白黒はっきりお願いします。「申し訳ないが、今回の話は無かった事にして下さい」
目の前の、身なりの良い男はそう言った。苦々しく顔を歪めて、真っ白なドレスを着た少女に、そう言った。
少女は東洋人には珍しい翠色の瞳をまるくして、首を傾げる。
「今回のお話、とは?」
少女が無垢な表情で聞くと、男は苛ついた様に声を荒げた。
「婚約の話だ!そんなもの破棄する!どうせ、まだ正式に決まったものではない!」
「何故、私との結婚を嫌がるのですか?」
「っ、そう言うところだ!君の、そう言うところが嫌なんだ!人の話をまるで聞かない!世迷言みたいな空想をさも現実みたいに言って、こちらが困惑しているのを傍目に眠りこける!貴女みたいな異常な娘を妻に迎えるなど、おぞましい!」
男は少女にぶつける様に叫んだ。少女はやはり目をまるくして、「あぁ」と言った。そんな彼女の言動にまた、男は苛立つ。
「貴方様と結婚をすれば、お父様はお喜びになるのですが…駄目ですか?私は貴方様を妻としてお支え致します。貴方様の為なら勉学もやめて無知な女になりましょう。それでも、駄目ですか?」
男はゾッとした。少女にはまるで自分の意思がない。少女が賢い事は、男は知っていた。空想ばかりの娘だが、数字や語学に強い。良家の妻に求められる事は一切出来ない癖に、勉学に励み、男である自分を軽々しく抜く。そこも、また、気に食わない理由だった。
「とにかく、後日君の家に使いを出す。それをもって私達の縁は終わりだ」
吐き捨てる様に男は言って、少女の前からいなくなった。少女は首を傾げたまま、また「あぁ」と言う。
「白はお嫌いだったのかな」
―少女の顔に投げつけられた物がある。それは分厚い絨毯の上に転がり、じわりじわりと絨毯を黒く染めた。
高価なそのインク壺は、少女が目の前の父に贈った物。硝子で出来たインク壺があたった額からは血が流れ、黒いインクは絨毯同様に少女の白いドレスを黒く染める。
「何の為にお前がいるんだ。役立たず」
真っ白なドレスを侵食する黒。
父は少女を罵倒するが、そんな言葉は少女には入って来ない。
―あのインク壺はお父様の為に特別に作って貰ったのに。
―やっぱり結婚はお互い好きでないと出来ない。
―私がいるのはお父様の為なの?
―私はお医者様になりたいって、言ってるのに。
―お父様も、黒がお好きなんだ。
―『俺』も黒を好きになれば、良いのかな。
「お前の母親は聡明で、自身を弁えていた。何故あれが死んでお前が生きているのか」
お前が死ねば良かったのにな。
部屋に戻りなさい、と父が言った。
少女はお辞儀をして、父の前から去る。また、暫くは婚約者探しの夜会三昧。漸く良い殿方に巡り合って、医学書を眺める時間が出来たと思ったのに。エスコートしてくれる殿方もいなくなってしまったし、また笑い者だ。
長い廊下に面する大きな窓に近付く。星々が白く輝いていて、とても綺麗だった。
綺麗な白だった。硝子に反射する自分は白にも黒にもなれていなかった。
「汚いなぁ…。やっぱり黒が良いね。目立たないし」
そういえば、額の赤も既に黒くなった。
少女はにこりと笑うと、機嫌良く長い長い廊下を歩いて行った。
◆◆◆◆◆
名前を呼ばれて、魘夢は目を覚ました。
どうやらうたた寝をしてしまったらしい。左目を擦ると、その手は絡め取られた。
「あまり擦らない方が良いよ」
絡め取られた手に口付けをしながら、炭治郎が言った。
「疲れてる?やっぱり慣れない生活は大変だよな…」
「ん、平気。ちょっと数字とか見てたからかな」
何せこの家には食べ盛りの男が三人もいる。お金の支出を考えるのは、魘夢の仕事だった。
