革靴を脱ぐ 先ほどまで通り雨に降られていたテニスコートは、西に傾きかけた日射しを受け、雨粒がきらめいている。料金を払えば誰でも利用できる運動施設のコートだが、通り雨を受けてか、利用者は誰もいない。
八月下旬——残暑の熱気にあおられ、芝の匂いでむせかえるコートに精悍な顔立ちの青年が一人、現れた。
跡部景吾である。
芝の緑と西日の橙とのコントラストが美しいコートに足を踏み入れる姿が、やけに様になっているが、出で立ちはテニスプレイヤーのそれではなかった。
鈍く光る金色の髪は肩ではねているが、蓬髪ではない。櫛を入れ、きちんと整えているのだろう。前髪は軽く、右側に流している。左側は編み込み、すっきりと収められている。
上質な黒いスーツを身にまとっている。首元には、跡部の瞳を思わせるターコイズブルーのネクタイが締められている。胸ポケットにも同様にブルーのチーフが収まっている。足元では、オックスフォードシューズが黒々とした光沢をたたえている。
何もかもが、テニスコートには不釣り合いな出で立ちだった。
パーティーから抜け出してきたような、そんな印象を受ける。
「珍しいね」
白いネットの向こう側——対面のコートから声が発せられた。
入江奏多だった。西日が眼鏡に反射し、表情が読み取りにくい・
白いポロシャツに膝下丈のランニングパンツ、足首から下は使い古した白いテニスシューズに収まっている。何もかもが、テニスコートによく馴染んでいた。左手にはテニスラケットが握られていることからも、テニスをしにコートにやってきたのだと推察できた。
入江は「うーん」と両腕をあげて伸びをすると、
「本当に珍しいよね」
再度、同じ言葉を口にした。
「跡部くんが遅刻するなんて」
もう五時だよ、と入江が続けた。
コート脇にたたずむ時計は午後五時を過ぎた頃だった。
「すまなかった」
跡部が頭を下げた。
午後四時にコートで落ち合い、入江とテニスをする約束を取りつけたのは、跡部だった。
会食ののち交通渋滞に巻き込まれ、途中で一報を入れたものの、遅刻には変わりなかったため着替えもせずに駆けつけた。その出で立ちから、とにかく急いできたのだと察せられた。
「今日はやめておく?」
入江が提案した。運動施設には時間制限がある。コートは六時には使えなくなる。今から着替えていては、三十分も打ち合えない。夏の日照時間は長いが、未成年の跡部をあまり遅くまで連れ回すのは気が引けた。そういう良心が入江にはあった。
「やる」
跡部は即座に切り返した。
ジャケットを脱ぎながら「今じゃねえとダメだ」と低く呻くと、
「三十分だけでもいい。今、アンタの時間を、俺にくれ」
跡部はネクタイを剥ぎ取り、シャツの袖をまくると「今じゃねえとダメだ」と繰り返した。
「代表のことかい?」
跡部は首肯した。
跡部はU-17日本代表強化合宿への参加をうながされているが、返事はまだ、返していない。返答の期日が明後日に迫っているが、跡部は返事を渋っていた。
留学予定をキャンセルしてまで残留し、後進の育成に尽力した氷帝学園高等部男子テニス部が都大会で敗退したためである。
跡部が自信を失っている要因だった。
跡部個人の戦績は全勝だったが、チームが勝利を掴めなければ意味がない。チームでテニスをする歓びを分かち合えなければ、テニスを続ける意味もないのだと、前回のU-17ワールドカップで実感した。その実感を得られたのは、入江の存在が大きかった。
期間こそ短かったが、入江が未熟な跡部に向き合い、根気強く付き合い続けてくれたからこそ、今の跡部がある。少なくとも、跡部はそう、考えていた。
留学をキャンセルした選択は間違っていたのか。
己のテニスへの向き合い方が間違っていたのか。
