甘い香りはこそばゆい 洗濯をするために綾人の服を手に取った瞬間、上品な花の香りが鼻孔を掠めるのと同時にトーマは「やってしまった」と思った。
清涼感を残しながらも上品な甘さを漂わせるその愛しい香りが、気を張っていた心を揺るがしてくる。
もっとこの香りに包まれていたい、と。
愛する人の香りに対してそんな風に感じてしまったのは、自分がポメガだからなのだと自覚して、トーマは僅かに眉を下げて鼻をすんと一つ鳴らした。
疲れたりストレスが溜まるとポメラニアンになってしまう。それがポメガというものであった。
ポメラニアンになったらずっとそのままという訳ではなく、ポメガは誰かに可愛がられたり構ってもらうことでポメラニアンから人間に戻れる。
ポメガであるトーマは過去に何度か疲労を溜めたことが原因でポメラニアンになってしまい、そのたびにトーマは最愛の主人である綾人にめいいっぱい可愛がられていた。
しかしポメラニアンという小さな犬になって綾人に甘えるというのは気恥ずかしいし居た堪れなく感じてしまい、トーマは抑制剤を飲んだり体調管理に気を付けて極力ポメラニアンになるのを避けていた。
なんせポメラニアンになったら好いた人がめいいっぱい可愛がってくれて、とびっきり甘やかしてくれるのだ。
それがどれだけ柔い多幸感に満ちた甘美なひとときであるか、トーマは身を持って知っていた。
綾人の腕に抱かれて頭をよしよしと撫でられながら、穏やかで優しい声に「かわいいね」と何度も囁かれる。
そんな風に可愛がられるたび、トーマは甘い熱に溶かされたように目をうるうると潤ませて、綾人の腕に頬擦りをし「もっと甘やかしてください」と甘えてしまっていた。
そんな甘えた姿を綾人という一等愛しい人の前でするということがトーマにとってはなんとも恥ずかしくて堪らず、綾人は「もっとポメラニアンになって甘えても良いのに」とよく言ってくるが、トーマは恥じらいを避けるべくポメラニアンにならないよう常々気を付けていた。
そう、気を付けてはいた。
いたのだけれども、それでも性というものには抗えないようで。
恐らく最近綾人と二人きりでゆったりと過ごせる機会がなかったせいもあるのだろう。
綾人の香りを近くで感じたのをきっかけに、寂しさがじわじわと胸に広がってゆくのをトーマは止められなかった。
かろい優しい香りに鼻先を擽られる。
……若に甘えたい。
あの腕の中に抱かれて、温い指先でよしよしと頭を撫でられて、めいいっぱい可愛がられたい。
優しく微笑みかけてくれる愛しい人の、柔らかく低い声でもって「トーマ」と名前を呼ばれたい。
そんな我儘が次から次へと湧いてきて、トーマは眉を下げながら唇をきゅっと弱く噛んだ。
「若……」
か細く掠れた声が温い空気に溶けてゆく。
綾人に甘えたくなる気持ちが抑えきれなくなり、トーマは肌触りの良い服を握り締めて深く息を吸い込んだ。
そうしたら愛しい甘い香りがふわりと辺りに広がってゆくものだから、トーマは寂しさを掻き立てられてしまい切なくて堪らなくなってしまった。
寂しさのせいか頭の隅に恋しい面影が呼び覚まされる。
思い出したのは、トーマが初めてポメラニアンになった日の一場面であった。
トーマを腕に抱えるその人は柔い髪の束を揺らしていて、目尻を垂らし優しく微笑みながら「我慢せずいつでも甘えておいで」と言った。
その声はとても柔らかく優しくて、穏やかな微笑みと共にそう言ってもらえた時の嬉しさや喜びを思い出すと、トーマは胸が締め付けられたように苦しくなってしまった。
はやく。はやく若に甘えたい。
今すぐ若の腕に飛び込んで、彼の甘い香りに包まれたい。
こうなってしまったらもう綾人に可愛がられたいということしか考えられなくて、トーマは己を呼ぶ綾人の優しい声を思い出し、淡く色付いた唇を震わせた。
「……わか、」
眉を下げ、微かに湿った吐息を口の端から零す。
トーマは鮮やかな若葉の瞳を潤ませると、寂しさを紛らわせるように甘い香りのする布を両腕でぎゅうっと抱き締めた。
――仕事が終わり夜が更けてきた頃、トーマは意を決して綾人の部屋の前で膝をついて座っていた。
緊張のせいか、それとも期待のせいか、胸が忙しなく脈を打つ。
トーマは気休め程度に一つ深呼吸をすると、小さく息を吸い込んで「若」と襖に向けて声を出した。
「トーマです。……その、お願いしたいことがあって……部屋に入ってもよろしいでしょうか」
弱々しげな声が温い空気に溶けてゆく。
脈の音を耳にしながら唾を飲み込んで返事を待つと、少しも間を置かずに襖の向こうから「構わないよ」という柔い声が返された。
その言葉にトーマは安堵の息を吐いて強張っていた肩を下ろし、「失礼します」と襖をそっと横に引いて畳の上に静かに足をつけた。
室内に入って襖を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。
すると不思議そうな顔をして首を傾げている綾人と目が合い、トーマは思わず息を一つ飲み込んだ。
「頼み事だなんて珍しいね、何かあったのかい」
ああ、駄目だ。
綾人の声を聞いた瞬間、トーマは素直にそう思ってしまった。
その穏やかな低い声に優しい色が滲んでいたからだろうか。
淡藤色の柔い眼に見つめられていると、胸の奥で燻っていた寂しさがぶわりと込み上げてきて、頬の辺りが熱に染まってゆくようで。
潤んだ若葉の瞳を一つ瞬かせたら、トーマの視界はあっという間に低くなってしまっていた。
「……トーマ?」
「くぅん……」
ぽつりと呟くような声で名前を呼ばれ、か細い鳴き声を漏らしながらぷるぷると身体を震わせる。
花色を帯びた淡藤の瞳を丸くさせた綾人の顔を下から見上げて、トーマは顔から火が出てしまいそうなくらいの羞恥を感じた。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい!!
