蝶のとまり木「ねぇ、毒喰い女」
彼女は私をそう形容した。
綺羅びやかな豪華なドレス。艶のある髪。優雅な所作。そして、誰もが見惚れる美しい顔。西洋人、と言われても納得する顔の造り。高い鼻、丸く大きな瞳。その瞳に刻まれた文字さえなければ、彼女は完璧なお姫様だった。
「何でしょうか」
「こっちの調合の方が、俺は嫌だなぁ」
私が作業をしている机に腰掛けて、彼女はそう言った。彼女が嫌、と言う事は鬼が嫌、と言う事。行儀の悪い事をしているのに、それすら上品に見えるのは彼女だからか。
「では、こちらにしましょうか」
目の前の試験管を取り、この中身の配合を書き記す。私が書き終わった頃を見計らって、彼女は私の手から試験管を奪った。そして、何の迷いもなく中身の液体を飲み干した。
試験管が木製の床に落ちた。硝子の割れる音と、人が倒れる音。どちらもした。床の上で悶え苦しむ彼女を見つめ、その経過を観察する。吐き出された血。溶けた身体。飛び出た眼球。書き込む音と、彼女の苦しむ声しか響かない空間。ある程度観察出来たところで、彼女の口元に匙を押し付けた。匙に掬われた赤い液体を無理矢理飲ませて、また観察をする。
段々、彼女の息が落ち着いてきた。血は床に残ってしまったが、溶けた身体は元通り。彼女の顔は、元の美しさを取り戻した。
「お疲れ様でした。念の為、炭治郎君の血をもう一匙飲んで下さい」
私がまた匙を押し付けると、彼女は小さく口を開けて、それを飲んだ。
はぁ、と息を吐いた姿は憂いを帯びていて、やはり綺麗。彼女は乱れた髪を結び直した。何回か咳き込んだ後、彼女はいつもの光を眼に携えていた。
すっかり元通り。
「炭治郎帰ってくるから、もう行くね」
何事もなく、彼女は私の前から去った。
彼女がこの屋敷に身を置いて、どれだけの時間が経過しただろう。信じられる訳が無かった。よりにもよって十二鬼月を連れて帰って来て、「彼女はもう人を襲わない」と。炭治郎君の功績はあれど、到底聞き入れる事など出来ない。現にあのお館様も難色を示していた。
だから私は提案した。
『貴女が人を殺した分だけ、私が貴女を拷問します』
これを言うと、鬼は「ふざけるな」と怒りを露わにする。だから、話にならずに私は鬼を殺す。だけど、彼女はあっさり「良いよ」と言った。
『お前の言う通りにすれば炭治郎と居られるんでしょ』
私が何度、彼女の内蔵を引き摺り出して目玉を抉っても、彼女は、悲鳴の一つも上げなかった。そこまでして、たった一人の人間の少年と居たかったというのか。
疲弊した状態の彼女の目の前に、稀血を差し出しても彼女は見向きもしなかった。
認めなくてはならない。『魘夢』と言う鬼を。
彼女はとても素直な女性だと思う。
私達の頼み事や言う事に、露骨に嫌な顔をするけど、炭治郎君が一言言えば彼女は笑顔で頷いた。最初は白く見えたものも、炭治郎君が黒と言えば彼女は黒と意見を変える。私達が何を言っても聞かない事も、炭治郎君の名前を出せば、彼女はすぐさま意見を変えた。
今夜は炭治郎君も居るから、外出許可を出した。彼女は、許可なく部屋から出てはいけないと言う私の言い付けを律儀に守ってくれていて、たまに私が許可を出した時に部屋から出た。負傷した隊士の手伝いも、今の彼女の仕事。
街に出ていた二人が帰って来たのか、庭にその姿があった。私はそれを窓から眺める。
夜の闇の中、彼女の透き通る肌が青白く輝いている。炭治郎君は彼女が転ばないように手を取り、彼女もドレスを持ちながら彼に寄り添う。月の光に照らされた二人は、窓枠も手伝って一枚の絵画のよう。生憎、私は著名な画家は知らないけど、きっとそれらの芸術家達はこういった恋人同士の愛瀬を何気なく描くのだろう。
彼女は、庭にある大きな木の周りをくるくる回って炭治郎君をからかい始めた。炭治郎君が追いかけるけど、なかなか掴まえられない。悪戯に成功した幼い少女みたいに笑う彼女に振り回されている彼も、なかなか楽しんでいる様だ。
だけどそろそろ中に入れなくては、二人とも身体が冷えてしまう。
私は窓を開けて、炭治郎君に助言をした。
