ラブコメ。.
何故そんな雰囲気になったのか、今でも分からない。
窓から見える茜色の空。教室に入り込む夕陽の光。どこか遠くで聞こえる生徒たちのざわめき。
目の前には自分と同じ色の透き通った瞳がある。金とオリーブの虹彩と、それを縁取るターコイズブルーの睫毛。通った鼻筋と、赤く色付いた薄い唇。少しだけ自分と違うのは、僅かに釣り上がった目尻だ。殆どのパーツは自分と酷似しているが、やはり多少の差異はある。
それは鏡で見る自分の顔よりも、よっぽど見慣れた顔だった。その見慣れた顔が直ぐ鼻先にある。吐息が触れるほど、体温を感じるほど、近くに。
フロイドは口を開こうとする。何かを──ひょっとしたら片割れの名前を、いつものように呼ぶ為に。
緩やかな瞬きを一つして、ジェイドの睫毛がふるりと揺れた。乾いた唇が微かに開き、隙間から覗いた赤い舌が僅かに動く。
言葉はフロイドの口から漏れる前に、塞がれてしまった。
「ってことがあったんだけどぉ」
屈んで足元に纏わり付く子猫を撫でながら、フロイドは横目で隣を見遣る。隣には顔を青褪めさせた他寮の先輩が、のけ反って地面に尻餅を付いていた。
「いやいやいやいや、なんでその話を拙者に!? それって隠キャにする話じゃなくない!?」
両手を握りしめて、ヒィっと大袈裟な声を上げたイデアは、フロイドにじっと見つめられ、首をブンブンと横に振る。
「なんでって、ここにホタルイカ先輩がたまたま居たからじゃん」
「理由が雑ぅッ!」
イデアのツッコミの声が響く学園裏の森。最近ここで子猫の鳴き声がするらしい、とバスケ部の後輩たちから噂を聞いたフロイドは、さっそく部活をサボって探しにやって来たところだった。
陸の世界でフロイドが今まで見た猫は、教師が飼っている生意気そうな猫と、同じく監督生が飼っている(語弊はある)食いしん坊な獣しか知らない。なので、他の猫を見てみたかったのだ。
生い茂った草花を掻き分け、木々の隙間を覗き込んでは探し回り、やっと草むらに蹲る子猫を見つけた。しかしそこには既に先客がおり、その男はその手に猫缶と猫じゃらしを持って猫と戯れていた──それがイデアだったのである。
「夕陽に照らされた教室に二人っきりでファーストキス……そんなリア充みたいなシチュエーション、拙者には縁が無さすぎて理解不能っすわ。……それも同じ顔をした兄弟が相手とは」
焦った顔から一変、皮肉げに笑みを浮かべたイデアは、大仰に両手を上げて肩を竦める。その手に持っていた猫じゃらしを子猫に向かってぐるぐると振り回したが、子猫の方は完全に無視であった。
「オレも意味分かんねーもん。なんとなくそういう雰囲気なっちゃったのかなぁ」
「いや、そもそも普通はそんな雰囲気にならないでしょ……」
大切な弟がいるイデアではあるが、兄弟でそういう行為をするのは本気で理解が出来ない。もし兄弟じゃなかったとしても、そんな空気になるのは双方がなんらかの感情を初めから抱いているからだと思う。つまりは、キスをしたいとか、キスをされたいとか、そういう恋愛的な感情だ。まあ、そんな恋の衝動的な体験のないイデアには、憶測でしか語れないのだが。
子猫はフロイドの足元から動かない。ニャアニャアと小さな鳴き声を上げて、カリカリと爪先でフロイドの靴を引っ掻いている。確かフロイド氏って靴が好きじゃなかったっけ──イデアは子猫の安全が心配だったのだが、いつもは凶悪なフロイドも子猫には優しいらしい。というより、磨き上げられた靴に傷が付いても、ちっとも気にしていないようだった。
「でもそれから、なーんかジェイドの態度がぎこちないんだよねぇ」
まず、一緒に寝てくれなくなったのだという。食事も「あーん」をしてくれなくなった。抱っこもしてくれなくなったし、頭も撫でてくれなくなった。
「それを今までしてた方が拙者はドン引きなんですけど……」
十七歳の兄弟だよね? 双子が特別なのか、人魚の兄弟が特殊なのか。今度アズール氏に聞いてみようかな。すごく嫌がりそうだけど。
話している内容はともかく、子猫と戯れるフロイドの横顔は少し落ち込んでいるように見える。だからこそ、子猫を探しに来たのかも知れない。アニマルセラピー。イデアとしても、その気持ちは十分過ぎるほど分かった。
「この子猫、フロイド氏から離れないね」
「魚の匂いでもしてんじゃね、オレ」
おっと人魚ジョークだ。フロイドは真顔だったが、イデアは少し笑ってしまった。
「ネコちゃんってなに食うの? ミントキャンディーあげていい?」
「ダメに決まってるでしょ。……ペットフードが無難だよ。肉食動物だから、肉や魚を食べるんだけど……」
「ふぅん」
子猫は本当にフロイドの傍から離れようとしない。懸命にフロイドの手を舐め、足に体を擦り付けている。意外にも動物に好かれるタイプなのだろうか……人間には怖がられているのに。
「……このネコちゃん、ジェイドに似てんね」
