EGOIST「あ」と思った時には遅かった。
打ち込み稽古に使用している木製の打ち込み台が、千寿郎の一撃で細かく割れ、鋭い破片が千寿郎目掛けて飛んでくる。
ここ数日ミシミシと嫌な音を立てていたので、新しいものを作らなくては、と思っていたのに。やらなければならないことを後回しにするなんて、と反省しているうちに、左眉の上にピリリと痛みが走った。次いで、生温かくどろりとした感触が瞼を伝い、目の前が赤く染まる。
「……やってしまった」
情けなく萎んだ声で傷口を抑えると、そのまま井戸端へ向かう。桶に水を汲み、水面に己を映せば、ぼたぼたと赤い雫が指の隙間から垂れ落ちた。痛みに眉を顰めながら傷口を洗い、然程深くはないことに一先ず安堵する。きっと数日もすれば傷は塞がるだろうし、一週間もすれば何事もなかったように跡形もなく消えているのではないだろうか。掌に付着する血に、先日帰宅した兄の身体に新たに刻まれていた傷がまざまざと思い出される。「大したことは無い。蝶屋敷に寄るほどの傷でもなかった」そう言って笑った兄の腕に巻かれていた包帯には、じわりと血が滲んでいた。あの時に千寿郎の胸に走った痛みと比べれば、取るに足らないものだ。
「ただいま帰った!」
元気な兄の声に、千寿郎は弾む足取りで出迎えに急ぐ。玄関の上がり框で草履を脱ぐ兄の背中の傍に寄り、「お帰りなさい」と刀を受け取るために両手を差し出すと同時に、ざっと兄の身体に目を走らせる。
大きな怪我をしていないだろうか。普段と違う様子はないだろうか。
兄は我慢強い上に、千寿郎に心配をかけまいと任務のことや自身の怪我についてはあまり多くを語らないため、つい観察するような目で見てしまうのが癖になってしまった。
こちらを振り返り「息災だったか」と微笑む顔に、いつもと変わった様子はない。手足の動きにもぎこちないところは見られないし、今回は目立つような傷は負っていないのだな、と千寿郎は無意識に詰めていた息をほっと吐き出した。
すると、徐に千寿郎の額に大きな手が当てられた。予想だにしない、熱く固い掌の感触に驚き、思わず目を見開くと、兄は額から手を滑らせ、親指の腹でそっと左眉の上辺りを撫ぜる。常は燃えるように輝くその双眸は、蝋燭の炎のような揺らめきを見せている。
「これはどうしたんだ?」
静かに問われるが、千寿郎は何を言われたのか咄嗟にわからず、はてと首を傾げた。
「傷が出来ている」
やわやわと撫でられるくすぐったさから逃れようとして、いつの間にやら兄に腰に手を回され、逃げ場を塞がれたことに気付く。これは納得がいくまで離してもらえないないだろうことは、火を見るより明らかだ。
「この傷は、稽古中に俺の不手際で負ったんです。大して深い傷ではなかったですし、もう塞がっています」
思い出しつつ話しながら、あれからもう一週間ほど経っている。己の不手際で傷を負い、あまつさえそれを兄に気付かれ心配させるとは、あまりにも未熟な自身が恥ずかしい。本当に兄と同じ血が流れているのかと、脳裏に赤く染まった水面が暗く浮かんだ。
「そうか。大事なくてよかった」
そう呟く兄の顔は、痛みを堪えるような辛さが滲み、千寿郎はそれを目にした瞬間、何かが激しく迫り上がる衝動を感じた。
「……どうして兄上のほうが辛そうなのですか。こんな、俺の未熟さ故の怪我など、心配する価値はありません」
ぶるぶると口の端が震えるのを、懸命に歯を食いしばって耐える。兄のほうが余程酷い怪我を何度も何度も負っている。
しかし、それは、誰かを助けるためについたものだ。懸命に誰かを守るために傷付いた兄を、労う以外できようはずもなく、怪我など本当は負って欲しくない、自分を大切にして欲しい、などとは口が裂けても言えず、理不尽ではないか。千寿郎だって、本当は兄の傷が増えていくのを見るのは、辛く苦しい。
目の前が赤く染まる。…………これはきっと、怒りだ。
はっと短く息を吸った千寿郎の視界が、黒く塗りつぶされた。
兄の隊服だと認識する前に、微かな藤の香りと、汗の匂いと、大好きな兄の匂いが千寿郎を包んだ。
「すまない」
静かな、それでいて有無を言わせない謝罪が、千寿郎の波打つ感情に蓋をする。
「お前のどんな些細な怪我も許せない狭量な兄を――許してくれ」
ぎゅうと肺を潰さんばかりに抱きしめられ、比喩ではなく息ができない。
それでも、離して欲しいとは微塵も思わない己に、最初から許す以外の答えなど存在しないのだ。
力強く鼓動を刻む音が直に伝わり、血が巡っているのを実感する。千寿郎は両の手を兄の背中に回し、しがみついた。
ひとつになれたらいいのに。兄の血が流れる時に、己の血を分けてあげられればいいのに。
そう思った瞬間、これは己のわがままであることに気付く。兄のわがままと千寿郎のわがままは、互いを大事に思うが故に平行線だ。そのすれ違いが、よく似ていて、諦めとも優越感ともつかない笑みが溢れる。
他の誰とも共有できない、炎の様に燃える、お揃いの、赤い血を宿した、二人だけの兄弟のわがままだ。