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    みゃみゃ

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    みゃみゃ

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    外堀埋めた若と外堀埋められたトーマの若トマ
    若に思いを伝えられないトーマが気付いたら外堀埋められてて若のものにされちゃった話
    めちゃめちゃ甘々で少女漫画です

    逃げ道はもうない! 初恋は椿の香りがした。





     前方不注意、と言うべきだろうか。
     あの日トーマは理由もなく上の空になっていて、目の前の景色など見えていなかった。
     そのためトーマは自身の名前を呼ばれるまで、自分がふらふらと歩いていたことに気付かなかった。
    「大丈夫かいトーマ」
     上品な花の香りが心を擽る。
     慌てた様子で背後から自分を抱き留めた綾人に、トーマは「若?」と言って不思議そうに目を丸くさせた。
     話を聞けばどうやら危うく柱に向かって頭をぶつけるところだったらしく、綾人はトーマに傷が無いのを確認すると安心した様子で微笑み、トーマを優しく抱き締めた。
     その温もりや、優しい声や、眼差し。そして微笑みが、トーマの心に甘い雫を垂らした。
     水面が揺らいで、じわじわと広がる。
     綾人がトーマに向けて「怪我がなくて良かったよ」と笑ったその顔を見て、トーマは「ああ、」と言う代わりに熱を帯びた息を吐いた。
     この人が好きだ、と。
     知ってしまったら、あとはじわじわと広がっていく恋心を実感するだけだった。
     トーマは頬を染めながら、己を抱き留めて微笑む綾人に「助けてくれてありがとうございます」と礼を言った。
     麗らかな陽光が照らす中、トーマはその日綾人に恋をした。



     はあ、と憂いを帯びた息が漏れたのは、恋煩いのせいか否か。
     トーマは庭の掃き掃除をしつつ、一向に叶わない願いを胸に留めながら肩を竦めた。
     一向に叶わない願い。それは綾人への恋心を成就させる事だった。
     しかしトーマがいくら綾人に恋焦がれても、綾人がトーマに恋をしているような素振りを見せたことなどない。
     度々綾人から好きだとは言われるが、それは友愛や親愛の類であり、決して恋愛の意味を込めて言われた訳ではないのだと、トーマは何度も落ち込む日々を過ごしていた。
     早いものでもう十年以上も共にいるが、綾人にとってトーマは「気さくに接する事の出来る従者」でしかないのだろう。
     そこに恋情を挟むなど言語道断。身に余る願いなど早々に諦めようと割り切るべきだろうが、トーマは何度も綾人への恋心を丁寧に摘み取ろうとして、あと少しのところでいつもその手を止めてしまっていた。
     だから今日もトーマは叶わない恋心を胸に息を吐く。
     その溜め息に同情するように、トーマの横を風が吹いた。
     暖かな空気を吹き飛ばすような風の冷たさを感じていると、不意に足が前へと押し出され身体の均衡が保てなくなったトーマは「うわっ!」と声を出して目を瞑った。
     砂利か何かに躓いてしまったのか、何にせよ不注意になっていた自分をトーマは内心責めた。
     しかしトーマの身体に強い衝撃がやって来る前に、トーマの身体に何かが触れた。
     上品な花の柔い香りがふわりと空気に乗って鼻孔を擽る。
     自分は倒れた筈じゃ、と不思議に思って目を開けると、トーマは今度は目の前にあった見覚えのある顔に向けて思わず叫び声を出しそうになった。
    「トーマ、大丈夫だったかい」
    「は、はい! 大丈夫です」
     倒れそうだった自分を抱き留めて助けてくれた綾人に対し、トーマは慌てて言葉を返す。
     まさか綾人に助けられるとは思わず、トーマは心臓が激しく脈打ちそうになりつつも綾人の腕に支えられて耳元を熱くさせた。
     綾人はトーマの安心したような笑みを見てふわりと柔く微笑み、「それなら良かった」と言ってトーマの髪にそっと触れた。
     綾人の指先がトーマの跳ねた髪に触れる。
     毛先をなぞるように髪を撫でられて、トーマはその優しい手付きに心の柔い部分を擽られているような感覚になった。