大きな手で子猫を抱きかかえ、フロイドはじっとその目を覗き込んだ。子猫はまるで答えるかのように、ニャア、と小さな鳴き声を上げる。
「……そう?」
確かにこの子猫はオッドアイだが、それはフロイドも同じな筈だ。そもそも猫はオッドアイが生まれる確率が人間よりも高く、さほど珍しいわけでもなかった。まあ、確かにこの吊り目の感じなどは、似ているのかもしれない。
「このネコちゃん、ホタルイカ先輩の寮で飼えねーの?」
「さすがに寮で飼うのは先生たちが怒るよ……グリム氏じゃないんだからさ」
「じゃあ……ずっとここぉ?」
フロイドは空を見上げる。空は先程から少しずつ雲行きが怪しくなっていた。もう少ししたら雨でも降りそうな鉛色をしている。
「うーん。ネットで里親は探してみるけど、簡単には見つからなそうだし……」
賢者の島で、猫を飼いたいと言う人が見つかれば良いのだが。
フロイドと同じく空を見上げたイデアは、空を睨み付けるようにして暫く思案した。
最近、双子の様子が変である。これは長年の付き合いがあるアズールが言うのだから間違いない。
まず、距離がなんだか遠い。今まではベッタリとくっ付いていたのが、今は体が数十センチは離れている。食事の時もそうだ。ジェイドが汚れたフロイドの口元を、甲斐甲斐しく拭ってやることもない。朝に寝癖が付いているフロイドの髪も直さない。フロイドのボウタイも結んでやらない。ジェイドが片割れの世話を焼くことが、極端に減ったのである。
「それ、今までが変なだけでしょ……」
寧ろ今の状態が普通なのでは? と、ボードゲームのコマを進めながら、イデアが呆れた声を出す。その顔には『この話題は嫌だ』と明瞭に書いてあった。
「ジェイド氏が変なのか、フロイド氏が変なのか……いやきっと両方でしょうな」
「あの二人の仲の良さが異常なのは分かってますよ……しかし、僕は残念ながら慣れてしまっているので」
盤上のコマを思案げに眺め、アズールはサイコロを慎重な手付きで振る。そして出た数字を見てニヤリと口端を吊り上げながら、軽やかに手にしたコマを進めた。チッと目の前の男が舌打ちをするのが、また快感なのである。
今日はボードゲーム部の活動がある日だった。アズールは週に何度かモストロラウンジよりも部活動を優先している。部活動をしているか否かは内申書の評価にも繋がるし、こうしてイデアと対戦するのはなかなか愉しい。負ければ腹が立つこともあるが、勝負に勝った時は優越感に浸れる。アズールの性に合っていた。
「ジェイドの方がフロイドを遠ざけているように見えるんですよねえ。まあ二人とも年頃なので、そういう時期なのでしょうか」
まるで二人の父親のようなことを言って、アズールは溜息を吐く。「まだその話題を続ける気なの?」と言うイデアの言葉はもちろん無視をした。
「フロイドもそれが気に入らないのか、最近はモストロラウンジにも来ません。僕としては優秀な働き手が減るのはとても困る」
「あ、なるほど~。結局は自分の利益優先なわけね……」
やはりアズールである。イデアは呆れたような感心したような顔で頷いた。またサイコロを振って、淡々とコマを進めてゆく。
「今日も部活にも顔を出していないようですし。全く、毎日どこにいるんだか……」
アズールは大きな溜息を吐くと、物憂げに目を伏せた。モストロラウンジの利益の次の次くらいの順位で、アズールなりに友人たちを心配しているのである。
「フロイド氏がいない時って、ジェイド氏の様子はどうなの?」
イデアの問いに、アズールは驚いたように眼鏡の奥の目を丸くした。
「イデアさんが二人の話題に食い付くのは珍しいですね」
「いや、自分から話を振っておいて……」
イデアは何やらモゴモゴと言って口を閉じる。少しだけバツの悪そうな顔をして。
「ジェイドはすこぶる機嫌が悪いですよ。あれはフロイドを自由にさせているようで、自分の目の届く範囲から消えることを厭いますから」
フン、と少しだけ皮肉げな顔をしてアズールはまたサイコロを振った。意図した数ではなかったのが気に入らず、不機嫌に眉を顰める。
「そうなんだ……ふうん」
アズールがコマを進める様子を見ることもなく、イデアはうーん、と困ったように天井を見上げた。珍しく盤上への集中力がない。口元に手を当てて、ぶつぶつと何やら呪詛のように独り言を呟いている。
「どうかしたんですか?」
訝しげにアズールが問えば、
「実は、」
と、至極真面目な顔でイデアは声を潜めた。辺りを見回し、まるで内緒話をするかのようにアズールに顔を近付ける。
「フロイド氏、今うちの寮にいるんだよね」
「は?」
イデアの発言に、アズールがぽかんと口を開けた。アズールがこんな表情を他人に晒すのは珍しく、イデアは思わずフヒっと笑う。しかしその歪な笑顔は、直ぐに怯えたように引き攣った。
「まあ、話せば長くなるんだけどね……フロイド氏がイグニハイドにいるのがバレたら、拙者、ジェイド氏に殺されたりしない? 海に沈められたりしない? 大丈夫?」
