テンペスト 日曜日——U-17日本代表合宿所の休息日——の午後四時。
招集された学生たちが思い思いに過ごす中、跡部はひとり、ピアノと向き合っていた。
合宿所のバーの片隅に設置されているピアノだ。バーは宿舎の北側のはずれにあるためか、外界から切り離されたかのようにひっそりとしている。
初秋の冷ややかな空気をそのままに感じられるこの空間を跡部は気に入っていた。合宿所ではひとりの時間が取れないのも相まって、休息日には好んで足を運んでいる。
跡部が鍵盤に指を滑らせていると、不意に声がかけられた。
「ベートーヴェンの『ピアノソナタ第17番』ですね」
跡部が指を止めた。
「鳳か」
どうした、と跡部が鍵盤から顔を上げた。
バーのピアノは、休息日であれば誰でも利用できる。
尤も、合宿所でピアノが弾ける人物は跡部と鳳だけであり、休息日にわざわざバーへ足を運ぶ者も数えるほどしかいなかった。喉が渇けば、食堂や共同の冷蔵庫、自動販売機で事足りる。バーが利用されるのは専ら夜間、コーチ陣が晩酌と称してウイスキーをあおるときだけだった。
だから、跡部は顔を上げる以前に「鳳だろう」と察しをつけていた。
鳳も「跡部だろう」と察しをつけていたのであろう。眉を八の字にし、
「お邪魔でしたか」
と白い歯を見せて苦笑した。好青年の形容がよく似合う。
実際、鳳は185センチの長身にもかかわらず、圧を感じさせない。
とても穏やかな青年である。
「もともと四時には切り上げる予定だった」
鳳は壁掛け時計を見やると「安心しました」と胸を撫で下ろした。
壁掛け時計は四時を過ぎた頃だった。
普段の跡部であれば、ひとりの時間を邪魔されれば怒るところだが、相手は鳳である。跡部にしてみれば、合宿所に残った唯一の同校——氷帝学園中等部の後輩であった。趣味も合う。多少、甘めに見ている部分があった。
事実、四時には切り上げ、入浴を早めに済ませる予定だったのだ。
跡部は「それにしても」と立ち上がった。
「珍しいじゃねーの」
おまえから声をかけてくるなんてな、と跡部は鳳に目を向けた。
「前を通りかかったら聞こえてきて、素晴らしい演奏だったので、つい」
鳳は頭をかき、しどろもどろになりながらも、跡部の質問に応じた。
以前の鳳であれば、たとえ跡部の演奏が気になったとしても、遠慮して話しかけはしなかったはずだ。
やや遠慮をしてしまうきらいがあり、試合でも勝ちきれない部分があった。だが、宍戸とダブルスペアを組むようになってからは彼の負けん気が移ったのか、粘り強いテニスをするようになった。
——良い影響を受けているらしい。
跡部は後輩の成長にふと目を細め、「そうか」とだけ告げた。
「でも、跡部部長も珍しいですよね」
跡部が首を傾げると、鳳は「17番ですよ」と台に置かれたままの楽譜を指し示した。
「ベートーヴェンのピアノソナタにしても、8番や14番ではなく、17番を選ぶところが珍しいというか、意外な選曲だったので気になってしまって……」
尤もな意見であった。
ベートーヴェンのピアノソナタは「番号付き」と呼ばれる曲だけで実に32曲、存在する。鳳が挙げた8番は『悲愴』、14番は俗に言う『月光ソナタ』である。ここに23番の『熱情』を入れて三大ピアノソナタとする向きもある。
クラシックに疎い人物でも聞いたことがある有名どころであった。
「最近な」
跡部は内蓋を閉じながら、ゆったりとした口調で続けた。
「どうも、好きらしい」
鳳がぽかんとした顔をした。
「どうした?」
「いいえ。その、跡部部長が何かを好きだと言うのは初めて聞いたので、驚きました」
「俺も、驚いている」
跡部が微笑した。言葉でこそ「驚いている」と告げたが、跡部自身は意外そうではなかった。何かしらの確信があるようだった。鳳は、その確信の正体を知りたいような欲求に駆られ、跡部が楽譜を片付けるのを「待ってください」と制止した。
「もう一度、聴かせてくれませんか?」
テンペスト、と鳳が告げた。