だってまさか、綾人に会ってすぐポメラニアンになってしまうだなんて思いもしなかったのだ。
今まではこんなことはなかった。
綾人に甘えても良いか許しをもらうまではポメラニアンにならないよう、トーマは自制に努めていた。
けれども愛しい人に甘やかしてもらえるかもしれないという期待や、寂しかったのだという気持ちが、トーマの想像以上に胸の内で膨らんでしまっていたようで。
トーマは無意識に甘やかされたくて堪らなかった気持ちを自覚して、恥ずかしさから綿毛のような尻尾をぱたぱたと何度も振った。
会ってすぐに犬の姿になってしまうだなんて。
それではまるで寂しくて甘えたかったのだと言っているようなもので、トーマはふわふわの小さい耳を垂らし短い足をぷるぷると震わせた。
羞恥に震える柔い金色のふわふわとした愛らしい姿を見つめて、綾人は丸くさせていた目をゆっくりと細めると一つばかり小さな笑い声を零した。
その声にぴくりと毛を揺らして反応したトーマに近寄り、愛くるしい子犬の前に静かに座り込むと、綾人はそうっと伸ばした腕で小さくなったその身体を優しく抱えた。
「ふふっ……もしかして、甘やかしてほしいとおねだりをしに来たのかい」
楽しげな笑みを零しながら、綾人は靭やかな指先でふわふわの頭を優しく撫でた。
トーマはそんな綾人の顔を上目遣いに見つめてつぶらな瞳を潤ませると、じわじわと広がってゆく羞恥に小さな耳をぺたんと垂らした。
それでもトーマは恥ずかしいからといって綾人の問いかけを無視するなんて事はせず、うるうると輝く瞳で綾人の顔を見つめながら健気に「くぅん、」と鳴いて答えてみせた。
可愛らしい声で素直に返事をした愛らしい子犬に、綾人は顔をほころばせてうっとりとした笑みを浮かべる。
そうして小さく笑って「いいこだね」と柔い吐息を漏らすと、綾人はふわふわの柔い頬を指先で撫でて可愛がった。
まるで擽るかのようなその手付きですら「若に可愛がられている」と思うと嬉しくて堪らず、トーマは喜びを表すようにふわふわの尻尾を振り、綾人の服に小さな手をぴたっと添えて身を寄せた。
鼻をぴくぴく動かすと恋しく感じた上品な甘い香りがすぐ近くから香るのもとても嬉しくて、陽だまりに当たっているかのように胸がぽかぽかと暖かくなってゆく。
綾人の服に頬擦りをし、安心しきった表情で目を細めると、そんなトーマの柔い毛を撫でて愛でていた綾人が思わずといった様子で小さく笑った。
「よしよし……ふふっ、かわいい」
甘い声で囁かれながら、掌の優しい温もりで撫でられて甘やかされる。
それはとても温かく、幸せで堪らなくて、トーマは綾人の温度によって身も心も溶かされてゆくような気がした。
そうしてすっかり蕩けきってしまったトーマはうっとりとした表情を見せて、自身を抱く綾人の身体に寄りかかり何度も「くぅん」と甘えた声を出して鳴いた。
「もっと甘やかしてください」とでも言うかのように、綿毛のような尻尾がぺたんぺたんと綾人の腕を叩くのもまた可愛くて愛らしくて。
綾人はそんな小さくて愛くるしい姿を眺めて柔らかく微笑むと、綿のような毛をそうっと撫でてやりながら温く甘い吐息を零した。
「甘えたなトーマもとっても可愛いね」
上目遣いに見た綾人の表情はとても優しく、柔らかくて、愛しげな色を滲ませた淡藤色の瞳に見つめられているとトーマは胸の辺りがこそばゆく感じて堪らなかった。
「きゅう……」
トーマは「若」と言う代わりに小さな鳴き声を漏らし、目を細めて微笑む綾人を潤んだ瞳でじっと見つめた。
愛しい人の低くて甘い声に「可愛い」と囁かれると、どうしようもなく嬉しくて仕方なくて。
愛くるしい瞳をうるうると潤ませてふわふわの尻尾を震わせながら、トーマは甘い香りのする温もりにそっと柔い毛並みを擦り寄せて、「くぅん」と一等可愛く甘えてみせた。