「おめでとう。」
その言祝ぎが適切なのか、かけられた七海にも分からなかった。ただ、推薦を固辞しなかったのは己で、ここに戻ってくることを決めたのもまた、己であった。
夜蛾から正式に一級術師への昇格を告げられたのは、夏も目前、日曜の夜だった。呪術師にとって曜日の概念などないに等しいけれど、長年の習慣か、どこか胸のざわつく、そんな夜。一級という等級がつくことで、呪術師として与えられる裁量は大きくなる。肩書きとして認められたというだけではなく、しなければならない手続きや学ばなければならない規則がいくつもあるはずだ。そのための連絡だろうと身構えていた七海は、続く言葉に拍子抜けした。
「明日から一週間、長期休暇を取ってもらう。来週の月曜の任務に間に合うようであれば、どう使ってもらっても構わない。七海には少し足りないかもしれんが…。」
一瞬ののち、七海は夜蛾の意図を理解して、あぁ、と頷いた。
「構いません。挨拶すべき親戚は、デンマークの方にはもうおりませんので。」
片道15時間ほどかかる、時差も大きいその地に行くことは、全くの不可能ではないがハードな旅程を強いられる。七海は、帰国後すぐに一級呪術師として任務に就くだろうことが分かっていて、そんな予定を組む人間ではない。
そうか。そう静かに呟いた夜蛾にとって、この言葉をかけるのは何人目なのだろう。制度上、担任だった彼が推薦することはできないとしても、きっと彼の生徒に告げたのは夜蛾自身のはずだ。少なく見積もっても三人目。
「ですが、せっかくですので羽を伸ばして来ようと思います。不在の間、よろしくお願いいたします。」
「あぁ、存分に、楽しんでこい。」
夜蛾の言葉に、七海は微笑んで頭を下げた。想定外の、突然の長期休暇。明日から、何をしようか。静かな夜に、思考が巡る。
そう、これは、最期の休暇だ。
死ぬための、休暇。あるいは、死にに行くための。
Dive in the Blue
幸か不幸か、挨拶すべき人はもう浮かばなかった。どこまでも自由な一週間。せっかくだから、呪霊のいない場所に行ってみたいと思った。突然すぎる旅先に国外を選ぶことは、現実的ではないだろう。海か山か。この季節ならどっちだっていい。戯れに滑らせた指先が、興味深い文字をなぞった。こんな前日に、空きがあるのかは分からない。空いていたところで予約を受け付けてくれるのかどうか。それでもこんな機会はもうないのだとしたら、一生で最後なのだとしたら、聞くだけ聞いてみても良いのではないか。普段の七海なら、そんな労力は自分にも相手にも迷惑だと辞めていただろう。普段と変わらないようでいて、どこか高揚していたのかもしれない。少しの逡巡の末、七海は画面に表示されていた電話番号に触れた。
そうと決まれば、行動は早かった。集合は翌朝の早朝、横浜の港。準備をする時間はあまりない。最低限の着替えと貴重品を鞄に入れる。読みかけの本を入れようとして、どれを持って行こうか悩む。結局、やめてしまった。娯楽の類はいらない。だって何もかもを捨てるために、旅に出るのだから。最期に、行ってよかったなと思える場所に行こうと思った。電車でも飛行機でも車でも、一人ではきっと行けない場所を選んだ。クルーズ船は日本の南方の島を周遊し、二泊三日で戻ってくる。出発は急だが、戻ってきてから時間に余裕もあるし、ちょうど良いと思った。数は多くないが行きたい場所もいくつかある。それに、任務の前はゆっくり休んで、万全の体調に整えるべきだ。
目的地は、絶滅の危機に瀕している鳥がいる島らしい。別に鳥に興味があるわけでもなかったけれど、なんとなく目が引かれた。その鳥の種が失われることを防ぐため、活動している人々がいると聞く。なんの意味があるのだろう。人という種が必死になってやっと繋がっているような種が、この先もずっと生き残り続けることはあるのだろうか。なんだか自分たちのようだな、と思った。数少ない呪術師は、認知されなければいずれ淘汰されていく存在だ。あるいは、呪術師がいなければ、呪いに殺されて非術師の方が淘汰されるのだろうか。そんなことはない、ことくらい七海は知っている。非術師が減るに比例してきっと呪いもなくなって、人だけがいなくなって呪いだけが残ることは絶対にないのだ。人だけが残って呪いだけがなくなるならば、呪術師はいらない存在になる。叶うことがないと分かっていて、それでも呪術師たちは、自分たちが不要な存在となって淘汰される未来を求めているのだ。
