけ、呼吸が楽になるすべを知った。
「…………愛している、フェイス」
何を、今更。フェイスはずっと、愛していた。
今更、何を。フェイスはずっと、ずっと愛して、いたかった。
「うん。しってるよ、ブラッド」
# 次にこの温もりを失うまでの、延命処置でしかないとしても。