「あれぇ、アズールじゃん」
「……お前、何を悠長に遊んでるんです?」
イグニハイド寮の談話室。アズールも初めて踏み入れたこの場所に、フロイドは床に寝転がり、一匹の子猫と戯れていた。周囲には猫のおもちゃやお菓子、ケージやキャットタワー、猫用のトイレまである。
「……ここはイグニハイドの談話室だったはずでは?」
まるで猫専用の部屋である。呆れてイデアを見やれば、イデアはせっせとトイレの砂を変えているところだった。
「その猫の飼い主が見つかるまでのつもりなんだけどね……フロイド氏まで入り浸っちゃって」
は~、とイデアは大袈裟な溜息を吐く。学校側にバレたらまずいですなぁ……と困ったように言うが、アズールの目から見て困っているように見えない。少なくとも「猫」に関しては。
「うちの寮生たちも最初はフロイド氏に怯えてたんだけど、そのうち慣れたみたいで」
続けられたイデアの言葉に、イグニハイドの寮生がこれに慣れるなんてことがあるんですか──とアズールは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
今は、それよりも。
「イデアさんから大体のあらましは聞きました。他寮に迷惑掛けてないで戻ってきなさい」
「えー? 別に迷惑なんてかけてねーじゃん。夜にはオクタヴィネルに戻ってんのに」
ぷぅ、とフロイドは頬を膨らませる。その目はギョロリと、アズールの後ろにいるイデアへと向いた。
「ほんとなら夜もここにいてーんだけど。ネコちゃんと一緒に寝てーし」
ホタルイカ先輩ばっかズルくね? と、睨み付けてくるフロイドに、イデアは「ひぃ!」と悲鳴を上げて飛び退る。
「いやいやいやいや、せめてそれくらいの特権はいいでしょ!? フロイド氏がいる時は子猫を独占してるんだし……」
イデアはアズールの背に隠れると、しどろもどろに言い返した。怯えてはいるが、逃げてはいない。
アズールはそんなイデアの態度に感心する。
「イデアさん、随分とフロイドと仲良くなりましたね」
「アズール氏の目は節穴なの?!」
顔を青褪めさせるイデアを無視し、アズールは改めてフロイドの方へと向き直った。
「逃げてばかりいても、どうしようもありませんよ」
「は? オレが逃げてるって?」
アズールの挑戦的な物言いに、フロイドの片方の眉が跳ね上がる。瞳孔が開き、こめかみに血管が浮く。アズールの後ろで「ヒッ」と小さな悲鳴がまた聞こえた。
「逃げてるのは、あちらもでしょうが」
怒りを隠そうともしないフロイドに対し、アズールの方は全く動じない。眼鏡の奥の目を細めると、やれやれと言ったように小さく息を吐いた。
「お前はどうしたいんです?」
「どうしたいって……」
フロイドは言い淀む。眉間に皺を寄せ、困惑したように視線を逸らす。
「ジェイドと前みたいに戻りたい」
フロイドの答えは簡潔だった。
あの日。何故そんな雰囲気になったのか、今でもフロイドは分からない。胸の奥が痛むような、息が苦しくなるような、あの雰囲気。たかが、唇を重ねたくらいで──。それが原因で、ジェイドの態度はおかしくなってしまった。
「そ、それはもう無理じゃない? 不可逆ってやつだよ」
「……なにそれ」
アズールの後ろから、イデアが顔を出す。アズールよりも背が高いイデアは、どう見ても体を隠し切れていない。
「一度変化したら、元には戻らないってこと」
声に怯えを滲ませながらも、イデアははっきりとそう言い切った。フロイドは僅かに目を見開くと、苦虫を噛み潰したみたいに顔を歪める。
忘れたふりも、知らないふりもできる。だが、なかったことにはならない。変化した関係は、もう元には戻らないのだ。
三人しかいないイグニハイドの談話室に、暫しの沈黙が落ちる。不機嫌な顔のフロイドを心配したのか、子猫がニャアと小さな鳴き声を上げた。ガリガリとフロイドの靴に爪を立て、慰めるかのように足に戯れ付く。
アズールはそんな子猫を見下ろしながら、やがてゆっくりと口を開いた。
「では、今晩イグニハイドに泊まってはどうですか」
「「は?」」
アズールの唐突な提案に、素っ頓狂な声を上げたのはイデア。目を丸くしたのはフロイドだった。驚く二人の顔を見て、アズールはニヤリと口端を吊り上げて笑う。
「幸い、どちらの寮長も今ここにいますし。外泊許可は出せますよ」
子猫と寝たいんでしょう? と、アズールは意味ありげに目を細めた。
「ちょっ、アズール氏、なに言ってんの?!」
「いいじゃないですか、一晩くらい。イグニハイドにもゲストルームくらいあるでしょう?」
「そりゃあるけど!」
明らかに不満と拒絶の声を上げるイデアに対し、アズールは淡々としている。フロイドはまだ驚きで口を開けたままだ。
「たまにはあの男と離れてみるのもいいんじゃないですか。揉めたままで同室なのは、お互いに良くないでしょうしね」