     助けてくれて、心配までしてくれて。そんな綾人の優しさを感じつつ、トーマは頬を緩ませながら「やっぱり若が好きだなあ」と諦念を込めて恋心を再認識した。
     そう思っているうちに綾人の手が頬に滑り、トーマの頬を撫でては顎の下に手を遣って指先を動かし、小動物を可愛がるようにトーマに触れた。
     綾人が笑みを浮かべて触れてきている事に嬉しさを感じながらも、トーマは擽ったさに耐えきれず「若?」と綾人に声をかけた。
    「その、擽ったいのですが……」
    「おや、そうだったかい。仕事を頑張ってるトーマを労ろうとしたんだけど……ふふっ、擽ったかったか」
     楽しそうに笑う綾人を見つめて、トーマは「絶対にオレが擽ったいと思っていると分かった上で触ってきてたんだな」と理解した。
     トーマに指摘された綾人はトーマに触れていた手を離したが、トーマがその離れた手に寂しさを感じるのも束の間、綾人は不意に「おや」と声を出すとトーマの指に自身の手を重ねた。
    「少し赤くなってしまっているね。痛いだろう? 手が空いた時にでも塗り薬を塗ってあげよう」
     綾人に触れられた親指の辺りに目を遣れば、何かに引っ掛けてしまった時に出来た傷口があった。
     確かに水に触れると染みてしまって痛みに顔を顰めはするが、放っておいたら治ると思っていたためすっかり放置してしまっていたのだ。
     綾人に心配をかけさせないよう、トーマは「この程度気にしないでください」と笑いかけたが、綾人は首を軽く横に振って咎めるように「自分のことを疎かにしてはいけないよ」と言った。
    「トーマが傷付いていると、私も見ていて胸が痛くなるんだ。だから私のためだと思って薬を塗ってくれるかい」
     僅かに下げられた眉を見て、トーマは仕方がないと言うように笑った。そのような言い方をされてしまったら、頷くことしか出来なかった。
    「分かりました。若がそう仰るなら、早めに治します」
    「ああ。早速私が屋敷に帰った夜にでも、塗り薬を塗ってあげよう」
     そこまで話して、綾人はトーマの手から自身の手を離した。
     そしてトーマの頭に手を置いて一度撫でると、「それじゃあ私は屋敷を出るよ」と言って踵を返した。
    「はい。お気をつけていってらっしゃい」
     揺れる服の裾を見送りながら、トーマはその背に向かって笑いかけた。
     そうして屋敷の外へ出た綾人の背が小さくなり、その姿が完全に見えなくなってから、トーマは熱が増した頬を冷ますように手で顔をパタパタと扇いだ。
     綾人に何度も近い距離で触れられてしまい、体温が平熱を大きく超えているような気さえしていた。
    「ふふっ。お二人は本当に仲がよろしいですね」
     ふと背後から声が聞こえて振り返ると、屋敷で使用人として仕えている古田が笑いながらトーマを見つめていた。
     トーマは古田に笑いかけると、「そうかな?」と言いながら内心嬉しい気持ちを隠せなかった。
     恋心が叶わないと感じてはいても、綾人とはこのまま仲良くありたいと常々感じていた。だから周りに仲がいいと言われると、綾人と近い距離に居るのだと実感して嬉しくなってしまった。
     頬を緩ませて笑うトーマに対し、古田は「ええ」と頷くと穏やかな笑みに似合う優しい声で言葉を紡いだ。
    「奉行様がトーマさんの事を大事な人と仰っていた通り、とても仲が良いんですね」
    「えっ、若がそんな事を?」
     古田の言葉に目を開いて驚く。綾人がそんな事を言っているとは、トーマにとっては一驚を喫するものだった。
     仲が良いと感じられてはいたが、まさか綾人にとっての「大事な人」という枠にいられたなんて。
     人に信頼を寄せる事に対して綾人がどれほど慎重なのか、それを身を以て知っているため、トーマにとってそれは驚きとともに喜びを感じるものだった。
    「私だけでなく、使用人の殆どは奉行様から神里さまと同じくらいトーマさんは大切な存在なのだと言われておりますよ」
     綾人が殆どの使用人にそんな話をしていたなんて、トーマは本当に露ほども知らなかった。
     いつの間にそんな事を、と驚いて目を丸くしているトーマに対し、古田は朗らかに笑いながら口を開いた。
    「お二人が思い合っていたとはほんの少しも気付いていなかったのですが、普段の仲睦まじい様子を見たら思い合っているのも当然だと納得したものです」
    「ん?? いや、え?? 思い合う仲?」