「炭治郎君、前ですよ。前。そのまま魘夢さんの手を掴んで」
「前…?」
炭治郎君は私に言われた通りに、彼女の前に現れた。いきなりで驚いた彼女の手を掴み、引き寄せた。もう、離さないと言っているみたい。
「わ……。ちょっと、毒喰い女。横からやめてよ」
「お二人の時間を楽しむのも良いですけど、冷えてきました。そろそろ入って下さい。女性が身体を冷やすものではありませんよ」
元気なお子を産みたいのならば。
それは言葉には出来なかった。
私は、結婚願望も子供を産みたいともまだ思っていないから良いけど、彼女は違う。
彼女は、炭治郎君の妻になりたいし、子供も産みたい。
どれも叶わないけども。
それは、彼女ももう割り切っている。泣いても仕方無い事。彼女に、普通の女性の幸せは訪れない。
彼女にその資格はないもの。
「早く中に入って下さい。アオイがあたたかい飲み物を用意してくれますから。お部屋に持って行って、またお二人で過ごして下さい」
早く、と二人を急かすと炭治郎君は彼女を抱き上げて、玄関へと回った。
本当に、仲良い。
◆◆◆◆◆
橙色の光を照らす洋燈に、蝶が寄ってきた。指を立てると、蝶は私の指に止まる。窓を開けて、蝶を広い世界へ戻した。
開けたその空間から、冷たい風が入ってすぐに窓を閉めた。少し冷えた指先を擦っていると、部屋の扉が叩かれた。
「入るよ」
そう言いながらも私の返事を待っているなんて、本当に律儀。私が承諾すると、扉が開かれた。
滑らかな絹の寝間着をまとって、普段よりはくだけた格好の彼女。だけど、やはり気品は隠せない。
彼女は片手に盆を持ち、器用に扉を閉めた。甘い香りがする。盆にはティーカップ。彼女の私物。アンティーク食器の収集にはまっていたらしい。もう飽きたと言っていたけど。
彼女はカップを私の前の机に置いた。
「牛乳、ですか?」
「温めた牛乳に蜂蜜を入れた。味見なんていらない簡単な飲み物だしね」
「私に?」
「俺が飲む訳ないでしょ」
彼女は机に腰掛けた。この部屋ではいつもそう。
「まさか、勝手に出歩いて勝手に台所を使ったと…?」
「誰にも会わなかったし、使った牛乳と蜂蜜は自分で買ったし」
「貴女は飲まないのに?」
「炭治郎の為だよ」
つまり、炭治郎君の為に備えていた物をわざわざ私に出してくれたと。
温めた牛乳と蜂蜜の香りが鼻腔をくすぐる。カップを持つと、冷えていた指先がじんわり熱を取り戻していく。
一口、甘い香りそのままが口いっぱいに広がり、喉を通った。お腹があたたかい。
「今夜は眠れそう?」
「…何故」
「眠り鬼を見くびらないで」
彼女は僅かな時間、私と同じ空間に居ただけで私が寝不足だったと理解した。だから、こんな行動を起こしたというのか。鬼である彼女が、私の為に。
「俺が優しいって勘違いしてる?違うよ。お前が倒れると炭治郎が心配するから。そんな寝不足の顔と冷えてがちがちの手で炭治郎に触らないで」
「まぁ、厳しい」
あくまで、全て炭治郎君の為。彼女は、鬼殺隊の手助けをしているつもりはない。彼女は炭治郎君の為にしか働かないから。それが回り回って私達の為になっていると、彼女は認めない。
「もう行く。そのカップあげるから、返さないで」
「私が口を付けたからもういらないのね」
本当に、素直なひと。嫌なものははっきり拒絶する。
机から降りた彼女を目で追いながら、牛乳を啜る。彼女は愛する殿方の元へと戻る。
「俺は、炭治郎の為なら何だってするよ。俺の術が炭治郎の助けになるなら惜しみなく使うし、炭治郎に死ねって言われたら死ぬし、炭治郎が言わなくてもお前らが炭治郎の為に死ねって言うなら、やっぱり死ぬ」
扉の前で、彼女は言う。私の方は見ない。
「でもお前らが炭治郎を傷付けるなら、俺がお前らを殺すから」
物騒な事を最後呟いて、彼女は消えた。
はぁ、と息が洩れる。
姉さん。姉さんならきっと彼女と向き合えたよね。私は、まだまだみたい。だけど、
「少しずつ、歩み寄ってくれてるみたい」
陶器のカップに描かれた花と蝶を見つめる。さて、と。あと少し頑張ったら休もう。
今夜は良い夢見れそう。