いずれにせよ、己の選択に懐疑を抱いたまま、テニスを続けていいのか——跡部は悩んでいた。悩んだまま、日本代表強化合宿には参加できない。
今、もう一度、入江と試合をして答えを出したい。
「それじゃあ、やろうか」
跡部の内心を見透かしたように、入江がラケットを握りなおした。
「ワンセットマッチでいいかな」
時間もないしね、と入江が続けた。
「手加減はしないよ」
跡部は入江を見据えると、ラケットを握りなおした。
「頼む」
コート脇にたたずむ時計は午後五時四十分を指していた。
入江は宣言通り、手加減をしなかった。
あっという間に5ゲームを先取したのである。
跡部は息が上がっているが、入江には呼吸の乱れはない。
軽やかさすら感じられる足取りでネットに駆け寄ると、
「そんな生半可な打球ならボクでも返せるよ」
ほら、と入江が揶揄するように跡部の打球をボレーで返した。
跡部もネットに駆け寄るが、追いつけない。跡部のコートにボールが落ちる。
「0-15、だね」
入江は跡部から返されたボールを拾いあげ、ベースラインへと下がる。サーブの体制に入ると「そろそろ本気を出さないと終わっちゃうよ」と楽しげに声をかけた。
声色は楽しげだが、目は笑っていない。本気なのだ。
入江が「そろそろさ」と続けた。
「お得意の〈破滅への輪舞曲〉でも出してみなよ」
入江がサーブモーションに入るのを確認し、跡部は低く構える。
跡部としては、入江が跡部の悩みに寄り添ってわざと煽っているのはわかっているが、それでも腹が立った。同時に、名役者だ、と感服もする。
「そんなに見たいなら、見せてやるよ」
入江のサーブが跡部のコートでワンバウンドする。
跡部はワンバウンドしたボールをレシーブで返し、
「お望みの〈破滅への輪舞曲〉だぜ」
入江先輩よ、と跡部が入江の左手首をめがけ、打球を打ち込む。
入江は「正直だね」とつぶやくと、右手をグリップに添えてバックハンドの要領でスイングした。打球は跡部の右をかすめ、ベースライン際に落ちる。
「0-30だよ」
入江が宣言した。
「〈破滅への輪舞曲〉──一打目でラケットを叩き落として、二打目で確実に決める──たしかに厄介な技だよ。一打目を決められれば、二打目は棒立ちで見送ることになる。ラケットを拾うにしても、キミに頭を垂れるような姿勢にならざるを得ない。これほどの屈辱はないよねえ」
跡部は「うるせえ」と低く呻いた。
「キミはさぞかし気分がいいだろうね」
一打目さえ決まればね、と入江は跡部の言葉を無視して続ける。
「うるせえよ」
「打たれるとわかっているのなら、これほど対処しやすい技もない」
入江はグッとグリップを握ると、これ見よがしに跡部に向けた。
「打球が必ず持ち手に当たるなら、その位置にラケットの面をズラしてやればいい。ズラしてやる方法はいくらでもある。左利きのボクなら、なおさら、ね」
「うるせえって言ってんだろ」
入江は肩をすくめた。
「それにしても、正直に応じるとは思わなかったよ」
「あいにくと、正直よりも富める遺産はないらしいからな」
跡部には、入江がふと微笑んだように見えた。
「キミのそういうところ、ボクは好きだな」
「俺はアンタのそういうところが嫌いでな」
入江は「はいはい」と跡部をいなしながら、ネット越しに跡部の顔を覗き込む。
「正直よりも富める遺産はないらしいから、正直に言ってあげようか」
入江の意図するところがわからず、跡部は眉をしかめた。
入江は跡部を正面から睨みつけると、短く、一言だけ告げた。
「ヘタクソ」
「なんだと?」
跡部の語気が荒くなる。
入江は意に介していないかのように、同じ調子で続けた。
「今の跡部くんは、テニスがヘタクソすぎて、話にならないって言ってるんだよ」
跡部は言い返せない。
事実、入江から1ゲームも取れていない。