どこまでも青い世界を船は進む。豪華な客室は、一人で過ごすには勿体ないくらい広かった。美しい調度品に、広いベッド。使う予定のないお金を使うにはもってこいだ。サラリーマン時代から使っていない貯金はどうせこれからもあまり使う機会はなく、いつか突然使えなくなる。ならば、この一週間で使えるだけ使ってしまうのも一興だ。ぼんやりと窓の外を眺めた。きらきらとした波は痛いくらいに眩しい。豪華客船の人口密度は都会に比べると遥かに小さく、金銭的にも精神的にも余裕のある客層であることはもちろん、辺りの美しい景色も相まって呪いの生まれる気配もない。何者でもなく、することもなく、行く宛もなく、ひとり。凪いでいる。この感情に名前があるのかも分からないまま、窓の見えるソファーに腰を下ろし、七海は目を瞑った。どこまでも穏やかな感情は、もう死んでいるのと同義なような気さえして、それが驚くほど心地よくて、七海は午睡へと沈んでいった。
最低限の着替えとして選んだものは、スーツだった。特にこだわりがあるわけではない。ドレスコードがあったとしても、一枚で事足りる。それだけだ。船内の豪奢なレストランは適度な活気に満ちていた。食事に合いそうなワインをお任せでオーダーする。酒や煙草といった嗜好品は人並みに経験してきたけれど、どれもあまり執着を持てなかった。運ばれてきたグラスに口をつける。透き通った赤は、どこか人工的に映る。肉料理によくあう、華やかな香りにフルーティーな後味。けれどそれがなんという名前なのか、知らなかったし、興味もなかった。サーバーが言っていたような気がする、いや、教えてくれたはずなのだが、もう覚えていない。覚える必要もないことだ。今目の前にあるワインが美味しい。その事実が全てで、それで十分だ。
夕食を終えて甲板に出る。夏を前にした涼しい夜風が、アルコールの名残で火照る体に心地よかった。明かりのない方へ、船頭の方へ進む。どこまでも眩しかった辺りは、今はどこまでも漆黒だ。海は、呪いの生まれる場所だ。例えばかつての戦争や、入水だとか水害だとか、呪いの生まれる縁には事欠かない。けれど、海は人の住むことのできない場所だ。呪いの育つための、栄養がない。だから、海の呪いはほとんどが自然に消えていく。沿岸部でないこの辺りには、残穢すら感じない。むしろ、七海の知覚する範囲で呪力を持っている存在は、己だけではなかろうか。そう思うくらいだ。夜の昏さに視界が慣れてくる。客室を背にして、光は見えないようにした。たっぷり3秒目を閉じて、それから七海はゆっくりと天を見上げた。真黒の世界に、雪が舞うように星が瞬いていた。眩しくなんかないはずなのに、目が眩むくらいの白銀。その色を、知っている気がした。ふ、と唇から息が漏れて、呼吸を忘れていたことを自覚する。この景色が見たくてこの旅を選んだのだ、そう今更ながら納得した。この旅に意味なんてないのに。休暇だって、せっかくもらったは良いものの、七海にとっては不要なものだったかもしれない。だって、呪術師に復帰した時点で、死ぬことは分かっていて帰ってきた。死ぬ前の訣別なんてする相手もいなかったし、とっくにしてきている。それなら少しでも任務を手伝った方が建設的だったのではないか。何も価値がないのに、何も成せないのに生きているくらいなら、少しでも人の役に立って死ぬ方が、自分の命に意味があると思った。それでも自分にできることは、ほんのひと握りだ。もしかすると、任務の途中で誰かを傷つけてしまうかもしれない。今までの任務より強い呪霊と対峙して、何もできないかもしれない。それなら、今ここで海に消えていっても同じなのかもしれないな、と思った。呪いが消えるように。少なくともこの船上で感じる呪力は自分のものだけで、自分がいなくなれば、船の近くの範囲は呪いのない世界が完成する。それは、倒錯しているのにひどく魅力的なものに思えた。身を乗り出して、海面を覗く。星空はあんなにも眩しいのに、海は星の光を映しもせず、どこまでも暗かった。いっそ飛び込んでしまえば、旅は終わる。こんな無意味な思考も、終わる。そんな未来も、いいかもしれない。ただ、せっかく予約した明日の朝食を不意にするのは勿体無いな、と思った。どうせ飛び込むなら、呪いの色を宿した夜がいいけれど、別に明日だっていい。そうしよう、七海は結論づけて踵を返した。いつの間に時が立っていたのか、客室の照明は落とされている。既に消灯時間に入っているのだろう。七海は足音を控えてゆっくりと、自室へと戻っていった。
