冷え込んだ夜の空気が廊下に染み込んでいる。縁側作りの屋外と隣り合わせの部屋とは違い、トーマが向かう先は屋敷の奥まった場所にあるから、外ほど寒くはなかった。寒さを気にしていられるほど余裕がないと言えば、そうなのかもしれない。
トーマが向かっている先の部屋の隙間からは、微かな橙色の光が漏れていた。暗がりの中から一筋流れる光に、まるで招かれているみたいで、トーマは微かに漏れる灯りをじっと見つめた。
見慣れた襖の前まで来ると、温かい色の灯りが顔に掛かった。背中の方に影が伸びて、異様な緊張感に肩が強張る。この先には自分を待っている男がいる。その事実にトーマは嬉しいような、恐ろしく期待していることに気付いて、顔を下げた。
「……若。遅くなり申し訳ございません」
「ふふ、遅くなどないよ。入っておいで」
壁一枚隔てた向こうから喜色に溢れた声が返される。きっと声の主は楽しそうな顔をして襖が開くのを待ち侘びているのだろう。主人のその姿を想像して、トーマは緊張を振り払うように首を緩く振ると静かに襖を開けた。
橙色の灯りが大きく霞んで、真っ暗な部屋に佇む輪郭が鮮明になる。ふわりと軽やかな花の香がして、そういえば若に頼まれて香を焚いたんだったと朧気に思い出した。
いつも夜食を運ぶ時同様、公務用の文机に肘を掛けていると思ったが、綾人もこういう時は雰囲気を弁えるらしい。いかにも恋人を待つ風で二枚敷かれた布団に腰を掛けている様子は、トーマの目には見てはいけない、艶やかなものに見えた。
「失礼、します」
「待ってたよ。ほら、隣に来ておくれ」
「……はい」
緊張が態度に出ている。しかもそれを綾人に悟られていると感じて、僅かな羞恥に俯きながら手招きされた場所へと向かった。
綾人の横に腰を下ろして座り込めば、一層穏やかな香の匂いが強くなる。綾人が零す吐息の音がすぐ近くで聞こえる。心臓の音が聞かれていないかが心配になるくらい、トーマの体は緊張と期待で張り裂けそうだった。
膝の上に置いた手に力が入る。少し痛いくらいに握ろうとすると、横からしなやかな白い指先がするりと伸びて、トーマの手の上を滑らかに這った。手の甲に浮いた筋をくすぐって、上から覆い被さった手で全体を包まれる。肌に伝わる綾人の温かい熱が頬にまで昇っている感じがして、釣られるように顔を上げると笑みを浮かべる綾人と目が合った。
「緊張しなくて大丈夫だよ。私はただ恋人を可愛がりたいだけなんだから」
「……っ、若」
斜めに垂れた水色の髪が揺れて、髪の隙間から覗いた瞳が愛おしそうに細められる。暗がりの中、橙色に柔らかく照らされた顔は部屋の空気と相まって官能的で、赤い唇さえも艶めかしく映えてトーマは唾を飲み込んだ。
この方の恋人になったなんて、信じられない。
けれど、綾人の愛おしそうに慈しむ視線は一心にトーマに注がれていた。優しい眼差しに愛される喜びに体が震えそうになって、夢のような心地にトーマはまた信じられないような気持ちになった。
トーマは綾人と恋人だった。トーマからすれば最近恋人になったばかりで実感がないが、綾人によれば二人は結構前から付き合っていた、らしい。
らしいというのも、トーマにはその間の記憶がなかった。すっぽり抜けてしまっている、というよりは、元々存在していない物のように覚えがなかった。
記憶がなくなってしまったのはトーマが稲妻の秘境を探索していて、そこで起きた地脈異常に当てられたせいだと言う話だった。好いた人との記憶をなくすなんて質の悪い現象があるのかと耳を疑ったが、トーマを心配する綾人の声は不安そうに揺れていて、時折悲しそうな顔で付き合っていた時の話をする姿に、嘘だろうと酷なことは言えなかった。
確かにトーマは綾人を好いていた。けれど元々トーマとしては、告白をするつもりなどなかった。一度戯れに綾人から好きだと言われたことがあったが、トーマはそれを本気にせずに、冗談めかして答えて躱していた。
片思いのままで十分だった。その思いを一生墓場まで持っていって、綾人の幸せをすぐ傍で見られるのなら、それ以上望むのは罰当たりだと思った。だから必死に綾人からの視線に逃げて、思いを避けていたのに、いつの間にか綾人と恋人になっていたと聞いて、心が緩んでしまったのは仕方のないことだった。
付き合っていた頃にしていたと、そんな甘い言葉で誘われて断れなかった。一度だけ。この一夜だけ。それを何度と繰り返されて、綾人にされる優しい口吸いも、離れがたいと感じるほどに甘やかな睦み合いのひと時も、既に体に教え込まれていた。