イグニハイドのゲストルームは、無機質で清潔で、一目で普段は全く使われていないことが分かった。
イデアから借りた、何だか良く分からないアニメ絵のTシャツと、少しだけ小さなハーフパンツを履いて、フロイドは子猫と共にベッドに寝転んでいる。先ほどまでオルトが遊びに来て騒いでいたのだが、そのオルトもイデアに呼ばれて居なくなってしまった。そろそろ消灯の時間なので、兄としては心配なのだろう。
──ジェイドは今頃、モストロラウンジの後片付けか。
ベッド脇のデジタル時計を見ながら、フロイドは鬱々とした溜息を吐いた。耳が痛くなりそうな静寂と沈黙。一人になると片割れのことを考えてしまう自分が嫌だった。こんな風に悶々と悩む自分は、全く「らしく」ない。
フロイドの外泊を、アズールはジェイドに話してくれたのだろうか。それともジェイドは部屋に戻ってから気付くのだろうか。心配したりするだろうか。──まあ、どうでもいいけれど。
ただ唇と唇が触れただけだ。体の一部が触れ合っただけで、どうしてこんなことになったのだろう。ジェイドのはあれは不本意だったのだろうか。だからフロイドへの態度がおかしくなったのだろうか。
それを聞きたくても片割れは巧妙に自分を避け、話し合うことはできていない。生まれた時から一緒にいる相手に距離を取られることは、心臓を握られたみたいに苦しかった。苦しくて悲しくて、腹が立つ。
だってフロイドは嫌じゃなかった。唇を重ねる行為の意味は知っているつもりだし、これが他の相手だったら確実に絞めていただろう。ジェイドなら、ジェイドだからこそ、フロイドは嫌悪を抱いたりはしなかった。キスをするのなら、相手はジェイドが良かった。何をするのでもジェイドがいい。例え兄弟だとしても。
腹の上に乗った子猫が、ニャア、と甘えた声を出す。フロイドは優しく顎を撫でてやりながら、ネズミの形をしたおもちゃを振って遊んでやった。子猫は成猫よりも睡眠時間が長いと聞くし、そろそろ寝た方がいいのかもしれない。人間や人魚のように夜に何時間も寝るわけではないと、イデアからは聞いていた。夜に鳴き声で目が覚めることもあるだろう、とも。自分をここに泊めてくれたイグニハイド寮長は、本当に猫がお好きなようだ。
「もう寝よっか?」
声を掛けると、子猫からはニャアと鳴き声が返ってくる。フロイドの言葉を理解しているわけでもないだろうに、思わず笑ってしまった。
「お利口さんだねえ」
猫用のおもちゃを片付け、ベッドを整える。一人きりの大きなベッド。今は子猫がいるから、別に寂しくはない。ジェイドが隣にいなくても。
部屋の照明を消そうかと手を伸ばしたところで、耳をつんざくようなアラームが寮内に鳴り響いた。
「!?」
驚いたフロイドは直ぐにベッドから立ち上がり、子猫が逃げ出そうとするのを抱き上げる。それと同時に、何かが破壊される派手な音がして部屋全体が揺れた。フロイドは警戒しながらも、扉を開けて薄暗い廊下を覗き込んだ。
「ちょ、ジェイド氏、落ち着いて!」
「大変! ジェイド・リーチさんがいつもの冷静さを失ってる!」
廊下の向こうから焦ったようにこちらへやって来るのは、青い髪をした兄弟だった。その二人が必死に先頭を歩く男に話し掛けている。見慣れた帽子、見慣れたジャケット、見慣れたボウタイ──オクタヴィネルの寮服。
「ジェイド?!」
思わず名前を呼べば、片割れはパッとこちらに視線を向けた。その目がギラリと光ったかと思うと、更に早足になってこちらへやって来る。
その恐ろしいまでの気迫に、フロイドは慌てて扉を閉めようとする。が、その前に到着したジェイドが扉に足を挟む方が早かった。
「フロイド」
「げっ!」
そのまま物凄い力で扉を蹴破られ、あっさりと部屋への侵入を許してしまう。フロイドは逃げるように部屋の奥へと後退り、腕の中の子猫は毛を逆立てて威嚇の声を上げた。
「うちの寮のセキュリティーを力尽くで突破しないで!」
「何桁ものパスワードを蹴り一つで解除しちゃうなんてすごいや!」
ジェイドの後ろから興奮したシュラウド兄弟の悲鳴と歓声が同時に聞こえる。二人は廊下からこちらを覗って、フロイドがいる部屋の中に入って来る気はないらしい。賢明な判断だった。
ジェイドは床に落ちた扉の欠片をバキッと音を立てて踏み締めながら、ゆっくりとフロイドの側へやって来る。顔は無表情なのにその全身からは怒りのオーラが立ち上っていて、フロイドは肌を粟立てた。腕の中の子猫も、いつの間にかおとなしくなっている。
「な、なんでここにいんの?」
どう見ても不法侵入だ。それもかなり強引な。
「……転寮すると言うのは、本当なんですか?」
「は?」
地を這うような声で発せられた言葉に、フロイドは驚きで目を見開いた。
「僕と同室なのがそんなに嫌なんですか?」
ジェイドのオッドアイが、射抜くようにフロイドを睨み付ける。その目には強い怒りと憤りが滲んでいて、フロイドは小さく息を呑む。
