鍛・
四肢に鈍い痛みが生じている。
劉曄は薄く柔らかなマットの上で腕立て伏せをしていたのだが、百回も迎えない内に体が音を上げ始めてしまったのだ。
「…止めていいか」
「まだ五十回さえ出来てないのに?」
「体の節々が痛み始めたという事はそれなりに効いているんだろう」
「おかしいな…。俺の知っている劉曄サンはこんなもので音を上げて諦める奴では無かった筈だが…」
「じゃあ違う私なんじゃないか?」
グギギと音を立てんばかりに両手で支えた上体をマットすれすれまで落とす。普通の筋トレならばもう少し楽だっただろう。決して運動不足な訳では無く、読書をしながら背に肘を乗せて来る魯粛の重さのせいなのだ。
「本当に止めるのか?」
「続けているのが見えないか?」
「ああ…。因みに今ので十三回目だぞ」
「言われなくても…分かってる」
以前魯粛を抱く云々の事態に陥ったものの、劉曄の体力不足のせいで最後までには至れなかった。
この筋トレは魯粛の為でもなんでも無いのだが、折角の機会を得たとて体力不足如きのせいで記憶まで消滅してしまっていては納得が行かない。
こうして魯粛に筋トレのメニューまで考えてもらって、いや、勝手に考えられたが正しいだろう。半ば強制的に筋トレに勤しんでいるという訳だ。
普段から殆ど家に籠りっ切りで、慌てる事態が勃発する程時間にルーズでも無い故に走る事さえ無かった。
偶にコンビニ等へ出掛けるくらいで、一番長距離を歩いているのは何なら家の中と行っても過言では無い。
「百回までの道のりが遠過ぎるぞ。もっとスムーズに、」
「お前が私に肘を着かなければ良い話だっ」
「ある程度の重みは必要だろう。ただ体を上げ下げした所で筋肉は悦ばない」
「もう、十分、悦んでる…っ」
汗水流しながら同じ景色を見つめて休まず続けるのだが、そろそろ喉が渇いて来た。横から文句を投げてくる魯粛のせいで尚更。
劉曄は体を両手と脚の三点で支えながら頭だけを横に向かせて目が合った魯粛に訴え掛けた。
「……」
「ん?十五回だ」
「喉が渇いた。茶を用意しろ」
「ほうじ茶か?」
「……何故茶葉を変えた。いつも私が飲んでるやつだ」
「せめて五十回に到達せねばな。望む物はあげられないぞ?」
「干からびて死んでも良いのか」
「腕立て伏せで死ぬのならジムに通ってる人は全員帰らぬ人になるかもしれないな?」
「誰がそんな筋骨隆々の野郎共と比較しろと言った。私とは訳が違うだろう」
「確かに…比べものにならんなぁ…」
「馬鹿にするのか、人の言う事を無視するのかどちらかにしろ」
「…で、飲んでるやつは烏龍茶だったな?」
「茶葉…、違う…ッ!」
とんでもなく苛立たしいボケを返して来る魯粛に劉曄は痛みの続く腕を曲げて楽な体勢を取りながら喉から声を絞り出した。
そもそもこんな奴に頼もうとするから見当違いな応えが出て来るのだ。筋トレは後程続けるとして、一旦勝手に休憩を挟んだほうが心身共に良い。
「紅茶」
「二十回も出来ていないのに?」
「休憩するだけだ」
「十五回程度で?」
「常人の筋トレメニューにはついていけない」
「つまり、常人以下?」
「言ってろ」
逐一挑発してくる魯粛を尻目に立ち上がった劉曄は台所へと向かい、紅茶の準備を始めた。
湯が温まるまで変な音が出る体を伸ばしていたのだが、視線の先に居た魯粛がマットの上で腕立て伏せを始めていた。
「……」
一度湯を沸かす火を止めて魯粛の傍まで近付く劉曄は先程のお返しをお見舞いする。
背中に腰を下ろして体重を乗せ、一瞬動きの鈍くなった魯粛を笑う。
「スムーズにやるんだろう?」
「ん?緑茶は?」
「紅茶な」
「お前の軽さでは重りにならないぞ」
「……」
一瞬動きが鈍くなったのが嘘の様に軽快に魯粛は腕立て伏せを始め、座っていた劉曄の体が上下に跳ねた。
「……」
「これくらいスムーズにやらなきゃ意味が無い」
「化け物か?」
「お前が常人以下なだけだ」
「……」
「ところで麦茶は、」
「………………紅茶」
まさか筋トレ如きでこれ程急速に心が折れるとは思ってもみなかった。