    「ええ。奉行様とトーマさんが恋仲だと、直接言われていませんが気付きますよ」
     柔らかな笑みを浮かべる古田に対して、トーマは内心汗を掻いていた。
     なんせそんな事実、根も葉もなかったものなので。
     トーマはさも当然のように「綾人とトーマが付き合っている」とのたまった古田に向けて、悲鳴に近い叫び声を出した。
    「オレと若は恋仲じゃないよ!?」
    「おやおや。そんなに恥ずかしがらずとも、屋敷の者は皆お二人の仲を存じていますし、祝福していますよ」
    「み、み、皆?! 屋敷の皆が?!」
     その声は悲鳴どころではなく、もはや絶叫だった。
     受け入れがたい現実に驚愕し、自分がとんでもない夢を見ている真っ只中なのではと感じていると、そんな風にトーマの焦っている耳にふと砂利を軽く踏む音が聞こえた。
    「楽しげな声が聞こえましたが、お二人で何のお話をされていたのですか?」
     陽光を浴びて艶めく髪を靡かせて、扇を片手に微笑む綾華がトーマの近くまで歩いてくる。
     トーマは今しがた受け入れがたい話をされたばかりで頬が引き攣っており、綾華にどんな風に言ってこの会話のことを誤魔化そうか瞬時に考えた。
     しかしトーマが会話の内容を誤魔化す前に、古田が楽しげに笑いながら口を開いてしまっていた。
    「私が奉行様とトーマさんの仲がよろしいとお話をしていて、先程奉行様と恋仲である事を存じている旨を話したらトーマさんが照れてしまって」
    「まあ」
    「ヒュッ」
     古田の言葉に、トーマは口から魂が飛び出してしまいそうになった。
     自分が照れているだの照れていないだのはこの際どうでも良い。
     トーマにとっての問題は、綾人とトーマが付き合っているという誤解を綾華に知られてしまったという事だった。
     トーマは夢ならば覚めてほしいとさえ感じたが、悲しいことに一向に覚める気配などない。
     これが現実だとすれば何故こんな状況になってしまったんだと頭を抱えそうになっていると、綾華がトーマの顔を見つめてそっと口を開いた。
    「トーマってば恥ずかしがり屋なんですね。お兄様に堂々と好きだと言っても誰も笑いませんのに」
    「……まって、待ってくれお嬢。お嬢もまさか、オレと若が付き合ってるって、」
     そんな誤解をしているなんて、到底信じたくなかった。
     綾華に言われた言葉の意味など半分ほどしか頭に入ってこなかった。
     それくらい、綾華に誤解されているかもしれないという事がトーマにとって衝撃的だった。
     お願いだから、嘘でもいいからそんな誤解はしていないと。そう言ってほしかったのに、現実はどこまでもトーマの想像通りにならなかった。
    「お兄様があれほどトーマが可愛いと仰っていたり、トーマを慈しむように触れて優しく微笑む姿を見れば、公言されずとも自ずと分かりますよ」
     扇を広げて柔らかく微笑む綾華に、トーマは乾いた声で笑う事しか出来なかった。
     そっか、若がそんな言動をしていたから、言い方が誤解されやすいものだったから、こんなことになってしまったのか。
     古田と綾華の温かな視線を受けて、トーマは膝から崩れ落ちないように必死に堪えた。そうして回らない頭で笑い返す事しか、今のトーマには出来なかったのだった。



     軋んだ音を立てる廊下を渡りながら、トーマは布の裾を揺らして主の部屋へと向かっていた。
     あれから呆然としたまま、それでもどうにか仕事をこなして。
     綾人を出迎える頃には全てを一度忘れることでどうにか気を保っていたトーマだったが、綾人を出迎えて「おかえりなさい」と言った後に、ピタッと体の動きを止めた。
    「塗り薬を塗ってあげるから、寝支度が済んだあとにでも私の部屋においで」
     そう言って柔い眼を向けてきた綾人に、トーマは「ああ、」と感じた。
     その優しい声が、瞳が。トーマの恋を芽生えさせて、そして周りの人たちを勘違いさせたのだと。
     その時トーマは頷くだけにしたが、それでも周りに誤解されたままでは嘘をついているようで居た堪れなくて、部屋に着いたら綾人に話をしようと密かに決意を固めていた。
     寝支度と言っても簡素なもので、敷布団を敷いて服も薄手の物に着替えるだけだった。
     普段とは違い袴を身に着けて主のもとまで歩くのは、少し不思議な感覚にさせられた。