「何の話──」
「アズールから聞きました。フロイドがイグニハイド寮へ行くと」
言いながら、ジェイドは一度目を伏せる。頬には睫毛の影ができて、何か悲しみに堪えているようにも見えた。
「僕が、思い余ってキスなんてしたからですか」
「っ、」
「僕が、あなたに邪な感情を抱いてしまったからですか」
「は……」
ジェイドは何を言っているのだろう──。フロイドは呆然として、子猫を抱いた腕の力を弱緩めた。その隙に、スルリと子猫が腕の中から逃げ出してゆく。
「ずっと、歯止めが効かなくなりそうで堪えていたのに」
「な、なんの話──」
「好きな子とキスしてしまったなら、その先もしたくなるのは当たり前じゃないですか」
「ちょっ、まっ、待って!」
フロイドは慌てて、ジェイドの口を両手で塞いだ。ジェイドの目は丸くなり、フロイドの顔は赤くなる。一瞬、部屋の中が静まり返った。部屋の外では、イデアとオルトが固唾を呑んでこちらの動向を見守っている。
「て、転寮なんてしねーし!」
「……は?」
フロイドの手の中で、ジェイドがぽかんと口を開けた。
「外泊許可もらっただけだわ。それも、たった一晩」
どうしてフロイドが転寮なんて話になっているのか──決まっている、アズールがジェイドにそう言ったのだ。恐らく、わざと誤解させるようなことを。
ジェイドは暫く呆然として固まっていたが、やがて脱力したように肩を落とすと、自身の口を塞ぐフロイドの手をゆっくりと外させた。久し振りに触れたジェイドの手は、手袋越しでも熱い。
「……あのタコをカルパッチョにしてもいいですか」
「さすがにそれはまずいんじゃね……」
ジェイドの物騒な言葉に、フロイドは顔を引き攣らせる。アズールがフロイドに外泊許可を出したのはこの為か。流石のフロイドも、幼馴染みの所業に少しだけ呆れた。
「とりあえず、着替えをしてください」
「え?」
気を取り直したジェイドは、掴んだままだった手を一度離すと、ソファに置いていたフロイドの制服を手に取った。
「なんで?」
「他の男の服を着ているのは許せません」
吐き捨てるようなジェイドの言葉に、フロイドは呆気に取られた。よく分からないアニメのTシャツと、ハーフパンツ。今フロイドが着ているのは全てがイデアのものだ。廊下の向こうから、「ひぃっ、拙者を殺さないで!」とイデアの怯えた声がする。
「なにそれ……ジェイド、いつからそんなにヤキモチ焼きになったの」
「隠していただけですよ。さぁ、早く着替えて。なんなら手伝いますけど」
手を伸ばして裾を掴もうとする片割れに、フロイドは慌ててTシャツを脱ぐ。着替えている間、背中に視線を感じて落ち着かなかった。
隠していた、って──。
心臓がバクバクと忙しない動きをしている。息が苦しい。ワイシャツのボタンを留める手が微かに震えている。驚愕と、動揺。そこに嫌悪はなかった。
フロイドがジャケットを羽織り、右耳にいつものピアスを装着すると、ジェイドは再びフロイドの右手を掴んだ。そのまま有無を言わせず、手を引いてゲストルームを出る。廊下には目をキラキラさせたオルトと、げんなりとした顔のイデアが立っていた。
「扉の修理代はアズールにお願いしますね」
ジェイドは真顔でイデアにそう言うと、戸惑った様子のフロイドを引き摺るようにして歩き出した。廊下に集まっていたイグニハイドの野次馬たちは、オクタヴィネル寮の双子に悲鳴を上げて道を開ける。
そんな騒ぎを気にすることもなく、双子はさっさと廊下の奥へと姿を消した。後に残されたのは壊された扉の残骸と、呆気に取られるイグニハイド寮生たちだけであった。
「結局は兄弟喧嘩だったってことなのかなぁ……。でも二人とも仲直りできて良かったね!」
双子を見送ったオルトは、にっこりと嬉しそうに兄に向かって微笑んだ。そんな純粋な弟の笑顔が、疲れ切った兄には目が眩むほど眩しい。
「これは兄弟喧嘩というか、ただの痴話喧嘩だと思うよ……」
リア充のすれ違いののちのハッピーエンド。結末が分かりきったラブコメディ。イデアが最も苦手とする茶番劇だ。それに巻き込まれた自分が一番不幸だった。
「これは高くつきそうだよ、アズール氏……」
蹴り破られた扉や、吹き飛んだ強固なセキュリティ。オルトが即座に計算してくれた金額は、なかなかのもんである。あのアズールが素直に払ってくれるだろうか。限界まで値切られる自分の姿が浮かび、イデアはどんよりとした溜息を吐く。
ニャー。
逃げ出していた子猫が、いつの間にかイデアの足元にやって来た。可哀想に、怖かったに違いない。イデアは床にしゃがみ込むと、子猫を優しく抱き上げる。
子猫はニャアニャアと、か細い鳴き声を出した。フロイドがいなくなって寂しいのかもしれない。一番に懐いていた男が、同じ顔をした男に攫われてしまったのだから。
「早くお前にも、お迎えが来るといいね」
イデアは慰めるように、子猫の顔周りを指先で撫でてやった。
