【シチカルSS】羽の意味を知らないふりをする 夜。生徒たちの個人記録を書き連ねていたら、いつの間にか日付を跨いでいた。いくら明日は休日とは言え、遅くまでの残業はあまり褒められたものではない。
カルエゴは職員寮ではなく自宅住まいだ。さてはてこれから自宅へ戻るか、あまり機能していない宿直室で一夜を明かすか、それとも──
「カルエゴくん」
その声に、カルエゴは振り返った。そこにいたのは、腐れ縁であるバラム・シチロウだった。
いつもの挨拶をしようと拳を差し出そうとして固まる。顔色が悪い。最近はシャンとしていた背筋は苦しげに丸まり、視線はブレて挙動不審に見える。息は浅くて荒い。体調が優れないのだろうか。これからシチロウが根城にしている準備室に向かおうとしていたが、やめた方が良いだろうか。
しかし声を掛けてきたと言うことは、何か用があるのだろう。もしくは体調が優れないために助けを求めに来たか。どちらにしろ、本人に聞かないことにはどうしようもない。
「何だ、シチロウ」
「……これ」
彼の手には、一枚の羽が握られていた。わずかに煌めく漆黒の羽。照明の僅かな光を反射して、深緑のような金色ような光沢を放つ、美しい羽だ。その羽がシチロウの物だと、直ぐにわかった。短くない付き合いだ。これまで何度も見たことがある。
初めて翼を広げた姿を見た時は、自身と違う形状のそれが物珍しくて、つい触ってしまったのを覚えている。触れられたことに怒りはしなかったが、代わりにとカルエゴも羽を触られた。シチロウに過度な触り癖があるのを知ったのは、確かこの時だった。
「…羽?」
「……ッ」
その瞬間、シチロウの表情が歪む。羽を持つ手は、微かに震えていた。苦しそうに眉をひそめ、喉を上下させる。
「本当は…渡しちゃいけないんだよ……でも、僕、もうダメかもって思って…っ」
「何を言って──」
「僕ね、もう止められないの。身体が勝手に、羽を落とすんだ。気付けば、君のことばかり考えてて……」
酷く傷ついた者がそうするように、彼は震える手で、またはらりと抜け落ちた羽を拾い上げ、差し出してきた。
「これ、受け取ってくれないと、僕、たぶん──」
世界の終わりとでも言いたげな顔だった。苦しそうで、今にも泣きそうで、叫び出しそうな、そんな顔。
カルエゴはシチロウの目を見詰めたが、視線は合わない。合わせてくれない。この差し出された羽を受け取ったら、何かが変わる。しかし断ったら、この男はもう、戻ってこない気がした。
「……シチロウ」
「……」
「お前の羽は、美しいな」
言うと、カルエゴはそっと、その羽を奪うようにして受け取った。
羽を前に翳して、羽越しにシチロウを見る。ますます顔色は悪い。受け取ってやったと言うのに、何だその顔は。
「あ、……あの、カルエゴ…くん…?」
「羽根ペンにするには少し俺には大きいな。ベッドの天蓋の飾りにでもするか」
シチロウの瞳が潤む。絶望しているのだろうか。小刻みに震えている。今はカルエゴよりも余程大きな体躯をしていると言うのに。学生時代のように、庇護対象のように華奢だったあの頃のように、小脇に抱えられそうなほど、小さく見えた。
その姿が、どうしようもなく愛しく思えた。
「キミはその意味を、わかっているの?」
「……さぁ。だが」
お前からの贈り物は、何だって誰にも渡したくたいと思う程度には──
「俺はお前を特別に思ってるつもりだ」
「……酷いね悪魔だね、カルエゴくんは」
「そりゃどうも」
カルエゴは羽をローブの胸元に刺した。心臓に一番近い場所に、突き刺した。
手の甲で撫で付けると、ふわりと優しくて、それでいて力強い感触が伝わってくる。まるでシチロウそのもののようだった。その感触を楽しむように、何度も何度も、羽を撫で付けた。
シチロウの顔に少し血色が戻っていた。むしろ、自身の羽を撫ぜるカルエゴの手を食い入るように見詰め、顔を紅潮させていた。つい先程まで自分の一部だったものを、長年の想い人が愛でている。例え今は、そこに友愛以上のものがなかったとしても、この気持ちがいつか成就する可能性があることを、他でもないカルエゴが自ら示してくれた。
「これからも……受け取ってくれる?」
「…受け取らない」
「え、」
「渡してくるな」
急にぴしゃりと言い放たれた強い言葉に、またシチロウの顔色は悪くなる。それを見てカルエゴは、思わず吹き出した。自身の肩を抱いて、全身を抑え込むようにして笑っている。
「もう渡してくるな。そのうち俺が、もぎ取りに行ってやるから」
「え、あ、あ、あー……うぅ…ッ」
シチロウはその場にへなへなと座り込んだ。
ああもう、キミには敵わないよ──