     部屋の前まで着いて、その場に膝をつける。障子越しに「トーマです」と声を掛けると、向こうから「入って構わないよ」という許しの声が返された。
     部屋に入ると綾人は箪笥に手を入れており、トーマの方に顔を向けて困ったような笑みを見せた。
    「来てもらったところ悪いんだけど、塗り薬をどこにやったか忘れてしまって。探しているところなんだ」
    「それならオレが代わりに探しましょうか。若に探させるのは忍びないですし」
    「いや、もう大体探したからあとは残りの引き出しくらいなんだ。そう時間もかからないから大丈夫だよ。トーマはそこにある物でも食べておいで」
     綾人が指を差した方へ視線を遣れば、机の上に一つまんじゅうが置いてあった。
     その包みに書かれている店名はトーマもよく知るもので、稲妻城のところでまんじゅうを売っている店の名前だった。
     甘味が好きなトーマは目の前にあるまんじゅうに目を輝かせるも、嬉々として受け取るのはどこか恥ずかしくて「よろしいんですか」と伺うように尋ねた。
     綾人はそんなトーマに柔らかく微笑むと、「トーマのために買ったから遠慮なくお食べ」と言って返した。
     その言葉を聞いて、トーマはまんじゅうを手に取り包みを剥がす。それから「いただきます」と律儀に言って、美味しそうなまんじゅうを口いっぱいに頬張った。
     餡の甘い味がじんわりと口の中に広がる。
     トーマは一口、二口としっかり味わいながら食べつつ、まんじゅうの美味しさに無意識に蕩けるような笑みを浮かべていた。
    「美味しそうに食べるトーマは可愛いね」
     不意打ちの言葉に、トーマは噎せそうになった。
     唾を飲み込んで噎せそうになるのを堪えながら、笑みを浮かべる綾人を見つめて、そういう発言が誤解を招くのだと叫びたくなった。
     まんじゅうを平らげて、一度深呼吸をする。
     綾人は漸く箪笥から目当ての物を見つけられたようで、「ここにあったのか」と言いながら箪笥の引き出しを閉じていた。
    「その、若。大変申しにくいことなのですが、どうやらお嬢含めて屋敷の皆に、オレ達が……その、付き合っていると誤解されているようで」
     言っていくうちに、トーマは弱々しげな声のまま俯きそうになった。
     しかしここで引いては周りに誤解されたままになってしまう。
     それではいけないと自分を奮い立たせ、このような状況にした綾人の言動をどうにかすべく、トーマは綾人をじっと見つめた。
    「おや、驚いた」
     トーマの言葉を聞いた綾人はそう言って笑った。
     その声には少しも驚いた様子がないことくらい、綾人と付き合いの長いトーマはすぐに分かった。
     塗り薬の容器を持ってトーマに近寄り、呑気に蓋を外す綾人に向けてトーマは「笑い事じゃないんですよ」とげんなりとした様子で返事をした。
    「ああ、ふふっ、すまないね。今になって周りの様子に気付いたことに驚いてしまって。でも、そういう鈍いところがトーマらしくて愛しくて……つい笑ってしまったんだ。悪気はないからそう怒らないでくれ」
    「……ん? オレと若が恋仲だと誤解されてる事に驚いたんじゃないんですか」
     容器に入った薬を指で掬い、綾人は片手でトーマの手を取るとその手の甲に薬を塗った。
     傷口に触れすぎてしまわないよう、優しい手付きでトーマの手の甲を撫でながら、綾人は「驚く訳ないさ」と言って小さな笑い声を漏らした。
    「だってそんな風に誤解されるよう仕向けたのは、この私なのだから」
    「……、……はい?」
     間抜けな声を出して、呆然としながら綾人を見つめる。
     トーマの手を慈しむように触れる綾人の表情は、どこか楽しげな雰囲気があった。
     一方のトーマは何故、と不思議でならなかった。
     何故自分から誤解されるような事をしたのか。盛大にからかうため? それにしては手が込みすぎじゃないだろうか。
     そんな風にぐるぐると思考を回らせていると、綾人が自身の手でトーマの両手を優しく包み、柔らかな眼差しでトーマを見つめてきた。
    「トーマがいつまで経っても告白してくれないから、痺れを切らしてしまってね。こちらから距離を縮めても君は全く告白してくれないから、いっそ唇を奪ってしまおうとさえ考えていたんだよ」
     柔い色を浮かべた青の瞳を見つめ返しながら、トーマは冷や汗を掻いた。
     まさか。
     まさかオレの気持ちが、気付かれていた?
