はい、と差し出された男のてのひらには、つやつやとした紅い林檎がひとつ乗っていた。
「ありがとうございます」
男の顔を見上げた少女の肩口を、さらりと長い黒髪が滑り落ちる。
少女はワンピースの裾で林檎を軽く磨くと、両手で持った果実にさくりと齧りついた。じゅわ、と甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
男は手を伸ばして枝からもう一つ林檎を捥ぎ取ると、少女にならって紅い実に歯を立てた。
絵画のような真っ青な空の下、半壊した煉瓦造りの壁の上に男と少女は並んで座っていた。辺りは果ての見えない程に広い薔薇園で、二人が腰掛けているような壁がぐるりと迷路のように張り巡らされている、一風変わった英国式庭園だ。辺りは静かで、時々穏やかな風がすぐ脇の樹木から果実の甘い香りを運んで来る。
そんな絵本の挿絵にも似た風景の中で、今の所唯一の登場人物である二人の姿は、果てしなくこの世界の雰囲気から浮いていた。
片や、腰までの艶やかな黒髪が印象的な少女。シンプルな白いサマードレスを纏った彼女は、裸足のつま先をぶらぶらと遊ばせている。そして片や、作業着にも見えるつなぎを着た大柄な男。顔の右半分がただれたような傷に覆われ、更に丁度生え際の辺りに一つ、額から後頭部まで穴が貫通しているという彼の容貌は、余りに異質だった。
さくさくと、暫くは二人が林檎を齧る音だけが、辺りに響く。少女は紅い実の半分ほどを食べ終えると、ほう、と吐息をついて男を見詰めた。
「どうして、ずっとこっちにいるんですか」
「うん?」
男が、困ったように首を傾げる。その口から零れる深く響く声。
「戻ろうと思えば、もういつでも戻れるんでしょう?」
「こっちの方が何かと便利なんだよねえ。気楽だし」
冗談めかした男の答えに、少女はきゅうと口元を結ぶ。
「……臆病な人」
「辛辣だね。まあ、でも」
男は器用に芯だけを残した林檎を、ぽい、と背中に投げ捨てて笑う。
「そういうことに、なるのかな」
少女は男をじっと見詰めて、「でも」と口を開いた。
「ちょっとだけ、羨ましいです。木記が会いたがっている人は、絶対ここへは来ないもの」
しゃく、ともう一口林檎を齧った少女は、突然弾かれたように空を見上げた。
「あ」
「そろそろかな」
「そうみたい」
食べ掛けの林檎を手に困惑した顔を見せる少女に、男が「はい」と手を差し出す。そのてのひらに、少女はそっと半分ばかりになった林檎をのせた。
「それじゃあ、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
少女は小さく笑うと、勢いをつけて煉瓦塀から飛び降りる。たん、と響く着地の音。それに続いて、振り向かずに駆けて行く小さな背中と、遠ざかる裸足の足音。
この世界は初めてだから、男もまだ少女がどうやって死ぬのかは知らないのだけれど。きっとまた、上手くやれるだろう。上手く「彼女」を導くことが出来るはずだ。根拠はまるで無いのだけれども。
絵画のような青い空と、赤い煉瓦と緑の垣根を埋め尽くすような薔薇の花。
「臆病、かあ」
途轍もなく静かな世界の中で、男はぽつりと呟くと、少女が残して行った食べ掛けの林檎に歯を立てる。
微かに空気が揺れて、何処からか聞き慣れた声が、この世界に響いた。
――聖井戸、投入。