オクタヴィネル寮内は静かであった。
消灯時間も過ぎ、廊下には出歩く寮生の姿はない。長い廊下の窓の外には、暗い海が見えている。
フロイドの手を掴み、大股に廊下を歩くジェイドは、先程から一言も言葉を発しない。最初は制止したり、文句を言っていたフロイドも、そんな片割れの態度に諦めて口を噤んだ。正直言えばまだ頭は混乱していたし、さっきからずっとジェイドに言われた言葉がぐるぐると頭の中で繰り返されている。邪な感情がどうとか、歯止めがどうとか、好きな子だとか、隠していたとか。
やがて自分たちの部屋の前まで来ると、ジェイドは性急に扉を開けた。パッと部屋の照明が点いて、フロイドは部屋の中へ押し込まれる。
「フロイド」
名を呼ばれ、背中から抱き締められた。ジェイドの吐息が首筋に当たり、フロイドの心臓が飛び跳ねる。久し振りに感じる体温。お互いに速い鼓動。ジェイドの匂い。
「あなたが離れたのではなくて良かった」
背中越しのせいで、ジェイドの表情は見えない。だがその声は悲痛が滲んでいるように聞こえた。
「……転寮なんてするわけねーじゃん」
フロイドはふっと体の力を抜くと、ジェイドに背中を預けるように寄り掛かる。ジェイドの前髪が、フロイドの耳に当たって擽ったい。
「むしろ離れたかったのは、ジェイドの方じゃねーの」
拗ねたような言葉に、背中越しのジェイドの体が微かに強張ったのが分かった。今のフロイドの感情は、驚きと悲しさと呆れが混ざり合ってドロドロになっている。少しだけジェイドを責めるような口調になってしまったのは仕方がない。
「……あなたと離れたかったわけではないんです」
答えるジェイドの声は囁くように低く、不明瞭だ。フロイドの体を拘束する腕に、力が入る。
「一度キスをしてしまったので、もう無理だと思いました」
「『歯止めが効かない』ってやつ?」
「……そうです」
神妙なジェイドに、フロイドは思わず笑った。よそよそしく、フロイドを避けるような態度だったジェイド。ジェイドに距離を取られて悲しかったはずなのに、不思議と怒りは湧いてこない。
腹の前に回された腕から逃れるように体を反転させ、フロイドはジェイドと向き合う。殆ど身長の変わらない自分達は、目線も同じ高さだった。ジェイドの美しいオッドアイが、真っ直ぐにフロイドを捉えている。
「不可逆って知ってる?」
「……元の状態に戻れないことですね」
「ジェイドは戻りたい?」
以前の、仲が良かった兄弟に。
一度起きてしまったことは、なかったことにはできない。だが、忘れたふりをすることはできる。
「いいえ」
ジェイドの答えは簡潔だった。
「いいえ、フロイド。僕はもう、あなたと兄弟の仲に戻ることはできません」
きっぱりとしたジェイドの答え。予想はしていたというのに、フロイドの心臓は僅かに痛む。
「……それは、」
フロイドは浅く息を吸う。言葉を発しようとして、微かに喉が震えた。
「オレのことが好きだから?」
「はい」
鼻先が触れ合いそうなほど、距離が近い。ジェイドは答えを躊躇わなかった。
「キスをしたのも、それが理由?」
「はい」
「キスをしたら歯止めが効かなくて、我慢してたんだ?」
「はい」
話すたびに、お互いの呼気が唇に当たる。もう少し顔を近付ければ、互いの唇が触れそうだった。あの時のように。
「バカだねぇ、ジェイド」
フロイドは少しだけ顎を引いて、ジェイドから顔を離す。間近にあるジェイドのオッドアイが、虚を突かれたように丸くなった。
「オレが嫌がるわけねーじゃん」
ジェイドに何をされても。ジェイドなら。キスも、その先だって。
「オレがジェイドに甘いこと、知ってんでしょ?」
「……ええ」
フロイドはジェイドを拒まない。拒む理由がない。勿論、本当に不快なことは拒絶するし、喧嘩にもなるけれど。
「キスも、嫌じゃなかったし……」
続けた声は、照れのせいか小声になってしまった。目の前の片割れの顔が見れなくて、情けなくも目を逸らしてしまう。
ジェイドは何も言わなかった。目の前の体はぴくりとも動かない。心臓がバクバクとしている。これはどちらの鼓動だろう。反応のない片割れに、疑問に思ったフロイドが顔を上げると──そのまま唇を塞がれてしまった。
「んっ、」
後頭部に手を回され、顔を引き寄せられる。驚きで薄く開いた唇に、ぬるりとした熱い舌が入ってきた。
「……ふ、」
口の中に誰かの侵入を許すなんて、初めての経験だ。フロイドは思わず腰を引くが、直ぐに大きな手に腰を掴まれて引き戻される。そのまま足がもつれて、気付けば背中からベッドに倒れていた。
ベッドに倒れ込んだというのに、唇は離れない。それどころか深く、激しくなった。上から覆い被さるジェイドは、何度も何度も丹念にフロイドの味を確かめる。
「……ひとつ、誤解しています。フロイド」
濡れた音を立てて唇を離したジェイドは、涙が滲んだフロイドのオッドアイを見て口を開く。「……誤解?」と、フロイドは濡れた唇を動かすが、それは声にはならなかった。