     必死に隠しているつもりだった。気付かれたら迷惑になると思って、微塵も恋愛感情を抱いていないという振りを徹底していた。
     それなのに、気付かれていたなんて。
     トーマは綾人に握られた手が冷たくなっていきそうな気がして、綾人に恋心を気付かれたという焦りや驚きで気付けば声が震えてしまっていた。
    「そんな、仮にオレが若を好きだとしても……告白だなんて烏滸がましいことを、する訳ないじゃないですか」
     そう言って乾いた笑い声を出す。
     自分は綾人に告白なんてする訳が無い。正確に言えば告白なんて出来る訳が無かったのだが、どちらにせよトーマは綾人に告白をするつもりなどないと、そう伝えられればそれで良かった。
     けれども綾人はトーマの言葉に不満げに鋭く目を細めて、トーマの顎に手を添えるとそのまま靭やかな指先でトーマの顔を上げさせた。
    「可愛くない事を言うようなら、本当に唇を奪ってしまうよ」
     綾人はとても楽しそうに微笑みながら、トーマの額に顔を寄せた。
     唇が触れていないだけで、息が重なり合ってしまうほど近い距離にある綾人の顔を、トーマは頬を染めながらじっと見つめた。
    「どうして、こんなことを……」
     すぐ近くに愛しい人がいるというだけで、トーマの声は羞恥か喜びか、あるいはその両方のせいで僅かに震えてしまっていた。
     綾人を目の前にしてか弱い声を出すトーマに対し、綾人は柔く目を細めて口元に弧を描いた。
    「何故と言われたら単純さ。早く私のものにしたいくらい、トーマのことが好きだからだよ」
     好き。
     そのたった数文字しかない言葉に、心臓が跳ねる。
     トーマは息をするのも忘れ綾人の青い瞳を見つめた。
     身体中がふやけてしまうほどに熱がじわじわと奥の方から上がっていき、綾人に見つめられたまま蕩けてしまいそうなほど、頬が熱く染まっていくのを感じる。
    「周りは皆私達が恋仲だと思っているし、これでもしも私達が恋仲じゃないと知られたら……特に綾華は私達の仲が悪くなったと思って悲嘆に暮れてしまうかもしれないね」
     内緒話をするように囁かれる。
     綾人はそんなことをのたまうが、トーマには綾人の愛を受け入れられる心の準備などまったくなかった。
     だから綾人の愛から逃げようと言い訳の一つや二つを言おうとしたが、トーマの口から出るのは「でも」や「だって」というこどもじみた言葉だった。
    「ほら、トーマ。早く言ってくれないと、唇を奪ってしまうよ?」
     綾人が意地悪な笑みを浮かべる。
     言い訳など思い浮かぶ訳がなかった。
     トーマの頭は言い訳が浮かぶ余地などないくらい、綾人の事でいっぱいになってしまっていたのだから。
     じっと綾人を見つめれば、愛しい淡藤色の瞳に真っ直ぐ見つめられる。
     その瞳がとても柔らかくて、優しくて、トーマは綾人の瞳を見つめながら必死に声を出した。
    「若が……っ、若のことが、好き、です……」
     一生言うつもりなどなかったこの言葉を、一生言うつもりなどなかった相手に伝える。
     トーマが熱い息を吐くと、綾人がトーマの髪に優しく触れて、ご褒美を与えるかのように撫で回した。
    「私もトーマが好きだよ。……これで思う存分、トーマを可愛がれるね」
     綾人はそう言いながら小さく笑い、トーマの身体を包み込むように優しく抱き締めた。
     嬉しそうに微笑む綾人を真っ直ぐ見つめて、トーマは綾人に抱き締められながら瞳を潤わせた。
     滑らかな指先に優しく撫でられながら、綾人の腕の中で柔らかい花の香りを感じる。
     夢見心地になって熱に浮かされてしまっていたのだろう。
     トーマは綾人の温もりを感じながら、掠れた声を漏らしていた。
     けれどもその声は微かに震えていてすぐに温い空気に溶けてしまい、綾人は優しい笑みを浮かべながら「何と言ったんだい」と穏やかな声音で聞き返した。
     その言葉にトーマはハッとなり、酔いから覚めたように熱が僅かに引いてしまい、熱に浮かされた勢いで口にした言葉を改めて声に出す事にトーマは恥ずかしげに睫毛を伏せて躊躇った。
     それでも綾人がトーマの言葉を待っている様子を見てついに決心を固めると、綾人の顔をじっと見つめて、火照った息と共に声を出した。
    「その……唇を、奪ってくれないんですか」
     潤んだ瞳を目の前にし、綾人は目を丸くさせた。
     しかしそれも一瞬のことで、綾人はトーマの頭を撫でると目を細めてその表情に喜悦の色を浮かべた。
    「……ふふ、可愛いおねだりには応えてあげないといけないね」
     そう言うと、綾人はトーマの身体を大事に大事に抱き締めて、トーマの方へと顔を寄せた。
     綾人の身体が近寄るたびに、ふんわりと柔らかい花の香りが空気に溶ける。
     そうしてトーマが胸を高鳴らせているうちに綾人の唇がそっと触れて、柔い感触にトーマは頬に朱を注いだ。
     初めて交わした口付けは、ほんのり甘い味がした気がした。



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