「あの本、返してくれるか」
強い日差しの中帰ってきたオレに、そういやと前置きしたキリュウが切り出した。すっかり手放せなくなったサングラスを外すと、ダイニングテーブルに積み上がる本が目に入る。その塔を前にあ、と自分の部屋の机の上に置いてある文庫本を思い浮かべる。ロマンスものの短編集だった。キリュウが図書館で借りてきた六冊のうちの一つで、オレが珍しいなと言って興味を示すと、持って行っていいと言われたので、好意に甘えて自室で読んでいた。
「ごめん、まだ読み終わってないんだ」
あと三割ほど残っていた。返却期限を聞いていなかったな、と少し悔いる。けど、言い出した側のキリュウはさして焦っていなかった。
「なら延長しようか」
想定していたのとは違う言葉が返ってきて、オレはついマヌケな声をもらす。
「そんなことできるの?」
「ああ。予約が入っていなければ。それも今確認したから問題ない」
「じゃあ……お願いしようかな」
キリュウは頷く。
「俺もまだ手元に置いておきたいのがあったから、ちょうど良かった」
思い出したように付け加えた言葉は、少し早口で。ありがと、と返せば、キリュウは別に、とぶっきらぼうに応えた。
その日のおやつ時、二度の延長はできないから読むなら早めに、と言われたオレは、先ほどから本とノートを広げているキリュウのところで一緒に読んでしまおうとリビングにやって来た。しおり代わりのふせんを取って、話の世界に身を沈める。残っているのはあと四話。次ははクラゲとイカという異種間のふたりの話だった。そう来たか、とオレは目を丸くする。
キリュウはよく図書館から大量の本を借りてくるが、その中に小説はあまり無い。時たま紛れていても、大抵ミステリもの。だから、この本を見た時は不思議に思った。それをそのまま聞いたら、気になったから、としか言わない。そこにもう読んだから持って行っていいぞ、なんて重ねられたら、読んでみるしかないだろう。
その本は、普段から本を読まないオレでも読みやすい易しい言葉で、色々なふたりの関係が綴られていた。学生のカップルから始まり、イカ同士や、イカとタコ、そして今読んでいるイカとクラゲなんて組み合わせも出てきた。キリュウはそこに目をつけたんだろうな、とオレは彼の方を見やる。三冊の本をテーブルに広げて、あちこちを見ながら、ノートに何かをずっと書いていた。
そのカリカリという音を背景に読んでいくうち、気づけば最後の話となった。原点回帰なのか、登場するのはイカとイカのようだ。ただ、ふたりは男同士。そういえば、この組み合わせは初めてかとオレは目次を振り返る。ガール同士の話はあったが、確かに逆はなかった。
学生であるふたりは、放課後になると一人暮らしをしている片方の家で過ごすことがほとんどだった。やがて泊まることも増え、半同居と言うほどに入り浸るようになる。
近からずも遠からず、見覚えというか聞き覚えというか、とにかく覚えのある背景に、オレはソワソワとページの端を擦る。
高校生の頃、それまで住んでいた場所を飛び出したオレは、キリュウの住む八畳間に転がり込んだ。物語も入り浸る側の視点で話が進むものだから、余計にあの過去を思い出してしまう。彼のテリトリー入ることが嬉しくて、ホッとして、でも同じくらい落ち着かない。作者も経験したんじゃないかと詰め寄りたくなるくらい、まざまざと心情が描かれている。
パラリと紙をめくると、白地が目立つ。これで終わりか、なんて思って安心したからか、次の一文にオレの心拍数は一気に上がる。
——ここにずっと居られたら良いのに。
そんな呟きと共に、卒業式に向かうところで物語は終わった。あっさりとした幕引きに相反して、ドクドクと脈打つ音は一向に収まらない。
覚えのありすぎる言葉だった。あの部屋で幾度となく願い、幾度となく怯えた。彼が何も言わず、ただ受け入れてくれることに。それで、オレはあの部屋を飛び出して、一人の空間に落ち着いたつもりだった。
本から顔を上げる。視線の先には、いつの間にかテーブルを片付けてお茶を飲む彼の姿がある。カップは当然のように二つ用意されていた。そのことに喜びを覚えてしまうのだから、オレの願いは結局変わっていなかったのだ。