入江の誘いに乗り、ポイントを奪取されたばかりでもある。
「正直さはキミの美徳だけど、普段の跡部くんなら、あんな安い芝居には乗らないよね。今、跡部くんは冷静さを欠いている。焦りや不安で、自分のテニスを見失いかけている。少なくとも、ボクには、そう見える」
二人の間に沈黙が下りた。
ややあって切り出したのは、入江のほうだった。
「脱いだほうがいいんじゃない?」
そんなもの、と入江は跡部の革靴を指さした。
言葉尻には、跡部を鼻で笑うようなニュアンスが含まれていた。
「——あとで『靴のせいで負けた』なんて、言い訳されても困るからね」
「……あとで『靴のせいで負けた』とかダサい言い訳するんじゃねーぞ」
跡部は革靴を脱ぎ捨てると、素足でコートに戻った。
「ヘタクソだと?」
ネットの向こう側の入江に聞こえるように舌打ちをすると、
「目にもの見せてやるよ」
踵を返してセンターラインまで下がり、低く構えた。
「ゲーム跡部、だな」
跡部が告げた。あれから跡部が巻き返し、40-30にまで持ち込んだ。入江に足元を狙われたが、ハーフボレーで返球し、ようやく1ゲームを奪取できたかに思えた——が、入江が異議を唱えた。
「今のはアウトだよ」
「デタラメぬかすな」
跡部は入江側のコートにズカズカと踏み込むと、
「インだったろ」
ラケットの先端でセンターラインの際を指し示した。
「アウトだってば」
ご覧よ、と入江はボールの落ちたライン際にしゃがみこんだ。
跡部もつられてしゃがみこむ。
額を突き合わせ、ボールに踏み抜かれたライン上の痕跡を覗き込んだ。
「イン、じゃねえか?」
「アウトだってば」
「俺様の眼力が見誤るわけねーだろ」
「自信があるなら『じゃねえか?』とは、言わないよねえ」
入江の揶揄うような声色が癪に障ったのか、跡部は眉を顰めた。
「イン、だ」
「そう断言されると、インにも思えてくるよね。さっきのハーフボレーはきれいだったからインにしてあげたいけど——足元を狙われたときにハーフボレーで対処できる選手は、良い選手だと、ボクは思うんだよね。跡部くんは、跳ね際を叩くのが上手だよね。格好良かったよ。でも、今回に関して言えば、ボクはアウトだと思うんだよ。難しいな。どうしよう」
「結局、どっちだ」
「アウト?」
「断言できなくなってるじゃねーの」
「ボクもテニスプレイヤーだからね。ポイントが取れるチャンスがあるなら、相手のアウトなら、アウトにしたくてね。ゴネちゃうときもあるんだよ」
跡部くんと同じだよ、と入江が続けた。
「アウトにしようぜ」
「いいのかい?」
「よくよく見たら、確かにアウトに見える。悔しいが、フォーティオールなら、次のポイントを取ればいいだけだ。まだ勝負が決まったわけじゃねえ」
「そこまで言うなら、今回はアウトにしてもらおうかな。見せてもらいたいからね。跡部景吾がここから巻き返す姿を、キミの好きな持久戦でね」
刹那、午後六時——施設の終業時間を告げるアナウンスが響いた。
「時間切れみたい」
入江は立ち上がると、あごを伝う汗をぬぐった。
跡部も立ち上がり、入江に向き直ると、意外な一言を告げられた。
「楽しかった?」
跡部は予想外の問いに答えあぐねていたが、ややあって、
「ああ」
楽しかった、と空を仰ぎ見た。薄紫色に染まった空には、雲はひとつもない。コート脇にたたずむ時計は午後六時を指そうとしている。薄らと星が瞬きはじめていた。
「楽しいと思えているのなら、続けてみたら?」
テニス、と入江は事もなげに口にした。
跡部は少し、驚いたように目を見開いてから、遠くを見るように目を細めた。
何かを思い出したかのような、何かを愛おしく見つめる、そんな眼差しだった。
「──アンタ、本当に俺の理解者だったんだな」
「今更?」
そうだよ、と入江が笑った。