期待していた朝食はやはり、美味しかった。評判だというサンドイッチは程よいバターの甘さが効いていて、具材は口に入れただけで質の良いものだと分かる。最後の朝餉として、満足すぎるほどのものだ。船は間も無く目的地に辿り着く。上陸することはできないから、甲板で案内人の話を聞く。あ、あの鳥です。真っ白の、一時は数えられるほどしかいなくなってしまった鳥。周りから口々に感嘆の声が分かる。正直なところ、七海にはカモメとの違いが分からなかった。こんなに遠くから見れば、どちらも白い海鳥だ。この船を遠くから眺める存在がいたのなら、七海とそれ以外の客が同じ人間に見えるように。それなのに片方は希少種として称えられ、片方は喧しいその他大勢として捨て置かれる。では、人間の中ならどちらが称えられる方で、どちらが疎まれる方なのだろう。数で言うなら、呪術師が称えられる方?いや、そうではないことを、七海は知っている。この行為に意味があるのか常に自分に問いながら、呪術師は生きている。七海の一つ上の先輩はそれを否定して、そして去った。例えば皆の視線の先の鳥が、ふらふらと海に落ちていったなら、皆は動揺し、声を上げるだろう。けれどカモメが一羽墜落したところで、何も思わないはずだ。ならば、今ここで七海が海に身を投げて、誰が何を思うのだろう。試してみようか。不意にそんな心地になった。柵越しに海を見下ろす。きらきらとした水色は、どこかで見たことのある、吸い寄せられるような色をしている。
「七海。」
幻聴かと思う。この場所に、七海の名を知る人はいない。無視を決め込んでいれば、ぐい、と柵を握った手を引かれた。
「七海、何してんの。」
強引に振り向かされて、そこには見慣れた、いや、最近ではあまりしなくなったはずなのだけれど、かつてよく見たサングラスがあった。
「なんで、いるんですか。」
「質問に答えろよ。」
「休暇中なんだから何をしたっていいでしょう。それよりあなたこそ、どうやってここに来たんですか。」
「僕に距離なんてものは関係ないって、七海は知ってるよね。」
思わず、眉が寄った。せっかく久しぶりの自由を満喫して、それこそ呪霊と出会う前まで遡らなければ経験したことがないようなほど、穏やかな気持ちで過ごしていたのに。台無しだ。
「不法侵入じゃないですか。結構するんですよ、この客室。一切擁護はしませんからね。」
「僕を誰だと思ってるの?」
元来、鳥を見る趣味はない。もう十分だった。だから、ひとりになってゆっくりしたいと思ったのに、握られたままの腕がそれを許してくれない。
「あと、さっきの答え、納得してないから。何しようとしてたか言うまでこのままだけど。」
サングラス越しでも、五条が無表情なことが分かる。見た目の割に表情が分かりやすい彼にしては珍しい。本気なのだと分かった。厄介な目にあった、と七海は目を逸らす。無意識に舌打ちが漏れた。
「海が綺麗だな、と。そう思っただけです。」
「それで、自分もその一部になりたい、って?」
「まさか。飛び込んだところで、私は同化できる気がしません。」
ぐ、と五条の眉間に皺が寄った。珍しい表情だな、と思う。握られた手に力が入って、今の答えは飛び込むことを前提にしたものだった、と気が付いた。
「…部屋、連れてって。」
低い声だった。ごく稀にしか聞いたことがないものだ。面倒だな、としか思えなかった。
「なんの権利があって?クルーの方に突き出しますよ。」
「それなら、強引にでもお前を連れて帰るけど。」
夕食、食いてぇんじゃねぇの?揶揄うように言いながら、何か激情を押さえているのか、その声は震えていた。五条が何を考えているのか全く分からなくて、七海はぼんやりと海に視線を投げた。
別に、特にすることがない休暇だったから、偶然見かけて興味が湧いたから来ただけだ。クルーズのメインであるバードウォッチングも評判の良かった夜空の鑑賞も終わり、昨夜の夕食も今朝の朝食も美味であった。ここから先の船旅は引き返すだけで、五条に連れて帰られたとて特に心残りはない。お金が、なんてことを考える必要もないくらい、資産は余っている。昨日までのように、一人で、どこまでも穏やかな心地で過ごしたい。願うのはそれくらいだ。
「ひとりにしてくれるなら、どっちでもいいです。」
「嫌だね。」