炭治郎は彼女を抱き締めて、自分の中に閉じ込めた。片腕で事足りる程、炭治郎にとって彼女は小さくか弱い。
「最近寒くなってきた。風邪をひくから、布団に行こうか」
「あ、ごめん。まだ敷いてないんだ。今やるから……んっ」
言葉が終わる前に、炭治郎に唇を塞がれた。カサついた彼の唇を感じながら、気持ち良さそうに目を閉じる。
愛しい。自分は本当に好きな人の妻になれたのだと、そんな喜びがある。
「ん、ぁ…たんじろ…」
「君は待ってて。俺がやるから」
炭治郎は優しく彼女の唇を解放すると、その髪を撫でた。
同じ部屋にある押入れから、器用に片手で布団を出すと、てきぱきと二人分敷いた。二つの布団はぴったりとくっついている。
魘夢は帳簿を閉じて本棚にしまうと、彼の元へと行った。炭治郎に言われるがまま布団に入ると、まだ冷たい感触に身体を震わせた。
「寒い?こっちに来るか?」
「うん」
二人が入るには些か狭い布団。だけど、暖かい。魘夢は炭治郎に猫みたいに擦り寄り、目を閉じた。
目を閉じると思い出すのは先程の夢。
罵倒され続け、考える事を放棄し、それがまた罵倒される原因となる。
役立たず。お前が死ね。異常。
仕方ない。鬼であった自分は誰かに恨まれても泣き言など言えないのだから。
でも、その言葉は鬼になる遥か前に言われた気もした。
「魘夢、魘夢」
「……ぁ」
さぁっと自分の体温が一気に下がった。炭治郎に名前を呼ばれて、目を開ける。見上げれば、愛しい彼がいた。
「魘夢、俺がいるから。大丈夫だから」
「た、んじろ…」
彼に抱き締められると安心する。
大好きな彼。
本当に、彼は自分の事が好きなのだろうか。本当に?
「ほん、と…に?」
「魘夢?」
「炭治郎は、俺が好き…?」
何を聞いているのだろうか。
炭治郎が自分の事を好きなのは間違いない。彼の方から自分に惚れたのだから。なのに、何故こんな事を聞いてしまったのだろう。
炭治郎は左右で色の違う瞳をきょとん、とさせて、穏やかに笑った。
「好き。愛してる」
それは望んだ答えなのに。
『貴女みたいな異常な娘を妻に迎えるなど、おぞましい』
白いドレスの姿では、誰も好きになってくれなかった。
彼と出会った時、黒いドレスを着ていた。より黒が好きになった。彼と繋げてくれた色だから。
今、自分は何色を着ているだろう。
「白い…服…」
炭治郎の腕から抜け、魘夢は布団から飛び起きた。寒いのに汗が止まらない。何か、焦っている様だった。
「(この、夜着は白。白!駄目、これじゃ彼に嫌われる。白い姿じゃ誰も好きになってくれない。黒、黒い服。着替えてる暇はない。すぐに黒くしなくちゃ!)」
炭治郎の静止する声も無視をして、魘夢は外に飛び出した。
黒い空に白い星と月。それらを睨んで、魘夢は地面にしゃがんだ。硬い地面に爪を立てて、必死に掘る。土を手に取り、白い夜着に擦り付けた。
しかし、黒と言うよりは茶色に染まるだけ。これでは駄目だった。
「どうしよ…。黒くしたいのに…。……そうだ」
魘夢は再び家の中に戻る。炭治郎と行き違いになったが、早く染めなければ彼の顔が見られない。
最近よく立つようになった台所には、何処に何があるかよくわかる。彼女は迷わず目当ての物を取り、自分の胸にあてがった。
「(血は乾くと黒くなる。真っ黒になるし、量も充分)」
砥がれた包丁はよく切れそうだ。これを、これを刺せばきっと沢山血が出る。それは黒く、白を染めてくれる筈。
「魘夢!何をしているんだ!」
炭治郎の怒鳴り声と共に、手から包丁が抜けた。音を立てて落ちた包丁は炭治郎が蹴って、遠くへと。