「僕は確かに我慢をしていましたが──あなたに無理矢理迫ってしまうことを怖がったわけじゃない」
ジェイドの乾いた手が、フロイドのワイシャツの裾から入り込む。温かな素肌の脇腹を撫で、腰に触れながら、制服のベルトのバックルを音を立てて外した。
「僕はあなたを手に入れるつもりでした。確実に。どんな手段を使っても」
フロイドはジェイドを拒まない。そんなことはジェイドも分かっている。もし『好き』の種類が違っていても、同じ感情を抱くようにすれば良いだけだ。どんな風にフロイドを口説き落とすか──用意周到に、緻密に、念入りに計画を立てて。ジェイドは外堀から埋めてゆく方法を、数多に考えていた。
「なのに、衝動的にキスをしてしまって──計画が崩れたことに動揺しました」
「……は、」
ひとつひとつ、ワイシャツのボタンを外されながら、フロイドは片割れの顔を見上げ、呆然とする。こちらを見下ろすジェイドの表情は、至極真面目だった。
「このままフロイドに迫るか、それとも計画を修正するか。悩んで、我慢しているうちに、あなたはイグニハイド寮に入り浸ってしまって」
フロイドとイデアが拾った子猫のことも、当然ジェイドは知っていた。ジェイドはフロイドのことなら何でも把握している。まさか、アズールに唆され、外泊までするとは思わなかったが。
「本当に、フロイドが相手だと予想がつきません。やはり、あなたは特別だ……」
恍惚とした表情のジェイドは、脱がせたフロイドのワイシャツを床に放り投げた。次いで、自身のジャケットも乱暴に脱ぎ捨てる。
「どうやら、我慢のし過ぎは精神的に良くないようだ。また爆発する前に、もう我慢するのはやめることにします」
ジェイドの大きな手が、フロイドの両頬を優しく包み込む。唇が降りてきて、ちゅっと鼻先に口付けられた。額、頬、瞼と、温かな唇が触れてゆく。フロイドの唇以外にの箇所に。
「……マジで、ジェイドってうぜー……」
甘んじて顔中へ口付けを受けながら、フロイドは呆れて悪態を吐いた。自分勝手で自己中な片割れの言い分。それでもフロイドは、ジェイドを拒めない。
「それって褒めてるんですよね?」
「ちげーわ。余計な言い訳する前に、オレに言うことあんだろ」
わざとらしく小首を傾げるジェイドに、フロイドは額を強く指で弾いてやる。いわゆる、デコピンというやつだ。それに驚いたのか、ジェイドは額を手で押さえて目を丸くした。
別に、言質を取りたいわけではない。フロイドとジェイドの間には、言わなくても分かることが山のようにある。それでも、行動よりも言葉が欲しいこともあるのだ。
「僕が告げたら、フロイドにも同じ言葉を要求しますが」
滅多にお目に掛かれないような優しい笑みを浮かべ、ジェイドはフロイドのこめかみに口付ける。頰に触れていた手は、いつの間にか鎖骨まで降りて、フロイドの肌をまさぐっていた。
「……こういうの、拒否しねーんだから分かんない?」
「これはお互い様ですから」
擽ったそうに身を捩るフロイドの手を取り、ジェイドは自分の背中へと腕を回してやる。フロイドは素直にジェイドの体に抱き付いた。
「ん、」
体中を這う悪戯な手と、唇以外を掠める執拗な愛撫。二人が動くたびにベッドは軋み、フロイドは甘い息を吐く。衣服は全て取り除かれたが、体は熱くて堪らなかった。徐々に熱に浮かされてゆく中で、フロイドの耳元に唇を寄せたジェイドは愛を囁く。
「……っ、」
言葉と共に耳朶を甘噛みされ、舌を捻り込まれて、フロイドの体は面白いくらいに良く跳ねた。甘く苦い痛みと、焼けるような熱が体を駆け抜ける。ぞくぞくと肌が粟立った。
こんなことの最中にさらっと言うなよ──。
ふつふつとジェイドに対して怒りが湧く。焦らすように肌を掠める長い指。頑なに触れようとしない唇。薄く開いた目で見上げた片割れは、舌舐めずりをしながらフロイドを見下ろしていた。鋭く、突き刺すような視線は、お前も早く言えという圧力だ。
「は、っあ、……ん、」
指を絡ませた手をシーツに押さえ付けられながら、フロイドは漏れる声を必死に噛み殺す。稚魚がイヤイヤするように首を振れば、パサパサと前髪が音を立てて揺れた。
気が遠くなるような快楽の中で、やがて根負けしたフロイドは、ジェイドと同じ言葉を口にする。それはまるで悪罵のようにも聞こえたが、間違いなく愛の言葉だった。
すると、待ってましたとばかりに唇にキスが落とされた。薄く開いた唇のあわいから入り込んだ長い舌が、直ぐにフロイドの吐息を奪ってゆく。上も下もジェイドに塞がれて、体中が熱くて苦しい。
散々喘がされ、様々な体勢を取らされて。
やがてフロイドの意識は、暗い海底へと沈んでいった。
スッと目の前に差し出された紙切れに、イデアは盛大に眉を顰める。怯えと警戒心と多少の怒りのせいで。書かれている数字の筆跡には、見覚えがあった。
