ファンタジー人魚パロ航納海は凪いでいた。あまりにも静かで船員達のかけ声がよく響く。“それ”は始め小さなボートかと、見つけたときには思った。しかし波間を縫って流されてきたのはボートよりも一回り小さな……棺だった。
棺は海を漂っていた割に劣化も見られず、甲板へ引き揚げる際に見えた底の方にはフジツボ一つすら付かず、綺麗なもので。
「キャプテン! 早く開けましょうよ。きっとお宝が入ってますって!」
「いやいや待てってお前、これ宝箱じゃなく棺桶だぞ? 水葬された遺体が入ってたらどうすんだ」
「遺体が入ってたら……気味が悪いどころか呪われるんじゃないか? キャプテン、やっぱ海に戻そうぜ」
皆口々にああでもないこうでもないと開けるか開けないかの押し問答が始まり、私はこめかみを押さえながら決断する。
「一旦……私の部屋までこれを運んでくれ。私が中を改める。宝なら上物は陛下への献上品にするし、——遺体なら海へ還そう」
この場で開けようと言う一派もあったが、遺体や……その呪い、はたまた病や毒の元が封じられているかもしれない。私には海神の加護があるし、万が一のことがあっても、皆で港に着くまでの運行計画は立ててある。書面に記して渡しておき、今夜にでも棺を開けることにした。
いざ部屋に運ぼうと船員達が持ち上げようとしたが思った以上の重さらしく、腕自慢に紛れて私も腕を貸す。どうにかこうにか肩まで持ち上がった棺だったが、動かしてみても中からは何の音も聞こえなかった。
——夜。
酒も回って寝静まった者達が多いなか、私は一人盃を飲み干しながら棺と対面していた。
皆にああ言った手前、この役目を放棄するつもりはなかったが、如何せん、向かうのは本来遺体を納めるものだ。恐ろしさなぞ海の男が抱くわけにはいけないものだが、私は酒の力を借りてこの棺を開けることにしたのだ。
「……ヨシ」
空になった盃とランプを持ち替えて、私は意を決し棺の蓋に手を掛けた。
カタリと軽く、かみ合っていた木材が外れる音と、ギギ……と蓋の重さに擦れる音。両方に鼓膜を揺らした後に開け放った棺の中からは——
ちゃぷん
と、船の揺れに合わせて波立つ水と、
「——……」
瞼を閉じて横たわる一人の……人魚が現れた。
「は……」
水面に漂う銀糸の髪と、白い肌と、——下半身を覆ってランプの光に一枚一枚がきらきらと照り返す鱗と、絹のような尾鰭。その美しさに私は息を呑んだが、よくよく見れば慎ましやかな胸元と広い肩にこの人魚は男であると気付く。
どうして棺の中に、水と、人魚が。
どう状況を落ち着いて呑み込もうとしても、悪酔いしたように巡る疑問は尽きることがなかった。私はドカッと床に腰を下ろして再び棺の中を見る。
水と人魚以外にめぼしいものは見当たらない……かと思いきや、湛えた水の底で布帛と共に幾つか煌めくものが人魚を囲むように添えられており、それは真珠や珊瑚といった宝石の類いに思えた。
「さて……どうしたものか」
お宝の詰まったとも、遺体の納められたとも言えるこの棺。
献上品か、海に還すか。
——どちらかと言えば、この美しい人魚を見せ物として献上するのは、相手が陛下と言えども忍びなかった。
幼さを残す彼の面立ちは儚げで、水面と共に揺れ続ける内にこのまま水と光に溶けてしまうのではと思うほど。不思議と魅かれ、慈しむ気持ちが湧き上がる。
「装飾品を幾つか拝借して、海に還すとしよう」
……本当に、彼を大事に思うならこの棺の何物も欠かしてはいけないのではないかとも思うが、残念ながら私もお宝には目がない勇敢なる海の男。死出の旅路にこれほどの装飾品も要らないだろうと俗物めいた思考に至っても、そこは生者の性質と、眠る人魚に心で謝辞を述べた。
とぷりと人魚を包む棺の水に手を差し込むと、特別温くも冷たくもない温度に指先はスッと目的の真珠へと触れる。——が、
「っ!?」
水の揺らぎのすぐ後に、私の手を握るもの。それは目の前の、白い人魚の手のひらで。
「な」
ばしゃん!
と、漏れた驚きの声は盛大な水音にかき消されてしまう。
棺から起き上がったのは、死んでいるものと思った人魚の青年。その手に握られた私の指先を、彼はゆっくり口元に寄せたかと思えば——
ガリッ
「ッッ!」
小さな、しかし鋭利なその犬歯で、人魚は指の皮膚を噛み破った。痛みと滲む血の感触に顔を歪めるも、直ぐに私は驚きで目を見開くこととなる。
……ちゅ、ジュッ……
人魚は、彼は、噛んだ指先を咥えたまま吸い始めたのだ。滲む、私の血を舐めるように。
「——……! な、何をするッ!」
その光景に神々しさすら感じて目を離せないでいたが、少しの間をおいて正気に戻った私は彼の口から強引に指を引き抜いた。
ちゅぽっ——等という音が鳴ったか鳴らないかは動転した気では把握し切れなかったが、人魚の口から、名残惜しそうに指を追って伸びた舌の赤さは嫌でも目に付く。
——はあ
と、息を吐く音が聞こえると、人魚は膝に着くように折り畳まれた鱗の上に片手を置き、もう片方の手で顔を隠していた濡れ髪を拭い避けた。
「それは……僕の台詞です。僕の、棺から、……ものを奪わないで」
そこでやっと相見えた彼の瞳は、つい先刻目にした——窓の外から覗く月の銀色に似ている。ただ、その中心は淡く赤色に光り、口元には同じく赤い……私の血が僅かに滴っていた。