「今自分が何をしたのかわかっているのか!」
「炭治郎!何事!?」
騒ぎに気付いた善逸が駆けて来た。後ろには伊之助も、禰豆子もいた。三人は炭治郎と魘夢を見て驚いていたが、伊之助が炭治郎を手伝うように魘夢を抑えた。片腕だけの炭治郎では暴れる彼女を制する事が出来ないと、咄嗟に考えて。
「ぁ…ぁぁぁぁぁあ!!」
大きな声を上げて、魘夢が泣き崩れた。それは悲痛なもの。梳かした髪は乱れに乱れ、服は破けている。
幼い少女の様に、彼女は声を上げて泣いた。
―炭治郎の腕の中で、魘夢は必死に息をしていた。泣き過ぎて過呼吸を起こし、漸く落ち着いた。禰豆子が白湯を差し出すと、彼女はゆっくり飲んだ。
涙の跡を隠さず、ただぼうっと炭治郎に抱かれている。
「たんじろ……、たんじろ…」
「うん。ここにいるから、大丈夫」
炭治郎に頬を撫でられ、嬉しそうに笑う。
「たんじろー、は…すき?しろ、はすき?」
その言葉の真意は、わからなかった。突拍子もなく、意味もない。現に善逸や伊之助、禰豆子は魘夢の言葉に困惑をしていた。だが、炭治郎だけ。
「好きだよ。白も黒も、君が身に着けるものは何でも全部。君が好きだから」
「すき…うん、すき…」
目が微睡んでいる。寝る前の出来事であったのもあるが、泣き疲れたのだろう。それを邪魔する者は誰もいない。四人はただ、彼女が眠るのを見守っていた。
「後で身体拭いてあげるね。汚れちゃったもんね、お義姉ちゃん」
「そうだな、お願いするよ」
「愈史郎さんに鴉飛ばしとく…?」
「うん。善逸、後でお願い出来るか?」
「俺様は何をしてやれば良い!?」
「伊之助はそのままで」
改めて、家族が多くて助かった。炭治郎一人では彼女を見るだけで精一杯だったから。
穏やかな寝息を立てる魘夢に少し、物悲しい顔つきになる。なんとなく、炭治郎はわかっていた。彼女が取り乱した理由を。
「魘夢は、人間の頃の…鬼になる前の記憶を思い出していない。いや、多分少しは思い出しているんだろうけど、それを自分の記憶と認識していない」
鬼は元々、人間だった。そして、その記憶は鬼になると蓋をされる。奥深く、決して外されぬ蓋。だが、鬼が朽ちる時その蓋は外される。大なり小なり、鬼は自身が人間であった頃の記憶を思い出す。少なくとも、炭治郎が戦ってきた鬼はそうだった。
だけど、魘夢はそうではなかった。
彼女の命は朽ちなかったから。彼女は人に戻ったから。だから、彼女は思い出さない。
「時々、話してくれるんだ。夢を見たって。大きなお屋敷、陰口ばかりの学友、白いドレスを着た落ちこぼれの少女、侮蔑の目を向ける男性を父と呼んだ…他にも色々。俺は、これが彼女の記憶なんだと思ってるよ。彼女は死んだ訳ではないから、少しずつ思い出しているんだ」
だけどそれは、魘夢にとってはただの夢で自分の事ではない。慣れない生活で疲れてそんな夢を見るのだと、言っていた。
「俺は無理にそれらを『魘夢の記憶だ』と彼女に言うつもりはないよ。彼女にそのつもりはない。だから、皆もそう思っていて欲しい」
眠る度に、彼女は少しずつ思い出す。だけどそれは、忘れたい記憶。思い出さなくて良い記憶。
炭治郎はわかっていて何も言わない。変な夢を見た、と魘夢が言うなら、大変だったな、と返すだけ。それだけ。
「私、お湯沸かしてくる」
「じ、じゃあ俺は愈史郎さんに手紙を書くよ」
「俺様は!」
「伊之助親分は私のお手伝い」
妹と友人達は、ただ理解を示してくれる。それで充分。ばらばらに動く三人の背中を見つめ、視線は自分に抱かれて眠る魘夢に。
「白でも黒でも、君の好きな色を着れば良い」