「こちらはアズールからの小切手です。裏書されたものでもありませんので、ご安心して換金してください」
胸の上に片手を添え、慇懃な態度で微笑む男が胡散臭く見えるのはイデアの被害妄想がそうさせるのだろうか。実際、イグニハイド寮はこの男によって甚大な被害に遭っているのだし。
「めちゃくちゃ値切られたっすわ……アズール氏って鬼だね」
イデアは怯えながらも恐る恐る小切手を受け取り、額面の数字の桁に溜息を吐く。払ってくれるだけマシなのかもしれない。本来なら、目の前の男が払うべきだとは思うのだが。
「代わりにここで猫を飼えるようになりましたし、良いじゃありませんか」
ジェイドはにっこりと目を糸のように細め、チラリと視線を下へ落とした。ペット用のおもちゃで散らかった部屋を、子猫が元気よく走り回っている。
今回の件のお詫びに──と、アズールは様々な手を回し、学園で猫を飼うことを学園長に了承させてしまった。グリムの前例があるだろうと説得したらしいが(因みにグリム氏はこの発言に怒っていた)、その他にどんな手を使って学園長を説得したのかはイデアは分からない。どうせ何か脅したのだろうとは思うが、知らない方が良いこともある。
「ところで今日はフロイド氏は来ないの?」
気を取り直してイデアは話題を変えることにした。本音は目の前に男に一刻も早く帰って欲しいのだが、全く帰る様子のないジェイドは子猫を興味深げに観察している。
「あとで来ると言ってましたよ。イデアさんにではなく、その子猫に会いに」
「いや分かってるから! そこを勘違いしたりしないからっ! ……全く、ジェイド氏は嫉妬深すぎですぞ」
微笑みながら釘を刺すようなジェイドの言葉に、イデアは慌てて首を振った。イグニハイド寮の談話室の温度が、体感で五度は下がった気がするから恐ろしい。
ニャア。
すると走り回っていた子猫が、遊ぶのをやめてイデアの足元へとやって来る。イデアは身を屈めると、子猫の体を優しく抱き上げてやった。
「ああ、別に呼んだわけじゃないよ……お前にもちゃんとした名前を付けてあげなきゃね。勝手に付けたら、フロイド氏が怒りそうだけど」
「それはないと思いますよ。フロイドも僕も、イデアさんには恩義を感じていますから」
口許に手を当てて、ジェイドはクスクスと意味ありげに笑う。その滲み出る胡散臭さに、イデアは怯えたように後退る。
「フロイド氏はともかく、ジェイド氏からの恩義とか怖いんだけど……」
ニャ〜。
二人のやり取りを聞いて、腕の中の子猫がまた鳴いた。ニャアニャア。何かを訴えるように、カリカリとイデアの寮服の袖を爪で引っ掻く。
「先ほどから随分と鳴いていますね。餌の時間でしょうか」
不思議そうなジェイドの言葉に、イデアは驚きで目を見開いた。
「え? あ、ひょっとしてジェイド氏、聞いてない?」
「なにをですか?」
ニャア。
子猫がまた鳴く。イデアはニヤリと笑って、口を開いた。
「『じぇーど』」
ニャア。
「『じぇーど』〜」
ニャア。
「『ジェーど』ぉー」
ニャア。
「……は?」
イデアに名を呼ばれ続け、ジェイドは目を丸くする。その間も、子猫は鳴き続けている。
「『じぇーど』氏、そろそろご飯食べる?」
ニャア。
ジェイドと呼ばれ、その度に返事をする子猫に、イデアは満足げに笑った。
「フロイド氏がさぁ……、この子猫がジェイド氏に似てるからってそう呼んでたんだよ」
フロイドが何度も何度もそう呼ぶせいで、『じぇーど』は仮の名前なのに、子猫は覚えてしまったのだろう。オッドアイなんて猫には珍しくないし、ジェイドに似てるなんてイデアには到底思えなかったけれど──いま思えばフロイドは、片割れがいない寂しさを子猫で紛らわしていたのかもしれない。
フロイド氏も可愛らしいとこあるよね──と言おうとして、イデアは慌てて口を噤んだ。そんなことを言おうものなら、嫉妬したジェイドにどんな報復をされるか分からない。
「え……あれ? ジェイド氏、聞いてる?」
先程から反応のないジェイドに、イデアは訝しげな視線を送る。ジェイドは手で目を隠すように押さえ、天を仰いでいた。その唇からは、唸り声のようなものが上がる。
──え、なにこれこわい。
体は小刻みに震えているし、頬も耳も首も赤くなっている。もしかして、照れているのだろうか。
やがてジェイドは頭を抱えると、フラフラと床に座り込んでしまった。蹲ったその背中に、イデアの腕から抜け出した子猫が飛び乗る。ジェイドの背中でニャーと高らかに鳴く子猫は、何だか嬉しそうだ。
その姿を笑っていいのか揶揄っていいのか分からないまま、イデアはタブレットを取り出すと写真を一枚撮った。写真を加工なんて殆どしたことはないが、ジェイドと子猫をピンク色のハートで囲む。
そうして不本意ながら以前交換したフロイドの連絡先に、メッセージと共にその写真を送った。
『ジェイド氏、萌え死。』
爆笑するスタンプがフロイドから届いたのは、それから数秒後のことだった。