即答だった。なぜこんな簡単なことを許してくれないのか。なぜ五条からこんなことを求められなければいけないのか。そもそも五条はなぜ、わざわざ休暇中の七海のところに来て、挙げ句の果てに面倒な絡み方をしてくるのだろう。何も分からない。七海は苛立って、少し高い位置にある顔を見上げた。
「連れて帰ったら、休暇が終わるまで僕の部屋に閉じ込めるよ。七海の泊まっている部屋、ダブルベッドだったよね?」
ほら、選びな。それは、選択肢がないのと同じだった。残り一泊と少し、五条につきまとわれるのを我慢すれば船を降りられる。拒絶すれば、五条の家に監禁される。五条の言う通り、七海の宿泊している客室は、もともと二人でも泊まることのできる部屋だった。どうやって知ったのか、そもそも、おそらく飛んできたのであろう人間が宿泊することが許されるのか、七海は知らない。五条が平気だというのなら、きっとそうなのだということだけが分かる。
「…分かりました。その代わり下船後は行きたい場所があるので、ひとりにしてください。」
「それは、この後の七海の行動次第だけど。」
その声の冷たさに、怒っているのだ、とようやく思い至った。五条はすぐ機嫌を損ねたり文句を垂れたりするものの、怒っている姿というのはほとんど見たことがなかった。だから気がつくのが遅れた。ぞわり、と今更ながら背中に鳥肌が立つのを感じる。決して強い力をかけられているわけでもないのに、五条の手から逃れられないと分かる。五条の怒りが引くまでは、部屋に閉じ込められるというのは冗談ではないのかもしれない。
「仕方ないですね。人生最後の長期休暇なんですから、あんまり邪魔しないでください。」
努めて平静を装って口にする。五条も、この休暇をもらったことがあるはずだ、そんな確信があった。少しだけ、五条の呪力が揺らいだ気がする。目の前の体も表情も、ぴくりとも動かないけれど。五条の手が緩やかに、七海の腕から離れた。後ずさっていた身を起こして、歩き出す。当たり前のように五条はついてきた。いつの間にか甲板の喧騒は引いていた。
「そんなこと言うなって。旅はひとりより二人の方が楽しいじゃん、旅は道連れ、世は情けって。」
そんなに思い詰めていたわけでもないけれど、先ほど七海が命を絶とうとしていたことを恐らく理解して、五条は言った。世は情け。そんなもの、かける相手も、かけられる相手もいない。いないと思っていた。でもまるで、今の状況は、五条に情けをかけられているようではないか。そんなもの、いらないのに。不快で、なのに、それだけでは言い切れない感情が絡まっている。さっきまでの穏やかな気持ちが、今はもう思い出せない。どうしてこんなことに、仰いだ天は、海とよく似た、やはり見たことのある色をしていた。
七海と同じことを考えたらしい、五条もスーツだった。最近よく使用している目隠しではなく、サングラス。確かに普段の五条の姿だったら、レストランへ入ることすら禁じられていただろう。意外にも五条は、七海のしたいようにさせてくれた。ぼんやりと窓から海を眺める七海をそのままに、テーブルにタブレットとスマホを並べて静かに操作している。きっと報告書の作成だろう。五条にとって今は、休暇ではないのだから。ディナーの時間になると、当たり前のように七海についてきた。問うことはやめた。きっと家か金の力で、話は通してあるのだろう。二つのカトラリーが並ぶテーブルに通された。周囲のざわめきに、隣を見遣る。サングラスを外した五条は、確かに周りを騒がせて道理の姿をしていた。すっかり見慣れてしまったことに小さく息を吐く。そうだ、彼は歩けば人が振り向くような、そんな見た目をしていた。周囲のことは置いておいて、静かな五条といることは、存外に心地よかった。何より気を遣わなくていい。七海が気を遣わなくていい存在は、悔しいが、今は彼が唯一だった。
「…乾杯、しますか。」
ほとんど会話のなかった相手に聞く。五条は少し目を見開いて、それから破顔した。
「そうだね。七海の昇格祝いなんだから。」
一番いいシャンパンと、シャンメリーを。五条がオーダーするのをそのままにしておいた。銘柄にこだわりはない。五条はこんな見た目をしていて未だに酒が飲めず、相変わらず格好がつかないのだな、とぼんやりと思った。
「僕たちの未来に、乾杯。」
形のいい指がグラスを持ち上げる。強くて、美しい。僕たちの未来、なんてものないだろう。五条は一人でも生きていける、五条の未来に必要な人間なんていない。一生かけても、七海は五条ほどの強さを得ることはない。けれど、余りにも彼の姿が絵になっていたから、反論せずにグラスをあわせた。