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    岩倉(@FGFCF3)

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    【跡入】年老いた後輩が先輩の幻覚とお喋りしているだけの話

    心を残す 東向きの窓から陽光が降り注いでいる。
     晩秋の日差しは柔らかい。跡部はゆったりと上体を起こした。
     シルクの寝間着の襟を正してから、ベッドから寝室を見回し、「別荘にきていたのだ」と得心する。
     十五畳程度の洋室だ。
     東と南に白い枠で囲われた格子窓がある。東側の壁には籐のベッド、南側の壁には同じく籐のデスクが設置されている。本来は避暑に利用する——軽井沢にある別荘だが、跡部は晩秋になると必ずこの別荘を訪れていた。三十二歳の頃から、である。
     跡部は、齢八十八を迎えていた。
     色素の薄い頭髪を背後に撫でつけ、額をあらわにしている。右目の下のホクロは健在だが、もともと深い眼窩はさらに深くなった。老いによって筋肉は削げ落ち、骨ばった頬や腕はさらに骨ばっていたが、当時と比べると貫禄が出た、と跡部自身は自らの老いを好意的にとらえていた。
     未婚である。
     実子も存在しないが、跡部が経営している養護施設の子供たちからは米寿——八十八歳の誕生日を祝われたばかりであった。妻子を持たない選択について、周囲の者からは何度も「勿体ない」と揶揄されたが、跡部の人生は充実していた。
     少なくとも、跡部自身は充実していた、と感じている。
     若年期はプロテニスプレイヤーとして活躍し、引退後は自身のネームバリュ―を存分に生かし、後進育成の名目でテニスクラブの経営や設備の拡充に従事した。テニスの大会の主催を務める傍ら、レストランの経営やホテル事業、果てにはテニス選手の往来を支援する名目で航空事業にまで参画した。八十八歳を迎えてもなお、テニスへの精力にあふれていた。
     跡部の人生は充実していた。
     ただ、一点を除いては。
    「ダメじゃないか」
     突如、声がした。
     言葉とは裏腹に、語気は鷹揚としている。咎めるつもりはないらしい。
     声の主は、南側の壁のデスクに腰かけていた。右ひじをつき、デスクに無造作に置かれた本の表紙を、左手でゆったりと撫でている。愛おしげなまなざしを向けている。
     南向きの窓に向かって設置された籐のデスクには、薄らと埃が積もっている。本来は黒であろう本──ハードカバーの表紙も白く見えるほどだ。他の調度品には、汚れの類は一切ない。別荘の管理を任されている者が毎日、清掃に勤しんでいるためである。
    だが、デスクにだけは触れないように、と跡部が言いつけていた。
    「ボクの本なんだから、丁重に扱わないとね」
    「アンタか」
     落ち窪んだ眼窩の奥底で跡部の眼球がぎろり、と動いた。
     眼差しの鋭さには、往時の面影がある。
     声の主はくすくすと笑った。
    「アンタじゃないよ。入江奏多。相変わらずだね、跡部くん」
     そろそろ覚えてほしいなあ、と声の主──入江は目を細めた。
     跡部の眼差しの鋭さにもひるむ様子はない。特に気にしていないようだった。
    「どうして、俺のもとに現れ続ける?」
     跡部は怪訝そうに眉をひそめた。
     入江が十八歳の頃の姿をしているためである。
     避暑のために用意された別荘にはそぐわない、赤いジャージに身を包んでいる。胸元には〈JAPAN〉の文字がプリントされている。跡部も袖に手を通したことがある、テニス日本代表のジャージだ。
     跡部が晩秋になると必ずこの別荘を訪れているのは、彼——入江の幻影が現れるから、であった。跡部は二十八歳の頃に入江と別れた。理由はわからない。入江から別れを告げられたが、理由は問わなかった。
     理由があるなら、己にある、と跡部は考えていた。
     仕事を理由に約束を反故にしたことも何度かあった。
     多忙で家を空けている時間のほうが長かった。
     いくらでも理由は考えられたからだ。
     三十二歳の頃、晩秋にこの別荘を訪れた。
     晩秋に訪れたのは、二十四歳の頃に入江と訪れた思い出が忘れられなかったからだ。仕事の合間を縫っての、時期外れのバカンスだった。
     跡部は少し早めの入江への誕生日プレゼントのつもりでいたが、入江は少し遅めの跡部への誕生日プレゼントのつもりでいたらしく、二人して笑った。同じことを考えていたのか、と嬉しく感じたのを、今でも覚えている。

     物思いに耽っている跡部の顔を覗き込み、入江が首を傾げた。

    「どうして、結婚しないんだい?」
     キミなら誰とでも結婚できたろうに、と入江が問いかけてきた。
     三十二歳の頃から同じ質問を繰り返されている。
    「……勘に障るんだよ」
     アンタのすべてが、と跡部は咳き込んだ。
     入江に差し出されたグラスを、跡部は手の甲で押しのける。
    「アンタの言いなりになってたまるかよ」
     跡部には、自覚がある。
     目の前の入江は、自分自身が生み出した幻影であると、自覚していた。
     三十二歳の頃から、自覚している。本物の入江は、こんなふうに跡部を責めたりしない。本物の入江は、跡部が何をしようとも「跡部くんらしいや」と、鈴を転がしたようにころころと笑うのだ。
    「本物のアンタなら、俺の選択を疑わない」
     思わず口に出していた。
     跡部はベッドから抜け出ると、デスクに向かって、歩を進めた。
     デスクに腰かけている入江の前で立ち止まると、ゆったりと息を吐いた。
    「誰とでも結婚できた。だが、俺は、誰とも結婚しなかった。アンタと別れてからずっと、アンタと過ごした時間のことを考えていた。アンタ以外の人は、パートナーにはできなかった」
     厳密にはパートナーにしなかった、と跡部は続けた。
    「俺の人生は、アンタがいなくても充実していたよ」
     入江は「そう」とだけつぶやいた。表情は変わらない。

    「でも、アンタだけが、俺の理解者だった」

     跡部は言葉を区切り、一音一音をたしかめるようにはっきりと告げた。
     跡部が入江の手元にある本を拾い上げた。シェイクスピアの『テンペスト』だ。左手で表紙の埃を払うと、埃が宙を舞った。南向きの窓からの陽光で照らされた埃は、まるで紙吹雪のように跡部と入江を彩った。
    「この本をアンタに返したい」
     俺の心残りはそれだけだ、と跡部が入江をじっと見つめた。
     入江もじっと跡部を見つめていたが、やがて、
    「そんなことが心残りなの?」
     入江は跡部の手から本をかすめ取ると、突如として笑い出した。
     鈴を転がしたような、ころころとした笑い声だった。
    「跡部くんらしいや」
    「本当にな」
     二人して笑った。
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