そうして綾人に改めて付き合ってほしいと微笑まれて、トーマは差し出された手を取り、つい先日初めて体を重ねたばかりだった。
「そんなに私を見つめて、何か顔に付いていたかい?」
「あっ、いえ! 何も付いていませんよ」
しまったと冷や汗が流れて慌てて取り繕う。ぼんやりしている内に随分と綾人を見つめてしまっていたらしい。綾人から目を離せなかったのは事実だったけれど、見惚れていたことを知られるのは気恥ずかしくてトーマは誤魔化すように目を逸らした。
「ああ! そういえば小耳に挟んだんですが、この前オレが行った秘境に調査が入ったらしいんですよ」
話を紛らわせるにしては強引だっただろうか。不安げにちらりと顔を綾人の方へと向き直すと、綾人はトーマと目が合ったことが嬉しそうに頬を緩ませた。
握られている手が熱い。変に綾人との距離の近さが気になって、意識してしまう。話を続ける前に少しだけ距離を取ろうと腰をずらすと、横から体重を掛ける勢いで綾人が凭れ掛かった。衣擦れの音と一緒にぎゅう、っと弱く抱き締められて、綾人の顔が耳元に寄せられた。
「それで? 私も話には聞いていたけど、調査結果まで耳にする暇がなくてね。どうだったんだい?」
「ん……ッ、それが、秘境には特別な効果がなかったらしいんです。記憶をなくすどころか、全くの無害らしくて。不思議ですよね」
耳にかかった温い吐息に背中がぞわぞわして、危うく声が上がりそうになるのをぐっと堪える。話す方に意識を向けたおかげで気が紛れたのもあるだろう。そうでなければ綾人に抱き締められている感触と体温に気が散って、落ち着いていられなかった。
それにしたって、トーマはこの話が疑問でならなかった。秘境を調査した天領奉行の人間から直接聞いた訳ではないものの、秘境について無意味な噂を流すほど向こうも暇ではないだろう。しかし秘境が無害だったとすればトーマの身に起きたことは説明がつかなかった。
トーマは綾人と付き合っていた記憶を忘れていたのだから。
「……そうだね」
冷たい声が真横から聞こえて息が詰まる。何か気に触ることでも言ったのかもしれない。おそるおそる綾人の顔を窺うと、怒りもなく、淡々と静かな表情を浮かべていた。夜の暗さが落ちているせいか、うまく感情が読み取れない。しかしそれも一瞬のことで、綾人はすぐに穏やかな笑顔を向けた。
「まあ、今となってはあの秘境も些細なことだよ。それよりも、緊張がなくなったようなら私に集中してくれるかい?」
「えっ、わ、あっ!」
突然話の主導権が変わってしまい、あっという間に綾人が横から覆い被さってきた。ただでさえ距離が近かったせいか、顔を上げれば額に綾人の髪が触れて、すぐ近くに楽しそうに口角を上げた綾人の顔があった。
「これでも我慢している方なんだ。……触れていいかい?」
「……どうぞ、若のお好きなように」
閨の空気に変わったのを肌で感じて、身を委ねるように頷いて答える。トーマの返事に綾人は嬉しそうに顔を綻ばせると、トーマが纏っていた寝間着用の薄い襦袢に手を掛けた。無防備な布を優しく捲られながら、ゆっくり顔を寄せてきた綾人に目を閉じて受け入れて、唇に柔らかい感触を感じた。
――もしも。
もしも秘境が本当に無害で、記憶を失わせるものではなかったとしたら。
恋人だったのだと震えた声で話した綾人も、付き合っていたことを忘れられて悲しんでいた綾人も、過去に付き合っていた話自体、全部…………。
「ん、あっ、…………っ、ん……」
「ふふ、声、我慢せずに出して」
「……っ、あ、あぁ…………ッ」
口の中を舌で掻き混ぜられて、頭が蕩ける。何を考えていたのかさえ思い出せなくて、トーマは素直に嬌声を漏らした。
頭のどこかで、捕まってはいけなかったと考えて、すぐさまその思考も霧散する。捕まっていけなかったとしても、捕まってしまった今となっては、考えても仕方のないことだった。
「あっ、若、ぁ……っ」
「ん、ふふっ、とおま……」
剥がされた衣からあらわになった肌に触れられる。薄く目を開けると幸せそうに蕩けた目で見つめられていた。煮詰めたような愛情が篭った視線に腰が震えてしまう。微かに身動ぎすると、空いていた手に腰を掴まれて、伸し掛かるように体を一層深く寄せられた。
覆い被さられていて、体も捕らえられてしまって、逃げようがない。トーマは観念するように綾人の背中に手を回すと、静かに瞼を落として、肌に伝わる綾人の体温と、甘い花の香りだけを感じた。