足りててたりない 立春を過ぎてもまだ寒さは厳しいままだ。世間は日本のチョコレート業界のお祭りごとを終え、次の催しに向けて準備を始めている。それを横目に冬の香りを身に纏って凪は既に去ったイベントの動物のように鼻を赤くさせながら、春の兆しが見えない季節を歩いていく。
次のシーズンが始まる直前に家で晩飯食おうぜと誘われた凪は、件の人物の家へ向かっている。シーズンが始まれば強力なライバルになる。そんなライバルに戻る前に、同じ釜の飯を食おうと言うのだ。彼の優しさは時として残酷だ。それでも彼の誘いに二つ返事を返してしまう自分は……惚れた弱みとはこのことか。
肺に溜まった二酸化炭素を空になるまで吐き出す。思ったよりも多かったそれは、新しい酸素と一緒に確固たる理性を与えてくれた。彼がひとり暮らしをしている家までもう少し。心は重いのに足取りは軽かった。
インターホンを鳴らし、ずるいその人はいつもの人懐こい笑顔で出迎えてくれた。が、いつもと違う点があった。凪はそれにいつもの眠そうな目を少しだけ見開いた後口を開いた。
「なにその半纏」
「なにって、まだ寒いから買ったんだよ」
あるのとないのとじゃ全然違うぞ。暖かい温度で笑う彼に、凪は興味なさげに返事をした。聞いた割に反応薄いな、溜息をつかずとも彼は呆れた様子だ。そんな彼に凪は安心する。なんといっても彼に聞こえるかもしれないほど心臓は高鳴っていたからだ。
(半纏姿の潔すっげーかわいい、なにあれ)
恋は盲目と言うが、これもそうなのだろうか。ピッチの上ではこうなることはないのが不幸中の幸いだ。サッカーをしている時は別なのだが、それ以外は彼の一挙一動に胸を締め付けられたり、躍ったり、感情が忙しくなる。顔に出ない性質だから隠せているものの、この想いが彼に届いたらどうなってしまうのだろうか。こうやって、気軽に誘われることもなくなってしまうのだろうか。
「外寒かっただろ?こたつ入ってろよ。あー、あとついでに」
まだ冬の香りが纏わりついている凪に潔は、着ていた半纏を脱いで渡す。凪がなに?と首を傾げたと思えば、晩飯の準備してたら邪魔になるだろうから着て暖まってろって。凪にとっては爆弾発言だった。この男はきっと相棒である黄色のインナーカラーが入った彼だったり、赤い髪が特徴的な俊足お嬢にも同じことを言っているんだろうなあ、淡い期待は潔の前では無意味だ。凪はそれをよく知っている。今日誘ってくれたのだって、一番家が近いのが自分だからだとか、そういう理由なのだろう。キッチンに戻った彼を恨めしそうに眺め、凪はこたつを目指した。
(潔の匂い、落ち着くな)
恨めしいのに嬉しい。ああ本当に彼に溺れすぎている自分はちょろい。半纏を貸してくれた彼の優しさだけで心がぽかぽかするのだから。こたつの上の先客であるコンロの横に頭を乗せて、凪は自己嫌悪する。いろいろ考えてしまっているのはきっと外が予想以上に寒かったからかもしれない。きっとそうだ。叶わない恋をしているからなどでは決してない。温まればきっと大丈夫だ。
「凪、わりー!ちょっとこれ持って行ってくれね?」
動きたくなくなるほど温まったころ、キッチンから彼の呼ぶ声がした。えー、めんどくさい、動きたくない。恨めしさから出た言葉を漏らすが、家主はただ急かす。いい子だから早く持って行ってくれ、と。同い年だというのに、彼は一体自分をなんだと思っているのか。心は軽いが足取りは重かった。
キッチンに向かうとひやりとした空気に触れた。暖房はあまりここまで届いていないようだった。どれー?空気に少し震えながら彼に問う。きっと彼はそこにある鍋を、と言いたかったのだろうが凪を見てぶっは!と噴き出して笑いだした。
「ご、ごめん……サイズ、合わなさすぎたな!」
彼が言う通り、身長差を考えるとそうなるのは当たり前だ。それを承知で貸してくれたのだと思ったが想像以上に丈が合っていなかったようだ。そんなに笑うほどか?不機嫌を撒くと、彼は目に浮かべた涙を拭きながら悪いって、と再び謝罪を述べた。
「潔のサイズじゃ小さいに決まってんじゃん」
「ごめんって、でもなんかお前のその姿かわいいな」
そこの鍋持って行ってくれるか?彼はひとつ深呼吸をしてから本来呼んだ目的を果たした。出汁が入った鍋をコンロに乗せる。コンロの横に置いてあったガスボンベをセットして火をともす。締め付けられた心臓のおかげで呼吸が浅い。なんだ、さっきの笑顔は。彼への愛しさがどんどん熱を帯びていく。
(潔の方が可愛い)
一体いつになったら彼に伝わるのだろうか。いや、伝わるべきなのだろうか。今日の鍋と一緒に気持ちを飲み込んでしまおうか。
沸騰するまでまだまだかかる鍋を見ながら、凪は自問自答を繰り返す。
(気づいてるんだよなあ)
そんな様子をキッチンから潔がいたずらっぽく笑って見ていることなど露と知らずに。